記憶喪失から始まる、勘違いLove story

たっこ

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1 白紙の目覚め

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 ゆらりとした意識の波に引き寄せられ、俺はゆっくりと目を開いた。
 視界がだんだんとクリアになり、無機質な空間に焦点が合う。
 白い天井、白いベッド、そして白いカーテン。
 淡い日差しが部屋に差し込んでいる。

「……どこだ……ここ」

 つぶやいてから気づく独特な匂い。かすかに消毒液や何か薬品が混ざったような匂いが漂う。
 その匂いと目にまぶしいほどの白い空間。
 病院、か……?
 空気は静かで静寂。俺は病室にただ一人いるようだった。
 ズキズキと痛む頭を抱えながら、自分が誰で、なぜここにいるのかを思い出そうとするが、まるで手探りで迷子になったような無力感が支配する。
 ここが病院だとはわかるのに、病院とは何かもわかるのに、自分が誰なのかはわからない。
 ふと、ベッドに名前が書かれているかもと思いつき、身体をひねって後ろを見ると白いプレートには『中村陽樹なかむらはるき』と書かれていた。
 中村……陽樹……。
 少しも自分の名前な気がしない。これは本当に俺の名前なのか……?
 俺の頭の中は、なぜか自分のことだけが白紙のように空っぽだった――――……。



「記憶喪失……?!」
「そうなのよ……名前も何も思い出せないみたいなの」

 ベッドのそばに立っている俺の母親だという女性が、今しがた病室に飛び込んできたスーツ姿の若い男にそう説明する。
 俺はどうやら会社帰りに、道路に飛び出した男の子をかばって車に轢かれたらしい。
 頭の打ちどころが悪かったくらいで、特に目立つ怪我もない。
 今日一日、色々と検査をしたが記憶がないこと以外は何も問題はなかった。
 鏡を見ても、そこに映る顔が自分のものだと思えない。
 色素の薄い髪に触れてみると、サラサラと指から滑るように落ちるストレートの髪。染めてるのか地毛なのかもわからない。
 自分のことがわからないという、まるでドラマか小説の中みたいな話はどこか他人事のようで現実味がない。
 まぁ、ちょっとだけ不安はある。でも、本当にちょっとだけだ。
 俺の記憶は戻るのか、戻らないのか。少しずつ戻るのか、一気に戻るのか。今の記憶は残るのか、消えるのか。そもそも、俺はどういう人物だったのか。明るい? 暗い? 優しい? 冷たい? 今の俺と同じ? それとも別人?
 そんなことを考えて、どこか楽しんでる自分もいる。
 もしかすると俺は、そういう類の話が好きだったのかもしれない。

「ごめんねぇ、月森くん。色々迷惑かけちゃうわね」
「いえっ、そんなっ」
「何事もなければすぐに退院できるそうよ。家はどうしようか。うーん、やっぱりとりあえずこっちの家に連れて帰るべきよね」
「えっ!」

 母の言葉に、男が驚きの声を上げた。
 俺にはさっぱりわからない。この月森という男が何者なのかも、なぜ母が『とりあえず連れて帰る』なんて言い方をするのかも、それに対する男の驚き方も何もわからない。
 母はどう見ても家庭的ではない。いい歳だろうに派手な格好で、香水をプンプンさせて病院に来るような人間。それに、俺にはどうやら父親はいないようだ。話にも出てこないからきっとそうだろう。この母を見れば、まぁ想像はつく。
 片やスーツ姿のサラリーマン風の男は、何かスポーツでもやっているのかガタイがいい。しかし少しも威圧感はなく、むしろ非常に人の良さそうな雰囲気を放っている。
 俺が意識のない二日間、二人は交代で俺のそばにずっと付いていてくれたという。目が覚めたときも、たまたま席を外していた母がすぐに戻ってきた。ただ、このケバい女は誰だ、と警戒したのは言うまでもない。

「いや、でも、今まで通りのほうが思い出すきっかけになるかもですし、通勤も俺と一緒にできますし……っ」
 
 今まで通りというのが何を指すのかわからないが、それは当事者の俺を無視して決めることなんだろうか。

「あの」

 そう思って話をさえぎろうとするも、二人は聞いてくれない。

「でもねぇ、きっと色々と面倒だと思うのよ。ここはやっぱり親が世話をするのが――――」
「いえ、俺なら家でも会社でもそばにいてお世話できますしっ」

 家でも会社でもそばに……ってどういうことだ?
 俺は彼と一緒に住んでいた?

