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37 サイファ
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一艘の帆船が、魔泉がある教会の手前で停泊した。
教会脇に存在する魔泉は、毎日領民が異常がないか見回りをしている。魔泉周りに異常が確認されなければ、その後ぐるりと湖を一周巡回することになっていた。
以前は魔泉だけが監視対象であったが、先日の大蛇事件以降、新たに加わったのだ。
なお、今回騎士団一行の帰路に途中まで付き添い、ついでに魔泉の見回りを引き受けたのはサイファである。サイファも帆船の操縦は初めてだったが、筋力が他の領民よりもあるからか、はたまた武芸を嗜むが故に身体の使い方が上手かったのか、すぐに自在に操れる様になってしまった。
日頃手漕ぎ船で鍛えている漕ぎ手は、今日は帆船の操縦練習に掛かり切りだ。その上、力加減がまだ分からないらしく、あちこちを痛めたり疲弊してしまっていた。
つまり、漕ぎ手班で元気が有り余っているのはサイファだけだったのだ。
風さえあれば、手漕ぎよりも遥かに短時間で湖を一周することも可能なのが帆船の利点だ。そんな訳で、練習がてら巡回を買って出たサイファだった。
「よ……っと」
縄を持って降りると、半分水没しながらも強固に地面から生え続けている木に縄を括り付ける。
ジャバジャバと水を踏み抜きながら、迷うことなく陸地へ上がった。教会の壁に立てられた縄梯子に真っ直ぐに向かうと、大きな体躯にそぐわぬ身軽さで、ひょいひょいと登っていく。
頂上まで辿り着くと、慎重に二階建ての教会の屋根を伝い歩き始めた。屋根は斜めになっていて、滑りやすい。ふう、と鼻息を吹くと、濡れた靴を抜いで斜めに掛けた袋に乱雑に突っ込んだ。屋根の中でも一番高い場所まで、手を使いながら這い登っていく。
端まで到達すると、旗を立てる際に使われる立て棒に片手で掴まりながら、ゆっくりと立ち上がった。
そのまま、ぐるりと魔泉と周辺をじっと見渡す。大きな影を見つけたらひとりで追わず、教会内部に用意された狼煙を上げることになっていた。
「んー……問題なしかな」
独りごちたサイファは、自分があまりにもムーンシュタイナー領に馴染み切っているな、とふと思い、思わず苦笑を漏らす。風を正面から受けると、その心地よさにうっとりと目を細めた。
少し波打つ黒髪が、左耳にはめられた紫色の硝子の耳輪の輪の中に入り込む。サイファは指で慎重に髪を掬い取ると、耳輪にそっと手を添えた。まさかこんな気持ちをまだ幼さを残す顔立ちの女性に対し抱くなど、想像だにしていなかった。
これじゃまるで乙女の様だ、と自嘲するが、それすらも湧き起こる高揚感の前には些細なことに思える。初恋も女性とのあれこれもとうに経験済みだというのに、これだ。それほどに、あの時サイファが受けた衝撃は激しかった。
――強く、美しい。
これまで出会ったことのない輝きに、サイファはあの瞬間から囚われたのだ。
サイファの母は、平民出だ。その聡明さと美しさから、見初められて召し上げられた。母が嫁いだ時には既に正妻がおり、男児も生まれていた。その為、家督は正妻の子である兄が元々継ぐことになっており、跡継ぎ問題は最初からないものとされた。
母は、自分の立場をよく理解していた。サイファの中では、与えられた環境の中で如何に強く生きるか――それが美しさを左右する、と母を見て思っていた。サイファの目には、母は強く逞しく、そして美しく映っていた。
それでも息子が二人いれば、邪な考えを押し付ける輩も現れる。異母兄弟とはいえ、歳の離れた弟を慈しんだ兄は、事ある毎に話をふっかけられては苛つく弟を思い、成人してすぐに結婚をした。その後、矢継ぎ早に男児を二人もうけ、「これで静かになっただろう?」と弟にうそぶいた。
