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想いが届いた、そのあとは
馬上の距離
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聖騎士でありながら、ノアは馬に乗れない。
それは弱さではなく、彼女の在り方そのものだった。
……いや、正確に言えば「乗る必要がない」。
彼女が本気を出せば、竜として空を飛ぶ方が、馬で駆けるより何倍も速く、何倍も安全だ。
戦力的にも任務的にも、これはまったく深刻な問題ではない。
――それでも。
「……一応、聖騎士としては、乗れた方がいいですよね」
訓練場の片隅で、ノアはそう言って、少しだけ困ったように笑った。
春の陽射しが、彼女の銀色の髪に反射している。
その笑顔を見ただけで、胸の奥がふっと緩むのだから、我ながら単純だと思う。
「形式上ね。行進や閲兵の場では、馬に乗ることもあるから」
「やっぱり……」
ノアは、厩舎の前に繋がれた馬を見上げた。
大人しくて、人懐っこそうな栗毛の牝馬。
ただ、近づくにつれて、ノアの足取りがわずかに慎重になるのが分かる。
――怖がっているわけじゃない。
剣を握る時の迷いとは、まったく違う。
ノアは馬の耳の動きや、呼吸の間、蹄が地を踏む音にまで気を配っている。
まるで「嫌じゃないか」「緊張していないか」と問いかけるように。
その気遣いが、かえって馬を落ち着かなくさせていることに、彼女自身は気づいていない。
人として生きているけれど、本質は竜。
相手の感情を感じ取りすぎるがゆえの、不器用さ。
「……じゃあ」
僕は、なるべく平然とした声で言った。
「僕が一緒に乗ろうか」
「……え?」
ノアが瞬きをする。
あ、これは完全に予想してなかった顔だ。
「訓練なら、指導役が必要だろう? 二人乗りなら、君も安心だ」
自分で言っておいて、内心では心臓がうるさい。
理屈は完璧だ。完璧すぎて、逆に怪しい。
――ああ。
これ、訓練って言っていいのか?
いや、言い張るしかない。
だって、これがデートだなんて認めたら、僕の心臓がもたない。
ノアは一瞬迷ったように視線を揺らし、それから小さくうなずいた。
「……お願いします。レックス」
その呼び方だけで、もう勝ちだと思ってしまうのは、反則だろうか。
「……待ってて」
それだけ言って、厩舎の奥へ向かい、黒い馬を連れ出す。
まだ若い、二歳のコルト。
艶のある黒毛に、引き締まった肢体。
こちらを見るなり、耳がぴんと立ち、次の瞬間にはのんびりと鼻を鳴らした。
物音にも、人の動きにも、ほとんど動じない。
好奇心は強いが、腰が据わっている。
僕が近づくと、声をかけなくても首をこちらに寄せてくる。
――気配に敏感なのは、相変わらずだ。
「……きれいな馬ですね」
ノアが、思わずそう呟いた。
「この子はコルト、僕が世話してるんだ」
余計な説明はしない。
事実だけを、淡々と。
「人に触られるのに慣れてる。まだ走り込みはこれからだけど、歩きと軽速歩は安定してる」
黒い馬は、ノアの方を見て、興味深そうに鼻先を伸ばした。
警戒はない。ただ、観察しているだけだ。
ノアがそっと手を伸ばすと、馬は一瞬だけ瞬きをして、それから気にせず受け入れた。
ノアの肩の力が、ほんのわずかに抜けるのが分かる。
「……なんだか、安心します」
「うん。落ち着いてるんだ。音にも、人の迷いにも、あまり左右されない」
言いながら、少しだけおかしくなる。
それはたぶん、僕が自分自身にも求めてきた在り方だった。
* * *
馬上に乗ると、思ったよりも距離が近い。
ノアが前に座り、僕が後ろ。
自然と、僕の腕が彼女の腰のあたりに回る形になる。
