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新しい生活様式
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夕暮れの空が、かつてのような鮮やかなオレンジ色ではなく、どこか澱んだ鉛色に染まっていた。それは、この数年間にわたるパンデミックの影響で、世界が呼吸をすることすら億劫になっているかのようだった。私の名前は、佐藤健司。しがないフリーのライターとして、細々と生計を立てている。妻の美咲と、愛娘のひかり、三人で東京の郊外にある小さな一軒家で暮らしている。
風邪のようなウイルスが猛威を振るい始めた当初、私たちは他の多くの家庭と同じように、恐怖と不安に苛まれた。だが、幸いなことに、私たちは三人とも感染することなく、この「新しい生活様式」と呼ばれる不自由な日常に適応していった。マスク、消毒、ソーシャルディスタンス。それらは、もはや生活の一部となり、息をすることと同じくらい当たり前の行動となっていた。
しかし、その日常は、ある日突然、終わりを告げた。いや、終わりを告げたわけではない。むしろ、何かが始まってしまったのだ。
それは、ひかりが学校から帰ってきた日のことだった。ランドセルを床に放り投げ、いつものように「ただいま!」と元気な声でリビングに入ってきた。だが、その声は、どこか違和感があった。かすれて、少し震えている。
「ひかり、どうしたんだ?風邪でも引いたのか?」
私はそう言って、娘の額に手を当てた。熱はない。だが、ひかりの顔は、なぜか青白い。
「パパ、あのね…」
ひかりは、震える声で私に話した。学校の帰りに、いつも通る公園で、一人の老婆が倒れていたという。ひかりは心配になり、声をかけたが、老婆は何も言わず、ただ、うめき声のようなものを漏らしていたそうだ。そして、ひかりがその老婆に近づこうとした瞬間、老婆の顔が、まるで風船のように膨らみ、弾けたというのだ。
「ぐちゃぐちゃになって、血がいっぱい出て…」
ひかりは、それ以上話すことができず、泣き出してしまった。私は、娘を抱きしめ、落ち着かせようとした。老婆の顔が弾ける?そんな馬鹿な話があるわけがない。きっと、ひかりが何かの勘違いをしたのだろう。あるいは、誰かにからかわれたのかもしれない。そう思い、私は娘に「怖かったね。でも、きっと夢だよ」と優しく語りかけた。
しかし、その夜、私は奇妙な夢を見た。夢の中で、私は、ひかりが話していた老婆と同じ場所に立っていた。老婆は、うずくまるようにして地面に倒れている。そして、私が近づくと、老婆はゆっくりと顔を上げた。
その顔は、皺だらけで、まるで何十年も前に死んだ人間のようだった。老婆は、私に向かって、にやりと笑った。そして、その瞬間、老婆の顔が、風船のように膨らみ始めた。皮膚が破裂しそうなほどに張り詰め、目が飛び出しそうになり、口からは、血のような液体が噴き出した。
私は、恐怖のあまり、叫び声をあげた。そして、そこで目が覚めた。全身に冷や汗をかき、心臓がバクバクと音を立てていた。夢だ。夢なのだ。そう自分に言い聞かせるが、心臓の鼓動は収まらない。私は、ベッドから起き上がり、リビングへと向かった。
美咲は、すでに起きていて、台所で朝食の準備をしていた。
「どうしたの、健司さん。顔色が悪いわよ。」
