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第一章 辺境伯領
エーリク
しおりを挟む鍛錬を終えて邸に帰ると、ナガセがいなかった。
部屋にはウルが待たされていて不安そうにこちらを見た。僕は心臓が止まりそうになった。
使用人のみんなに聞いても、誰も何も見ていないと言う。寝ていると思っていたらしく、みんな驚いていた。
馬車を使った様子もない。徒歩で出掛けたんだろうか。
荷物はほとんどそのままだし、出て行ったのではないと思う。
僕はドキドキする心臓を抑えてヨアキムにアルベルトに連絡するよう伝えた。
ナガセは昨日の夜から体調が悪そうだった。顔色も悪くて、脂汗だって浮かんでた。お医者様を呼ぶと言うと、ナガセはダメだと言って。
邸のみんなが言う「ワケアリ」なんだろうと、無理強いはしたくなくて、アンナから薬をもらって渡した。
ナガセが誰にも何も言わずに出て行ったのは初めてだ。
いつも心配している伯父上が、必ず馬車を使わせるし、僕もナガセは一人にならない方がいいと思う。
だって、あの色だから。
黒はこの国では忌み嫌われる色だ。
黒は魔物の色で、人を堕落させる色。そう言われている。だから、悪い気持ちを持つ人たちもいると思う。
でも僕は、初めてナガセを見た時、とっても綺麗だと思った。
艶々した髪に大きな瞳を潤ませて、オッテやウルみたいだと思った。そう伯父上に言うと笑われた。
「エーリク、ナガセは動物じゃないんだ」
「分かってます、伯父上。僕は困った人の手助けがしたいんです!」
「そうか、じゃあ明日からエーリクに任せるから、ナガセに色々教えてやるといい」
「はい!」
僕は嬉しかった。
学校に通わず家庭教師のロイトン先生に勉強を教わる日々。邸の使用人も砦の兵士たちもみんないい人たちばかりだけれど、同じ年頃の友達はいなかった。
辺境伯の甥だと言うと、みんなぎこちなくなって、遠くから見られるだけ。
だからナガセが僕の後をついて歩いて、いろんなことを質問して来て笑顔を見せてくれるのが嬉しかった。
僕の母上は僕を産んだ時に亡くなった。父上は僕が三歳の時、討伐で命を落とした。
だから両親の記憶はない。
でもいつも、伯父上が僕を心配してくれて、ヨアキムやアンナが家族のように接してくれて、愛されているのはよく分かっている。僕も皆んなを大切な家族だと思ってる。
伯父上が連れて来たナガセも、新しい僕の家族。大切だし、守りたい。
だから僕は尊敬する伯父上のような人間になりたいんだ。
まだ分からない僕のギフトも、伯父上と同じだったらいいのに。
そうしたら僕もいつか、アルベルトのように伯父上の隣で戦うことが出来るかもしれない。
そうしたらきっと、ナガセのことも守ってあげられる。
アルベルトに伝言を出してから少しして、玄関が急に慌ただしくなった。
行ってみると単騎でアルベルトが邸にやって来て、馬から飛び降りた。
アルベルトが抱えている大きな荷物だと思っていたそれは、ナガセだった。
「医者を! 早く!!」
アルベルトが見たことのない怖い顔でヨアキムに指示をして、アンナが真っ青な顔をしている。
外套で包まれて分かりにくいけど、ナガセが怪我をしている。抱えているアルベルトの隊服にも血がついている。
「アルベルト!!」
僕はすぐに駆け寄った。
何があった? 魔物にやられた?
僕は血の気が引いてブルブルと身体が震えるのを感じた。
「エーリク、ナガセの部屋は」
アルベルトに言われてグッと唇を食い縛りナガセの部屋へ案内する。アンナが救急箱や毛布を持って着いてきた。
アルベルトはそっとナガセをベッドに下ろして、掛けていた外套を外した。
ナガセは……ひどい怪我をしていた。
魔物ではない、それは殴られた跡だった。アンナがグッと息を呑む。
赤黒く瞼が腫れ上がり、唇も切れて血が滲み腫れている。服は破られ、そこから見える腹には殴られたのか赤黒く痣が広がっている。手の甲や手首にも痣がみえた。
「どうしてナガセが一人でいたんだ?」
咎めるような口調でアルベルトがナガセを見たまま聞いた。
僕は、昨日からナガセが体調を崩して寝込んでいたこと、帰ったら居なくなっていて誰もどこに行ったか分からなかったことを伝えた。
僕は声が震えるのを抑えられなかった。
「体調が悪かった?」
「はい。ただの腹痛だと言って、お医者様に診てもらうのを嫌がったので、その、薬を渡して……」
僕は唇を噛み締め俯く。
あんなに顔色が悪く、脂汗を流していたのに平気な筈がなかった。一人にせず、お医者様を呼べば良かった。
どうしてナガセが一人で出掛けたのかは分からないけど、僕がついていてあげたら、そうすればこんな事にはならなかったのに。
話を聞いていたアルベルトは少し考えて、それから深く長く、ため息をついた。
「……そうか、これは……、僕の落ち度だよ」
そう言ってベッドに腰掛け、片手で自分の顔を覆い、俯いて黙ってしまった。僕とアンナは暫く動かずにその様子をじっと見つめていたけど、やがてアルベルトは顔を起こし、ナガセの顔を見つめながら優しく頭を撫でた。
「僕は知っていたのに、そこまで思い至らなかった。ナガセには味方が必要なのに」
ごめん、と、何度も何度もナガセの頭を撫でて、それからこちらを向いて、僕に部屋を出るように言った。アンナには残るように言って。
でも僕は動けなかった。
「エーリク?」
アルベルトは怪訝な顔をして僕を見る。
僕は、じっとアルベルトを見つめた。
だって、そう、まるで最初から知っていたような口調だから。
アルベルトは知っていた?
伯父上も、邸のみんなも砦のみんなも、誰も分かってないのに。だから僕は、ナガセを守るって決めたんだ。
でも。
「アルベルトは、ナガセが女の子だって知ってたの?」
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