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[53]二人のビクター

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 ティナを伴って裏町へとやってきた。もう一人、平民出身の使用人・ケインも連れて。共犯者は少ないほうがいいけれど、仕方ない。彼は絶対に必要な案内人だった。一度行った場所とはいえ、裏町までの道順を私は知らなかった。あのとき、私はビクターに抱えられていたし、そもそも彼はを走っていなかった。屋根の上を道だというなら別でしょうけど。

 案内人を頼んでから今に至るまで、ケインは辺りを気にしてしきりに怯えている。

「お嬢様をこんなとこに連れてきたなんて知られたら俺、旦那様に殺されちまうよ」

「黙ってるって約束したでしょ。貴方に害は及ばないわ。ね、ティナ」

「はい……」

 もう一人の共犯者、ティナは今回の外出に否定的だ。護衛も連れず裏町に向かうなど、正気の沙汰じゃない。わかってる。
 紙切れ一枚で別れを告げてきた卑怯なビクターのことだ。私が訪ねてきたことが分かれば、顔を合わせる前にたぶん逃げる。奇襲をかけるためには、少人数で秘密裏に動く必要があった。

『これは私の人生にとって、大事なことなの』

 そう言ってティナを説得し、なんとか協力を取り付けた。ティナと私は今日、ドリトル侯爵婦人・ミーナ様を訪ねていることになっている。婚約式の準備について相談しに行く。そう言えばみんな納得する。これほど都合の良い口実はなかった。
 
 裏町の三番街、通路の先に赤い天幕が見える。アシュリーが出した靄に見た景色と同じ。

『あの男は死神じゃないですよ。ふつーに人間です』

 ビクターは死神よ。だって、ビクターがそう言ったのだもの。それに、普通の人間に"魔法"なんて使えるはずがないじゃない。

 呆然とする私を置いて、『じゃ、確かに教えたんで』とアシュリーは逃げるように一瞬で姿を消した。 

 ───とにかく、ビクターに会わなくちゃ。

 ティナとケインをその場で待たせ、私は独りで天幕の中へと足を踏み入れた。

 ビクターはいない。それどころか、人の気配がまるでしなかった。

「もし。どなたかいらっしゃいませんか」

 天幕の中は、大小様々な物で溢れかえっているし、垂れ下がった布で空間が仕切られているせいで、奥まで見渡せない。

「もし」

「はいはーい、どちら様ですかー」

 奥から出てきた女性を見て目を見張る。女性の部分をこれでもかと強調した、下着のような格好。それにも驚いたけれど、何より驚いたのは、彼女の肌にまんべんなく描かれた青い薔薇のタトゥー。腕や足だけでなく、顔や首にまで。不思議、派手なのに全然下品じゃなくて、綺麗。

「なに?」

「わた、くしは…………」

「────あー、はいはい」

 うまく言葉を紡げないでいると、彼女は独りでに納得の声を挙げた。「ちょっと待ってな」と呼び止める間もなく再び奥へと消える。

 用件も何も伝えられなかったわ………

 少ししてやってきたのは、体格の良い三十代くらいの男性。彼を見て、私は思わず声を挙げた。
 
 彼はビクターと同じ、黒い髪をしていた。

 …… 
 ……… 
 …………

「ビクターは俺だ」

 ここにいるはずの、ビクターという青年を探している。そう伝えると、男性は言った。

「えっと、貴方じゃなくて───」

 話がうまく噛み合わない。

「もっと若くて、あの、痩せ型で背が高くて、女の人みたいに奇麗で、唇が赤くて……あ、いつも変なお面をつけてます。泣き顔と笑い顔が半々になった」

 ああ、と男性。

「ヴィのことか」

 ヴィ………
 裏町の女性たちが呼んていた名だわ。

「何だ、あいつの客か。ラミ、ヴィはいまどこにいる?」
 
 男性が近くに控えていた女性に声をかける。最初に私の対応をしてくれてタトゥーの女性だ。

「たぶん、飯を買いに行ってるよ」
 
「んじゃ、すぐ帰ってくるだろう」

「どうかな。ビビの店に呼ばれてるって言ってたし。てか、あいつがまっすぐうちに帰ってきたためしがないだろ。娼館にでも寄ってたら、下手すりゃ今日中には帰ってこねぇかも」