じっとしているのが苦手なサイファの性質をよく知る兄は、お前は好きに生きればいいと笑った。一度たりと弟の心を疑わなかった兄を、サイファは心から敬愛している。兄には感謝しかなく、兄が困難に陥るならば、何としてでも助けたい――。そう思い、これまで生きてきた。母は悲しい素振りなど見せず、いってらっしゃいと笑顔で送り出してくれた。そんな母は、誰よりも美しいのだと思っていた。
だから、兄に比べいまいち気弱で流されやすい父に降りかかった困難をうまく退けたいと願う兄の為、そんな父を慕い続ける母の為、これまで行動してきた。
湖に浮かぶ孤島にいるからか、夏場だというのに夕方は涼しく感じられる。マーリカが住まう領地だからか、この地は魔泉の近くだろうが空気が澄んでいる様に思えた。
出来ることなら、このままここに居続けたい。あの兄ならば、きっと笑いながら許してくれるのだろうと思う。たとえ今が調査の最中だとしても。
一度の報告を上げて以降、サイファが一切報告上げないことを、国はどう受け止めているのだろうか。
サイファとしては、自分がここに居続けることでこの領への余計な干渉を排除出来ているという認識だった。あいつらが何を考えようが、サイファが暮らしている場所に対し暴挙を行なうとは考えられない。そんなことをすれば、奴らの立場は今よりも弱くなるだろう。
「あいつら、早く出て行ってくんねーかなあ……」
いくら従兄弟と言っても、これまで殆ど交流がなかったのだ。それが気が付けば父を丸め込み、好き勝手に振る舞っている。はっきり言って、邪魔以外の何者でもない。
「かといって、あいつらの立場がなあ……」
迷惑してるんですよ、と伝えることは容易い。だが、仮にも血縁が裏切る様な真似をすれば、批判は免れまい。批判は脆弱化に繋がりかねない。隙をみせる訳にはいかないのだ。
「はあ――……めんどくせ」
マーリカからもらった耳輪に触れて弄るのも、すっかり癖になってしまった。苛立ちを覚えると触る様になり、気付けば手持ち無沙汰になった時は触れる様になったのだ。
何としてでも手に入れたい。その為ならば、身分すら投げ打ってもいい。あの人と過ごす毎日は、きっと輝いていることだろう。
――だが。あの人の目は、自分には向いていない。自分に向けられない心を持った人を手に入れて、それが本望だと言えようか。
心も身体も、全てを自分のものとしたい。その為には、あの銀髪よりも頼りになるところを見せなければ、とサイファは考えていた。
「さあて、次はどうするかな……」
そう呟いた時。
背後から突然、聞きたくない鳥のさえずりが聞こえてきた。
ピュルル、と軽やかな鳴き声に、直前まで弾んでいた心がズブズブと沈んでいくのを感じる。
振り返ると、やはりそこには見事な黒い尾を垂らした鳥がいた。足には、筒が括り付けられている。
サイファはノロノロと鳥に向かって手を伸ばした。筒の中から伝書を取り出すと、瞼をぴく、ぴく、と動かしながら読み進めていく。
奥歯がギリ、と嫌な音を立てた。
「『受け取らねば、別の者が処理をする』……」
元々サイファにやる気がないことなど、向こうははなから承知だったのだろう。それが、前回の素っ気ない報告で確信となったのだ。
「本当、性格の悪い……」
その観察眼と知恵を、別のことに使えばいいものを。こめかみに青筋を立てながら、サイファは手にした伝書を丸めると、目の前で羽繕いをしていた鳥をむんずと掴んだ。
鳥は何事かとピュルルと騒ぎ立てながら、嘴を開く。
「うるさい」
鳥に悪意はない。ただ自分の仕事をしたまでだ。分かってはいたが、こいつさえ来なければ、という念を薙ぎ払うことが出来なかった。
嘴の中に丸めた紙を突っ込むと、鳥は暫くバタバタと羽根を飛ばしながら騒いでいたが、やがてくたりと大人しくなる。
小さな瞼が閉じられているのを見て、サイファは唇をぐっと噛み締め――次いで、黒鳥を魔泉に向けて放り投げた。
ぼちゃん、と小さな音が立つ。波紋の中心にぷかりと浮いたままだった鳥の下の闇から、無数の小さな光が集まってきた。
光は黒鳥を警戒する様につんつんと水中から突き始める。黒鳥が反応しないのが分かったのか、魔魚たちの啄みは激しくなり。
