蘇芳

だんだん

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蘇芳

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引く牛もいないのに動く牛車があった。


今宵は新月の夜だ。

真っ暗な中に、小さな明かりを持つ長い黒髪が美しい女がいた。


周りには貴族の屋敷が建ち並んでいる。


女が牛車を見た。


牛車が止まった。


周りはやけに静かである。




牛車の中から低い声がした。

男の声だ。


待っていたぞ。


女が幸せそうに微笑んだ。
たっぷりと紅を含んだ口元が、優雅に三日月を描く。


再び牛車の中の声が言った。


百年ぶりか。


女は頭(カブリ)を振った。


百と二十四年ぶりです。


長かった。
長かった。
ずっと待っていたのだぞ。


申し訳ありません。


不気味に風が凪いだ。
女は牛車に引き寄せられるかのように、一歩、歩んだ。


良いのだ。
好きで待っていたのだ。


御簾の下からひょろりとした白い手が出てきた。


蘇芳に染まった爪が、同じ色の下簾を引っ掻く。


長い間、お待たせしました。
待ちすぎて、わたくしの事なぞ忘れてしまわれたかと思いました。


牛車の声の主は嗤った。


この私が貴女の顔(カンバセ)を忘れるわけはない。




女はまた一歩、牛車に近づいた。


風が牛車の御簾を揺らす。


私とて、貴方を忘れたことはありません。


何処からともなく、花びらが舞い落ちてきた。


木など一つもないのに、不思議なものだと女は思った。


よくよく見るとそれは花蘇芳であった。


くるくると舞うように桃色のそれが落ちてくる。たまに白が混ざっているのが、また風雅であった。


貴方は本当に蘇芳がお好きだこと。


この不思議な現象がどう起きているのか分からなかったけれど、牛車の中にいるお人が起こしているということは知っていた。


花蘇芳と蘇芳は別物だ。
しかし、花蘇芳も美しい。


牛車の中の声が、ほうと息を吐いた。


花蘇芳は、蘇芳の染汁と色が似ているから花蘇芳というのだと、昔、貴方が教えてくださいました。
似紫を出すのに、このような色が出るとは、不思議なものです。


女は昔を懐かしんだ。


まだ、男と共にいることが出来た時の事を。


そんな事もあった。


女の邂逅に追従するように声の主は楽しそうな声で笑った。


以前と何ら変わりのない笑い方に、女は安心する。


蘇芳は此処とはまた別の国では、神代より神聖とされる色だ。


神聖な色ですか。
確かに、貴方が纏えば神聖にも感じます。


牛車の中の主はまた笑った。


貴方には分からぬか。


神聖とは思いませんが、好きな色ではあります。
貴方を思い出せますもの。


女は牛車の声の主との出会いに想いを馳せた。


貴方が纏う蘇芳は、どんな色よりも高貴な感じがして、輝いて見えました。
わたくしは、ならぬと思いながらも、貴方の牛車から覗く下簾の蘇芳に、胸をときめかせたものです。


