スイの魔法

白神 怜司

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【Web オリジナル】 地下都市と『紅炎の魔女』

『狂王』の右腕

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 『天啓の標』――《レムブル》。
 スイがかつて魔眼を覚醒させるに至り、同時に『無』の魔法を体得させた『魔導書』と呼ばれるものは、その名が示すように本の形態を取っているものばかりではなく、多種多様な存在がある。
 その中でも唯一、全てが『魔導書』と呼ばれるに相応しい姿を取っているのが、闇の系統だった。ユーリが幼い頃に手に入れた『闇の聖典』も然り、ヴェルディア王国の王都ヴェルにある、かつてスイが入り浸っていた王立図書館の禁書階層にあったそれもまた、本の形態を取っていた。

 スイの『無』の『天啓の標』は実体が存在しない、空間そのもので構成された不思議な場所であった。あの場所に入れるのは、この世界の激動の歴史に於いてもスイと、唯一『無』を扱っていたマリステイス本人ぐらいなものだ。
 ヴェルへと立ち寄ったユーリが、あの王立図書館の番人とも呼べるようなネイビスに案内されて立ち入った禁書階層。スイが消えたとされた場所を見ても、そこには今、何も残ってはいなかったがそれはさておき、ユーリはその場所で『闇の聖典』に続いて二つ目の『天啓の標』を手に入れた。

 ――――そうして、彼女は今、かつての『深淵の魔女』を彷彿とさせる程の魔法を、あっさりと行使してみせたのだ。

 違和感に気付いたレイドは、この状況にアンジェレーシアを帰らせてしまったのは失敗であったと歯噛みしていた。彼の眼に映る船上から見たリヴァーステイル島の光景は、まさしく真っ黒に塗り潰されていくかのように闇に呑み込まれていた。
 光の届かない闇が広がるその光景は、ただその風景だけが切り取られたかのような錯覚すら覚えてしまう。

「すでに潜入させた部隊だけでは心許ないが……仕方あるまい。総員退避を――」

 苦渋の決断。まさしく苦虫を噛み潰すような顔がそれを物語っていた。
 しかし、その言葉を背後から響いた声が遮った。

「――逃がすと思っているの?」

 涼やかな口調で、まるで身体の芯を撫でられたかのような悪寒が走り、レイドは細い眼を見開いた。若い女性の声に慌てて振り返り、声の主を探そうと周囲を見回すが、辺りには自分以外には誰もいなかった。
 だからこそ、余計に恐怖が心を駆り立てる。その声は間違いなく幻聴の類ではなかったのだ。気のせいだと視線を外したその瞬間に、身体を貫かれる。そんな予感がしてならない。

「……誰だ、何処にいる……!」

「フフフッ、そんなに怯えなくても良いんじゃないかしら? さっきからここにいるわよ」

 甲板の木をカツンと踏み鳴らし、船の影から姿を現した黒髪の女性。その姿にレイドは改めて目を見開いた。

「――ッ、……貴様は、まさか『狂王』の右腕……、ユーリかッ!」

 レイドは黒髪の女性を知っていた。

 ブレイニル帝国を統べる『狂王』アリルタの右腕、ユーリ。その素性は未だ謎も多いが、これまで悉く放ってきた密偵を消された。生き残った者が持ち帰ったのは、黒髪の若い女がブレイニル帝国の密偵やアリルタの側近とも呼べる者達をまとめている、といった断片的な情報ばかりだ。
 レイドの祖国、アルドヴァルド王国において「現代の『魔女』」とまで謳われた、アルドヴァルド王国が最も危険視しているブレイニル帝国の魔法使い。その似顔絵は確かにレイドも目を通し、そしてその彼女の似顔絵と共に書かれていた文言を思い出す。

 ――「決して手を出すべからず」。
 どれ程の有能な暗部の人間をもってしても、彼女の使う魔法からは逃れられないだろう、という敵国にありながらも大層な噂。

「本当なら、名前を知られていて普通の人なら多少は喜んだりもするのかしら。でも、私が抱く感情はただ一つ。――不愉快よ」

 スイやタータニアがこれまで見た事がない程の、冷酷な光を宿した黒い双眸がレイドを貫き、同時にレイドの身体を彼自身の影から伸びた闇が、さながら鞭のように巻き付き、縛り上げた。
 抵抗しようと身体を動かしたレイドの頬を、飛んできたナイフが掠めていく。

