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23 ムーンシュタイナー家の家訓
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借りは借りたら即返せ。
ムーンシュタイナー家の家訓である。借りは時間が経てば経つほどに目に見えない利息が膨れ上がる、とは資金繰りに苦労してきたムーンシュタイナー卿の言葉だった。実感が籠もっている。
今回マーリカがサイファに耳輪を贈ったのには、その家訓に沿ったから、という理由もある。だがそれ以上に、ムーンシュタイナー領の魔魚料理に興味を示し隣国からわざわざ尋ねてくれて、更に安価で手助けまで買って出た彼の為人への感謝の念の方が強かった。
とにかく安かった。マーリカですら申し訳ないとつい思ってしまう額だった。よくあれで引き受けてくれたものだ。
なので、贈り物は「出来ればまだもうちょっとここにいてね」という袖の下的な意味合いがないとは言い切れない。そこは腐ってもムーンシュタイナー家の人間なので、マーリカもちゃっかりしていた。
夕日が反射する水面を、眩しさに目を細めながら見やる。すっかり見慣れてしまったが、この下にかつての集落が沈んでいるとは未だに信じられなかった。
ギイー、ギイー、と音を立て、赤に染まった穏やかな水面をサイファが力強く櫂を漕いでいく。その耳には、先程マーリカが贈った透き通った紫色の耳輪が嵌められていた。
「あの、マーリカ様」
サイファが、そういえばといった体で問いかける。日頃はどっしりと構えた印象が強い大柄の異国人は、どこか落ち着きがない。今日一日マーリカの護衛で張り付いていたから、排泄でも我慢して苦しいのかもしれない。その可能性に気付くと、なんだか申し訳なく思えてきてしまった。
「なあに?」
「いや、あのな、それが……」
言いにくそうにチラチラとマーリカを見る紫の瞳には、何やら気不味さが含まれている様に見える。マーリカはハッと気付いた。これはもしや、給金交渉ではないかと。もしお給金をもう少し上げてほしいといった話なら知らぬ存ぜぬを貫き通しキラに振ろう、と密かに思いつつサイファが口を開くのを待っていると、サイファは思いがけない言葉を口にした。
「この湖、お嬢が作ったんだって?」
「え? ええ、そうよ」
何の話が始まるのかと内心びくついていたマーリカは、なんだそんなことか、と安堵の息を漏らす。全くもってそんなことの話ではないのだが、逃げ場のない船上で給金交渉をされてのらりくらりと躱せる自信がなかったマーリカには、自身の失敗を指摘される方がマシに思えた。
「ラッシュの爺さんに聞いたんだが、その……黒竜が落ちてきたのか?」
相変わらずサイファの歯切れは悪い。何故だろうと考えて、そういえば箝口令が敷かれていたからか、とここにきてようやく思い出した。黒竜の鱗から生まれた魔魚料理だと分かってしまうと、中には敬遠する者も出てくるかもしれないという理由からだった筈だ。鳥が問題なく食べてるので平気な筈だが、世の中はそもそも魔魚を食べてみようと思いつく方が珍しいと聞き、マーリカは自領民の逞しさを誇らしく思ったものだ。
「ええ、そうよ。領地に落ちてきて周囲を焼き始めたものだから、それで水魔法を唱えたのよ。そうしたら、何故か黒竜の中に入って今度は逆流してきたから、私も驚いたのだけれど」
「……そうか」
「ええ。竜が溶けるのにも驚いたけど、竜が魔泉に変わるのなんて知らなかったから、それにも驚いたわ」
自領を湖に変えるきっかけを作ったのは、マーリカであることに間違いはない。今の状況が始まって暫くの間は自責の念に駆られていたが、キラに「感謝している」と言われたことで、前向きになることが出来た。
そういえば、あの時キラは「必ず何とかしてみせる、うまくいったその時は」と何かを言いかけていた様な――。その後、まさかのシヴァの登場にサイファの仲間入りですっかり失念していたが、あの後キラがマーリカにその時の話題をぶり返すこともしてこなかったから、マーリカは今の今まで忘れていたのだ。もしや、キラも給料交渉だろうか。キラに去られては非常に困った事態に陥ることは容易に想像がつくので、ある程度は交渉に応じなければならないかもしれないな、とマーリカが考えていると。
