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臙脂
しおりを挟む今日の営業が終わり、締める時間となった。
湯殿の方を片付けようと、男は臙脂単語の暖簾を潜った。
そして、手に持っていた桶を落とした。
気を失いそうになるのを堪え、辺りをもう一度見回す。
見慣れた湯殿では、見慣れぬ者たちが酒宴を催していた。
しかも、その見慣れぬ者たちというのは、どうにも人でない様子であった。
頬の紅くなったろくろ首、立って歩く猫、服を着たまま湯に入っている骸骨、酔って周囲にちょっかいを出す河童にしか見えない男、湯の中で泳ぐ人魚、酒を飲みながら歌を詠む天狗などなど。
走り回っては転びきゅわきゅわと笑う小鬼までいるではないか。
これは困ったことだと天井を仰ぎ見る。
このようなことは聞いたこともなければ、見たことも無かった。
どうしてこのような事になったのだろうか。
此処は普通の銭湯であるはずなのに。
「おやおや。誰か来たよ。この匂いは人間のようだねぇ。」
ろくろ首が首を長く伸ばし、男と男の落とした桶を見た。
あまりのことに、ひっ、と男は声を上げた。
「あれま。いい男じゃあないかい。」
半裸の美しい女が男を舐めるように見た。それを呆れたような声が止める。
「これ、飛縁魔(ヒノエンマ)。やめんかい。がっつく女は美しゅうないぞ。のぅ、毛倡妓(ケジョウロウ)。」
それは天狗であった。
男は飛縁魔という言葉に恐れ慄いた。
飛縁魔とは、夜な夜な男の血を吸い、殺すので有名な美女の姿をした妖である。
そんな彼女に良い男だと言われたら、今日から枕を高くして寝ることは叶わない。
そして毛倡妓と呼ばれた妖は、あり得ないくらい長い髪の妖であった。
不気味なくらいに長い黒い髪が、ぷかぷかとお湯に浮かんでいる。
まるで海に浮かぶ海苔のようであった。
「………ハナシカケンナクズ。」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で、毛倡妓がそう言う。
天狗に聞こえるのではと思ったが、聞こえていないらしい。
「毛倡妓は何と奥ゆかしいのだ。女子とはこのように奥ゆかしく、美しいものでなければならぬ。そうは思わぬか?人間よ。」
全くそうは思いません。その女(ヒト)怖いんですけども。と言うことが出来ずに、男は頷いた。
頷く男を見て、飛縁魔が不服そうな声をあげた。
「あんた、こんな暗い女が好みなのかい?」
あ、実は好みじゃないです。どちらかと言うとお姉さんのが好みです。
心中で思うも、言えるはずもない。
天狗が並んでいるからだった。
「あ、実は好みじゃないです。どちらかと言えばお姉さんのが好みです。」
……心中がダダ漏れだった。
何だと思えば、大きいが、見た目猿のような妖がいた。
「あら、覚(サトリ)じゃないかい。偶には良い仕事もするねぇ。」
覚がいるのはずるい。
「覚がいるのはずるい。」
覚とは、人の心を読む妖である。
「この人間、掃除したい。我ら、邪魔。」
妖相手に男の心中を代弁してくれた。
男は覚が好きになった。
「なに?そうであったのか。早く言えば良いものを。しかし困った。酒宴は始まったばかりというに。」
どうやらこの妖たちは悪いもの達では無いらしい。
人間なんて殺してしまえなんていう意見は出てこない。
出てきたら困るのは自分なのだが。
皆であれやこれやと考え始める。
「この人間、酒、好き。酒振る舞う。我らの酒宴許す。あと、金好き。金渡す。貸し切り。」
不気味な顔をした覚が可愛く見えてきた。
事実、金と酒には目がない。
「金か。金はないが、天狗の丸薬をやろう。どんな病にも効くぞ。」
茶色い丸薬を天狗から渡された。
怪しいので多分使わないだろう。
「私の血液を与えましょう。肉ほど効果はありませんが、100年ほど寿命が伸び、老いの進度を少し遅らされます。売れば万金となりましょう。」
人魚からは赤い液体の入った小瓶を渡された。
売りに出た瞬間、永遠の美を願う人々に殺害されると思った。絶対売りはしないだろうと思った。
「川で拾った砂金だ。」
河童からは砂金の入った袋。
換金しなくても価値のあるものとは気がきく。
「何だいあんたら。そんなもん渡されても困るだろうに。私はちゃんと金を持ってるよ。」
ほれ、と金の入った袋を渡してきたのはろくろ首であった。中を見ると、5年は働かずに暮らせそうな金額が入っていた。
「これは以前、男から貰った玉だが、どうにも趣味が悪くてねぇ。好みでないからあげるよ。換金しておいで。」
見事としか言いようのない玉であった。渡してきたのは飛縁魔であった。これを売れば10年は遊んで暮らせる。
「ショウガナイカラヤル。」
毛倡妓は見事な鬘を渡してきた。誰の髪の毛で出来ているのだろう。考えるのも不気味なので、すぐにでも換金してやろうと決めた。高く売れることに変わりはないだろう。
妖たちは自分の持っている特上のものを、次から次へと渡してきた。
男は渡される品が多すぎて、思わず倒れそうになるほどであった。
もう男は一生遊んで暮らしていけるだけの財を得ていた。
明日一日店が開けられぬくらい、どうってことはないだろう。
「わ、分かりました。酒宴を続けてください。」
目を回しながらも何とか言った。
そこからは飲めや騒げやのどんちゃん騒ぎが始まった。
そして男は朝まで妖達と飲み、騒いだ。
この日、男と妖達の間には妙な縁が出来た。
この後も、男と妖達は友好的な関係を続けることとなる。
余談ではあるが、男は数年後、やむを得ない事情で人魚の血を飲んだ為、半妖になってしまい、100年どころか数百年の寿命を得てしまったそうだ。
そういう事なので、不思議な臙脂の暖簾の先では、今日も奇妙な宴会を開いているかもしれない。
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