――近い。思ったより、ずっと。
「……あの」
ノアの声が、すぐ前で聞こえる。
「手綱は……こう、ですか?」
「うん。でも、僕が後ろから支えるから、力を抜いて」
そう言って、彼女の手に軽く自分の手を重ねる。
一瞬、ノアの指がぴくりと震えた。
それでも、コルトは耳を揺らすだけで、歩調を崩さない。
「……大丈夫」
低く、馬に聞かせるように言いながら、
ノアの手に添える力を、ほんの少しだけ強めた。
すると不思議なことに、ノアの肩から力が抜ける。
それにつられるように、馬の呼吸も落ち着いていった。
――思い出す。
士官学校時代、ノアは乗馬訓練だけはどうしてもうまくいかなかった。
彫像のように動かない馬。
焦る。
そして、馬が暴れて落ちる。
――何度も。
教官が首を傾げ、同期が言葉を失い、最終的には、あの神官長が肩をすくめて言ったのだ。
「ま、ノアでしょ? 馬に乗れなくてもいいんじゃない?」
その一言で、すべてが通ってしまったのも、今思えばあの人らしい。
コルトは、今も変わらず、ゆったりと歩いている。
「……馬って、思ったより高いですね」
「空を飛ぶ君が、それを言うのは意外だな」
「空は……自分の翼で飛ぶので」
妙に真面目な返答に、思わず小さく笑ってしまう。
その気配を感じたのか、ノアが少しだけ身じろぎした。
「……レックス、笑いました?」
「うん。ごめん、君の言い方が可愛くて」
「か、かわ……っ」
言い切る前に、ノアは黙り込んだ。
手綱を握る力が、ほんの少しだけ強くなる。
それでも、コルトは動じない。
むしろ、後ろにいる僕の気配を確かめるように、耳をこちらへ向けた。
「あ……ごめんなさい」
「気にしなくていい。僕がいる」
そう言うと、ノアは小さく息を吐いた。
コルトもそのまま、穏やかな歩調を保っている。
訓練場を抜け、城の外周へと続く小道に入った。
春の草の匂い。遠くで鳥の声。
歩みは、さらにゆっくりになっていた。
訓練用とはいえ、城の外周路は穏やかで、急ぐ理由がどこにもない。
――いや、本当は分かっている。
急ぎたくないのは、コルトじゃない。僕自身だ。
「……不思議ですね」
ノアが、ぽつりと言った。
「何が?」
「私が緊張しても、この子は動じませんね。……レックスが後ろにいるから、でしょうか」
胸の奥が、きゅっと締まる。
「一人だと、どうしても相手のことを考えすぎてしまって……」
「それは、君の悪い癖じゃない」
静かに、でもはっきりと言う。
「優しさだよ。ただ……背負いすぎなだけ」
ノアは少し黙って、それから小さく笑った。
「……はい。でも、後ろに誰かがいると、預けられますね」
――あの頃のノアは、誰にも預けられなかった。
傷つけないように、壊さないようにと気を配るあまり、
相手を信じることを、どこかで恐れていた。
けれど今は違う。
後ろに僕がいることを、疑いなく受け入れている。
自分の不器用さを、責めずに委ねている。
それだけで、コルトも、彼女自身も、穏やかになる。
コルトは、ゆっくりと歩き続ける。
ふたり乗りの鞍は、少し狭くて。
けれど、その狭さが、今は心地よい。
「……でも」
ノアが、少しだけ困ったように続けた。
「やっぱり私は、飛ぶ方が得意です」
それを聞いて、思わず笑ってしまう。
「うん。知ってる」
分かっている。
これは本当に、訓練としては必要最低限だ。
だからこそ。
「……でも、たまには」
僕は意を決して言った。
「たまには、こういう移動もいいと思う。急がない時間って、大切だから」
ノアはしばらく黙って、それから――
「……はい」
その一言だけで、全部報われた気がした。
竜の翼で空を飛ぶ方が速い。
それでも、あえて地を歩く。
誰かに任せ、誰かを信じて進む時間。