とぷん、という音と共に、黒鳥の姿は水中に掻き消えていったのだった。
教会脇に存在する魔泉は、毎日領民が異常がないか見回りをしている。魔泉周りに異常が確認されなければ、その後ぐるりと湖を一周巡回することになっていた。
以前は魔泉だけが監視対象であったが、先日の大蛇事件以降、新たに加わったのだ。
なお、今回騎士団一行の帰路に途中まで付き添い、ついでに魔泉の見回りを引き受けたのはサイファである。サイファも帆船の操縦は初めてだったが、筋力が他の領民よりもあるからか、はたまた武芸を嗜むが故に身体の使い方が上手かったのか、すぐに自在に操れる様になってしまった。
日頃手漕ぎ船で鍛えている漕ぎ手は、今日は帆船の操縦練習に掛かり切りだ。その上、力加減がまだ分からないらしく、あちこちを痛めたり疲弊してしまっていた。
つまり、漕ぎ手班で元気が有り余っているのはサイファだけだったのだ。
風さえあれば、手漕ぎよりも遥かに短時間で湖を一周することも可能なのが帆船の利点だ。そんな訳で、練習がてら巡回を買って出たサイファだった。
「よ……っと」
縄を持って降りると、半分水没しながらも強固に地面から生え続けている木に縄を括り付ける。
ジャバジャバと水を踏み抜きながら、迷うことなく陸地へ上がった。教会の壁に立てられた縄梯子に真っ直ぐに向かうと、大きな体躯にそぐわぬ身軽さで、ひょいひょいと登っていく。
頂上まで辿り着くと、慎重に二階建ての教会の屋根を伝い歩き始めた。屋根は斜めになっていて、滑りやすい。ふう、と鼻息を吹くと、濡れた靴を抜いで斜めに掛けた袋に乱雑に突っ込んだ。屋根の中でも一番高い場所まで、手を使いながら這い登っていく。
端まで到達すると、旗を立てる際に使われる立て棒に片手で掴まりながら、ゆっくりと立ち上がった。
そのまま、ぐるりと魔泉と周辺をじっと見渡す。大きな影を見つけたらひとりで追わず、教会内部に用意された狼煙を上げることになっていた。
「んー……問題なしかな」
独りごちたサイファは、自分があまりにもムーンシュタイナー領に馴染み切っているな、とふと思い、思わず苦笑を漏らす。風を正面から受けると、その心地よさにうっとりと目を細めた。
少し波打つ黒髪が、左耳にはめられた紫色の硝子の耳輪の輪の中に入り込む。サイファは指で慎重に髪を掬い取ると、耳輪にそっと手を添えた。まさかこんな気持ちをまだ幼さを残す顔立ちの女性に対し抱くなど、想像だにしていなかった。
これじゃまるで乙女の様だ、と自嘲するが、それすらも湧き起こる高揚感の前には些細なことに思える。初恋も女性とのあれこれもとうに経験済みだというのに、これだ。それほどに、あの時サイファが受けた衝撃は激しかった。
――強く、美しい。
これまで出会ったことのない輝きに、サイファはあの瞬間から囚われたのだ。
サイファの母は、平民出だ。その聡明さと美しさから、見初められて召し上げられた。母が嫁いだ時には既に正妻がおり、男児も生まれていた。その為、家督は正妻の子である兄が元々継ぐことになっており、跡継ぎ問題は最初からないものとされた。
母は、自分の立場をよく理解していた。サイファの中では、与えられた環境の中で如何に強く生きるか――それが美しさを左右する、と母を見て思っていた。サイファの目には、母は強く逞しく、そして美しく映っていた。
それでも息子が二人いれば、邪な考えを押し付ける輩も現れる。異母兄弟とはいえ、歳の離れた弟を慈しんだ兄は、事ある毎に話をふっかけられては苛つく弟を思い、成人してすぐに結婚をした。その後、矢継ぎ早に男児を二人もうけ、「これで静かになっただろう?」と弟にうそぶいた。
じっとしているのが苦手なサイファの性質をよく知る兄は、お前は好きに生きればいいと笑った。一度たりと弟の心を疑わなかった兄を、サイファは心から敬愛している。兄には感謝しかなく、兄が困難に陥るならば、何としてでも助けたい――。そう思い、これまで生きてきた。母は悲しい素振りなど見せず、いってらっしゃいと笑顔で送り出してくれた。そんな母は、誰よりも美しいのだと思っていた。
