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第20話 ヨダレは付けないでほしい

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 頬に感じる、柔らかくも温かいもの。

 これ、何だろう。

 段々と覚醒する脳みそが、柔らかいけど何か重いぞ、と認識し始める。

 どうやら私はいつの間にか寝返りをしていた様で、現在私の背中はシスに押し当てられていた。

 顔に乗る、これはまさか。

 恐る恐る目を開けると、私の左頬の上に乗っている物が、そのあまりの近さの所為でぼやけて見えた。

 私の頬に顔を押し付けて寝息を立てているのは、どう考えてもシスの顔だ。鼻が私の鼻にチョンと触れていて、唇は私の頬に思い切り押し付けられている。

 それにこの何となくヌメヌメしているのは――。

 愕然とした。

「ヨダレ垂らしてんの!? ちょっと! 信じられない!」

 うら若き乙女の頬にヨダレを垂らすなんて、最低過ぎる。これ以上、シスのヨダレで私の頬を汚されたくはなかった。

 とにかくシスの顔を退けよう。そう考えた私は頭を移動させようとして失敗し、ならば手を使ってと思ってみたけど――腕が抜けない!

「……ふんぬうううっ!」

 芋虫みたいに身体を捩ってみたけど、意味なし。暫く無駄な努力をした後、少し冷静になり状況判断してみることにした。

 現在の私は、寝る前よりも遥かにがっちりとがんじがらめにされている。シスの腕枕をしている方の手は、上から回されたシスの左腕をしっかりと掴んでいて、まるで私が絞め技でも掛けられているみたいになっている。

 しかも、上から回された左足は前から私の足の間に入り込み、更に足首にまで絡みついていた。これ、折ろうと思えば私なんてちょっとの動きでぽっきり折れるんじゃないか。シスは馬鹿力の持ち主だから、寝惚けてボキンなんてやられる可能性もあるんじゃ、とひやりとする。

「シス、ねえ! ちょっと、起きてよ!」

 ジタバタと暴れてみても、びくともしない。シスは相変わらず、呑気に気持ちよさそうな寝息を立て続けているだけだ。こいつムカつくな。

「むにゃ……小町い……」
「……っ!」

 なにこの亜人。まさか、私の夢を見てるの。

「ふふ……小町……」

 しかもかなり嬉しそうだ。一体どんな夢を見てるかな。繰り返し私の名を呼ぶなんて、まさかシスは実は私のことを――?

「美味そうな匂い……くすくす……」

 食糧扱いだった。まさかこんなにギュウギュウに抱きついているのも、私を紐で縛った煮る前の肉か何かと勘違いしてるんだろうか。

「シス! いい加減起きてよ!」
「ふふ……ぐー」

 私がいくら騒いでも、シスは寝言を言う以外何も反応がなかった。唇が押し付けられた頬には、やっぱりヌメヌメとしたシスのヨダレの感触がある。これは嫌。普通に嫌だ。

 ふと窓の方を見ると、黒い影にしか見えなかった木々の葉が、少しずつ緑色を取り戻し始めている。どうやら、段々と陽が昇ってきたみたいだ。

 シスは寝起きは悪くない筈だけど、子供体質なのか、夜は早くに眠くなってしまう。まだ外が暗い内は、脳みそが目覚める気を起こしてくれないのかもしれなかった。

 だとしたら、太陽が昇ればシスは自然と起きるに違いない。

 目を覚ました時に、自分が私の頬にキ、キ、キスをしている様な状態だって知ったら、シスはどんな反応を示すんだろうか。

「……べ、別に気にならないけどね!」

 思わずひとり言が口を突いて出た。

「小町……」

 低い透き通った声が、幸せそうに私の名前を呼ぶ。……もう少しだけ、寝かせておいてやっても、まあ仕方ないか。

 ヨダレはどうしても気になるけど、それよりもいつシスの顔が移動してきて私の唇にシスのものが触れちゃうんじゃないかと思うと、もっと気になってしまい。

「……寝よ」

 心臓がバクバクいう中、目をギュッと瞑った。シスの寝息と遠くから聞こえる鳥の声に耳を澄ませている内に、やはり身体は疲れていたのか、再び睡魔が訪れる。

 次に目を開けると、窓の外はすでに明るくなっていた。顔の左半分に重くのしかかっていたシスの頭は、もうない。

 温かかった腕枕も背中の熱も、全部失われていた。

「シス……?」

 ゆっくりと起き上がる。まだ少し身体は重いけど、昨日ほどじゃない様だ。きょろきょろと見渡したけど、建物の中にシスの姿はなかった。外で用足しでもしてるのかもしれない。

 マットの埃をはたいて、圧縮ボタンを押す。小さくくるくるとまとまったマットをリュックに突き刺すと、柔軟体操を始めた。

 そこへ、ひょっこりとシスが戻ってくる。

「小町、起きたか?」

 手には、赤々とした肉を持っていた。朝食を狩ってきていたのか。

 朝から機嫌のいいシスが、にこにこ顔のまま私に向かって歩いてくる。私はシスのヨダレが乾いて突っ張る左頬の存在を思い出すと、シスに向かって文句を言ってやろうと息を吸い込んだ。

「あのねえ、シス――」

 目の前まで来ていたシスが、突然私の腕や首まわりの匂いをスンスンと嗅ぎ始める。近い。近いってば。

「シ、シス?」

 そして、寝起きに拝むには心臓の負担が多すぎる超絶爽やかで端正な顔に嫌味のない笑みを浮かべて、のたまった。

「小町が俺の匂いになってるぞ」

 成功だな! とニカッという笑顔で言われた私は、心臓が爆発しそうなくらい早鐘を打ち始めてしまい、それ以上何も言うことが出来なくなってしまったのだった。
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