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政府の支配は受けぬ!日本脱退物語

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古びた文机に頬杖をつき、しばらく考え込んでいた宮川慎平は、ふと顔を母のほうへ向けて「で、母さんはどう思いますか?」と尋ねた。
慎平からみて右横に座る母は、少女のような無垢な瞳をまっすぐ息子に向けたまま、「母さんがどう思うかってことですか? それを聞いてどうするんです?」と、逆に問い返した。

「別にどうするもないのですが……私としては、この度の行動に強い決意と覚悟をもって臨むつもりなんです」
「だったらいいじゃないですか」
「いや、だから、母さんみたいにそうあっさり言われると、何だか張り合いがなさすぎるというか……」
「反対してほしいんですか」
「いや、そういうわけでは……」
「まあ、言わせてもらうなら、せっかく政府のおエライさんたちも、ようやくその、国会開設の……何ですの?」
「国会開設の詔(みことのり)ですか」
「そうそれ、先月そのようなお達しがあって、やっと慎平たちの運動が実を結んだって、母さんなんかは喜んでいましたのに……それなのに、いきなりあなたは今後政府の管理は受けない……権利はいらないから義務も果たさない、法律の強制も受けず全部打ち捨てて自由人になる、と今度の請願で言うつもりなわけでしょ? せっかく風向きが良い方向に変わったところで、あなたのほうがそんなに突っ張らなくても、と思わないでもないですけどね」
「確かに政府は国会を十年後に開設する約束をしました。が、私はこれはいつもの政府の手だと踏んでいます」
慎平は体を横に向けて母と正面から向き合い、言葉を続ける。
「例の官有物払下げ問題で、政府は窮地に追い込まれています。彼らとしては、今は私たちを敵に回すのは得策ではないのです。国会開設という人参をぶら下げて上手く懐柔してやろう、そしてあわよくば私たちの運動を封じ込めてやろう、そんなよこしまな魂胆が見え隠れしてなりません。まったく政府のやることというのは、公議の政道を汚し政治を私する許しがたき蛮行です」
「そんな思惑があったとしても、これで私たちのような下々の人間にまで政治に参加する権利が与えられてのでしょ、だからみんなも喜んでるんじゃありませんか」
「それが危険だと思うのです」
「何が危険ですの」
「政府は、国会が開設されることについて、我々民権運動に携わる者はもちろん、新聞も学者も人民もみな喜ぶことを知っている。だから政府はこの手は使えると思って利用してくるのです」
慎平は怒りをこらえられないとばかりに、右拳で机を叩く。
「……目標というのは、ただ達成されればよいものではない。どのようないきさつで達成されるかが重要です。今回この運びで国会開設が決まっても、よいかたちでの公議世論の基盤はつくれません。なぜならその動機がよこしまだからです。よこしまな動機から正しい結果が生まれようはずがありません。この辺りの肝について、新聞も学者も心得が足りていない。人民にいたってはなおさらです。邪悪な政府が邪悪なままの存在で国会を開設したとしても、日本は五体満足の国家でいられないことを知るべきです」
「それで、あなたのやることが、人民にとって、日本にとって、正しい結果を生むことにつながるというのですか?」
「……それはわかりません。いや、おそらくそこまで成果を求めるのはぜいたくというものでしょう。ただ私としては、自分が行動を起こすことで、一人でも多くの人民に気づいてもらいたいのです。こんな卑劣で不誠実極まりない政府が支配する世の中は狂っていると。国会開設が約束されたからといって政府を信用してはならないと」
「考えていることはわかりましたが、あなたはこの後どうなるのですか」
「……どうもなりませんよ。心配しないでください。脱管届はおそらく受理されず無視されて終わるでしょう。私だって何も法律を守りたくないからこんな頓狂な真似をするわけじゃありません。先ほどもいった通り、これも啓発運動の一環です。私の行動をただ皮相の部分だけで捉えず、その真意をくみ取る人民が多ければ、この国も変わるでしょう。どうか母さんも、慎平の真意を理解していただきたい……」
「わかりましたけど、ところで慎平、あなたのほうこそ、母さんのことちゃんと理解してくれてますか」
唐突な母の問いかけに、慎平の目は点になった。
「いきなり何を言うんです?」
「あれをご覧なさい」
母は指をさして慎平の目を引っ張る。
そこには、壁にかかる一枚の浮世絵。
大きな花柄模様の着物をきた男が、夜空の名月を見上げている。
「確か、月岡芳年の浮世絵でしたね。あれがどうしたのです?」
「あの浮世絵が何を意味するか、あなたに尋ねたことがあったのですが、いまだに答えてもらっていません」
「……そうでした。残念ながら私には絵心がないもので……一体どんな意味があるのです?」
「自分で考えて、答えを見つけなさい。私からは教えませんよ」
母はそう言って立ち上がり、慎平を残して退室した。
「……脱管といわず、いっそ月に行くのもいい……」
慎平は浮世絵を眺めながら、そうつぶやいた。

