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第一輯 奥村仁右衛門、仁の珠の犬士となるお話
その一
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○ 一
ざーざーざざざー
大粒の雨が、体を打っている。
仁右衛門は夢から覚めた姿勢のままだ。虚空に右手を突き上げ、その涙に濡れた双眸は、未だ地に落ちた近藤の生首を見ているかのようだ。
が、あれは、もう何日と前の話なのである。
仁右衛門は右手を降ろし、体をまさぐる。身を横たえたまま、目玉をわずかに動かす。総身が痛み、呼吸をするのも億劫だ。
(一体、自分は、どこにいるのか――)
眩暈がおさまると、朦朧とした視界の中に、樹幹がくっきりと浮かび上がる。茫漠とした意識が、わずかに立ち直る。上野のお山か、と思ったときには、慌てて身を起こしていた。
赤子の激しい泣き声が、いくさ場を引き裂くように、轟き渡っていたからだ。
○ 二
辺りは一面水浸しで、泥濘の中に、具足を着た体が沈まっていた。パチパチ、パチパチ、木の爆ぜる音がして、見ると、御堂が火を噴き上げているのである。
一体、どのぐらい気を失っていたのか。泥から腕を上げるのにも苦労した。にもまして厄介なのは、胴丸を貫通してくいこんだ、数発の弾丸である。
敵弾を三発、立て続けに受けて倒れたことを思い出した。腹と胸に一つずつ。胴丸を貫通して食い込んでいる。それで怯んだところ、左の側頭を横殴りにされて、昏倒したのだ。
痛みに堪えて身を返す。どうにか肘をついた。
「あの赤子だ……」
仁右衛門は、刀を探して這いまわる。
あの赤子、といっても、彼はその赤子のことを知らない。どこの誰で、どこにいたのかも。ただ、幾度か見たことがあるのである。
仁右衛門はその赤子を夢の中で、あるいは白日夢の中で見た。普通の白昼夢と違うのは、始まる前は、必ず激しい頭痛を伴うこと。夢の間も意識があるということである。夢はごく短かな物で、情報は少ない。ビジョン――と彼は呼んでいる。意味はわからなかったが、夢の中でときおり浮かんでくるのである。西洋に同じ言葉があるのを知ったのは、最近のことだ。彼にはそんなところがあった。知るはずもない知識を口にしたり、行ったはずのない場所なのに、妙に詳しかったりした。自分でも気味が悪く、ビジョンについて他人に話したことは一度もない。
仁右衛門がビジョンの中で目にするのは、赤子だけではなかったのだ。
地面は、敵味方が踏み荒らして、泥沼と化している。辺りには、仲間の遺体が、あちこちに転がっている。仲間の血海と雨とが、入り交じっているのである。
不忍池をこして放たれたアームストロング砲の威力は凄まじく、仲間は散々に引き裂かれてしまった。
仁右衛門はふと手を止めて、膝立ちのまま顔を上げた。
「いくさは終わったのか……?」
(彰義隊は負けたのか――)
そのわりに、銃声だけは散発的に聞こえてくる。
あたりは火気とともに、硝煙の香りが未だ漂い、鼻腔をさしてくる――
○ 三
時節は、黴雨(ばいう)である。
時は、幕末――
所は、江戸。
上野、寛永寺、境内であった。
仁右衛門の奥村家は、御徒衆を代々続ける、歴とした御家人である。この二百年ばかり、徳川家の禄を食んできた。
仁右衛門は、現当主だ。本人が死ねばお家は断絶だが、彰義隊にノコノコと参加した、困った男だ。
御徒組――といっても、文久の軍制改革から、御持小筒組と改称されている。以来、洋式銃砲の訓練を行ってきた。
この男も、その変遷をたどって、生きてきた。
やがて、その統率力を買われて、フランス伝習隊の隊長となり、長州征討、鳥羽伏見と、幕末の戦いを、幕府の命脈が尽きるまで続けてきた。
