だんだん

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緋色

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 火夢繪(カムエ)には何もなかった。
 ただ、遠くに背の高い檜の木一つが佇んでいた。


 何故此処に来ようと思ったのだろう。
 男には自分が分からなかった。
 火夢繪には昔から誰も近付かない。
 それが男が住んでいた村での掟のようなものだった。



 自分だってこれまで、下らない掟だと笑いつつも、破ろうとは思わなかった。
 掟を破ってまで近付こうとは思わなかったではないか。



 それなのに何故、こんな死ぬ間際になってあの場所に行きたいと思うのだろう。



 どうして行ったこともないのに懐かしいなどと思うのであろう。



 男は一人歩いた。
 何も無い火夢繪の地を、ただ一本の檜を目指して。



 ふと足元に目をやった。
 何もなかった筈の足元に、彼岸花を見た。
 その赤い花を見て、だから此処は火夢繪なのだと分かった。



 男は笑った。声を出して笑った。
 何もかもがどうでも良くなった。



 取り敢えず進もうと思って進んだ。
 相変わらず檜は遠い。



 不思議と喉が乾かない。
 病に伏してからは煩わしいばかりだった日の光も、今日ばかりは心地良い。



 男は、火夢繪よ、火夢繪よ、と口ずさんだ。



 腕を広げて太陽の日を浴びた。
 今まで出来なかったことを、今日してしまおうと思った。



 火夢繪よ、火夢繪よ。



 また、口ずさんだ。
 不思議なことに、その続きは出てこない。



 進めばこの続きが分かる。
 そう思って歩みをほんの少し早める。



 早く知りたかった。



 遠くで鈴が鳴った。
 男の、火夢繪よ、火夢繪よ、というのに合わせるように、シャラン、シャラン、と鳴った。




 男はまた笑った。
 まだ続きは分からなかったが、鈴の音はこの歌の伴奏だと知っていた。




 走ろうか。



 久方ぶりに走りたくなって走った。

 息が苦しくなるかと思ったが、全く苦しくない。



 風が男の体の間を抜けていく。
 心地良いと思った。



 子どもの頃のように駆けた。
 野山を駆け巡った時のように、胸が騒いだ。



 男は走っている間もずっと、火夢繪よ、火夢繪よ、と口ずさんだ。



 息は切れなかった。
 鈴の音も絶えず鳴る。



 男は彼の背と同じくらいの高さの彼岸花の間を、駆け抜けていく。


 まるでそうすることが当然のように。



 緋の間を駆ける。



 息は切れない。



 男は大きく跳ねた。
 まだ息は切れない。



 心地良かった。
 まだ此処を去りたく無いとも思った。



 火夢繪よ、火夢繪よ。
 緋き地よ。



 続きが分かった。まだ終わりで無い。
 まだ走れる。
 まだこの緋の中を走れる。



 男はクルクルと回った。
 鈴がシャラン、シャラン、と鳴る。



 それでもクルクルと回っていると、唄えと言うように、また、シャラン、シャランと鳴った。



 男は仕方ないなという気分になった。
 また唄おう。



 火夢繪よ、火夢繪よ。
 緋き地よ。



 鈴が、そうだ、と言うようにシャラン、と鳴った。



 火夢繪よ、火夢繪よ。
 緋き地よ。
 鈴の音に導かれ開かれる、美しき緋の地よ。




 火夢檜を進めば進むほど、不思議と続きが頭に浮かぶ。



 男は一度も聞いたことのない唄を口ずさむ。




 火夢繪よ、火夢繪よ。
 緋き地よ。
 鈴の音に導かれ開かれる、美しき緋の地よ。



 鈴が先を急かすように、シャランと鳴った。



 火夢繪よ、火夢繪よ。
 緋き地よ。
 鈴の音に導かれ開かれる、美しき緋の地よ。
 白の使者に守護される地よ。



 ふと、幼子の声が聞こえた気がした。
 おかあさま!
 今ね、あそこにね、綺麗な蝶がいたの!



 これは……。
 かつての日々を思い、男は立ち止まり瞳を閉じた。



 その間も唄は止めない。




 火夢繪よ、火夢繪よ。
 緋き地よ。
 鈴の音に導かれ開かれる、美しき緋の地よ。
 白の使者に守護される地よ。



 今度は、少年の声がした。
 こんな家なんか出る!
 父上のいうことなんか聞くもんか!