春風が、ふたりの間を静かに通り抜けていく。
馬には、まだ少しだけ苦手意識が残っているのかもしれない。
それでも――誰かを信じて進むことは、もうできている。
それは弱さではなく、彼女の在り方そのものだった。
……いや、正確に言えば「乗る必要がない」。
彼女が本気を出せば、竜として空を飛ぶ方が、馬で駆けるより何倍も速く、何倍も安全だ。
戦力的にも任務的にも、これはまったく深刻な問題ではない。
――それでも。
「……一応、聖騎士としては、乗れた方がいいですよね」
訓練場の片隅で、ノアはそう言って、少しだけ困ったように笑った。
春の陽射しが、彼女の銀色の髪に反射している。
その笑顔を見ただけで、胸の奥がふっと緩むのだから、我ながら単純だと思う。
「形式上ね。行進や閲兵の場では、馬に乗ることもあるから」
「やっぱり……」
ノアは、厩舎の前に繋がれた馬を見上げた。
大人しくて、人懐っこそうな栗毛の牝馬。
ただ、近づくにつれて、ノアの足取りがわずかに慎重になるのが分かる。
――怖がっているわけじゃない。
剣を握る時の迷いとは、まったく違う。
ノアは馬の耳の動きや、呼吸の間、蹄が地を踏む音にまで気を配っている。
まるで「嫌じゃないか」「緊張していないか」と問いかけるように。
その気遣いが、かえって馬を落ち着かなくさせていることに、彼女自身は気づいていない。
人として生きているけれど、本質は竜。
相手の感情を感じ取りすぎるがゆえの、不器用さ。
「……じゃあ」
僕は、なるべく平然とした声で言った。
「僕が一緒に乗ろうか」
「……え?」
ノアが瞬きをする。
あ、これは完全に予想してなかった顔だ。
「訓練なら、指導役が必要だろう? 二人乗りなら、君も安心だ」
自分で言っておいて、内心では心臓がうるさい。
理屈は完璧だ。完璧すぎて、逆に怪しい。
――ああ。
これ、訓練って言っていいのか?
いや、言い張るしかない。
だって、これがデートだなんて認めたら、僕の心臓がもたない。
ノアは一瞬迷ったように視線を揺らし、それから小さくうなずいた。
「……お願いします。レックス」
その呼び方だけで、もう勝ちだと思ってしまうのは、反則だろうか。
「……待ってて」
それだけ言って、厩舎の奥へ向かい、黒い馬を連れ出す。
まだ若い、二歳のコルト。
艶のある黒毛に、引き締まった肢体。
こちらを見るなり、耳がぴんと立ち、次の瞬間にはのんびりと鼻を鳴らした。
物音にも、人の動きにも、ほとんど動じない。
好奇心は強いが、腰が据わっている。
僕が近づくと、声をかけなくても首をこちらに寄せてくる。
――気配に敏感なのは、相変わらずだ。
「……きれいな馬ですね」
ノアが、思わずそう呟いた。
「この子はコルト、僕が世話してるんだ」
余計な説明はしない。
事実だけを、淡々と。
「人に触られるのに慣れてる。まだ走り込みはこれからだけど、歩きと軽速歩は安定してる」
黒い馬は、ノアの方を見て、興味深そうに鼻先を伸ばした。
警戒はない。ただ、観察しているだけだ。
ノアがそっと手を伸ばすと、馬は一瞬だけ瞬きをして、それから気にせず受け入れた。
ノアの肩の力が、ほんのわずかに抜けるのが分かる。
「……なんだか、安心します」
「うん。落ち着いてるんだ。音にも、人の迷いにも、あまり左右されない」
言いながら、少しだけおかしくなる。
それはたぶん、僕が自分自身にも求めてきた在り方だった。
* * *
馬上に乗ると、思ったよりも距離が近い。
ノアが前に座り、僕が後ろ。
自然と、僕の腕が彼女の腰のあたりに回る形になる。
――近い。思ったより、ずっと。
「……あの」
ノアの声が、すぐ前で聞こえる。
「手綱は……こう、ですか?」
「うん。でも、僕が後ろから支えるから、力を抜いて」