その大半が負け戦であったが、ここ上野でも、この男は敗れたわけだ。
○ 四
山内の伽藍(がらん)が、続々と焼かれている。
が、仁右衛門の関心は、徳川家の霊廟になく、赤子にあった。
とまれ、仁右衛門は、刀を拾い上げると、燃えさかる文殊楼を後にし、声の出所を目指す。
赤子は雨の中、林の中にいたはずである。今の状況と合致している。
明晰夢、とはいえ、夢はいずれも茫漠としてとりとめがなく、意識の覚醒と反比例するかのように、薄れてしまう。赤子と、同じ夢に登場する老人――二人は仁右衛門に、何事か伝えたがっているかのように、幾度もフラッシュバックを繰り返しては消える。二人が雨の中にいて、一方が死体であったことを思い出した。
仁右衛門は、刀を杖に彷徨し、やがて官軍の捨てたとおぼしき新式銃を拾い上げた。
うまい具合に、スペンサー銃だ。後込めの連発銃である。弾丸は七発までこめられるはずだ。伝習隊で、操作は習熟している。
弾倉はチューブ式になっており、後部銃床におさめられている。確かめると、二発の残弾があった。
仁右衛門は、レバーアクションをして排莢(はいきょう)する。ハンマーを起こし、銃床を頬に当てた。
そのまま、わずかに腰を落とし、移動を開始する。
○ 五
この仁右衛門という男、元々彰義隊士ではない。
洋式訓練を受けてはいるが、元は直新影流の皆伝者で、長じてからは牛込の試衛館で、近藤の食客となっていた。本人が御家人であるので、清河八郎の浪士組には参加しなかったが、試衛館の面々とは、ずっと剣を通じてのつながりがあった。上洛のおりは屯所に立ち寄り、親交を深めてきた。
だから、江戸に戻って後は、伝習隊の脱走組には加わらず、甲陽鎮撫隊に身を投じたのであった。
仁右衛門は、荒い息をつきながら、手近の幹に背を預けた。
思ったよりも、傷が深い。胴丸にたまった血が腰を降り、側線入りのズボンを染めあげている。仁右衛門は脇の紐をとくと、竹胴を落とし、より軽装になった。
血が流れすぎた。手先に痺れが走る。
仁右衛門は、木立を離れ、さまようようによろめいた。
(総司……)
植木屋に残してきた、沖田の姿が、胸裡を埋める。悔恨があった。近藤の死を、沖田には告げずじまいで出てきたのだ。医者ではない仁右衛門の見立てでも、総司はとても助からない。
自分は飯もろくにとれんのに、近藤の心配ばかりして。奴は近藤の消息を知るためだけに生きているようなものだった。
この二人、年が一つしか違わない。ゆえに互いを意識して、切磋琢磨し生きてきた。ふいに試衛館での日々を思い起こし、涙が胸を埋めた。多摩での出稽古の日々が、鮮やかによみがえった。
彰義隊への参加をほのめかしたとき、沖田は彼を笑わなかった。が、今思うと、沖田は、これ以上病み衰えていく姿を、自分に見せたくなかったのではないか――いや、自分こそが、あの強い総司が骨と皮だけになっていく様を、見ていられなかったのではないか、と思うのである。
「卑怯者め……」
仁右衛門は、そう自らを責めると、赤子の声に導かれるようにして、よろぼうていく。
仁右衛門が上野に来たのは、夢の光景に執着してのことでもあった。こんなことは一度ではない。これまでに幾度もあった。夢の光景に従うことで、自分の部隊を救ってきたのである。度重なる窮地を切り抜けてきた。いつしか自分の見ている光景が、幻などではなく、未来――それもかなり近しい未来であることを、確信するようになっていた。だが今回だけは、この窮地を脱するどんな方途も、見当たりそうになかった。総司は、江戸を守ってこいと佩刀までよこしてきたが、江戸は守れず、早晩自分も死ぬことになりそうだ。
(総司、すまん、先にあの世で待っておくわい)