だから、兄に比べいまいち気弱で流されやすい父に降りかかった困難をうまく退けたいと願う兄の為、そんな父を慕い続ける母の為、これまで行動してきた。
湖に浮かぶ孤島にいるからか、夏場だというのに夕方は涼しく感じられる。マーリカが住まう領地だからか、この地は魔泉の近くだろうが空気が澄んでいる様に思えた。
出来ることなら、このままここに居続けたい。あの兄ならば、きっと笑いながら許してくれるのだろうと思う。たとえ今が調査の最中だとしても。
一度の報告を上げて以降、サイファが一切報告上げないことを、国はどう受け止めているのだろうか。
サイファとしては、自分がここに居続けることでこの領への余計な干渉を排除出来ているという認識だった。あいつらが何を考えようが、サイファが暮らしている場所に対し暴挙を行なうとは考えられない。そんなことをすれば、奴らの立場は今よりも弱くなるだろう。
「あいつら、早く出て行ってくんねーかなあ……」
いくら従兄弟と言っても、これまで殆ど交流がなかったのだ。それが気が付けば父を丸め込み、好き勝手に振る舞っている。はっきり言って、邪魔以外の何者でもない。
「かといって、あいつらの立場がなあ……」
迷惑してるんですよ、と伝えることは容易い。だが、仮にも血縁が裏切る様な真似をすれば、批判は免れまい。批判は脆弱化に繋がりかねない。隙をみせる訳にはいかないのだ。
「はあ――……めんどくせ」
マーリカからもらった耳輪に触れて弄るのも、すっかり癖になってしまった。苛立ちを覚えると触る様になり、気付けば手持ち無沙汰になった時は触れる様になったのだ。
何としてでも手に入れたい。その為ならば、身分すら投げ打ってもいい。あの人と過ごす毎日は、きっと輝いていることだろう。
――だが。あの人の目は、自分には向いていない。自分に向けられない心を持った人を手に入れて、それが本望だと言えようか。
心も身体も、全てを自分のものとしたい。その為には、あの銀髪よりも頼りになるところを見せなければ、とサイファは考えていた。
「さあて、次はどうするかな……」
そう呟いた時。
背後から突然、聞きたくない鳥のさえずりが聞こえてきた。
ピュルル、と軽やかな鳴き声に、直前まで弾んでいた心がズブズブと沈んでいくのを感じる。
振り返ると、やはりそこには見事な黒い尾を垂らした鳥がいた。足には、筒が括り付けられている。
サイファはノロノロと鳥に向かって手を伸ばした。筒の中から伝書を取り出すと、瞼をぴく、ぴく、と動かしながら読み進めていく。
奥歯がギリ、と嫌な音を立てた。
「『受け取らねば、別の者が処理をする』……」
元々サイファにやる気がないことなど、向こうははなから承知だったのだろう。それが、前回の素っ気ない報告で確信となったのだ。
「本当、性格の悪い……」
その観察眼と知恵を、別のことに使えばいいものを。こめかみに青筋を立てながら、サイファは手にした伝書を丸めると、目の前で羽繕いをしていた鳥をむんずと掴んだ。
鳥は何事かとピュルルと騒ぎ立てながら、嘴を開く。
「うるさい」
鳥に悪意はない。ただ自分の仕事をしたまでだ。分かってはいたが、こいつさえ来なければ、という念を薙ぎ払うことが出来なかった。
嘴の中に丸めた紙を突っ込むと、鳥は暫くバタバタと羽根を飛ばしながら騒いでいたが、やがてくたりと大人しくなる。
小さな瞼が閉じられているのを見て、サイファは唇をぐっと噛み締め――次いで、黒鳥を魔泉に向けて放り投げた。
ぼちゃん、と小さな音が立つ。波紋の中心にぷかりと浮いたままだった鳥の下の闇から、無数の小さな光が集まってきた。
光は黒鳥を警戒する様につんつんと水中から突き始める。黒鳥が反応しないのが分かったのか、魔魚たちの啄みは激しくなり。
とぷん、という音と共に、黒鳥の姿は水中に掻き消えていったのだった。
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