美咲は、私の顔を見て、心配そうに言った。私は、昨晩の夢の話をしようか迷ったが、美咲を不安にさせるだけだと思い、何も言わなかった。
「なんでもない。ちょっと変な夢を見ただけだよ。」
私は、そう言って、無理に笑顔を作った。しかし、その時、私は、美咲の首元に、小さな赤い斑点があることに気づいた。蚊に刺されたのだろうか?そう思って、私は美咲に「蚊に刺されたのか?」と尋ねた。美咲は、自分の首元を見て、「え?ああ、そうなのかな。気づかなかったわ。」と答えた。
その日から、私と美咲、そしてひかりの体に、小さな赤い斑点ができ始めた。それは、まるで蚊に刺されたかのように、少し痒みがあった。最初は、季節の変わり目で肌が荒れたのだろう、と思っていた。しかし、その斑点は、日を追うごとに増え、次第に、膨らみ始めた。
それは、まるで、何かが、私たちの体の中で、成長しているかのようだった。
私たちは、病院に行った。しかし、どの病院でも、原因はわからないと言われた。ただ、共通して言われたのは、「これは、新しいタイプのウイルス感染の可能性がある」ということだった。
新しいタイプのウイルス?私たちは、今まで、感染対策を徹底してきたはずだ。マスク、消毒、ソーシャルディスタンス。それでも、何かが、私たちの体を蝕んでいる。
「もしかしたら、接触感染ではないのかもしれません。」
ある医者が、そう言った。
「空気感染でも、飛沫感染でもなく、何らかの波長、あるいは、電磁波のようなものによって感染する、全く新しいタイプのウイルスかもしれません。」
医者の言葉に、私たちは、ただただ、恐怖を感じるしかなかった。私たちは、どこから感染したのだろう?公園で倒れていた老婆?あるいは、その老婆が撒き散らした、目に見えない、何らかの波長?
私たちの体は、日に日に変形していった。赤い斑点は、やがて、小さなイボとなり、それが、全身を覆うようになった。皮膚は、まるでゴムのように伸び、張りを失い、顔は、まるで風船のように膨らみ始めた。
「パパ…私、どうなっちゃうの…?」
ひかりは、鏡に映る自分の姿を見て、泣き叫んだ。その顔は、もはや、かつての愛らしい娘の顔ではなかった。目は窪み、頬はパンパンに膨れ、口は、裂けたように横に広がっていた。
「大丈夫だよ、ひかり。パパとママが、絶対治してあげるから。」
私は、そう言って、娘を抱きしめた。しかし、その時、ひかりの体が、私の腕の中で、ぐにゃりと歪んだような気がした。
美咲もまた、同じように、変形していった。かつて、優しく、美しい顔は、もはや、原型を留めていなかった。まるで、誰かの手によって、粘土のようにこねられたかのような、恐ろしい形相になっていた。
「健司さん…私、怖い…」
美咲は、そう言って、鏡に映る自分の姿から目を背けた。
私も、例外ではなかった。私の顔も、体も、原型を留めないほどに歪んでいった。私たちは、もはや、人間とは呼べない、おぞましい姿へと変貌していった。
その日から、私たちは、家の中に閉じこもるようになった。誰も、私たちの姿を見ることはできない。いや、見てはならない。私たちは、人間としての尊厳を失い、ただ、恐怖と絶望の中で、生きる屍となっていた。
ある晩、私は、美咲とひかりが寝静まった後、一人、リビングで、窓の外を眺めていた。外は、相変わらずの澱んだ鉛色の空が広がっていた。すると、遠くの方から、けたたましいサイレンの音が聞こえてきた。救急車だろうか?それとも、消防車?