明治14年11月8日、茨城県庁に以下のような文面の願書が提出された。

謹んで申し上げ候。これまで日本政府の管下にありて法律の保護を受け、法律の権利を得、法律の義務を尽くしておりましたけれど、現時、大いに覚悟するところありて、日本政府の管下にあるを好まず、今後法律の保護を受けず、法律の権限を取らず、法律の義務を尽くさず、断然脱管致したくこの段、御認可仰ぎたてまつり候。以上
                       地球上自由生 宮川慎平
日本政府確定
明治14年11月8日
日本政府太政大臣 三条実美殿

宮川慎平が茨城県庁に提出した「日本脱管届」は、地元茨城の新聞から全国紙までこぞって取り上げたことで、物議をかもした。

だが、慎平の狙いとは裏腹に、脱管届という奇想天外な一手を好意的に受け取る報道はどこにもなかった。
11月12日付に報道した「このは新聞」などは、慎平をして「伯夷叔斉を気取った者」と評した。伯夷・叔斉の兄弟は、中国古代に君主を武力討伐した周王朝の世話は受けぬと言って食事を拒み餓死した、清廉潔癖の代表のようにいわれる人物である。その一方で現実を無視して常識外れの行動に出る狂人の例えにも用いられる。この場合の伯夷叔斉には明らかに後者の意味が込められていた。
その他の新聞も、「売名」だの「政党宣伝」だの「奇行の自由党」といった後ろ向きの表現で慎平の行動をとらえ、評価はしなかった。

新聞だけではない。身内である自由党員からも、この度の慎平の行動に対して非難と罵倒が集まった。自由党のある県支部長などは、以下のような文書を全国の支部に送って慎平の行動を強く批判した。

「国家の改良を目指すのが志士たるものの本分である。にもかかわらず、宮川慎平君は義務と権利を放擲し、政府の管轄を脱けると言う。同胞のために国家を改良する義気はないのか。政府の脱管を希望し、異国への移住を匂わすなど、あたかも同居の父母に義絶を通告するような文書を送りつけて何とするのか」

慎平に直接抗議した自由党員もいた。茨城支部で慎平と顔を合わせた同志は言う。
「宮川君、君はどうかしてるぞ。日本は文明国家を目指そうとしている。法治はむろん文明の土台だ。文明国家の牽引役を自負する自由党員でありながら、法の支配を受けないとは何事だ」
「何を言う。法律を遵守するからこそ、茨城県庁に申請して裁可を仰ごうとしているのではないか」
「論を遊ばせるな。君は堂々と法を守らず、権利を放棄し、義務を果たさないと文書に書いているではないか」
「私の文意がわからないのか、わかろうとしないのか、どっちでも構わないが、私は届け出という手続きでもって法治に従っている。この手続きを飛ばして法を守らないというなら君の言い分ももっともだが、事実はそうではない。批判するなら、ちゃんと事実に基づいてやりたまえ」
党員たちの抗議に対し慎平はあくまで自説でもって反論したが、慎平側に立つ者は誰一人としていなかった。

慎平は、異常なのは政府のほうだと言いたかった。新聞条例や集会条例を制定して政治参加や言論の自由を弾圧し、藩脈でつながった一握りの集団が専制的に政治を動かしている。国会開設もやるやると言いながら一向に動いてこなかった。それが唐突に10年後を目指して国会を開設すると言い出してきた。それと同時に表明したのは、大隈参議の罷免と官有物払下げの中止。なにゆえこの三つが同時に同列に扱われるのか。内紛の処理と汚職騒ぎの火消しに、国会開設という国家の重要課題が利用されたとしか思えない。こんな不実が許されてよいのか。こんな暴慢がまかり通ってよいのか。こんな不純な動きで生まれた国会をどうやって正しく運営するというのか。異常な政府
によって支配される世の中は当然のごとく異常である。その支配を拒否する感覚は極めて正常なはずである。