女は初めて文が送られてきた時の事を思い出した。


あの文に付いた香の薫に胸を高鳴らせたのを、一体どうして忘れられようか。


深い紫を纏うことの出来る貴女が、蘇芳の私に心動かすなど、思っていなかった。


男が低い声で笑う。
昔を懐かしむその声に、女はまた歩みを進めた。


身分違いの恋であった。


女は内親王でとてもではないが、牛車の中の声の主に手の届く存在ではなかった。


蘇芳も紫とでは全く格が違った。


蘇芳の君。


女が呟いた。


牛車の声の主は、


その名で呼ばれるのも久しい、


と懐かしむような声をあげた。


蘇芳の君。


女がまた呟いた。


何かを確かめるかのように。


ゆらり、女の身体がまた牛車に近付く。


蘇芳の爪が嫌な音を立てて割れた。


ああ!我が身が呪わしい。
我が身が怨めしい!
如何にしてこの様に生まれついたのであろう。


女が頭(カブリ)を振った。


気にしないでくださいませ。
貴方のその運命と、共にある覚悟は出来ているのだから。


女はまた歩みを進めた。


牛車の主が、苦しそうに呻いた。


もう来るな。
もう来るな。
それ以上は寄るでない。


女はまた頭を振った。


どうしてその様な酷いことを仰るのでしょう。
百二十四年振りだというのに、わたくしを抱きしめてくださらないということがありましょうか。


駄目だ。
来るな。


そう呻く声が次第に大きくなる。


嫌です。
来るなと言われても行きます。
何度でも、貴方の元へ辿り着きます。
例え何百年、何千年が経とうとも、貴方の元へ辿り着いてみせます。


だから悲しまないで。


そして女は牛車の簾を開けた。


中には鬼がいた。


美しい鬼であった。


ただ人であれば、恐ろしいと思っただろう。


しかし女にはその姿が何よりも美しく見えた。


見るな。
見るな。
この呪われた姿を。
一度ならず二度までも貴女に見られることに、どうして耐えられようか。


鬼の金色に輝く瞳が涙を流した。


女が更に一歩近づくと、幼子のように身をよじる。


蘇芳の爪と、同じ色の角が二本、額に生えていた。


待っていたのに。
今度こそはと待っていたのに。


鬼が白色の髪を、掻きむしった。


待ってくださっていたのでしょう?
どうして私を拒むのですか。


牛車の中に古い骸があった。
骸の横には古ぼけた衣の切れ端が落ちている。


女はそれが、以前は絹で出来た、輝くような紫をしていたのを知っていた。


百年以上もの孤独に耐えられなかったのだ。
貴女に一目、会いたかったのだ。
それだけなのだ。
こんなことを望んでいたのではない。


女は微笑んだ。
愛しさが湧き上けてくる。


女は牛車の中に乗り込んだ。


紫苑の君。
紫苑の君。


鬼が女を抱きしめた。


来るなという言葉とは矛盾した行為であった。


蘇芳の君。


呼び返すと、抱きしめる腕の力が弱まった。


いやいやというように鬼が頭を振った。


共にいようと約束したではないか。
どうしてこのようなことになってしまったのか。


何を仰います。
貴方はわたくしを百二十四年も側に置いてくださった。
百二十四年、わたくしは貴方の側にいたのですよ。


女の紫苑の袖が、鬼の頬に掛かった。


骸は貴女の一部であって貴女でないではないか!
現にこうして戻って来るのに百二十四年もかかった!
次は何年だ!何百年待てば良いのだ!


金色が女を捉えた。
世間一般には、さして美しいとも言えない顔だが、鬼にはこの世の何よりも美しく見えた。


何百年でしょう。
何千年でしょう。
どれ程かかるかは分かりません。
けれど、待っていてください。
きっと辿り着きますから。
貴方の胸の中へと帰ってきますから。
だから待っていてください。
悠久の時を生きる貴方には、ほんの刹那の時間です。


やっと会えたのに、もう別れねばならぬ。次もこうならば、私は耐えられない。


暴れる蘇芳の角が、女の頬を欠いた。


血が溢れ出した。


こうしてお話しできるのは百年から数百年に一度となりましょう。


けれど、わたくしの魂はいつだって貴方の側にいます。
骸も魂も側にいるのに、寂しいだなんて言わないでくださいまし。


女は幸せそうに微笑んだ。


これから何が起こるのか、二人には分かっていた。


時間がないことも分かっていた。


だから少しで良いから話していたかった。


百二十四年の間に募らせた、思いの丈を相手に伝えたかった。


触れ合えるのはほんの少しの時間。


次は何百年後か分からない。


呪いだと、男がまだ人であった時に言っていたのを女は思い出した。


不幸にしてすまないと、鬼は言った。


女は小さく微笑んだ。


数百年に一度でも、貴方の腕に抱かれて幸せです。
不幸だなどと考えたことも御座いません。
魂となって貴方の側にいる時も、幸せです。
貴方に抱き締められる自分の骸が嫉ましくもなりますが。


鬼は苦しそうに声を上げた。


もう時間がなかった。


時間です。
早くわたくしをお喰べください。


鬼は嫌だと言った。


愛おしい女を引き裂くのは、一度で充分だと言った。


もう耐えられない。


しかし、意思とは反対に、鬼の身体は女の血を欲していた。


鬼の蘇芳の爪が、いとも簡単に女の身体を引き裂いた。


死ぬ間際、女は幸せそうに微笑んだ。


またお会いしましょう。
蘇芳の君。
わたくしの愛おしい人。


鬼は本能のまま愛しい女の亡骸を抱き締めながらその口元に運んだ。


その夜、不気味な慟哭の声が京の都に響き渡ったという。





かつて愛し合った鬼と女の話である。






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