その時、私は、窓の外に、一人の男が立っていることに気づいた。男は、全身を白い防護服で覆い、顔には、ガスマスクのようなものを装着していた。男は、じっと、私たちの家を見つめていた。
私は、恐怖を感じ、窓から離れようとした。しかし、その時、男が、私の家の玄関のドアを、まるで自分の家のように、躊躇なく開けた。
私は、震えながら、男の姿を見つめた。男は、リビングに入ってくると、私に向かって、ゆっくりと歩み寄ってきた。私は、どうすることもできず、ただ、男の接近を待つしかなかった。
男は、私の目の前に立つと、ガスマスクをゆっくりと外した。その顔を見て、私は、息をのんだ。その顔は、私と同じように、原型を留めていなかった。まるで、粘土のようにこねられ、歪んだ、おぞましい顔だった。
「…お前は、誰だ…?」
私の震える声に、男は、何も答えなかった。ただ、にやりと、口角を上げた。その笑みは、まるで、私と同じような、絶望と恐怖を内包していた。
その時、男は、手にした注射器を、私の腕に突き刺した。私は、悲鳴をあげようとしたが、声が出なかった。体中に、何かが、急速に流れ込んでくるのを感じた。それは、まるで、熱湯を浴びせられたかのような、激しい痛みを伴っていた。
そして、その痛みは、やがて、快感へと変わっていった。私の体は、さらに大きく膨らみ、顔は、さらに歪んでいった。私は、もはや、自分自身が、人間であるという認識すら、失いかけていた。
男は、私の腕から注射器を抜き取ると、再び、ガスマスクを装着し、静かに、家を出て行った。私は、ただ、その場に立ち尽くし、自分の体の中で、何かが、急速に、成長しているのを感じていた。
次の日の朝、私は、ベッドの上で、自分の体を見つめていた。それは、もはや、私の体ではなかった。全身は、まるで風船のように膨らみ、皮膚は、今にも破裂しそうに張り詰め、顔は、もはや、鏡に映すことすらためらわれるほどの、おぞましい姿になっていた。
私は、美咲とひかりの部屋へと向かった。ドアを開けると、そこには、私と同じように、変形した二人の姿があった。二人は、苦しそうに、うめき声をあげていた。
「…美咲…ひかり…」
私の声は、もはや、人間のものではなかった。まるで、機械が発するような、濁った、おぞましい声だった。
その時、ひかりが、私に向かって、手を伸ばした。しかし、その手は、すでに、人間の形を留めていなかった。指は、まるでソーセージのように太く、短く、爪は、まるで鳥の爪のように、鋭く、曲がっていた。
「パパ…私、怖いよ…」
ひかりの声は、もはや、言葉として聞き取ることができなかった。ただ、その口から発せられる、濁った、うめき声のようなものだけが、部屋に響き渡っていた。
その瞬間、ひかりの体が、大きく膨らんだ。皮膚が、まるで風船のように、限界まで張り詰め、そして、弾けた。
「ひかり!」
私は、悲鳴をあげた。しかし、その声は、もはや、悲鳴ではなかった。ただ、獣のような、おぞましい叫び声だった。
ひかりの体から、大量の血と、内臓のようなものが、部屋中に飛び散った。その飛び散った血と内臓は、まるで生きているかのように、蠢いていた。
美咲もまた、同じように、苦しみ始めた。美咲の体も、大きく膨らみ、そして、弾けた。
「美咲!」
私の叫び声は、もはや、私自身のものだったのか、それとも、誰かのものだったのか、わからなかった。ただ、部屋中に、飛び散った美咲の体から、血と内臓が、まるで生き物のように、蠢いていた。
私は、その場に立ち尽くし、ただ、その光景を見つめることしかできなかった。愛する妻と娘が、目の前で、無残にも、弾け飛んだのだ。
そして、その時、私は、自分の体の中で、何かが、急速に、破裂しようとしているのを感じた。
私は、部屋の隅に、身をかがめた。そして、自分の体の中で、何かが、急速に、膨らんでいるのを感じた。