ところが、世間が異常者扱いしたのは自分のほうだった。

「私は間違っていたのでしょうか」
慎平は、母に聞いた。
「わかりません。こうなったらもうどっちでもいいじゃないですか」
母は答えた。

慎平の脱管届に対し、水戸裁判所は次のような結論を下した。

裁判申渡書
茨城県常陸国東茨城郡水戸上市泉寄留
                 高知県平民 宮川慎平

その方儀、日本政府脱届けと題し、太政大臣へ宛て日本政府の管下に在るを好まず、今後法律の保護を受けず、法律の権利を取らず、法律の義務を尽くさず、断然脱管致しき旨を記載し、その末文に至り地球自由生と肩書きして署名したる書面を、管轄庁へ差し出す科、改定律第二百八十七条、違制の重に問い、懲役百日を申し付くる。

 明治14年11月25日 水戸裁判所

日本政府が支配する社会からの脱出を希望し、法律の義務も権利も放棄したいと主張した慎平は有罪が確定し、懲役100日の刑を受けることになった。

届け出が受理されるとは思っていなかった慎平も、この処置にはいささか面食らうしかなかった。慎平の行動を批判的に報道した新聞も、この裁判所の判断には裁判官の裁量が行き過ぎると非難した。ただ、書面にある「改定律例」の条文には、「およそ制に違う者は懲役100日、軽き者は一等を減ず」との規定があり、判決はこの条文に照らしたものと思われた。

茨城監獄所に連行される途中、通行人のこんな言葉が慎平に浴びせられた。
「おい、あれが脱管の宮川だぞ」
慎平は、満月を仰ぎ見る着物姿の男を描いた月岡芳年の浮世絵を思い出していた。
下を向かず、顔を上げて堂々と通り過ぎるために。



明治15年の4月になった。服役を終えて社会に戻った慎平は、知人のつてを頼り、水戸市内の法律事務所に補助者として勤務することになった。

「洋行から戻った甥がしばらく中央のほうで役人をやっていたんだが、薩摩出身というだけで偉そうに威張り散らす官庁の体質が気に食わなくて、やめて代言人の事務所を開くそうなんだ。行くところがないのなら、こっちを手伝わないか」

自由党のかつての仲間がそう声をかけてくれた。彼は「法律の支配を受けないと宣言した男がはじめる仕事でもないがな」と、慎平の前歴を持ち出してからかうことも忘れなかった。慎平はただ苦笑した。

その仲間は、職を紹介する前に自由党への復帰も一応すすめた。が、慎平は断った。政治活動からは一切身を引くと心に決めていたのである。自分のことを異端児扱いする仲間たちと、以前と同じような調子で運動をしていく自信はとてもじゃないが残されていなかった。

人民を牽引していく立場から、今度は人民として生きていくことになった。ただその人民の間にも、慎平がとったあの行動の印象は強く残されていた。いやむしろ世間を構成する人民こそ、宮川が社会に残した爪痕に粘着した。

「あんた、脱管の宮川さんか」

法律の相談にやってきた年配の男性から、面と向かってこう言われたとき、慎平はぎょっとなり、思わず相手を見返した。男の興味は相談内容とは関係ないところに向けられ、好奇の目でもってこちらの顔をジロジロと見てくる。慎平は不快になり、露骨なほど眉間に皺を寄せた。その場は何とか感情を押し殺してやり過ごしたが、ちくちくと心に針を刺すような気持ちはしばらく消えなかった。