 火夢繪よ、火夢繪よ。
 緋き地よ。
 鈴の音に導かれ開かれる、美しき緋の地よ。
 白き使者に守護される地よ。
 愛し子をその腕(カイナ)に抱け。



 ごめん。ごめん。
 君と生きると約束したのに。
 君と共にいると約束したのに。
 青年の声だ。



 火夢繪よ、火夢繪よ。
 緋き地よ。
 鈴の音に導かれ開かれる、美しき緋の地よ。
 白き使者に守護される地よ。
 愛し子をその腕に抱け。
 その孤独を癒すように。



 男は涙を流した。
 泣かないではいられなかった。



 喜びと悲しみとが、彼を支配していた。



 泣きながらもまた歩き始める。



 火夢繪よ、火夢繪よ。
 緋き地よ。
 鈴の音に導かれ開かれる、美しき緋の地よ。
 白の使者に守護される地よ。
 愛し子をその腕に抱け。
 その孤独を癒すように。




 女の声だ。
 産まれてきてくれて、ありがとう。



 若い頃の母の声だと思った。
 男はごめんと呟いた。



 火夢繪よ、火夢繪よ。
 緋き地よ。
 鈴の音に導かれ開かれる、美しき緋の地よ。
 白き使者に守護される地よ。
 愛し子をその腕に抱け。
 その孤独を癒すように。
 その悲しみを忘れるように。



 壮年の男の声がした。
 馬鹿な息子だ。幼子を残して。



 ごめん、また呟いた。
 涙で檜が見えなくなった。



 けれど足は止めなかった。
 止めてはならないのだ。



 火夢繪よ、火夢繪よ。
 緋き地よ。
 鈴の音に導かれ開かれる、美しき緋の地よ。
 白き使者に守護される地よ。
 愛し子をその腕に抱け。
 その孤独を癒すように。
 その悲しみを忘れるように。
 火夢繪よ、火夢繪よ。
 贖罪の地よ。
 再会の地よ。
 約束の地よ。




 若い女の声だ。
 お願い。
 待って。
 約束したじゃない。一緒にいるって。
 お願い。
 置いていかないで。



 止まりそうな足を必死で動かす。
 もう止まれないところまで来ているのが分かった。



 止まったところで戻れはしないのだ。



 ごめん、とまた呟いた。



 男はずっと病に犯されていた。



 それでも休めば良くなるという医者の話を無視して、家族のために働いた。



 働いて働いて。



 動けなくなってしまった。



 動かない身体が憎くて、迷惑を掛ける自分が嫌で、だから『帰ろう』と思って火夢檜に来たのだ。




 もう走るしかなかった。
 唄はほぼ完成していた。



 あとはただ檜の元に待つだけだった。




 火夢繪よ、火夢繪よ。
 緋き地よ。
 鈴の音に導かれ開かれる、美しき緋の地よ。
 白き使者に守護される地よ。
 愛し子をその腕に抱け。
 その孤独を癒すように。
 その悲しみを忘れるように。
 火夢繪よ、火夢繪よ。
 贖罪の地よ。
 再会の地よ。
 約束の地よ。
 我が兄弟と共にあった地よ。




 先ほどの若い女の声がした。
 ごめんね。取り乱したりして。
 大丈夫よ。この子は私が守るから。
 安心して大丈夫よ。



 ありがとう。愛しているよ。
 男はそう返した。
 もう相手に聞こえないと知っていたけれど。



 檜の元へと辿り着いた。
 涙で彼岸花の赤が歪んで見えた。



 火夢繪よ、火夢繪よ。
 緋き地よ。
 鈴の音に導かれ開かれる、美しき緋の地よ。
 白き使者に守護される地よ。
 愛し子をその腕に抱け。
 その孤独を癒すように。
 その悲しみを忘れるように。
 火夢繪よ、火夢繪よ。
 贖罪の地よ。
 再会の地よ。
 約束の地よ。
 我が兄弟と共にあった地よ。
 主の帰還を喜べ。
 そして迎えよ。
 火夢繪よ、火夢繪よ。



 完成した。



 喜びともう後に戻れないという悲しみが男の身を打った。


 狐の遠吠えが聞こえる。



 年々歳々花相似。
 歳々年々人不同。



 耳元で鈴が鳴った。



 白き使者よ。



 男は言った。それが男には何か分かっていた。



 我が兄弟よ。



 長き時を経て、帰ってきた。
 緋の中に白が混ざる。



 そこに白い狐がいた。



 年月が経てばお前も変わるものだ。



 狐が男になった。
 白い髪の、白い着物を着た若い若い男だった。



 手には、赤い紐。
 その先には、大きな鈴がぶら下がっていた。


 ずっと鳴らしていたよ。
 お前が帰って来られるように。



 そうか。
 男が答えた。



 男の黒い髪が緋に染まっていた。



 白の使者はそれを嬉しそうに見た。



 おかえり。



 男はもう赤い狐となり、人であったことは忘れていた。



 それが彼にとっては当たり前のことであり、自然なことであった。



 白い狐と共にこの地を守ろう。



 百年も千年も此処にいよう。



 忘れてしまった私の大切なものが、永く幸せであれと祈りながら。









 何処かで、狐の鳴く声が聞こえた。
























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