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 その晩、恒介は部屋のベッドに横になりながら、ずっと同じことばかりを考えていた。
 BGMはレジェンドの曲。
 放課後の教室で咲子が涙を見せたあの曲だけを、繰り返し流していた。

(……なんで泣いたんだろう……)

 咲子にその理由を尋ねても、彼女自身にさえ判らないと首を横に振るばかり。
 恒介が聴かせたその曲が、彼女の薄れた記憶を呼び起こす鍵となったことだけは確かなのだろう。

(ソウの曲を知ってて、五年以上前の卒業生で……、事故死した小泉咲子)

 あれから図書室に行き、該当する年代の卒業アルバムを順に見ていったが、彼女の顔写真はどこにもなかった。
 名前も住所録も、レジェンドというバンドがデビューして有名になりだした頃から隅々まで探したのに……、聖一の卒業アルバム、啓二の、小夜子の卒業アルバムだってくまなく調べたのに、彼女の名前はなかったのだ。

(同級生と卒業したいと願って、それが事故に遭ったせいで叶わなかった……だから今も成仏できずに彷徨い続けてる)

 いくら卒業式に出れずに事故死したとは言っても、アルバムの編集作業を行っている過程では生きていたのだ、それを思えば名前がないはずなどないのに、恒介には見つけ出すことが出来なかった。

(俺じゃ力になれないんだ……っ)

 明日が卒業式。
 それが過ぎれば、彼女は再び悲しみの中に消え、来年の卒業式間近になって再びあの場所に立つのだ。
 窓際一番後ろの席。
 透き通った長い黒髪と雪のように白い肌。
 触れれば折れてしまいそうな華奢な体躯もそのままに、何も変わらない姿で一年の刻を過ごす。

「咲子……、そんなの悲しすぎるよなぁ……?」

 思わず声となって外に漏れた言葉は、MDデッキから流れるレジェンドの曲に掻き消され、何者にも届かない……、それは単なる独り言で済むはずだった。
 だがそれを、何故か恒介曰く最悪なコンビに聞かれてしまった。

「ふーん。コーちゃんも恋に悩むような年頃になっちゃったのねぇ」
「女のことで悩んでいるなら、このオレ様に相談するのが解決への近道だぜ」
「っ」

 どうしてそこにいるんだと怒鳴りつけるよりも先に、飛び起きた彼の左右に何食わぬ顔で座り込んだ二人の兄姉。
 一体いつからそこにいたのか、咲子の名前まで聞かれていたらしい。

「さぁコースケ、このオレ様に何でも言ってごらん? サキコってどんな女の子だ?」
「兄ちゃんには関係ないだろ!?」
「アラ、可愛いコーちゃんが悩んでいるのに黙って見てろなんて言わないで」
「だーっ、姉ちゃんにも関係ない! 二人とも出てけ!! なんで二人がこんな時間に家にいるんだよ! いっつも夜遊びして朝の雪掻き協力のきの字も出来ないくせして!」

 両隣からガシッと拘束された末弟は、せめてもの抵抗に声を張り上げるが、末弟の抵抗こそを楽しんでいる兄姉には逆効果。

「オマエね、二十歳を越えたお兄様を甘く見るんじゃないよ? 弟が何か女絡みで隠し事してるのを見抜くくらいワケないぜ」
「――って、啓兄が言うから、お姉さまもここにいるのよ」

 恒介を本気で心配しているのか、それとも完全に楽しんでいるのかは末弟の捉え方次第だが、ここまでガッシリと捕まってしまっては本当のことを話すしかなく、けれどそれを避けたい恒介としては、事実を覆い隠せるくらいの巧い嘘を考えなければならない。
 だが今の彼の思考回路はそれを実現できる状況になどまるでなく、だからと言って咲子のことを話すのは絶対に駄目だと心に固く決め、とにかく二人の兄姉から逃れようと必死の抵抗を続けた。
 と、そうしているうちに長兄・聖一までが末弟の部屋の騒がしさに引かれたのか扉の向こうに姿を現し、扉が開け放たれたままの部屋で、恒介が大変な危機的状況に陥っているという光景を言葉もなく眺めていた。
「あ、聖一兄さんも加わる?」と、とんでもないことを言うのは、聖一がそこに現れた事に最初に気付いた小夜子。
 恒介には生涯縁のない分厚い本を片手に、壁に寄りかかった聖一は、相変わらずだなと言いたげな表情で口を開き掛けた。
 しかしそれを遮って、聖一の顔を見ていた小夜子が何かに弾かれるように末弟から手を離した。

「……あれ、サキコって名前……確か聖一兄さんの関係にもいなかった?」

 突然話を振られ、当人は目を丸くする。

「そういえば……、高校時代の兄貴の彼女の名前がサキコって言わなかったか?」
「――」

 長兄と末弟の視線が重なる。

「わ~ぉ、兄弟ってそんなトコも似たりするわけ?」
「そう言やぁ小夜子、兄貴が初恋だったりしたから兄貴の彼女のこと、かなり嫌ってたもんな」
「そうよ、それで思い出せたのよ! それなのに今度はコーちゃんまでサキコちゃんが恋人ですなんて連れてくるつもり?」
「べっ、別に、こ、こっ、恋人なんかじゃないよ!」

 強く言い返して、小夜子が離れてくれたおかげでどうにか抜け出せた危険地帯を急いで遠ざかり、無害の長兄に近付く。
 だがそれは、危険な兄姉から遠ざかる為だけが理由ではない。
 兄の恋人の名も「サキコ」だと言われた時に自分の胸を襲った衝撃を、恒介は妙な核心と共に受け止めていたのだ。

「……で、兄ちゃんの恋人のサキコって……」

 それは、まさかの思いだった。
 学校で兄の卒業アルバムだって調べてきたし、そこに小泉咲子の名前がなかったのも確認済み。
 同一人物であるはずがない。
 けれど、……けれどもしもそれが。

「その……サキコ、さん……って……、今も会ったりしてる……?」

 末弟の真剣そのものの声音から、聖一は何を感じ取っただろう。
 静かな笑みを口元に浮かべ、ゆっくりと首を振った。

「……いや、会っていないよ」
「ど、どうして……?」

 声が震えた。
 卒業式は明日。
 自分の教室に縛られたままの幽霊が願うのはただ一つ――大好きな同級生と卒業したかった、ただそれだけだった……。
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