「脱管の宮川」この不名誉なる屋号は、たとえ自由党や政治活動からはなれても逃れられないものだということを慎平は痛感せざるを得なかった。

「人民というものがこんなにも残酷だとは知りませんでした」
慎平は手酌で酒をあおり、母に愚痴をこぼした。
母はいつものように、慎平の横顔を見る位置で、置物のように端然と座っている。
「残酷だなんて、大げさ過ぎませんか」
母はたしなめるように言った。
「そうですね、残酷は言い過ぎました。人民ではない、私個人の心が弱すぎるんですね。はあ……こんなことでよくもまあ、人民を導くだの、意識を正しく醸成するだの、国家から自由を取りもどすだの、そんな大広言が叩けたものだと自分にあきれます」
慎平は大きくため息をついた。
母はそんな息子を静かな眼差しで見つめながら、「人民を甘く見過ぎてはいけませんよ」と言った。
「どういうことでしょう?」
慎平が尋ねた。
「政治を行う人たちは、国や社会を変えるなんていつも大きなところから話をはじめますが、人民は毎日の生活に忙しくてそんなことに思いを巡らす余裕などありません。そんなことよりもっと身近で矮小なことに関心を寄せるものです」
「たとえば?」
「あなたが嫌っている『脱管の宮川』なんてのがまさにそうですよ。これなど俗を好む人民は面白がっておもちゃにします。ほかにも人の失敗、不幸、陰口、愚痴、妬みそねみ、やっかみ、みんな人民のおもちゃです。あなたもそこに仲間入りしたんだから、面倒な荷物は下ろして身を軽くして、人民の泥にまみれなさい」
「……なるほど」
慎平は一言返すだけで、黙り込んだ。
外では、水田の蛙がしきりに鳴いている。
「蛙、か」
慎平がそうつぶやくと、母は「だから、もう何かを変えるとかそんなことは考えないのです」
慎平は変な顔つきになり、「私が言ったのは、外で鳴く蛙のほうですよ」と釈明した。
母は澄ました顔で、「わかりにくいじゃありませんか」と言い放ち、立ち上がって退室した。
慎平は独りになった。蛙の鳴き声が、先ほどより大きく聞こえてくる。

「もしかして脱管の宮川さん?」「あんたか、脱管騒ぎを起こした宮川というのは」忘れたと思ったら、脱管脱管と声をかける人が現れ、心のあざを踏みつけてくる。そんなことでいちいち目くじらを立てることはないけれど、それでもさすがに良い気持ちはしない。世間は、自分がどのような思いであの行動に打って出たのか、まったくわかっていないしわかろうともしない。そもそもそんなものに興味がないのは当然だと母は言ったが、それでも慎平は世間との認識の乖離に落胆せざるを得なかった。

