邯鄲・変顔

如月愁

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変顔

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 梅雨の長雨の降り頻る日の入りの凡そ半刻前。大学受験の勉強に勤しむ高校三年である彼は、昼夜問わず開館から閉館まで点滅を繰り返す橙の灯りのせいか、薄暗い図書館にて受験勉強をしていた。薄暗い図書館には彼と司書を勤める老婦以外誰もいない。彼は何故、自宅ではなく図書館に来ているのかと疑問に持つ者も多いだろう。彼はこの質問にこう答える。一つ目は、誰もいない空間である事だ。やはり勉学をするに置いて空間は大事なものだ。そして二つ目は、彼自身が本が好きだからである。その説明は言うまでもない。何故ならそれは今の彼の状態にある。数学の問題集がおよそ三十頁が終わり、鮮やかな赤色のボールペンインクにて丸がつけられている。そんな問題集の上に、芥川の蜘蛛の糸、地獄変が広げてあった。何故このような本を読んでいるのかというと、彼自身、ライトノベルよりか文学の方を好むためである。なぜ文学を好むか?それは、読書自体、彼の歴史好きという趣味にて、丁度近代文学を知り、また読んでみたいと思ったからだ。
 先程、彼は人が少ないからと、本が好きだから此処へ来ていると説明したが、実の所、彼はそんな理由ではない。その理由とは彼の家庭環境にある。
 彼の家庭は、一応両親いるものの、父は家庭を放棄し母に手を出し、酒に溺れている。母はというと、父の癇癪に振り回されている。では何もできないのかというと、母は彼の為、彼の大学受験を成功させるため、一応両親の方が良いのではと考えているため一向に離婚をしないのだ。だが彼自身、大学に無理をしてでも受験をする気はない。
 つまり、彼の為ではない彼の為を母親は強制しているのである。そのため、父親よりタチが悪いのは言うまでもない。戸籍上などの表面では普通だが、その奥にはこのような家庭環境が繰り広げてあるだなんて、誰も想像できない。そして彼はその事を誰にも話していない。
 彼自身、自らの家庭環境に対して想像以上に苦痛や羞恥心を感じている。そして、そんな家には居たくない彼は常に図書館に来続けるのだ。だが、そんな事実は誰も知らない。いや、知られたくないのだ。
 日入り果てた後、残り一時間で図書館が閉館という時間まで差し掛かったころ、彼は持っていた本を机の隅に乱雑に本が置かれている山に置く。彼は常に文学の棚に向かうのだが、今回は何故か、心理学の棚に向かったのだ。色々な本の並ぶ中、何故かよくテレビで見るメンタリストの笑顔の写真と共に「必見!」や「これでみんなも友達ができる!」等の吹き出しが書かれていた。その時、その本の何かに惹きつけられるように彼は手を取った。「人に好かれる」というタイトルらしい。この本を手に取るや否や彼は自席へ戻り、本を開き始めた。数頁を読んだところで彼は急いで乱雑に置かれた本を戻しに行き、そして素早く撤収した。
 何故彼がこんな本を読むのか。それは無論、彼は友達が欲しい為である。自らの家庭環境という縛りから解き放たれ、自由気ままに生きていきたいのである。
 だが、そんな理想を頑なに彼は拒んだ。父親が豹変した小学四年生の頃まだ彼は正常であった。彼には友達もいた。だが、彼が父親のことを打ち明けると、友達は今までとは全く以て異なる態度を示した。友達は情報を撒かなかったが、この一件を以て遠ざかるようになってしまった。友達は信用できない。これが彼の行き着いた終着点であった。それっきり他の友達とも距離を置き、彼は家にて疑問を呈すれば返ってくる歴史と読書に走ったのだ。
 次の日、彼は本に書いてあることを試してみた。いつものように寝ているふりや読書の時の肘などを支えている相棒とも言える机から離れたのである。まずは教室でいつも二、三人で固まっている所謂二軍というグループだ。結果は大成功。彼はいつもと慣れぬことをしているにも関わらず、其れを悟られぬように話した。彼はその日からたちまち休み時間になると彼の席に数人が集まるようになった。相槌の打ち方や、自らの空想の出来事を本物のように伝える方法。全てにおいて彼は長けていた。それっきり彼は図書館に行くのをやめてしまった。
 夕闇の蛙の鳴き声が常に響く帰り道、彼の元々いた友達である水野は、
「おい、最近なんかおかしいぞ。おまえ。」その口調はいつもの優しい口調とは違った。
「なんでキレてんだよ。なんだ?もしかして、嫉妬か~?」その口調を指摘しながら彼は微笑する。
「お前の唐突なキャラ変によってできた、「変顔」っていうか、その、お前じゃないお前が俺と喋ってるとこまで出てきてんだよ。」
「別になんでも良いじゃねえか。それともなんか不都合でもあんのかよ。」
「いや、別になんでもないけどよ……」この言葉を機に二人は黙り込んでしまった。
 この日の出来事を機に、彼は水野と帰る事をやめ、大学も離れてしまい、この日を以て彼は水野と疎遠になったのである。だが、この出来事を彼は「疎遠」ではなく、「決別」したと思っていた。
 それから、彼の成り上がりは半端ではなかった。大学ではサークルでも日常生活でも、殆ど毎日のように遊び呆けた。それなのに、頭が良いため単位も取れ、一緒に遊ぶ友にも勉強を教えれたため、誰からも嫌われる事なく大学生活を送れたのである。