「マーリカ様。その魔泉を見たいんだが、今からいいか?」
サイファの表情は、珍しく真剣そのものだった。
「え? ええ。構わないわよ。あの教会脇にあるの」
マーリカが指差したのは、半分水没した教会だ。教会は丘の上に建てられていた為、完全には水没していなかった。その一段落ち込んだ教会脇に黒竜は溶けて消えていき、そこに魔泉が発生したのだ。
サイファが力強く船を漕いでいくと、魔泉の上で船を停止させた。
「……これが魔泉か」
日頃は怖気づく様子など見せないサイファだったが、水面深くに穿つ小舟など簡単に呑み込みそうな漆黒の魔泉を覗き込むと、さすがに怯えた表情を浮かべる。時折闇の奥から光の点が浮き出てこちらに近付いてくるのを見て、「ありゃ魔界の魔魚がこっちに来てんのか……凄えな」と独りごちた。
「魔泉の大きさがそこまで大きくないから、あまり大きな魔物はやってこれないらしいわ」
「不幸中の幸いってやつか……」
サイファはブルブルと頭を振ると、船を魔泉の上から移動させる。
てっきりそのまま領主城へ向かうのかと思ったが、サイファは教会脇で船を再び止めてしまった。
「……サイファ? どうしたの?」
「ああ……」
サイファは思い詰めた様な表情のまま、固まっている。魔泉など普通に生きていたら見る機会など殆どない代物だ。さすがに恐怖を覚えたのかな、とマーリカはサイファが落ち着くまで待つことにした。
やがてサイファは、日頃は見せない真剣な眼差しをマーリカに向けると、ボソボソと尋ねる。
「なあ……。突然黒竜がきて全部焼いて、止めようと思ったら今度は湖にされちまって、マーリカ様はこれまでのことをどう思ってるんだ?」
「どうと言われても」
「何でもいい。ふざけんなと思ったとか、悲しかったとか、マーリカ様が感じたことを教えてくれ」
何故サイファはそんな悲しそうな目でそんなことを聞いてくるのか。マーリカはさっぱり理解出来なかったが、このまま答えずにここに居続けたらキラに「遅い!」と怒られるだろうと思い、素直に答えることにした。
「まあ、起きてしまったことは仕方ないと思っているわよ」
「――は?」
思い切り「何を言ってるんだ」という顔をされてしまい、マーリカはつい頬を膨らませる。
「だって仕方ないものは仕方ないでしょう? 怒っても泣いても、時は不可逆じゃないの。だったら与えられた環境の中でやるべきことをやれば、まああれだって悪いことばかりじゃないと思えるかもしれないし」
実際、マーリカにもいいことは起きていた。いつも澄ましているキラにからかわれながらも共に魔具制作が出来ていることは、自分も役に立っているという実感を得ることが出来て嬉しい。それに、口に出して言うことなど恥ずかしすぎて絶対に無理だが、キラに抱き締められるのは――ちっとも悪くない。
いつまでも全員で領主城に住む訳にもいかないだろうから、領地の再開拓はこれからの課題である。だが、予想よりも販売は好調で、このままいけば以前よりも資金繰りは楽になるのでは、との見通しも立ち始めていた。
だから、大変ではあったが、悪いことばかりではなかった。これまでも、きっとこれからも。
「……あんたって人は……」
「ムーンシュタイナー領の人間は、皆逞しいのよ」
拳を握ってみせたマーリカを、サイファは何故か泣きそうな、だが堪らないといった目で見つめる。
「あり……」
「え?」
「あ、いや」
サイファははにかんだ笑顔を見せると、突然マーリカの手首を掴んで引き寄せた。
「きゃっ!?」
マーリカは、サイファの分厚い胸に手を付く。
「サイファ、ど、どうし」
視界が突然翳った。え、とマーリカが驚きに目を見開いていると、頬に柔らかなものが押し当てられると同時に、大きな腕の中に包まれる。まさかの口づけに、マーリカは一気に混乱に陥った。
「サ、サ……!?」
「――暫く、このままで」
「ひえ……っ」
