私の完璧な彼氏さん

むつき紫乃

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理想と現実の狭間で

◇ 23

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 進藤と別れて営業二課に戻ってくると、デスクの真ん中には不在にしていた間の電話メモが重ねてあった。雪乃はメモを手にとると、パソコンを立ち上げながら内容を確認していく。

 今すぐ連絡が必要な用件はなさそうなので、優先順位で並べ替えてからキーボードのわきによけておく。そしてぽつんと離れた課長のデスクにちらりと目をやった。

 彼の席はぽっかりと空いていて、パソコンに電源が入れられている様子もない。雪乃はひとつまばたきをした。遅くなるようなことは言っていなかったから、てっきり午後イチには戻ってくるのかと思っていたのに、そういった連絡を怠らない鷹瑛にしてはめずらしい。

 電話メモにある先方の用件次第では相談しなければならないし、自分の仕事にはしばしば彼の判断が必要になる。それが分かっているからこそ、普段は帰社時間をきちんと言いおいて行くか、すぐに戻ってきてくれることが多いのだ。

 想定外に打ち合わせが延びているのかな。

 午前中に来ていたメールにざっと目を通しつつ、頭の片隅でそんな予想をつけた。

「あら? 氷室くんはまだ外出なの?」

 高すぎず低すぎず耳に心地よい女性の声が彼の名を呼んで、雪乃はディスプレイから顔を上げた。課長のデスクのそばに立ち、モデルのように美しいポージングで困ったように頬に手を当てているのは市川である。立っているだけで様になる姿には同性ながら見惚れてしまった。

「氷室くんなら遅い昼休憩とってるよ。ついでに頭も冷やしてるんじゃないかな」
「そうなの? じゃあ戻るまでしばらくかかるわね」

 ぼんやりしていた雪乃に代わって答えたのは十波である。
 いつの間に背後に立たれていたのか気付いていなかったために、びくっと肩が震えた。遅れて、後半の意味深な言葉に首を傾げる。

「先方でなにかトラブルでもあったんですか?」

 仕事に関わることなら聞いておきたくて、雪乃は立ち上がった。鷹瑛がちょっとしたトラブル程度で取り乱すとは思えないのだが、頭を冷やす必要性が生じる理由として思い当たるのはそれくらいしかない。

 けれども十波はあっさり首を横に振る。

「仕事はなんの問題もないんじゃないかな。氷室くんだからね」
「そうなんですか? じゃあ、どうして……」
「個人的な事情よね?」
「まあ、そんなとこだね」

 他人の私的な事情をぺらぺらと職場で話すものではない。市川に暗に諌められ、軽率に尋ねそうになった自分を恥じた。一方で、釈然としないものを感じる。

 プライベートで鷹瑛をそれほど揺るがすものとはなんなのだろう。

 常に泰然としている冷静さが崩れるところなど想像もできない。おそらく彼は意図的に雪乃に弱さを見せないようにしていて、それは自分の未熟さと彼の配慮ゆえなのだろう。しかしどういう理由があるにせよ、その距離を寂しく思うのはどうしようもなかった。

 わけ知り顔で頷いている十波になら、鷹瑛も弱みを見せるのだろうか。雪乃よりずっと付き合いが長いし、同い歳の同期なのだから、十波のほうが信頼されるのは当たり前だろう。けれど、鷹瑛に近い場所にいる彼をどうしても羨ましいと感じてしまう。

 探るような視線をじっと向けていると、ふと目があった十波がニッと挑発的に目を細めた。子供っぽい欲を見透かされたように思えてかっと頬が熱を持ち、分かりやすく目を背けてしまう。

 分不相応な欲だとは分かっているのだ。あれほど完璧な男性に充分優しくしてもらっているのに、これ以上を望んでいいはずがない。自分の立場はわきまえているつもりだったのに、鷹瑛に甘やかされているうちに雪乃は欲張りになってしまったのだろうか。

 わがままは、ダメだ。困らせて、嫌われてしまう。

 きゅっと唇を噛んで、醜い感情を心の奥に押し込もうとした。

「――なら、代わりに英さんにこれ渡しておくわね」
「え?」

 急に明るい声をかけられて、意識が仕事に引き戻された。はっと向き直ると、市川がクリアファイルを差し出している。空気を読んだ十波がさらりと営業一課に戻っていくのを視界に捉え、慌ててファイルを受け取った。
 
「わ、綺麗……」
 
 中身を取り出して、思わず溜息を漏らす。数枚の厚手の用紙に描かれていたのは、いずれも流麗な曲線が美しい時計塔だ。市川に依頼していたデザイン画である。

「デザイン案、できたんですね」
「まだ仮よ。一応、三つ案を作ってみたの。先方と直接話をしてる英さんと氷室くんに意見を聞きたくて。どう思う?」

 真っ直ぐに見つめられて、雪乃はたじろいだ。もう一度手元のデザイン画に視線を落とすが、意見なんてとんでもない。

 鉛筆の繊細な筆致でリアルに描き出されたその姿は、波のような大胆なカーブと泡沫を思わせる円が現代的なセンスで組み合わされている。海辺に位置する観光地の玄関口に設置するモニュメントとしては申し分ない。リニューアルで新しく生まれ変わったイメージを打ち出したいという鉄道会社の要望にも沿っていた。

「どれも、とても素敵だと思います。このまま先方に提出してもいいくらいだと……」

 恐る恐る市川の反応を窺うと、彼女は目の前でぱっと輝くように破顔した。

「ホント? 良かった。営業さんにそう言ってもらえるなら安心だわ」

 嬉しそうに笑うその表情は普段の大人びた印象に反して無邪気で、雪乃は呆気にとられた。
 ギャップ萌え、というのだろうか。このような隙を見せられてしまうと、同じ女性である雪乃でさえどきっとしてしまう。男性はそりゃあ放っておかないだろう。

 それでいて、仕事仲間の意見を全面的に信頼してくれているのが伝わってくるから、こちらも仕事がしやすい。なにより本人の仕事の質が極めて高い。

 優秀な人だとは感じていたけれど、これほど完璧な人がいるなんて。

 とそこで、完璧な人間が他にも身近にいることを思い出した。

「市川さんもそうですけど、氷室課長の同期の方って優秀な人が多いんですね」

 鷹瑛はもちろん、十波もあれで営業成績はかなり上位だったりするのだ。
 賞賛を込めてきらきらと見つめる雪乃とは対照的に、市川は眉を下げてなんとも言えない顔をした。
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