邯鄲・変顔

如月愁

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琵琶法師

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 私は、この世の地獄を見たことがある。世に云う、源平の争乱で在る。武士である父は平家方を味方して居り、何度も出陣した後、遂には帰って来なかった。母からは、
「父上は、死にました。」と云われた。この僅か八文字程度の言葉に私の常識は壊れたのだ。母は、その事を気に病み、私に父を求める様な事が無い様、必死に働き、私を愛した。
 其の様な中、私の住む地域を源氏方が平家の武士を殲滅せんと攻めてきたのだ。元々平家方の集落であった我々の集落にも火は付き、人々は斬り伏せられた。其の中の一人が、母だったのだ。当時、齢が五つにも満ちて居なかった私は、只泣き叫ぶ他無かった。私の視野を包む様、燃え盛る焔、立ち登る黒煙、四方八方、何処を見れど逃れられぬ程の量の死体、血と炎の匂い、響き渡る悲鳴と怒声。これが地獄なのだ。
 私もこの戦で死ぬ筈だった。だが、私はと或る源氏の武士に拾われた。私は生かされたのだ。だが、一度地獄を幼き時に見た少年が、真面に育つだろうか?その答えは否で在る。彼の惨劇は、私の頭に深く刻まれると云うか、何方かと云えば、植付ける行為に近かったのだ。
 何度も彼の惨劇と、父母の顔が蘇る中、更に私は、新たな男と女を父母と呼ぶ様、これも又植付けられていたので在る。そのことが、私にどれほどの負荷をかけていたのかは、誰も分かっていなかった。
 とある晩夏の夜、私は蚊帳の中から飛び出した。満天の星月夜で在った。縁側の下に置かれている草履を履き、私は駆け出した。夜空に孤独に浮かぶ月の灯りを頼りに、私は夜道を駆けた。勿論、寖衣の為、走りにくい。だが、唐突に走り出した私の足は遂には止まらなかった。星々は月を凌ぐほど光り輝くこの星月夜が照らす世界の中、私は本能的に走り続けた。日暮から秋の虫へ変わり始めた夜。水も食料も金ですら無いのだが、私は走った。たが、何故かその夜は異常に体が軽く、足の弾む感覚はそれは私を更に走らせたのであった……
 既に季節は秋を迎えていた頃、私は、まだ逃亡生活を続けていた。食料は炊き出しや掏摸にて手に入れた金品を売って買ったものが殆どだった。初めての掏摸を行った時の感覚は二度と思い出したくない。
 銭貨の入った小物入れなどを手に下げている歩行者を見かければ、偶然を装いて当たり、手に下げている銭貨の入った小物入れの落ちた所を蹴り飛ばし、その道の脇に自生する雑草群の中に入れる。そして標的が小物入れを探す間にその場を後にして、標的が諦めたところで雑草郡の中から小物入れを取り出し、物色した後、少量の銭貨を入れたままにして辺りに放置する。これを平然と行う自分に恐怖した事も在った。これが、亡き父母の望んだ事なのだろうか?この悪徳は、私が私である為に行って良い事なのだろうか?
 だが、時期は秋へと続いていく、最近の夜間は、気温も下がり、直に野宿も出来無くなるだろう。私は焦った。この集落の人間では無く、金を持った旅人を襲う可きだろうか?と日々考えを走らせていた。
 そんな或る日の事である。羽織物を羽織った此処等では見かけぬ者が一人で細道を歩いていた。私は、奴の持ち物を奪えきれば確実に一攫千金となると確信した。
 少し急いでいる風を装い、小走りでその者を追う。その刹那、私は振り返り、その者の顔面を目一杯撲り飛ばした。男は倒れ込んだ。そこを透かさず私は馬乗りになり、男の顔面を気絶するまで撲らんと勢いを止めなかった。
 かなり生々しい音が辺りに木霊する。でも仕方が無い、生きる為には仕方がないのだ。人が驚いたままで入れるのは凡そ三十秒も無いと何処かで耳にした。その為には、確実にその間に気絶させねばならぬ。
「おいっお……」男は必死に抗おうとするがこの様になってしまえば、もう後戻りは出来ぬ。私は淡々と撲るしか無い。暫く撲付けた後、男は気絶した。よく羽織や所持金、顔を確認すれば、彼はこの辺りを取り仕切る町人の長であることが発覚した。流石に不味い。すると小さく彼は唸り出した。直に目覚め出す。どうする?殺すべきか?私の体内の血液に不満が混じっていると錯覚するくらいには、不安は私の体を絶え間なく循環していた。
 徐々に早くなっていく瞬き。身体中から吹き出す汗。荒くなる呼吸。私が遂に意識を取り戻した時は、彼が目覚めた時だった。
 色々な何かが私の体内を駆け巡る中、咄嗟に出てきたのは「逃げろ」と云う文字だった。
 手握り締める金品を離し、背を向け地を蹴った。何故大人が私に追いつかぬのか。確証はないが、私が金品をその場に捨てた為、彼は其れ等を拾うのに屈んでいるのだろう。だが、背後から、