「もはや訊く必要もなさそうだけれど、『魔女』に手を出したのはアナタ達ね。一体どういうつもりなのかしら?」

「……答えるつもりはない――ぐッ!」

「私はね、アナタが答える気があるかどうかなんて、訊いてないわ。アナタはアナタの知る限りの全てを吐けば良いの」

 どくどくと熱い痛みが、レイドの左足の太腿を襲う。そこにはユーリから投げられた小さなナイフが刺さり、じわりと紺色のズボンを赤黒く滲んでいく。

「ぐ……ッ、痛みで情報を漏らすような者など、我らの国には――」

「――勘違いしないことね。これは、ちょっとした魔法の下準備。別に痛みを与えてどうこうするなんて古めかしい方法を使わなくても、素直に答えてもらうだけよ」

 相変わらずの涼やかな声で、ユーリはレイドの足に刺さったナイフを抜き出し、その血を甲板の上に垂らしていく。すると、今度はユーリの身体の下にあった影から黒い闇が伸び、血の作った小さな水溜りを呑み込むように闇で覆っていく。

 同時にユーリはしばし目を閉じ、やがてゆっくりと口を開いた。

「……思っていたより、何も知らないのね。それにしても、アルドヴァルドも世界を敵に回して動くなんて、ずいぶんと強引な真似をしたわね」

「……なんの、ことだ……」

「ここでの『魔女』の覚醒。それに、どうやらヴェルディア王国にも兵を送り始めているのね。それに――『魔人化計画』だなんて、ずいぶんと非道な真似をしているわね、相変わらず」

「な……ッ、何故、それを……!」

「家族のいない、レイド。アナタは気付いていないのね」

 動揺に目を大きく見開いたレイドへ、ユーリはゆっくりと歩み寄り、そしてその頬の血を拭って頬に手を当てた。
 闇の魔法には、人の心を読み取る魔法が存在している。その行使には、対象者の血が必要になるのだ。
 そうしてユーリはレイド――いや、この男の意識を読み取り、告げた。

「アナタはレイドじゃない・・・・・・・。駒としてレイドと呼ばれた男の記憶を植え付けられ、ただこの場に送られた、一介の兵士。記憶を上塗りされて操られている、レイドの身代わり人形でしかないらしいわ」

「……な、にを言って……――」

 途端、レイドの言葉が途切れ、口から血を吐き出した。その姿を相も変わらぬ冷たい目で見つめていたユーリは、後ろへと下がりながら崩れ落ちようとするレイドの姿を見ながら、その理由を口にした。

「――呪術ね。それも、正体が知られてしまえば命を落とすような、悪質でタチの悪い呪。アナタの国の部下は、だいたいそれによって命を落としていくわ」

 咳き込みながら血を吐いていく男。その身体を縛っていた闇を解いたユーリは、男の結末を見つめたまま呟いた。

「……ごめんなさい。その呪術は、私には解けないわ」

 かつてのユーリの経験が物語っていた。
 魔法とは違った、別の系統の力――呪術。その力は魔法とは根本的に違う不思議な力だ。今までアルドヴァルド王国にいた者は全て、この呪術によって精神を乗っ取られ、必要最低限の情報しか持たず、そして捕らえる度にこうして命を落として自害させられる。

 やがて、自らの作り上げた赤い水溜まりの上に倒れていった男。その姿は今までに何度も目の当たりにしてきた光景であったが、いつだって抱く感情は一つだ。

「……非道な真似をするわね、本当に」

 暗部を仕切るユーリであっても、アルドヴァルドのこのやり方だけは許せるはずがなかった。

 闇の中に呑み込まれた者達は、全て生きている。
 生きてこそいるが、捕らえた人間は全員この呪術がかかっているだろう。
 そうなれば、尋問しようが何をしようが、死ぬしかない。

 ブレイニル帝国に捕まったアルドヴァルド王国の暗部に所属している者の全てが死を迎えているその理由を、彼らは知る由もないだろう。 
 任務の失敗と同時に、どういう訳か呪術は消え、彼らは命を落とす。それはもはや覆らないのだ。

 はぁ、と重いため息を吐きつつも、ユーリは思考を切り替えた。
 男の記憶を覗く限り、すでにヒノカに何かが起こり、同時にヴェルディア王国でも戦いが始まりかねないのだ。

「嫌になるわね、本当に」

 誰もいなくなった船の上で、ユーリは空を見て独りごちた。





 ◆ ◆ ◆





 ユーリがアルドヴァルド王国軍との戦いを終えた、ちょうどその頃。
 アンジェレーシアの追撃を諦めたスイとタータニアは、リュカを連れて業火の祠を逆走する形で走っていた。

