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[56]決められた世界

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 北の塔を出て、廊下を進む。

 ───なんだか、すごく疲れたわ。

 王妃様に断りを入れ、今日はもう帰ろう、そんなことを考えながら歩いていた。

「いいじゃん、ね?」

 甘ったるい猫なで声が聞こえ、足を止める。──ルルの声だった。廊下の突き当たり、右側に続く通路から聞こえた。

「もうっ、真面目だなぁ」

 親しそうに、誰かと話している。アレクは北の塔にいる。だから、相手は彼じゃない。

 ──話し相手は、きっと、ルルの新しい"良い人"。

 脈が早くなる。見てはだめ。頭の中で誰かが忠告する。きっと傷つくことになる。ああ、だめなのに───

 壁に手をつたい、そっと通路を覗き込む。そして、

 え───

「ビクター……?」

 そこには"ビクター"がいた。全身真っ黒なローブに見を包み、特徴的なお面をつける黒髪の男。ヴィじゃなくて、私の知る、"ビクター"だと思った。ルルはそんな彼の腕に手を絡めていた。

 心臓が嫌な音を立て、乱れた。

 お面と目があった気がした。瞬間、彼は黒い霧となり姿を消した。彼はきっと、私に気がついた。ルルがゆっくりと私を見て、笑った。

 どうして、

「フィオリアさん、ご婚約おめでとうございます!」 

 花がほころぶような満面の笑みを浮かべ、ルルが駆け寄ってくる。

 どうして───!

「どうして貴女がビクターと一緒にいるのよ!?」

 取り繕う余裕は、もはや私にはなかった。

「ビクター?」

「さっき、話してたでしょ、ここで!」

「えー、ビクターなんて知りませんけど」

「知らないですって!?」

 あまりの怒りに息が荒くなる。頬は熱く、涙が滲んだ。

 ───落ち着いて。考えをまとめて、彼との関係をうまく聞き出すの。冷静に、ならなくちゃ。

「そう、そうだったわね、彼の名前はヴィ」

 彼が私に本名でなく、父親の名を借りた偽名を名乗っていた理由をずっと考えていた。彼を"ヴィ"と呼んだ裏町の女性たちには本名を教えていたことになる。私と彼女たちの違いは何? 心を許した相手かどうか? だとしたら、ルルは? もし、ルルが"ビクター"を知らない理由が、彼がルルには"ヴィ"と名乗っていたからだとしたら───

「ヴィ……」

 そうつぶやき、ルルはくすくすと笑い出した。それがまた、ひどく気に触る。

「何が可笑しいの」

「えー? なんていうか、なーんにも知らないんだなって思って」

「───知らない? 何を?」

「教えるわけないじゃん。バカなの?」

「────」

 ああ、ルルは出会った頃からずっとそうだった。人目がある前では甘えたように媚びてくるくせに、二人きりになった途端それら一切を止め、攻撃に転じてくる。彼女はとてもわかりやすかった。それでいて狡猾で、ボロを出すこともなかった。アレクや他の貴公子達を騙し抜いた。

 心が冷えていく。すっと目を細め、彼女を見据える。

 何も難しいことはない。ヴィの次の標的は、ルル。だから、ヴィはルルと一緒にいた。

「──貴女こそ、何も知らないのね。彼は上流階級の女の人生を狂わせるのが趣味なのよ。貴女はアレクの婚約者で、将来王族になることが約束されていたから、だから、平民でも目をつけられたのね。何と唆されてアレクと別れたの? お気の毒様。その選択は間違いよ。今にわかる」

 小馬鹿にした口調で言い切った。仕返しのつもりだった。ルルの余裕の表情を、少しでも歪めたかった。不安でも、怒りでもいい。なんでもいいから、彼女の可愛い顔に影が差せば、少しは胸がすっとするはずだと。だけど、

「───可哀想」

「───は?」

 ルルは余裕の表情を保ったまま、わざとらしく憐れむような視線を向けてくる。

 可哀想? 誰が? 私が?

「あの人、心の中真っ黒だよね。憎しみと、悲しみで。境遇が境遇だもん。仕方ないよね。でも、大丈夫。あなたの"ヴィ"のことは心配しないで。私が幸せにしてあげるから。彼を闇の中から救い出すのは私の役目って決まってるの。その方法も、私なら知ってる」

「……彼の、闇を………知っているの?」

「もちろん。たぶん、誰よりもね」

 ヴィの闇の部分を知ったのは、全てを打ち明けられた昨日が初めてだった。

 なのに、ルルは知ってる? 知っていて、一緒にいることを許されているの? 私は全てを知らされた上で、捨てられたのに?

 そんなのって───

 ヴィにとって、ルルは特別な存在なの……?

「あなたじゃだめなんだよ、フィオリアさん。だって、あなたの役割は悪役。ヒロインの私には勝てないの。この世界ではね、そう決まってるから。残念だけど」

 『悪役』───いつか、ビクターが使っていた表現だわ。

 この世界では決まっている。『悪役』は私で、『ヒロイン』はルル。運命の神様はいつだってルルに微笑む。私がいくら這いつくばって懇願したって、見向きもしてくれない。いえ、一瞬だけ振り向くふり・・をした。少しの希望をぶら下げて、そうして私が食いつこうとした途端に取り上げてしまった。ビクターという希望を、永遠に。

 運命の神様はたぶん、女性ね。女性がどうすれば傷つき打ちのめされるのか、心得ているもの。同じ女だから、分かるのだわ。

 この世界がそう決まっているのなら───

 視界が真っ暗に染まっていく。
 
「それよりあなたのお父さん、戦争でも起こす気? 裏でこそこそやってるみたいだけど。娘として、止めてくれない? ディンバードに王位を取られたら困るんだよね。じゃ、しっかりね」

 勝ち誇ったような笑みを残し、彼女は去って行った。

 私は"悪役"令嬢フィオリア・ディンバード。ルルの人生を彩る当て馬として、不幸になるために産まれてきた。アレクを取られ、ヴィを取られ、これからヴィを取り返そうとすれば、運命の女神は嬉々として、さぞドラマチックな展開を用意するだろう。ここから逃げ出すことは許される? 表舞台から静かに退場して、日陰で細々と生きていくと誓ったら、私を平穏の下に置いてくれるだろうか。───ああ、きっと、運命の女神はそんなこと、許してくれない。




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