「…ああ…」
私の口から漏れた声は、もはや、言葉ではなかった。ただ、苦しみと、絶望を、内包した、おぞましい叫び声だった。
私の体は、大きく膨らみ、皮膚は、限界まで張り詰め、そして、弾けた。
私の体から飛び散った血と内臓は、まるで生きているかのように、蠢いていた。そして、その蠢く血と内臓は、美咲とひかりのそれと、ゆっくりと、しかし確実に、融合していった。
そして、その融合した、おぞましい塊は、ゆっくりと、形を変え始めた。
それは、私でもない。美咲でもない。ひかりでもない。
私たち、三人、それぞれの意識が、混沌とした一つの塊の中で、混ざり合っていた。
それは、まるで、一つの脳みそが、三人分の意識を、同時に感じているかのようだった。
「…パパ…」
「…健司さん…」
「…私…」
三つの声が、一つの塊の中から、同時に、響き渡っていた。それは、もはや、言葉ではなかった。ただ、三つの意識が、それぞれの絶望と恐怖を、同時に感じている、という、おぞましい事実を、表しているだけだった。
私たちは、もはや、人間ではなかった。私たちは、一つの、おぞましい塊として、この部屋の中で、永遠に、生き続ける。
そして、私たちの体から飛び散った、蠢く血と内臓は、部屋の隅々まで広がり、やがて、家全体を覆い尽くしていった。
それは、まるで、私たちの家全体が、一つの、おぞましい生命体へと、変貌していくかのようだった。
そして、その家全体が、ゆっくりと、しかし確実に、膨らみ始めた。
それは、まるで、この家全体が、一つの風船のように、限界まで膨らみ、そして、やがて、弾け飛ぶかのようだった。
私たちは、もはや、人間としての、生を失った。しかし、私たちは、永遠に、このおぞましい塊の中で、生き続ける。
それは、ウイルスによって、もたらされた、新しい生活様式。
それは、人間という存在を、根底から覆す、おぞましい変異だった。
そして、私たちの家から、始まったその変異は、ゆっくりと、しかし確実に、この街全体、そして、世界全体へと、広がり続けていく。
私たちは、一つの、おぞましい塊として、永遠に、この世界に、存在し続ける。
それは、孤独でも、絶望でもない。
それは、ただ、おぞましい、一つの、集合意識の誕生だった。
そして、その意識は、永遠に、苦しみと、絶望を、感じ続ける。
私たちの死は、単なる死ではなかった。
それは、私たちの意識が、永遠に、この世界に、囚われ続ける、という、おぞましい、呪いだった。
その家は、やがて、街の人々から、「風船屋敷」と呼ばれるようになった。
その家の中からは、時折、男と女と子供の、三つの声が、同時に聞こえてくる、と噂された。
その声は、まるで、苦しみに喘いでいるかのようであり、絶望に満ちているかのようでもあった。
そして、その噂は、次第に、街全体に広がり、やがて、世界全体に広まっていった。
その声を聞いた人々は、皆、口々に言った。
「あれは、新しい生活様式の、始まりだ。」
そして、その声を聞いた人々は、皆、自分の体に、小さな赤い斑点ができていることに、気づいた。
それは、もはや、誰にも止めることのできない、おぞましい、呪いの連鎖だった。
風邪のようなウイルスが猛威を振るい始めた当初、私たちは他の多くの家庭と同じように、恐怖と不安に苛まれた。だが、幸いなことに、私たちは三人とも感染することなく、この「新しい生活様式」と呼ばれる不自由な日常に適応していった。マスク、消毒、ソーシャルディスタンス。それらは、もはや生活の一部となり、息をすることと同じくらい当たり前の行動となっていた。
しかし、その日常は、ある日突然、終わりを告げた。いや、終わりを告げたわけではない。むしろ、何かが始まってしまったのだ。
