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第二章

右目の異能

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 東京駅の方を見ると、血の豪雨を降らしていた赤い雲がかなり広がっているように見えた。

「ここもじきに血の雨が降りそうだ、時間がないぞ」
「そのようね。時任ときとうさん、私のこの右目の本当の力、見せてあげる。こっち来て」

 つばさはそう言うと、東京駅を見渡すことができるところまで私の手を引っ張っていった。今にも崩れ落ちそうなビルの間から見える東京駅、いや東京城は赤い堅牢な結界に閉ざされ、何者も寄せ付けまいとする雰囲気を漂わせていた。
 血の混じった生ゴミのような腐臭が生暖かい風に乗って吹いてきた。私はその悪臭にむせびながら質問した。

「本当の力って? 霊体との交信以外にも何か……」
「しっ集中させて。時任さんは私の後ろに下がって見ていて」

 つばさは足を踏ん張って、右手でこめかみのあたりを押さえた。つばさの肩が小刻みに震え出す。

「ううううううぅうう、ぉぉおぉああああ」

 突然、つばさは苦しそうな声を出し始めた。その声はすぐに雄叫びのようなものに変わっていく。

「ぁぁあああああああああああああ!」

 冷静だったつばさが豹変し、狂人のように声を張り上げ続ける。

「おい、大丈夫か、つばさちゃん!」

 私がつばさに近寄ろうと手を伸ばしたとき、彼女はそのままその場にへたり込んでしまった。そして、つばさはすっと前の方を指さした。

「お、おい。何なんだこれは……現実なのか……」

 私たちの先に広がっていたのは真っ白の世界。かろうじて見えるのは風景や物体の輪郭のみ。東京駅とその周辺の空間がキャンバスに描かれたような白黒の絵になっていたのだ。

「今、私たちが見てるのは異界」
「異界? 異界を呼び寄せたというのか……信じられない」

 背中に何かがぶつかった。私は知らず知らずのうちに後ずさりをしていたようだ。振り返るとそこにあったのはイヴの身体。彼女は微動だにせず、静かにそこに立っていた。凍てつくほど冷たく、硬いようで柔らかい何とも形容しがたいその感触が私の意識を醒ましていく。
 そうだった。私はもう科学では考えられない世界に足を突っ込んでいるのだ。これが現実なのだ。何を今さら恐れているのだ。私は妻の死の謎に迫るためにここに来ているのだろう。
 
 つばさが右目を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。
 
「前は異界。後ろは私たち人間の世界。私の右の目に映っていた空間だけが異界になったということ」
「異界になった? そこにあった世界はいったいどこへ行ってしまったんだ?」
「元の世界は異界に行ってるの。つまり、そっくりと空間が入れ替わってしまったということ。でも後で戻せるから心配しないで」

 何ということだ。つばさの桁違いの能力に度肝を抜かれ、唖然としてしまう。

。さあ、時任さん急いで。時間はあまりないわ」
 
 今まで棺のそばでじっとしていた死装束の般若たちが音もなくこちらに近づいてきた。つばさが何か交信したのだろう。ふと、つばさの右目を見ると大量の血が流れていた。

「つばさちゃん、その目!」
「いいの! そんなことより急いで。この空間は脆いの」
「この空間、入っていいのか?」

 つばさは私の質問に答えず、自ら真っ白な空間に入っていった。私も歯を食いしばり、火事の中の豪炎に飛び込むような覚悟でつばさに続いた。



 そこにあったのは、無音、無味、無臭、無限、永遠の時間──すべてが無の空間。

 孤独。孤立。私は死んでしまったのか。

 すぐ近くに何かの感触がある。変に懐かしく感じる感触。美沙みさ、美沙か。いや、冷たい。死んだ美沙か。

 違う……この感じは……わかる。イヴ、イヴだ。イヴがそこにいる。

 その時、微かに誰かの声が聞こえた。頭の中に直接響いてくるようだ。

「……とう……ん、ときと……さん」

 だんだんと声が明瞭になってくる。声の主はつばさか? つばさだ。つばさの声だ。私は、まだ生きているのだ。何とも言えない安堵感に包まれる。 
 
「時任さ……聞こえる? 何も考えず、東京駅の構内を……して……もうすぐこの空間が壊……る」

 何だって? 空間が壊れる? そんなこと入る前に言ってくれ。私は声にならない声を出して、無我夢中で微かに見える東京駅のシルエットを目指して走った。途中、階段のようなところで思いっきりつまずき、膝と腕に激痛が走った。やはり私は生きている。
 しかし、そんな悠長なことを言っている余裕はない。急がねば。私は階段ようなものを這いつくばりながら必死で登った。

 急に体が浮いたような感じがした。何かが私を抱えて走ってくれているようだ。この感触はイヴ、やはりイヴなのか。もう誰でもいい、私を駅の中まで……

 そんなことを考えていた時、私は意識が反転するような不思議な感覚に陥った。

  
 気がつくと、私は生々しい空間にいた。突然の視界の転換に気持ち悪くなり、私は吐いてしまう。

 しばらく立ち上がれず吐き続けた。相当吐いてしまったようだ。自分が撒き散らした吐瀉物の量に驚く。いや、おかしい。こんなにも吐けるはずがない…… 
 それは私の吐瀉物ではなかった。肉がドロドロに溶けたような、内臓をぶちまけたかのような床だったのだ。その赤いおぞましい絨毯は脈打ちながらそこらじゅう一面に広がっていた。それも床だけではなく、柱も壁も天井も。
 これは、東京駅にいた人の残骸か。私は空っぽになった胃から出ないはずの胃酸がまた込み上げて来て、嗚咽のように嘔吐えずいた。

「これは……そうか、ここは駅の中か」

 蠢く床がビクンと大きく脈打った。すると床から血走った目が一斉に現れ、ギョロギョロと何かを探すようにその目玉を動かし始めた。
 こいつら、外から東京駅を見たときに現れたではないか。この後は……あの地獄絵図のようなシーンが頭をよぎる。

 しかし、私が気が付いたときはすでに遅かった。肉が削げおち、血塗れになった手があたり一面から生えていたのだ。
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