 娼館………

 ぐわん、と目眩がする。額を押さえた私を見て、ラミと呼ばれた女性がにやりと笑った。

「ラミ、お前、夜の演目の準備は終わったのか? こんな所で油売ってないで、さっさと仕事に行け」

「はーい」

 ラミは私にウインクする。それから猫のような軽い身のこなしで、踊るように離れていった。

「すまんな、お嬢さん。どうする、待つか?」

「ええ、ご迷惑でなければ待たせていただきますわ。──あ、待ちます、です」

 裏町でも浮かないよう、以前にビクターが出してくれた質素なワンピースで変装してきた。銀の髪も、ローブのフードで隠してある。──身分はバレないはずだった。言葉遣いをしくじらない限り。

「あんた、商家のお嬢さんか? まさか、貴族じゃないよな? ……あいつめ、命知らずにも程があるぞ」

「あの、貴方は……?」

 肯定も否定もできず、苦し紛れに問い返した。

「俺はヴィの父親だ」

 父親、確かにこのひとも黒髪だし、喋り方や仕草もビクターと似ている。だけど、

「父親というには、若すぎるわ」

 このひとはどう見ても三十代半ば。ビクターの見た目は二十歳過ぎくらいだから、有り得なくはないかもしれないけれど、あまりにも……

「そりゃ、血は繋がってねぇから。だが、親子だ。俺があいつを拾った15年前のあの日からずっとな」

「拾った……?」

「あいつは孤児だったんだ。聞いてないか?」

『あの男は死神じゃないですよ。ふつーに人間です』

 アシュリーの言葉が頭の中でぐるぐる回る。

「──まぁ、個人的なことだからな。これ以上は俺の口から言うべきじゃないか。深く知りたければ本人に聞け。──って、おい」
 
 泣いてんじゃねぇか、そう言われて初めて頬を流れる涙に気づいた。

『はじめまして、フィオリア・ディンバード。私は死神です』

 ビクターが私の前に現れた日から、去る日まで、彼との様々なやり取りが駆け巡る。

「私、彼が分からない。彼、私には"ビクター"と名乗っていたんです。"ヴィ"なんて知りません。………彼を信じてた。心から。なのに、実は死神じゃなくて、人間かもしれなくて、それに、サーカス団の一員? なにそれ。私、騙されていたの? もう、何を信じれば良いのかわからないわ」
 
 嗚咽が漏れる。机に突っ伏し、ワァと泣いた。

「よくわからんが───とりあえず、ホットチョコレート、飲むか?」

 湯気の立つカップを2つ持ち、ビッキー・・・・が帰ってきた。ビクターとビクター。混乱するなら俺のことはビッキーと呼べと、男性は気遣ってくれた。

「いいことを教えてやろう」

 ビッキーは大仰な口調で言う。

『いいことを教えてやろう』

 それは、ビクターの口癖だった。会えなくなってまだ数日だというのに遠い日の記憶のように懐かしく感じた。

「人はいくつもの顔を持っている。5個、10個、100個持ってるやつもいるかもしれない。じゃあ、人はなぜ複数の顔を持つようになるのか。それは、見せたい顔が出会う人の数だけ作られるからだ。父親に向ける従順な顔、母親に向ける甘えた顔、友に向ける信頼の顔、恋人に向けるすました顔、その他雑多に向ける偉そうな顔。人によって顔を変えるそいつはズルい人間か? ある顔だけが真実で、あとはぜんぶ嘘の顔か? 違う。どの顔も、そいつであることに変わりはないんだ。───その石、」

 ビッキーは私の耳に揺れる月光石を指差した。

「綺麗だな。見る角度によって、青にも赤にも白にも紫にも見える。その時々で姿を変える。だがぜんぶ、一つの石だ」

 話が長くて何が言いたいのか分かりにくい。まるで、ビクターと話しているみたいだと思った。


 結局、許された時間いっぱいまで待っても、ビクターは帰ってこなかった。

「すまんな、時間を無駄にさせちまって。よければまた訪ねてこい。いつでも歓迎するぜ」

 彼の笑い方にまた既視感を抱き、可笑しくなった。

「ビクター……いえ、ヴィと貴方ってそっくりなのね」

「そうかぁ? あいつはおとなしいし、無口だし、謙虚なやつだから、むしろ正反対って言われんだけどな」

 おとなしくて、無口で、謙虚? それは本当に私の知るビクターなのかしらと、また分からなくなる。

 会って、たしかめなくちゃ。

 おとなしくて無口で謙虚なビクターも、自信家で慇懃無礼なビクターも、同じビクターなのだと、胸を張って言うために。

 


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