それは、ひかりが学校から帰ってきた日のことだった。ランドセルを床に放り投げ、いつものように「ただいま!」と元気な声でリビングに入ってきた。だが、その声は、どこか違和感があった。かすれて、少し震えている。
「ひかり、どうしたんだ?風邪でも引いたのか?」
私はそう言って、娘の額に手を当てた。熱はない。だが、ひかりの顔は、なぜか青白い。
「パパ、あのね…」
ひかりは、震える声で私に話した。学校の帰りに、いつも通る公園で、一人の老婆が倒れていたという。ひかりは心配になり、声をかけたが、老婆は何も言わず、ただ、うめき声のようなものを漏らしていたそうだ。そして、ひかりがその老婆に近づこうとした瞬間、老婆の顔が、まるで風船のように膨らみ、弾けたというのだ。
「ぐちゃぐちゃになって、血がいっぱい出て…」
ひかりは、それ以上話すことができず、泣き出してしまった。私は、娘を抱きしめ、落ち着かせようとした。老婆の顔が弾ける?そんな馬鹿な話があるわけがない。きっと、ひかりが何かの勘違いをしたのだろう。あるいは、誰かにからかわれたのかもしれない。そう思い、私は娘に「怖かったね。でも、きっと夢だよ」と優しく語りかけた。
しかし、その夜、私は奇妙な夢を見た。夢の中で、私は、ひかりが話していた老婆と同じ場所に立っていた。老婆は、うずくまるようにして地面に倒れている。そして、私が近づくと、老婆はゆっくりと顔を上げた。
その顔は、皺だらけで、まるで何十年も前に死んだ人間のようだった。老婆は、私に向かって、にやりと笑った。そして、その瞬間、老婆の顔が、風船のように膨らみ始めた。皮膚が破裂しそうなほどに張り詰め、目が飛び出しそうになり、口からは、血のような液体が噴き出した。
私は、恐怖のあまり、叫び声をあげた。そして、そこで目が覚めた。全身に冷や汗をかき、心臓がバクバクと音を立てていた。夢だ。夢なのだ。そう自分に言い聞かせるが、心臓の鼓動は収まらない。私は、ベッドから起き上がり、リビングへと向かった。
美咲は、すでに起きていて、台所で朝食の準備をしていた。
「どうしたの、健司さん。顔色が悪いわよ。」
美咲は、私の顔を見て、心配そうに言った。私は、昨晩の夢の話をしようか迷ったが、美咲を不安にさせるだけだと思い、何も言わなかった。
「なんでもない。ちょっと変な夢を見ただけだよ。」
私は、そう言って、無理に笑顔を作った。しかし、その時、私は、美咲の首元に、小さな赤い斑点があることに気づいた。蚊に刺されたのだろうか?そう思って、私は美咲に「蚊に刺されたのか?」と尋ねた。美咲は、自分の首元を見て、「え?ああ、そうなのかな。気づかなかったわ。」と答えた。
その日から、私と美咲、そしてひかりの体に、小さな赤い斑点ができ始めた。それは、まるで蚊に刺されたかのように、少し痒みがあった。最初は、季節の変わり目で肌が荒れたのだろう、と思っていた。しかし、その斑点は、日を追うごとに増え、次第に、膨らみ始めた。
それは、まるで、何かが、私たちの体の中で、成長しているかのようだった。
私たちは、病院に行った。しかし、どの病院でも、原因はわからないと言われた。ただ、共通して言われたのは、「これは、新しいタイプのウイルス感染の可能性がある」ということだった。
新しいタイプのウイルス?私たちは、今まで、感染対策を徹底してきたはずだ。マスク、消毒、ソーシャルディスタンス。それでも、何かが、私たちの体を蝕んでいる。
「もしかしたら、接触感染ではないのかもしれません。」
ある医者が、そう言った。
「空気感染でも、飛沫感染でもなく、何らかの波長、あるいは、電磁波のようなものによって感染する、全く新しいタイプのウイルスかもしれません。」
医者の言葉に、私たちは、ただただ、恐怖を感じるしかなかった。私たちは、どこから感染したのだろう?公園で倒れていた老婆?あるいは、その老婆が撒き散らした、目に見えない、何らかの波長?