訳が分からずにマーリカが固まっていると、サイファが極かすかな声で、「ありがとう」と囁いた気がした。
ムーンシュタイナー家の家訓である。借りは時間が経てば経つほどに目に見えない利息が膨れ上がる、とは資金繰りに苦労してきたムーンシュタイナー卿の言葉だった。実感が籠もっている。
今回マーリカがサイファに耳輪を贈ったのには、その家訓に沿ったから、という理由もある。だがそれ以上に、ムーンシュタイナー領の魔魚料理に興味を示し隣国からわざわざ尋ねてくれて、更に安価で手助けまで買って出た彼の為人への感謝の念の方が強かった。
とにかく安かった。マーリカですら申し訳ないとつい思ってしまう額だった。よくあれで引き受けてくれたものだ。
なので、贈り物は「出来ればまだもうちょっとここにいてね」という袖の下的な意味合いがないとは言い切れない。そこは腐ってもムーンシュタイナー家の人間なので、マーリカもちゃっかりしていた。
夕日が反射する水面を、眩しさに目を細めながら見やる。すっかり見慣れてしまったが、この下にかつての集落が沈んでいるとは未だに信じられなかった。
ギイー、ギイー、と音を立て、赤に染まった穏やかな水面をサイファが力強く櫂を漕いでいく。その耳には、先程マーリカが贈った透き通った紫色の耳輪が嵌められていた。
「あの、マーリカ様」
サイファが、そういえばといった体で問いかける。日頃はどっしりと構えた印象が強い大柄の異国人は、どこか落ち着きがない。今日一日マーリカの護衛で張り付いていたから、排泄でも我慢して苦しいのかもしれない。その可能性に気付くと、なんだか申し訳なく思えてきてしまった。
「なあに?」
「いや、あのな、それが……」
言いにくそうにチラチラとマーリカを見る紫の瞳には、何やら気不味さが含まれている様に見える。マーリカはハッと気付いた。これはもしや、給金交渉ではないかと。もしお給金をもう少し上げてほしいといった話なら知らぬ存ぜぬを貫き通しキラに振ろう、と密かに思いつつサイファが口を開くのを待っていると、サイファは思いがけない言葉を口にした。
「この湖、お嬢が作ったんだって?」
「え? ええ、そうよ」
何の話が始まるのかと内心びくついていたマーリカは、なんだそんなことか、と安堵の息を漏らす。全くもってそんなことの話ではないのだが、逃げ場のない船上で給金交渉をされてのらりくらりと躱せる自信がなかったマーリカには、自身の失敗を指摘される方がマシに思えた。
「ラッシュの爺さんに聞いたんだが、その……黒竜が落ちてきたのか?」
相変わらずサイファの歯切れは悪い。何故だろうと考えて、そういえば箝口令が敷かれていたからか、とここにきてようやく思い出した。黒竜の鱗から生まれた魔魚料理だと分かってしまうと、中には敬遠する者も出てくるかもしれないという理由からだった筈だ。鳥が問題なく食べてるので平気な筈だが、世の中はそもそも魔魚を食べてみようと思いつく方が珍しいと聞き、マーリカは自領民の逞しさを誇らしく思ったものだ。
「ええ、そうよ。領地に落ちてきて周囲を焼き始めたものだから、それで水魔法を唱えたのよ。そうしたら、何故か黒竜の中に入って今度は逆流してきたから、私も驚いたのだけれど」
「……そうか」
「ええ。竜が溶けるのにも驚いたけど、竜が魔泉に変わるのなんて知らなかったから、それにも驚いたわ」
自領を湖に変えるきっかけを作ったのは、マーリカであることに間違いはない。今の状況が始まって暫くの間は自責の念に駆られていたが、キラに「感謝している」と言われたことで、前向きになることが出来た。
そういえば、あの時キラは「必ず何とかしてみせる、うまくいったその時は」と何かを言いかけていた様な――。その後、まさかのシヴァの登場にサイファの仲間入りですっかり失念していたが、あの後キラがマーリカにその時の話題をぶり返すこともしてこなかったから、マーリカは今の今まで忘れていたのだ。もしや、キラも給料交渉だろうか。キラに去られては非常に困った事態に陥ることは容易に想像がつくので、ある程度は交渉に応じなければならないかもしれないな、とマーリカが考えていると。
