スズランの色

加那川礎宇

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 小さな花が顔を出しているのは、嬉しい気持ち。薄い薄氷が湖に張っているのは、少し切ない気持ち。そして、桜が散る姿は、淡い恋のような気持ち。景色には――色には沢山の感情が埋まっている。
 あなたなら、この景色はもっと鮮明に見えるのかな。
 分からないけど、私はあなたと同じ物が見えていると信じたいな。
 これは前置き。始まり方は大好きな小説のように。

 さて、これはある春の日のことだった。

 * * *

 涼しげな風が並木道を通り過ぎた。頬に当たる風は、甘く、緑の青い香りがした。
 こうして一つ一つ考えてみると、日本語とは不思議なものだ。緑の香りを青と表現する。
「はぁ」
 疲れてもないが、ため息をついた。ネットの情報によると、ため息をつくと精神的に楽になるらしい。
 僕は、ベンチに腰を下ろした。そして、手に持っている本を開いた。本といっても教科書なので、かなりの重量がある。
「おとーさん!見て、見て!桜ー!」
 小さな女の子が嬉しそうに、父親と思われる男性の手を引く。女の子と男性の影は、黄色に染まっている。その色は、道端に咲くタンポポのようだ。
 唐突だが、僕には人の心が見える。
 嬉しい心は黄色、楽しい心は緑色、悲しい心は青色、怒っている心は赤色。
 その色がいつから見えるようになったのかは分からない。ただ、一つ言えるのは、その色が見えるせいでずっと恋が出来なかった。恋がしたい、と男が言うには少々女々しいが、実際に恋を経験してみたいと思う。恋なんて、しようと思えばできる、というのは真実だが心の色が見えると、なんだかズルをしているみたいな気分になって、できなくなってしまった。
「はぁ……」
 二回目のため息をつくと、どこからともなく帽子が飛んできた。その帽子を反射的に両手に収める。薄ピンクに染められたベレー帽には一箇所、小さな白いスズランの刺しゅうが施してある。
 帽子の主を探して辺りを見渡すと、その主はすぐに見つかった。分かりやすく慌てているから一目瞭然だ。
 驚いた。持ち主が見つかったことにではなく、他のことに驚いていた。
 その子の影には色が無かった。というか、見たことのない、鮮やかな影本来の色をしていた。その時、ふいに思った。
 この子と話をしてみたい、と。
「ねえ君、帽子落とさなかった?」
 驚いたような顔をして振り返った女性は、頭の上を雪のような白い手で押さえていた。その人は、女性というよりも、失礼かもしれないが、まだ幼い少女のような印象を受けた。
「その帽子って――」
 あどけない表情をした彼女は、手を胸の前に持ってきた。
「ピンク色、ですか?」
 柔らかい、風鈴を思わせるような声は、水面を打つように心の中に広がっていく。
「え?ああ、うん」
 質問の意図が分からず、帽子を渡そうと前に出した手を止める。そしてその返答に女性は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。その帽子、とても大切なものなんです」
 そう言って、手を差し出した。僕はその動作に微かな違和感を覚えながらも、ベレー帽を手渡した。彼女の手が帽子に触れたとき、どこかで嗅いだような甘い花の香りが薄っすらと広がった。
「ありがとうございます」
 もう一度ペコリ、と効果音がつくような礼をして、彼女は帽子を頭にのせた。そして桜の散る道を歩き始めた。その姿が遠くなっていくのを見ていると、ある感情が募っていった。
 もう一度話したい。もっと、あの人のことを知りたい――。
「あの!」
 その人は私かな?というように振り返った。
「あ、あの!えっと……」
 はやる心臓を抑えながら、彼女のもとへ走る。そして、心の中の感情を声にした。
「もし、よろしければ、お茶に行きませんか」
 これは断じてナンパではない。
 ……彼女の目には、赤面する僕がどう映っただろうか。
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