そう言って、彼女の手に軽く自分の手を重ねる。
一瞬、ノアの指がぴくりと震えた。
それでも、コルトは耳を揺らすだけで、歩調を崩さない。
「……大丈夫」
低く、馬に聞かせるように言いながら、
ノアの手に添える力を、ほんの少しだけ強めた。
すると不思議なことに、ノアの肩から力が抜ける。
それにつられるように、馬の呼吸も落ち着いていった。
――思い出す。
士官学校時代、ノアは乗馬訓練だけはどうしてもうまくいかなかった。
彫像のように動かない馬。
焦る。
そして、馬が暴れて落ちる。
――何度も。
教官が首を傾げ、同期が言葉を失い、最終的には、あの神官長が肩をすくめて言ったのだ。
「ま、ノアでしょ? 馬に乗れなくてもいいんじゃない?」
その一言で、すべてが通ってしまったのも、今思えばあの人らしい。
コルトは、今も変わらず、ゆったりと歩いている。
「……馬って、思ったより高いですね」
「空を飛ぶ君が、それを言うのは意外だな」
「空は……自分の翼で飛ぶので」
妙に真面目な返答に、思わず小さく笑ってしまう。
その気配を感じたのか、ノアが少しだけ身じろぎした。
「……レックス、笑いました?」
「うん。ごめん、君の言い方が可愛くて」
「か、かわ……っ」
言い切る前に、ノアは黙り込んだ。
手綱を握る力が、ほんの少しだけ強くなる。
それでも、コルトは動じない。
むしろ、後ろにいる僕の気配を確かめるように、耳をこちらへ向けた。
「あ……ごめんなさい」
「気にしなくていい。僕がいる」
そう言うと、ノアは小さく息を吐いた。
コルトもそのまま、穏やかな歩調を保っている。
訓練場を抜け、城の外周へと続く小道に入った。
春の草の匂い。遠くで鳥の声。
歩みは、さらにゆっくりになっていた。
訓練用とはいえ、城の外周路は穏やかで、急ぐ理由がどこにもない。
――いや、本当は分かっている。
急ぎたくないのは、コルトじゃない。僕自身だ。
「……不思議ですね」
ノアが、ぽつりと言った。
「何が?」
「私が緊張しても、この子は動じませんね。……レックスが後ろにいるから、でしょうか」
胸の奥が、きゅっと締まる。
「一人だと、どうしても相手のことを考えすぎてしまって……」
「それは、君の悪い癖じゃない」
静かに、でもはっきりと言う。
「優しさだよ。ただ……背負いすぎなだけ」
ノアは少し黙って、それから小さく笑った。
「……はい。でも、後ろに誰かがいると、預けられますね」
――あの頃のノアは、誰にも預けられなかった。
傷つけないように、壊さないようにと気を配るあまり、
相手を信じることを、どこかで恐れていた。
けれど今は違う。
後ろに僕がいることを、疑いなく受け入れている。
自分の不器用さを、責めずに委ねている。
それだけで、コルトも、彼女自身も、穏やかになる。
コルトは、ゆっくりと歩き続ける。
ふたり乗りの鞍は、少し狭くて。
けれど、その狭さが、今は心地よい。
「……でも」
ノアが、少しだけ困ったように続けた。
「やっぱり私は、飛ぶ方が得意です」
それを聞いて、思わず笑ってしまう。
「うん。知ってる」
分かっている。
これは本当に、訓練としては必要最低限だ。
だからこそ。
「……でも、たまには」
僕は意を決して言った。
「たまには、こういう移動もいいと思う。急がない時間って、大切だから」
ノアはしばらく黙って、それから――
「……はい」
その一言だけで、全部報われた気がした。
竜の翼で空を飛ぶ方が速い。
それでも、あえて地を歩く。
誰かに任せ、誰かを信じて進む時間。
春風が、ふたりの間を静かに通り抜けていく。
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