私たちの体は、日に日に変形していった。赤い斑点は、やがて、小さなイボとなり、それが、全身を覆うようになった。皮膚は、まるでゴムのように伸び、張りを失い、顔は、まるで風船のように膨らみ始めた。
「パパ…私、どうなっちゃうの…?」
ひかりは、鏡に映る自分の姿を見て、泣き叫んだ。その顔は、もはや、かつての愛らしい娘の顔ではなかった。目は窪み、頬はパンパンに膨れ、口は、裂けたように横に広がっていた。
「大丈夫だよ、ひかり。パパとママが、絶対治してあげるから。」
私は、そう言って、娘を抱きしめた。しかし、その時、ひかりの体が、私の腕の中で、ぐにゃりと歪んだような気がした。
美咲もまた、同じように、変形していった。かつて、優しく、美しい顔は、もはや、原型を留めていなかった。まるで、誰かの手によって、粘土のようにこねられたかのような、恐ろしい形相になっていた。
「健司さん…私、怖い…」
美咲は、そう言って、鏡に映る自分の姿から目を背けた。
私も、例外ではなかった。私の顔も、体も、原型を留めないほどに歪んでいった。私たちは、もはや、人間とは呼べない、おぞましい姿へと変貌していった。
その日から、私たちは、家の中に閉じこもるようになった。誰も、私たちの姿を見ることはできない。いや、見てはならない。私たちは、人間としての尊厳を失い、ただ、恐怖と絶望の中で、生きる屍となっていた。
ある晩、私は、美咲とひかりが寝静まった後、一人、リビングで、窓の外を眺めていた。外は、相変わらずの澱んだ鉛色の空が広がっていた。すると、遠くの方から、けたたましいサイレンの音が聞こえてきた。救急車だろうか?それとも、消防車?
その時、私は、窓の外に、一人の男が立っていることに気づいた。男は、全身を白い防護服で覆い、顔には、ガスマスクのようなものを装着していた。男は、じっと、私たちの家を見つめていた。
私は、恐怖を感じ、窓から離れようとした。しかし、その時、男が、私の家の玄関のドアを、まるで自分の家のように、躊躇なく開けた。
私は、震えながら、男の姿を見つめた。男は、リビングに入ってくると、私に向かって、ゆっくりと歩み寄ってきた。私は、どうすることもできず、ただ、男の接近を待つしかなかった。
男は、私の目の前に立つと、ガスマスクをゆっくりと外した。その顔を見て、私は、息をのんだ。その顔は、私と同じように、原型を留めていなかった。まるで、粘土のようにこねられ、歪んだ、おぞましい顔だった。
「…お前は、誰だ…?」
私の震える声に、男は、何も答えなかった。ただ、にやりと、口角を上げた。その笑みは、まるで、私と同じような、絶望と恐怖を内包していた。
その時、男は、手にした注射器を、私の腕に突き刺した。私は、悲鳴をあげようとしたが、声が出なかった。体中に、何かが、急速に流れ込んでくるのを感じた。それは、まるで、熱湯を浴びせられたかのような、激しい痛みを伴っていた。
そして、その痛みは、やがて、快感へと変わっていった。私の体は、さらに大きく膨らみ、顔は、さらに歪んでいった。私は、もはや、自分自身が、人間であるという認識すら、失いかけていた。
男は、私の腕から注射器を抜き取ると、再び、ガスマスクを装着し、静かに、家を出て行った。私は、ただ、その場に立ち尽くし、自分の体の中で、何かが、急速に、成長しているのを感じていた。
次の日の朝、私は、ベッドの上で、自分の体を見つめていた。それは、もはや、私の体ではなかった。全身は、まるで風船のように膨らみ、皮膚は、今にも破裂しそうに張り詰め、顔は、もはや、鏡に映すことすらためらわれるほどの、おぞましい姿になっていた。
私は、美咲とひかりの部屋へと向かった。ドアを開けると、そこには、私と同じように、変形した二人の姿があった。二人は、苦しそうに、うめき声をあげていた。
「…美咲…ひかり…」
私の声は、もはや、人間のものではなかった。まるで、機械が発するような、濁った、おぞましい声だった。
その時、ひかりが、私に向かって、手を伸ばした。しかし、その手は、すでに、人間の形を留めていなかった。指は、まるでソーセージのように太く、短く、爪は、まるで鳥の爪のように、鋭く、曲がっていた。
「パパ…私、怖いよ…」
ひかりの声は、もはや、言葉として聞き取ることができなかった。ただ、その口から発せられる、濁った、うめき声のようなものだけが、部屋に響き渡っていた。