「まて!そこの小僧、奴は泥棒だ!この私を撲り倒し、金品を奪おうとした者だ!只で済むと思うなよ!」気魂しい怒声と共に、彼以外の何者かの足音が聞こえる。走っているのだろう。主人、一体何が!泥棒だ!泥棒小僧だ!凄まじい怒声と罵声を背中に受けながら、私は、それより先は聞く耳を持たず、只走った。大通りに出たり、路地に入ったり、又曲がったり。其の次に通りに出た時は、平然と歩き始め、ふと後ろを振り向いた。殆ど人は居なかった。
 撒いたのだろう。ため息を吐き、時刻を知る為空を見上げた。陽は山際に徐々に近づいていた。
 疲れ果て、何も考えずに、只々、傾き続ける斜陽を眺めていた時、ぞろぞろと人が自らの横を通って来た。何事かと、その先に視線をやれば、橙から赤色に変わる空に、一つの黒い影が見えた。徐々に影は明るさを取り戻し、その正体は、琵琶を奏でている法師であった。
 法師が道の端に腰を掛け、壁に凭れると、と或る小僧が法師に、
「平家物語を教えて!」と意気揚々にお願いした。小僧の純粋すぎる目の御陰が、法師は、
「よぉし、では何処から語れば良いかな?」と優しく小僧に問うた。小僧曰く、平家物語の概要を知りたいらしい。法師はそれを知り、出来るだけ短くより解り易く伝えるべきである、と悟った。そして、法師は、
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。」と悠々と平家物語を語り始めたのだ。大事な部分を語りその他は切り捨てる方針にて、短い時間でより理解できる様に法師により手を加えられた平曲は、私が昔聞いた物よりもより洗練されて居り、正に完璧を極めた。
 そして、凡そ一刻が過ぎた頃、遂にその物語は終了した。法師の完璧な声と物語が終了と同時に大量の歓声と拍手が巻き起こった。辺りには、有難うや、楽しめた、等の言葉が飛び交う中、客は銭貨を法師の隣にいる弟子に渡した。
 すると、あの小僧が法師に蜜柑を差し出した。法師が小僧の奥を見据えると、奥に構える母親のような女が頭を下げた。少し遅れて、
「これ、あげる!ありがとう!」と稚拙ながら謝意の籠った感謝を述べ、笑いながら蜜柑を渡した。おやおや、と法師は一拍置いた後、蜜柑を受け取り中の実を触らぬ様に、丁寧に有田むきになる様に皮を剥いた。すると法師は、蜜柑の下を持ち、小僧に、
「実は昨日も蜜柑を食べたばかりなのだ。」と告げた後、蜜柑を小僧に差し出したのだ。私はその蜜柑をまじまじと凝視した。その、斜陽とも、暁とも、焔とも似つかぬ、その独立した鮮やかで暖かい橙色のする蜜柑や、その皺だらけの満面を使って暖かさを露骨に出したような微笑みを浮かべる琵琶法師は、何故だが私の足りぬ何かを暗喩している様だった。
 私はあの暖かい橙色や、仄かに柑橘類だが、どこか甘みの在る様な香りのする蜜柑をこれでもかと見つめたが、結論は何も変わらなかった。
 斜陽の光は徐々に赤みを増して行く。徐々に空を暗天が締め始めた。到頭、入相の頃には、何十人と居たが、今のこの場には私を含め、法師、其の弟子、小僧、其の母の六人しか姿が見えなかった。すると、小僧の母が、何としても御礼の品を渡したいらしく、丁度手元に在った羽織を渡した。曰く、これからは寒くなるからだ、そうだ。
 だが、法師は其れも受け取らなかった。母は、何故?と問うた。すると、法師曰く、世間虚仮、唯仏是信。これが彼の聖徳太子の最後の言葉らしい。つまり、世間は虚仮、我々の生きる世界は、仮であり、真ではないのだ。その我々の世界で幾らを作れど、良いのだ。それにて怒るのであれば、それは貸しを作る程の者では無いのだ。と。法師はにんまりと笑い、私に向かって、
「どうしてもと云うならそこの少年に渡してほしい。ここで貰うのも義だが、ここで少年に渡すのも又、義なのだ。」私はその驚きの余りに、素っ頓狂な声を漏らしてしまった。すると法師は、
「其の身形、事情は聞かぬが家出だろう?その羽織を纏て帰るが良い。今夜は月明かりも澄んでいる。」空は遂にあの夏夜と同じ星月夜ととなっていた。法師は小僧の母親から羽織を受け取り、私にそれを渡した。私が法師の満面を見上げると、法師は小さく頷いた後、笑った。 
「では、達者でな。」琵琶法師は其の場の者に手を振り、弟子は礼をした後、漆黒の中へ溶けていった。法師が去ったと共に、母子も帰路へ着いた。私は月を見上げた。少し肌寒い秋風が吹く、だが、少年の心の中には、暖かい小さな灯りが灯っていた。
 淡く澄んだ月明かりは在るべき私の帰路を照らしていた。
(令和三年 冬十二月)
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