 その器用さは社会人になっても健在であった。社会人となった彼は上司とは程よい関係を保ち、同僚とも最高の関係、つまり、彼の中の「理想の関係」を完成させたのである。彼は人間関係の極意を本を中心に理解していた。全くミスをしなければそれはそれで嫉妬されるためミスをして良いところではそこそこミスをしてその度ジョークを使い、返って場を盛り上げさせた。これは俗に言う、「道化」と呼ばれる者ではないだろうか。他にも、彼がそこそこの企業に入れたこともあり、両親と離れる事もできたのである。彼が巣立った事で、実家からは、父と母が仲直りをしたと言う話の葉書が届いた。そうなれば、彼もそこそこの頻度で実家へコーヒーゼリーを三つくらい買って帰省したそうだ。この時の彼は順風満帆といえる生活を送っていたのだ。
 彼はその場においていつもその老獪さ、狡猾さを自らの「変顔」で隠しながら立ち回ってきたのである。
 彼はどこまでも評判や理想を重んじた。その為、彼と距離の近い者に彼を聞けば、必ずしも、人間として優れている、と。だが、彼ともう距離を置いている者に彼を聞けば返答は変わってくる。
「奴は変顔をつけている。」 
「奴の本性は奴であれ気づいていない。」
「奴は確実に地に堕ちる。」と。まるで狂気掛かったようである。これは彼が接するに値しないと決め、距離を置かれた。言わば、捨てられたのである。これこそが彼である。彼は、本当に自らの為になる者かと常に慎重に判断し、自らに不要なものはどんどん切り捨て、「自分」という存在を洗練させていた。無駄なものが一切ないのだが、むしろ、彼は必要なものですら削ぎ落としているのかもしれない。
 そんな中、彼は会社での功績を認められ、彼の属する企業とは格上である海外の企業との対談相手に選ばれた。ここで、海外企業の持つ、最先端技術の力を利用したアプリケーションの制作に励んでいる彼の企業は、その海外企業との共同制作としてアプリケーションを開発しようとしている為、彼の対談でその共同制作の取り引きを成立させたかったのである。
 彼は、この取り引きこそが自らの企業の正に天下分け目であるとすら考えていた。その為、対談を行うかまだ決まっていない状態から作業に取り掛かっていた。彼は自らの企業から一般業務をしなくて良いとされていた。なんなら、自宅の方が仕事がしやすいのであれば自宅業務も許可された。これは彼に於ける会社の信頼そのものである。その為、彼は定期的に自らの考えている話す内容を会社にデータと共に送っていた。彼のデータはものすごく緻密でさらに的確な英語を使い、その共同制作に於ける自らの企業と相手企業の利益を計算したもの、相手企業にしかできぬ事と、自らの企業にしかできぬ事を説明し、如何に自らの企業でなければこのアプリケーションは作れないと説明、更にと挙げれば限りがなかった。だが、内容が頭に瞬時に入るよう設計され洗練、簡潔に作られていた。
 そして対談当日、彼はネクタイを締め、アイロンをかけてあるこの日のために買った一流のスーツを着て、対談へ臨んだ。
 だが、ここへ着いて気づいてしまった。彼は資料や話す内容を書き留めた紙を家に置いてきてしまったのである。
 途端に海外企業のトップは激怒し、彼の知らぬケースまさかのあり得ぬ事態に、彼の変顔の技術は限界を超えた。彼は何もできなかったのである。只々、謝ることしか出来なかった。だが、その謝罪にはまるで心がなかった。だが、彼の変顔の持つ考えられている物とも違った。この日を境に彼は変わってしまった。彼は途端に仕事が出来なくなり、と言って分からぬ位に媚を売ることも出来なくなり、そして、会社から見捨てられたのである。だが、誰も彼を助けることもせず、到頭、彼は旧友の水野を頼ったのである。
 その夜は月の出でぬ雨の降った夜であった。そのネオンの朧な光と夜の闇の中から、水野は現れた。
「久しぶりだな。どうしたんだ。」彼はその水野の変わらぬ話し方変わらぬ声に感動した。
「水野…………」彼は嗚咽と共に起きた事を全て話した。
「そうか、丁度これくらいだったな。お前が変わってしまったのも。梅雨の雨がずっと降ってる時だった。俺はお前に忠告をしておいた。だが、それを否定したのもお前だろう。そして俺と距離を置いた。」
「いや、あれは……」彼の弁明をしようとする声は日夜問わず多くの人が行ききする此処では水野には届かなかった。
「みんなから聞いたよ。みんな、お前にいいように使われ、捨てられた事を後悔して、お前を憎んでいる。」既に、彼は押し黙り何も出来なくなっていた。
「もう、君の「変顔」は「仮面」になってしまったよ。最初は只の変顔だったのかもしれないが、それは固まり、既に綺麗に取れなくなってしまった。」彼の仮面は、ひび割れ彼の顔を抉るように取れてしまっていた。
「もうここにいる必要はない。」水野はそう告げ、闇夜に消えていった。
「ハハッハハハ……」
 彼は膝から崩れ落ちた。変顔と云う武器は潰れ、最後の希望である水野にも見捨てられた。その疲れた体を慰めるように淡い光を放つ月は遂にその姿を見なかった。
 雨はまだ降っている。彼の顔についた深い傷に雨水を染み込ませながら。
(令和三年 秋十月)
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