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 緩やかに波打つ栗色の髪に櫛を差し入れながら、ルクスは深いため息をついた。常闇を照らす聖女という立場上、沈んだ顔を見せないようにと気をつけているが、一人になるとうなだれずにはいられなかった。

 魔王に支配されて久しいこの世界に平和をもたらす救世の勇者と慈光の聖女、高名な予言者の言葉を背負って生まれたルクスは幼い頃から類稀なる魔力を持ち、来るべき日まで山頂の修道院で大切に育てられた。

 その生活が終わりを告げたのは四ヶ月前。北方で勇者の剣に選ばれたという青年が現れて、話し合いの末、旧王都で顔を合わせることが決まった。護衛とともに山を下り、長旅の末に辿りついたかつて栄華を誇った街では、多くの人に歓待された。ルクスは人々の希望だった。

(あんなに大勢の方が私に期待しているのに)

 先ほどよりも大きなため息が唇から洩れる。
 今日に至るまで抱え続けてきた秘密に想いを馳せると、胸が押しつぶされそうだった。あらゆるものを癒し清めると噂される両手で顔を覆い、意味をなさない呻きを洩らす。

(何もできないなんて、なんてお詫びすれば……)

 ――そう、あらゆるものを癒すどころか、ルクスは小さな擦り傷すら治癒できなかった。修道院の子供が日常的に使用する簡単な魔法ですら、ひとつも使えなかった。

 確かにルクスは生まれつき強大な力を持っている。神に選ばれし魔力の泉という教会の評価は誇張ではない。しかし力はエネルギーであり、魔法あるいは教会の信徒が扱う聖霊法として外部へ送り出さなくては意味がない。そしてルクスは、どれほどの研鑽を積んでも全く魔力を形にできなかった。

 聖霊法を使えない聖女、しかしその事実を明かすには、ルクスにかかる期待は大きすぎた。ルクスの姿を見た者の病が改善したという偶然が、それに拍車をかけた。

 もう少し成長すればきっと使えるようになる、成人の儀を迎えれば、勇者が現れれば、山を下りれば。教会の言葉に縋りながら禁欲と敬虔を貫いてきたが事態は変わらず、数日後には勇者が到着する。勇者を前にすれば本来の力を発揮できるかもしれないとも言われたが、これまで何をしても上手くいかなかった以上期待できるとは思えなかった。勇者はルクスという荷物を抱えて旅をするか、新たな聖女を探す羽目になる。

 失望されるのはしょうがない。役立たずだと思われるのも。しかし、人々の期待を裏切るのは堪らなく心苦しかった。聖女様がこの世界に光を取り戻して下さると信じています――旧王都を訪れた日にかけられた言葉を思い出すと、胸がきりきりと痛む。いっそ全てを明らかにして修道院に戻りたいほどだったが、それが許されないことは骨身に染みて知っていた。

 考えれば考えるほど息が上がり、心臓が破裂しそうな心地になる。心を染め上げる強い恐怖と罪悪感に身を小さくすると、不意に扉を叩く音がした。

「は、はい」

 反射的に返事をしたものの、胸に湧き上がったのは強い警戒心だった。
 ここは街の中央に位置する大教会で、寝る前の祈りはすでに終わっている。こんな時間に訪ねてくるなど、何かあったのだろうか。不安を抱えながらおそるおそる扉を開くと、立っていたのは法衣に身を包んだ男性だった。

「聖女様、夜分に申し訳ありません」

 囁くような声とともに会釈されて、無意識に身を硬くする。切れ長の瞳と、几帳面に撫でつけられた黒い髪。背が高く、些か骨ばった印象の若く端正な男。街を歩けば多くの女性の目を引くだろう。
 女子修道院で育ったため異性との接点が殆どないルクスにとっては気後れする対象だったが、叩き込まれた聖女としての振る舞いが自然な笑みを浮かべさせた。ごく僅かに扉を開いたまま、ゆっくり首を振る。

「お気になさらず、私に何かご用ですか?」
「ええ、ですがここでは少し……失礼ですが、中に入れていただけますか?」
「生憎ですが、まだ旅の荷物を片付けておりませんので」

 穏やかに返したものの、心の中ではますます不信感が膨れ上がっていた。有りえない申し出だった。いくら聖職者とはいえ、夜更けに異性を部屋に招くわけがない。
 夜盗の類でないことを祈りながら、一歩身を引いて丁寧に頭を下げる。せっかくご足労いただいたのに申し訳ないですが、今晩のところはお帰りください。そう扉を閉めようとしたルクスに、しかし男は淡灰色の目を緩やかに細めた。

「……実は、貴方が魔力の扱いに困っているのではと思いまして」
「!」

 予想していなかった言葉にルクスは目を見開いた。誰も知らない、決して明かさないよう言い聞かされてきたルクスの秘密。頭を殴られたような強い衝撃に微笑むことさえ忘れたルクスの手を軽く引くと、男は影のようにするりと部屋の中に入ってきた。

「ぇ……?」
「不躾をお許しください。私の名はヴェルムと申します」

 ルクスが言葉を失ったのは男の、ヴェルムの行動に驚いたからだけではない。ほんの短い時間触れた手から伝わった低い体温と、それに呼応するように流動した自らの魔力が原因だった。あらゆる手を尽くしても反応しない凪のような力が、ヴェルムが触れた瞬間、確かに皮膚の下で動いた。それはルクスにとって、半ば奇跡のような出来事だった。

「ヴェルム様、い、今、何を……」

 声が震える。知らず両手を握りしめたルクスの問いかけには答えず、ヴェルムは粗末な丸椅子に腰を下ろした。長い足を組むと、うろたえるルクスの爪先から頭頂へと視線を滑らせて。

「見たところ非常に強力な魔力をお持ちのようですが、魔法……貴方がたは聖霊法と呼ぶのでしたか、とにかく、法術として用いるのは難しそうですね」
「どうしてそれを……い、いえ、それより、先ほど貴方が触れた時、私の力が反応したのは」
「教えて差し上げますが、先に約束していただけますか? 自在に法術を扱えるようになった暁には、私に協力して下さると」

 囁くような声音に、ルクスの動きが止まる。突然現れた、名前以外なにも知らない男。何ひとつ信用に足らない。正式な場を設けて話を聞くまで。約束などできるわけがない。わかっていても、ルクスはヴェルムの言葉に縋らずにはいられなかった。
 民の期待を裏切る聖女、勇者の足を引っ張るであろう己が、救いの力を得られるかもしれない。長い苦悩から解放されるかもしれない。迷いと渇望が波のように押し寄せてただ呼吸すら忘れたルクスに、ヴェルムは柔らかく微笑みかけた。

「何も無理難題を要求するわけではありません。私はただ、貴方に光をもたらしてほしい。魔王様が捨て置けなくなるほど偉大な聖女となってほしいのです」

 言葉とともに、足元に黒いものが広がる。
 朽ちた樹木を思わせるそれがヴェルムの影だと気付くより先に、ルクスは崩れるように床に倒れ込んだ。
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