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最終章 深淵
白い沼2
しおりを挟む「大丈夫、もう大丈夫だ」
そう言ってレオニダスは私の身体を優しく抱き締める。
「頑張ったな」
囁いて私の耳にキスをした。
よかった、レオニダス…!!
「レオ…、レオニダス、お願い、助けて」
ラケルさんを掴む手はもう限界だった。今にもラケルさんが沈んでいきそうで恐怖に震える。
「大丈夫だ」
レオニダスの手がラケルさんを掴む私の手に重ねられる。
「手を離していい」
ひゅ、と喉が鳴った。
今、なんて?
「手を離しても大丈夫だ。母はもう、…生きていない」
レオニダスは優しく私の手を撫でる。その手の温もりと言葉の温度差に頭が混乱してくる。
「レオ…、レオニダス、お母さんだよ? 助けてあげて」
「もう助からない。母は取り込まれてしまった」
「取り込まれた?」
「この世界に…だがカレンは違う。まだ間に合う」
見てみろ、と示す方に視線を向けると、白い畝りの中にポッカリと四角く穴が開いている場所がある。その穴の向こうは真っ暗な空間があるだけ。
「あそこから迎えに来た。早くここを出ないと閉じてしまう」
「…あそこから…?」
目の前に立つレオニダスを見上げる。
私の体を包み込むように抱き締めるレオニダスは確かにレオニダスの姿をしている。
……でも。
「ラケルさんをここに置いていけないよ」
「カレン」
「…手を貸して、レオニダス」
レオニダスは眉間に皺を寄せ、首を振った。
「駄目だ。ここに取り込まれた者はもう出る事など出来ない。母はここに残る事を自ら望んだんだ。その思いを叶えてやってくれ」
ラケルさんが望んだ?
ジークムントさんとエウラリアさんと一緒に行きたかったって悲しんでいたのに?
こんな何もないところがラケルさんの望んだ場所なの? 何かしたいと、みんなの為にと動いたラケルさんが望んだ場所が、誰もいない真っ白なこの空間?
「…違うよレオニダス、ラケルさんが望んだ場所はここじゃない!」
ラケルさんの身体がズブズブと沈んでいく。
「ラケルさん、ラケルさんこっちを見て! 行きましょう、ここから出ましょう!」
「駄目だ、手を離すんだカレン! 穴が閉じてしまう!」
レオニダスの私を抱き締める腕に力が入る。
「やめて、離して!」
「カレン、一緒に行こう」
レオニダスの掌が頰に添えられて視線を合わせる。深い青の瞳がゆらゆらと揺れて苦しそうに眉根を寄せる。
「俺はカレンを失いたくない。一緒に行こう。頼む、その手を離してくれ」
「レオニダス…」
「カレンのいない世界なんて…」
ワンッ!!
その時、ウルがレオニダスに向かって吠えた。
それまで黙って座っていたウルが牙を剥き唸り声を上げ、レオニダスに向かって吠え立てる。
「カレン、さあ手を」
レオニダスはウルのことが見えていないように私だけを見つめ、指で私の唇をそっと撫でた。深い青の瞳は蕩けるように甘さを湛え、瞳には私が映っている。
でも。
「いや!!」
身体を仰け反りレオニダスから身体を離した。
違う。レオニダスはこんなことしない。例え望んだとしても、ラケルさんをこんな淋しい場所に置いていくはずがない。
何もしないなんて、そんなのレオニダスじゃない!
「ラケルさん! ジークムントさんはずっと貴女を探してたんだよ! ずっとずっと、ラケルさんが生きてるのを信じて探してたんだよ! このままここに居てもジークムントさんは悲しむから! お願い、ここから出ましょう!」
ポロポロと涙を零すラケルさんの瞳がうっすらと開いた。
「……ジークが………」
「そうです! みんな…レオニダスもお義兄様…アルベルトさんも、テレーサさんもジョストさんも! みんな、ラケルさんは消えてしまったって言ってたんです! 誰もラケルさんを諦めてないのに、どうしてラケルさんが諦めちゃうの……!!」
悔しくて泣けて来る。
悔しい、悔しい…!
自分の非力も悲しい。
私たちはどうしてこの世界に来たの? 何の為に?
どうしたって理由を考えてしまう。でも、本当に理由なんて必要なのかな。
ここにいるんだから、ここで出来る事を自分で選んじゃダメなの?
ここから出たい事が、そんなにダメな事?
「私は帰りたい…! みんなの…レオニダスの元に帰りたいんです! ラケルさん、貴女と一緒に!!」
ラケルさんの消えた日、自分の誕生日に必ず一人で深淵の森に入るレオニダス。
ラケルさんと最後まで一緒にいたのに止められなかった自分を責め続けるお義兄様。
もっと出来る事があったと後悔したままのお義母様、お義父様。
一人で何年も森に入り続けたジークムントさん。
みんな、あの日を後悔したまま。
それでもちゃんと前を向いて進んでいる。
「一人でここに居てもダメです! ラケルさん、お願い! みんなの元に帰りましょう!」
それが、どんな形であっても。
「カレン」
場にそぐわない甘やかな声でレオニダスが囁く。
「やめて、レオニダスなんかじゃない! 名前を呼ばないで!!」
身を捩ってレオニダスの腕から逃れる。
ラケルさんはぼんやりと目を開き、私を見た。
「ラケルさん!」
「………」
ラケルさんは私の震える手を握り返した。
「……私も、帰りたいわ…」
ラケルさんがそう言うと、私の身体に腕を回していたレオニダスは砂が崩れるように消え、風が激しくなった。風の音なのか魔物の咆哮なのか、轟々と鳴り響き何も聞こえない。風と共に雪が舞い視界を遮って目を開けていられない。
ブルブルと腕が震え私の足も沈んでいく。
その時、ラケルさんの手を掴む私の手に重なった温もり。うっすらと目を開けると遠い昔に見覚えのある、逞しい腕。
「………お、とうさん…」
その腕がグイッとラケルさんと私を沼から引っ張り上げた。
ワンッ
ウルの声が聞こえる。
でも何も見えない、目を開けていられないよ。私とラケルさんを沼から引っ張り出した手が、優しく私の肩を撫でた。
――さあ、行きなさい。あの子の声を追えば大丈夫よ。
耳元で囁く温かな声。
「…っ、お母さ…っ」
ワンッ
ふわりと優しく背中を押され、ウルの声に導かれるまま、私はラケルさんの手を引き歩き出した。
レオニダス
早く、早くレオニダスの元へ帰らなきゃ。
レオニダス、レオニダス!
――――カレン!!
風の音の中に、確かに私を呼ぶ声が聞こえた。
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