「マーリカ様。その魔泉を見たいんだが、今からいいか?」
サイファの表情は、珍しく真剣そのものだった。
「え? ええ。構わないわよ。あの教会脇にあるの」
マーリカが指差したのは、半分水没した教会だ。教会は丘の上に建てられていた為、完全には水没していなかった。その一段落ち込んだ教会脇に黒竜は溶けて消えていき、そこに魔泉が発生したのだ。
サイファが力強く船を漕いでいくと、魔泉の上で船を停止させた。
「……これが魔泉か」
日頃は怖気づく様子など見せないサイファだったが、水面深くに穿つ小舟など簡単に呑み込みそうな漆黒の魔泉を覗き込むと、さすがに怯えた表情を浮かべる。時折闇の奥から光の点が浮き出てこちらに近付いてくるのを見て、「ありゃ魔界の魔魚がこっちに来てんのか……凄えな」と独りごちた。
「魔泉の大きさがそこまで大きくないから、あまり大きな魔物はやってこれないらしいわ」
「不幸中の幸いってやつか……」
サイファはブルブルと頭を振ると、船を魔泉の上から移動させる。
てっきりそのまま領主城へ向かうのかと思ったが、サイファは教会脇で船を再び止めてしまった。
「……サイファ? どうしたの?」
「ああ……」
サイファは思い詰めた様な表情のまま、固まっている。魔泉など普通に生きていたら見る機会など殆どない代物だ。さすがに恐怖を覚えたのかな、とマーリカはサイファが落ち着くまで待つことにした。
やがてサイファは、日頃は見せない真剣な眼差しをマーリカに向けると、ボソボソと尋ねる。
「なあ……。突然黒竜がきて全部焼いて、止めようと思ったら今度は湖にされちまって、マーリカ様はこれまでのことをどう思ってるんだ?」
「どうと言われても」
「何でもいい。ふざけんなと思ったとか、悲しかったとか、マーリカ様が感じたことを教えてくれ」
何故サイファはそんな悲しそうな目でそんなことを聞いてくるのか。マーリカはさっぱり理解出来なかったが、このまま答えずにここに居続けたらキラに「遅い!」と怒られるだろうと思い、素直に答えることにした。
「まあ、起きてしまったことは仕方ないと思っているわよ」
「――は?」
思い切り「何を言ってるんだ」という顔をされてしまい、マーリカはつい頬を膨らませる。
「だって仕方ないものは仕方ないでしょう? 怒っても泣いても、時は不可逆じゃないの。だったら与えられた環境の中でやるべきことをやれば、まああれだって悪いことばかりじゃないと思えるかもしれないし」
実際、マーリカにもいいことは起きていた。いつも澄ましているキラにからかわれながらも共に魔具制作が出来ていることは、自分も役に立っているという実感を得ることが出来て嬉しい。それに、口に出して言うことなど恥ずかしすぎて絶対に無理だが、キラに抱き締められるのは――ちっとも悪くない。
いつまでも全員で領主城に住む訳にもいかないだろうから、領地の再開拓はこれからの課題である。だが、予想よりも販売は好調で、このままいけば以前よりも資金繰りは楽になるのでは、との見通しも立ち始めていた。
だから、大変ではあったが、悪いことばかりではなかった。これまでも、きっとこれからも。
「……あんたって人は……」
「ムーンシュタイナー領の人間は、皆逞しいのよ」
拳を握ってみせたマーリカを、サイファは何故か泣きそうな、だが堪らないといった目で見つめる。
「あり……」
「え?」
「あ、いや」
サイファははにかんだ笑顔を見せると、突然マーリカの手首を掴んで引き寄せた。
「きゃっ!?」
マーリカは、サイファの分厚い胸に手を付く。
「サイファ、ど、どうし」
視界が突然翳った。え、とマーリカが驚きに目を見開いていると、頬に柔らかなものが押し当てられると同時に、大きな腕の中に包まれる。まさかの口づけに、マーリカは一気に混乱に陥った。
「サ、サ……!?」
「――暫く、このままで」
「ひえ……っ」
訳が分からずにマーリカが固まっていると、サイファが極かすかな声で、「ありがとう」と囁いた気がした。
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