いつ誰に「脱管の宮川か」と声をかけられるかわからないとなると、人の居る場所に身を置くのもおっくうになる。東京の顧客に書類を届けるべく上京した慎平は、上野から新橋へ移動するため電車に乗車した。自分の周りには複数の乗客が取り巻いている。また誰に声をかけられるかわからないと思うと緊張する。
不幸にもその嫌な予感は当たった。隣に座る二人組の男の会話から「脱管の宮川」が出てきた。
それはまさしく自分の噂話だった。
慎平はたまらず持っていた新聞をめいっぱい広げて顔を隠す。
「脱管騒ぎを起こしたあの宮川って元自由党員、何でも水戸の法律事務所で代言人の仕事やってるってよ」
「ははは、そいつは悪い冗談だ、法律を守らんと堂々と政府に請願した男が、何を血迷って法律を生業にできるんだ」
「だろ、自由党に入ってがんばっている親戚がいるんだが、そいつが宮川の話をすると酸っぱい顔するんだよ、そいつの話はやめろ、自由党の面汚しだ、なんて」
すぐ隣に本人が座っていることにも気づかず、二人組の男は大声で慎平の悪口をいい、嗤った。
慎平が握る新聞の両端は、ぐしゃっと潰れている。
早く、次の停車駅に着かないか。慎平は新聞で隠した顔を赤くしながら、そう願わずにいられなかった。
「私からもお願いします、宮川さんについていろいろ言うのはやめましょう」
二人組の男の会話に、誰かが割って入ってきた。明らかにまだ若い男の声だ。
慎平はほんの少しだけ新聞を下げ、そこにいる少年の姿を覗き込む。
「なんだい坊や、あんたみたいな若い子でも脱管の宮川を知っているのかい」
「坊やはよしてくださいよ、こう見えてもう15歳ですから」
「15歳は立派な坊やだよ」
「もう大人です。自由党に入党して活動していますから。また東京のほうで演説の集会がありますので、よければご参加ください」
「その年で立派だね。残念だけど、わしら自由党と聞いても脱管の宮川くらいしか知識がなくてね」
「だから、その男の話はやめてください。自由党員として恥ずかしくてしょうがない」
少年の表情から笑顔が消え、厳しい顔つきになった。
二人の男から笑い声が上がる。
「宮川って男は、よっぽど仲間から嫌われてるんだな」
「あのような男は仲間じゃありません。いったい自由党に籍を置きながら、何をやってきたのか。理解に苦しみます。法の支配を受けない。権利を行使しない、義務を尽くさないなど、近代における人間の発言とは思えない。奴はおそらく珍獣か鳥獣の類いでしょう」
歯切れのよい少年の言葉に、男たちの笑い声は高くなった。
新聞を持つ慎平の両手が、小刻みに震えている。
「いい年をした大人が、地球上の自由生になりたいとは何事かという話です。6歳の子どもでもそんな戯言は言わない。彼には国家の一員という大人としての重要な意識が欠如している。しかも腹立たしいのは、そんな無責任な態度をさらして党に多大なる迷惑をこうむりながら、現在法律事務所の代言人を生業に生きているそうじゃありませんか、彼はいったいどんな神経をしているのでしょうか。おそらく地球の生き物ではありませんね、異星出身の得たいの知れない何かに違いない、だからわざわざ地球上の自由生などと宣言する必要が……」
少年の体は、飛び出してきた慎平の手につかまれ、そのままもつれあって二人組の男のほうに倒れた。
「おい! いい気になるな小僧、減らず口は一人前になってから叩け」
「お前は宮川……」
「大きな口を叩きながら、せいぜい弁論止まりだろう。いくら達者な口を持っていてもだな、口だけじゃ何も変わらないんだ。変えられるのは行動だけだ。俺を批判する連中も、何一つ変えようと思って行動していない。行動に比べたら言論の価値など微々たるものだ」
「行動だあ? ふん、何も変えられていない行動でも価値があるというのか?」
「行動は結果だけじゃないんだよ、何をなそうとしたかその精神だ」
「だったら言論も同じじゃないか」
「国や社会を変える可能性を秘めているのは行動だけだ」
「だったら、何でやめたんだ?」
「え」
「何かを変えようと思って行動を起こしたんだろ? その行動が正しいという信念があったら、一度の失敗でやめるんじゃなく、何度でも何度でも挑戦すればいいじゃないか」
「……」
「脱管届が正しいことなら、何回でも脱管届を出すべきだろう。違うか」
「……」
「それをしないということは、本気で変えるつもりなんかなかったのさ」
「……」
停車駅のホームに入り、電車が止まった。
少年はさっさと降車した。
慎平はそこに一人立ち尽くしている。
「宮川さん、あんた子ども相手に大人げないよ」
二人組の片割れがそう言った。
電車が再び動き出し、直立不動の慎平の体をぐらつかせた。