 ――『魔女』の覚醒。
 アンジェレーシアが告げたその言葉を信じた訳ではないが、少なくともリュカが知る限り、フォルタでこうした事態が起こった事は一度もないと言う。

 アンジェレーシアによって封印が破壊され、現在はヨミとファラがヒノカの封印を持ち直すべく尽力していたはずだが、何らかの理由でそれが出来ない状況に追いやられたのだろう。
 頭の中でスイがファラに向かって何度も呼びかけてみるが返事はなく、スイもそう当たりをつけていた。

「どうしたの?」

 洞窟の中を走っている最中、タータニアがリュカへと声をかけた。先程から俯き加減で口数も少ないリュカの様子が気になっていたのだ。

「……あの、ヒノカ様の封印が解けて、ノルーシャ様が仰っていたように『狂化』が起こってしまったら、フォルタはどうなってしまうですか? それに、ヒノカ様も……」

 ヒノカの身に起こった異変。そして、自分が生まれ育った街にこれから訪れるであろう異常事態。そのどちらもがリュカの心に重くのしかかる。

 敬愛するヒノカが狂化してしまえば、ノルーシャが言っていたような『狂化』――つまりは見境なく人を死に追いやる化け物と化してしまう『魔女』。その被害となるのはリュカが愛するフォルタの民だ。

 救いを求めるようなリュカの言葉であったが、しかしスイはその言葉に真っ直ぐ答えた。

「僕が聞いているのは、宝玉のない状態で『狂化』した『魔女』と敵対するのは危険過ぎるというノルーシャ様の言葉だけなんだ。だから、もしもヒノカ様が暴走しているのだとしたら、フォルタの人達にはリヴァーステイル島からガルソに移住してもらう事になると思う」

「ガルソに、です……?」

「うん。『狂化』した『魔女』は知性もなく、全てを喰らう。だからこの島を隔離して、近寄らないようにするしかないんだ。ガルソ王国は、いざという時の為に準備を進めてくれているんだ」

 スイとは行動を共にしなかった、ネルティエとルスティア。

 確かにスイは『魔女』の『狂化』を食い止めるつもりではいるが、いざという事態に備えて他国からの受け入れ状態をブレイニル帝国と共に進めている。
 リヴァーステイル島はガルソ島と転移魔法陣によって繋がっているのだ。ここの民はガルソで受け入れる形になるだろう。

「――だから、リュカさんはタータニアさんと一緒に避難の準備を」

「え、スイさんはどうするつもりです?」

「宝玉のない僕の魔法で何処まで戦えるのか分からないけれど、少なくとも人が逃げる時間ぐらいは稼いでみせる」

「でも、危険じゃ……――」

「――もう目の前で、無関係な人が死たくないんだ」

 ぐっと拳を握り、決意を宿す。その姿を横から見たリュカは知らない。
 スイが生まれ故郷であるヴェルディア王国を離れる事になった際に起こった、一つの悲劇を。

 もう二度とあんな悲しみを味わってたまるものかと、スイはノルーシャのもとで様々な魔法を学んできたのだ。

 それ以上の会話はなく、三人は洞窟を抜けフォルタの街へと飛び出した。

「僕はこのままヒノカ様の所へ様子を見に行きます!」

「分かった、気を付けて! 行くよ、リュカ!」

「は、はいです!」

 突然の地響きに、何かの異変の前触れかと感じて外へと出始めた人々の間を縫うように、タータニアとリュカを残してスイが速度をあげた。『魔闘術』と呼ばれた魔力を使った運動能力の上昇によって、するすると走り抜けていく。

「リュカ、非常事態の統率を取るのは誰?」

「お、お母さんです!」

「そう。なら、一度家に戻ってすぐに事態を知らせる必要があるわね。急いで」

「は、はい!」

 リュカの腕を引いて再び走り出したタータニアは、スイの背中が消えた方向をちらりと一瞥し、前を向いた。

 三年間、タータニアはアリルタの下で剣術を学んできた。ノルーシャに『門』と呼ばれる刻印を刻んでもらい、魔法の扱いに関してもユーリに教わってきた。だが『魔女』相手となると、タータニアに出来る事は何もない。せいぜいが、スイの心配事を一つでも取り除く手伝い程度といったところだろう。

 タータニアがそれを不満に思う事はなかった。
 ユーリと共にノルーシャから『魔女』の真実を聞かされて以来、そういう事態もあるだろうと考えなかった訳ではないのだ。

 かと言って、何も出来ない現状に満足している訳ではない。

 ――無理はしないようにね、スイ。
 歯痒さを噛み締めながらも、心の中でタータニアは祈るように呟いた。
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