その瞬間、ひかりの体が、大きく膨らんだ。皮膚が、まるで風船のように、限界まで張り詰め、そして、弾けた。
「ひかり!」
私は、悲鳴をあげた。しかし、その声は、もはや、悲鳴ではなかった。ただ、獣のような、おぞましい叫び声だった。
ひかりの体から、大量の血と、内臓のようなものが、部屋中に飛び散った。その飛び散った血と内臓は、まるで生きているかのように、蠢いていた。
美咲もまた、同じように、苦しみ始めた。美咲の体も、大きく膨らみ、そして、弾けた。
「美咲!」
私の叫び声は、もはや、私自身のものだったのか、それとも、誰かのものだったのか、わからなかった。ただ、部屋中に、飛び散った美咲の体から、血と内臓が、まるで生き物のように、蠢いていた。
私は、その場に立ち尽くし、ただ、その光景を見つめることしかできなかった。愛する妻と娘が、目の前で、無残にも、弾け飛んだのだ。
そして、その時、私は、自分の体の中で、何かが、急速に、破裂しようとしているのを感じた。
私は、部屋の隅に、身をかがめた。そして、自分の体の中で、何かが、急速に、膨らんでいるのを感じた。
「…ああ…」
私の口から漏れた声は、もはや、言葉ではなかった。ただ、苦しみと、絶望を、内包した、おぞましい叫び声だった。
私の体は、大きく膨らみ、皮膚は、限界まで張り詰め、そして、弾けた。
私の体から飛び散った血と内臓は、まるで生きているかのように、蠢いていた。そして、その蠢く血と内臓は、美咲とひかりのそれと、ゆっくりと、しかし確実に、融合していった。
そして、その融合した、おぞましい塊は、ゆっくりと、形を変え始めた。
それは、私でもない。美咲でもない。ひかりでもない。
私たち、三人、それぞれの意識が、混沌とした一つの塊の中で、混ざり合っていた。
それは、まるで、一つの脳みそが、三人分の意識を、同時に感じているかのようだった。
「…パパ…」
「…健司さん…」
「…私…」
三つの声が、一つの塊の中から、同時に、響き渡っていた。それは、もはや、言葉ではなかった。ただ、三つの意識が、それぞれの絶望と恐怖を、同時に感じている、という、おぞましい事実を、表しているだけだった。
私たちは、もはや、人間ではなかった。私たちは、一つの、おぞましい塊として、この部屋の中で、永遠に、生き続ける。
そして、私たちの体から飛び散った、蠢く血と内臓は、部屋の隅々まで広がり、やがて、家全体を覆い尽くしていった。
それは、まるで、私たちの家全体が、一つの、おぞましい生命体へと、変貌していくかのようだった。
そして、その家全体が、ゆっくりと、しかし確実に、膨らみ始めた。
それは、まるで、この家全体が、一つの風船のように、限界まで膨らみ、そして、やがて、弾け飛ぶかのようだった。
私たちは、もはや、人間としての、生を失った。しかし、私たちは、永遠に、このおぞましい塊の中で、生き続ける。
それは、ウイルスによって、もたらされた、新しい生活様式。
それは、人間という存在を、根底から覆す、おぞましい変異だった。
そして、私たちの家から、始まったその変異は、ゆっくりと、しかし確実に、この街全体、そして、世界全体へと、広がり続けていく。
私たちは、一つの、おぞましい塊として、永遠に、この世界に、存在し続ける。
それは、孤独でも、絶望でもない。
それは、ただ、おぞましい、一つの、集合意識の誕生だった。
そして、その意識は、永遠に、苦しみと、絶望を、感じ続ける。
私たちの死は、単なる死ではなかった。
それは、私たちの意識が、永遠に、この世界に、囚われ続ける、という、おぞましい、呪いだった。
その家は、やがて、街の人々から、「風船屋敷」と呼ばれるようになった。
その家の中からは、時折、男と女と子供の、三つの声が、同時に聞こえてくる、と噂された。
その声は、まるで、苦しみに喘いでいるかのようであり、絶望に満ちているかのようでもあった。
そして、その噂は、次第に、街全体に広がり、やがて、世界全体に広まっていった。
その声を聞いた人々は、皆、口々に言った。
「あれは、新しい生活様式の、始まりだ。」
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