「あなたは何が不満なのですか?」
意気消沈している息子に、母は尋ねた。
慎平はうつろな目で天井を見つめながら、「さあ……自分の行動が理解されず、間違ったふうに解釈されているのが悔しいのですかね、たぶんそんなところでしょう」と言った。
「自分としては、政府が支配する世の中は異常だということを訴えたかった。一人でも多くの人に気づいてほしかった。私のやり方が幼稚でまずかったのは認めます。けれど、自分の思いや行動は、ここまで人々に蔑まれなければならないものでしょうか。理解しろとは言いませんが、あまりにも見方が表層的というか、どうしてその深部にある精神をくみ取るということをしてくれないのか、それがあってもいいはずなのに、こんなことを望む私のほうが間違っているのでしょうか」
「間違っていると思いますよ」
「やはりそうですか」
「あなた、そんな世間の捉え方まで自分の背に背負わなくていいんですよ。だって……」
「もう人民ですからね」
「ええ」
母は笑顔で返した。
「あの少年の、言う通りなのです」
と慎平は言った。
「私には本気がまるで足りなかった。行動を起こすことだけで満足していた。ただ自分の行動の真意をわかってほしいとだだをこねていたにすぎない。まったく私のほうが子どもでした」
母は、コクリコクリとうなずく。
「この先もずっと、脱管の宮川という不名誉な屋号が付いて回るのですね。自分がまいた種だし、致し方ないことだ」
「いいじゃありませんか。知らない人に覚えてもらうための符牒なんて誰でも持てるものではありませんよ」
「母さんのその泰然とした考え方を見習いたいです」
「それには心配及びませんよ。もう国家を変えるだの大きなものを追いかける生き方はやめて、普通の人民として生きていくことにしたあなたですもの。自然とお母さんに似た生き方になりますよ」
「そうでしょうか」
「あなた、いい加減、あの絵のことに気づいたら?」
「え?」
母は立ち上がり、月岡芳年の浮世絵が貼られた壁のほうに行くと、唐突にその絵を引き剥がした。
浮世絵を慎平の前に突き出す。絵の縁のある一点を指さし、「ここに何て書いてあります?」と慎平に尋ねる。
慎平は、絵の外枠に小さく書かれてある文字に目を凝らし、「天下の元気は人民の元気なり……」と読み上げた。
「これは……」
「忘れたんですか? あなたにもらった立志社の設立趣意書の冊子に書かれてある文言じゃない。もちろん正確な文言はこんなのじゃありませんが違、“天下の元気は人民の元気なり”みたいなことが書いてあるんですよ」
慎平は食い入るように外枠の小さな文字を見つめた。
「国の主人公は、政治家ではなく人民ってことでしょ。母さんはこの言葉を励みに生きています」
「……母さん、価値ある月岡芳年の絵にこんな落書きをして……」
「落書きとは失礼な。お母さんが好きな言葉ですよ」
「はい。自由党に身を置いた人間としてそう言っていただけるのはうれしいです。それにしても、気づきませんでした」
「国を変えるのは、何も政治だけじゃありません。人民一人ひとりが元気に生きることこそ、国を変えるいちばんの方法です。私は、それをあなたの古巣の自由党から教わったつもりですよ」
「そうです。国の主人公はまさに人民、その通りです。いや、参りました。母さんの謎かけには」
「はい?」
「はいって、母さんが私に出していた宿題ですよ。この浮世絵が何を意味するか、私に問うていたじゃないですか。でも実にいいことを教えてもらいました」
「あら、そのことなら、まだ答えはいただいていませんよ」
「え? この文言のことじゃないのですか?」
「違いますよ」
慎平は難しい顔つきで首をかしげる。
しばらく考え込み、「……あ、わかった。この男性のように、下を向かず上を向いて生きろ、という意味でしょう?」と
「ん?」
「この男性のように、こう上を見上げて生きていると、この美しい満月のような素晴らしい光景に出会える、みたいなことを言いたかったのでしょう? 実は茨城監獄所へ連行されるとき、この浮世絵の人物の姿を思い浮かべて自分を励ましていました。この人のように堂々を天を見上げて歩こうと思ったら気が楽になり、救われました」
「……違いますよ、そんなことではありません」
「え……じゃあ、一体何なのです? 教えてください」
慎平は困った顔で母に嘆願する。
「わかりませんか。ようございます。教えましょう。この絵、実は母さんが描きましたのよ」
「え、うそでしょう!」
「うそじゃありませんよ」
「だってこれは東京の古道具屋で買い受けたものだと……」
「うそはそっちです。雑誌に載っていた月岡さんの浮世絵に似せて、私が必死に書き写しました」
「ということは偽作ですかこれは」
「偽作とは何です、母さんがあなたが留守中に、針仕事の合間を縫って一生懸命書いたのですよ。本当に今まで気づきませんでしたね」
慎平は参ったように天を仰いだ。
「信じられない。母さんにこのような画才があったとは」
「ほら、あなたこそ、いちばんそばにいる母さんという人間のこと、ろくにわかってないじゃありませんか」
「……まあ、それは……」
「そんなものですよ」
「……そんなものですね」
「外に出て、月でも見ますか。今日は満月ですよ」
そう言って母は立ち上がり、襖を開けて廊下に出た。
「まあ、なんてきれいなこと……」
慎平は、立ち上がらなかった。
しばらくそのまま座って、満月を愛でる母の後ろ姿を眺めていた。
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