「でも記憶喪失なんて厄介だし、ねぇ?」
「大丈夫ですっ」

 だから俺の意思も聞いてくれ。

「あのぉっ!」

 二人がそろって驚いた顔を俺に向ける。

「それって、俺が決めることじゃないですかね?」

 俺の主張に、母親がのほほんと答えた。

「ああ、それもそうね? あんたどっちがいい?」




 月森という男は、歳は俺の一つ下で、高校時代は同じバスケ部だったそうだ。
 しかも大学も一緒で、今では職場も一緒だという。
 実家から一時間もかけて通勤していた俺は、入社してきた月森が会社の徒歩圏内に一人暮らしを始めると、毎日のように入り浸るようになり、そのうち完全に同居を始めたそうだ。

「なんかごめんね? あの母親じゃちょっと不安でさ」

 どう見ても水商売。少しも母親らしくない。たとえ親子だと言われてもさすがに一緒に暮らすのは不安だった。
 ただ、俺が助けたという三歳の男の子とその母親が菓子折りを持ってやってきた時、このケバい女がどう対応するのかと一瞬身構えたが、しきりに頭を下げる母親に「大丈夫ですよぉ」と笑顔を返した時にはちょっと見直した。「お子さんに怪我がなくて本当によかったわ」という言葉を聞いて、見た目で偏見を持っていた自分を反省した。

「そんな、謝らないでください。嬉しかったです、俺を選んでもらえて」

 記憶はまだ戻らないが、検査に何も問題が無くすぐに退院が決まり、今日は月森が朝から病院に来てくれた。
 甲斐甲斐しく俺の荷物をまとめ車に運び、始終笑顔で運転する月森の車で俺はアパートまで運ばれた。
 そして今、彼の家のソファに落ち着いている。
 キッチンからコーヒーのいい香りが漂い、月森が「どうぞ」と湯気の上がるマグカップを目の前のテーブルに置いた。
 本当に不思議だ。俺はカップの中で揺れるこの黒い液体がコーヒーだとちゃんと認識している。そして、俺はこの香りが好きだ。コーヒーが好きだ。香りをかいだ瞬間にそれがわかった。
 マグカップを手に取り、口に運ぶ。温かいコーヒーが喉を通り抜け、香りとともに心地よい味わいが広がっていく。
 どうやら俺は目を覚ましてからずっと、無意識に気を張り詰めていたようだ。
 記憶のない俺にとって、初めて来たと言ってもいいはずの月森の家に、月森の笑顔に、温かいコーヒーに、今やっとホッと息をついている自分に気がついた。

「どうですか? それ、コーヒーって言います。中村先輩が好きなコーヒーショップの特別な豆で淹れました」
「……うん。俺、コーヒーすごい好きだね。香りだけで思い出した」
「本当ですか? よかった……。そんな感じで、少しずつ思い出すかもしれませんね」
「……だといいんだけど、ね」
「きっと大丈夫ですよ。それに……」
「うん、なに?」
「それに、もし思い出せなくても、俺がいますから。だから大丈夫です。あまり、焦らないでくださいね」

 優しい瞳で俺を見つめる月森に、心臓がトクンと鳴った気がした。

「……月森くんの笑顔見てると、なんか安心するね」
「じゃあ俺、ずっと笑ってます」
「うん、そうして?」

 二人で目を見合せて笑った。

「中村先輩は、俺のこと呼び捨てでしたから、月森って呼んでください」
「あ、そうなんだ。……じゃあ、月森?」
「はいっ」

 月森の嬉しそうな返事と笑顔で、俺がここに入り浸った理由がわかった気がした。



 
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