仁右衛門は、決然顔を上げると、最後のいくさにのぞんだのであった。
○ 六
慶応四年。
五月十五日、のことである。
江戸城は無血開城し、徳川慶喜は、すでに水戸へと去っている。
が、彰義隊は、徳川家、霊廟守護を名目に、寛永寺に留まり続けた。薩長軍と敵対しては、政府軍兵士を殺傷する。そんな事件が、多発していたおりである。
その新政府が、対旧幕軍の司令官として呼び寄せたのは、天才軍略家、大村益次郎であった。大村は、手始めに、上野山に総攻撃をかけることを、江戸中に布告した。市中に散らばる隊士を、一カ所に集めて殲滅すること、逃げる時間を与え、戦闘を回避することを、目的としている。
事実、四千名を超えていた隊員も、決戦の間際には、千名ほどに減ってしまった。
寛永寺は二百四十年間、江戸の鬼門を守り続けた、将軍家の菩提寺である。開府以来、隆盛を誇ってきたが、それも、わずか半日の闘争で、地形が変わるほどに荒廃している。根本中堂はおろか、三十六坊にのぼる子院も、五重塔も、大仏殿を要する伽藍も灰燼に帰そうとしている。
黒門にいた仁右衛門らは、よく戦った。山王台からの砲撃をくわえ、旺盛な射撃を見せている。官軍を諸門に近づけなかった。
が、会津藩兵に化けた長州軍が、藩旗を掲げ、彰義隊陣地に出現すると、背後を打たれた部隊は大混乱に陥った。
時を同じくして、加賀藩邸に据えられたアームストロング砲が、不忍池を越して炸裂した。薩摩兵の決死の吶喊がはじまると、各隊は総崩れとなり、ついには黒門口まで抜かれてしまった。
圧倒的多数の官軍に囲まれ、彰義隊は、寛永寺本堂まで退却している。
仁右衛門は、生きたまま、戦場に取り残された。
○ 七
今、仁右衛門は、スペンサーのみを頼りに、声の主へと近づいている。
この体ではもう刀は振るえないだろう。銃床を頬に当て、いつでも射撃ができるよう、引き金に指を添えて慎重に近づいていく。
声は、近い。
辺りを索敵しながら、木立の蔭を拾うようにして移動する。
赤子の悲鳴に混じって、激しい剣戟の音がする。
残存兵がいる、と思った。自分と同じく逃げ遅れた連中だろう。
声がいっそう高くなった。
巨大な樫の根元で、争う人影が見えた。
上下真っ黒な着物をきた男が、太い根の合間に倒れた男に向かって、刀を突き下ろした。仁右衛門は息をのんだ。黒づくめの足下で、救いを求めるように虚空に右手を突き出しているのは、白髪の老人だ。ビジョンのとおりだ。
眼の裏が痛み、視界がくらんだ。体がこわばる。鼓動が早まった。血液が沸点をあげ、全身の細胞がざわめくかのようだ。
どちらが官軍かはわからない。が、仁右衛門は老人を味方と思った。故郷を遠く離れた薩長兵に、あんな老兵が混ざっているとは思えない。
(赤子は――?)
いた。胸を貫かれ、あげていた腕をドッと落とした老人の側で、白布にくるまれた赤子が、盛大に声を上げている。
仁右衛門はしばらく動けなかった。激しい頭痛とめまいに襲われ、息ができない。夢が現実と重なるとき、必ず現れる症状だった。こんなとき、いつも浮かぶ幻像がある。自分をはさんで、巨大な二つの波濤が衝突し合っている幻影である。仁右衛門はひそひそと距離をつめた。失血のため、視界がくらんできた。この距離では当てる自信がない。
男が赤子に向かってかがむのに及んで、仁右衛門は力を絞って声を荒げた。
「待て、その子から手を離せ!」
男が鋭く振り向く。仁右衛門は雨のかかるまぶたを瞬いた。
「お前は……」
ざーざーざざざー
大粒の雨が、体を打っている。
仁右衛門は夢から覚めた姿勢のままだ。虚空に右手を突き上げ、その涙に濡れた双眸は、未だ地に落ちた近藤の生首を見ているかのようだ。
が、あれは、もう何日と前の話なのである。
仁右衛門は右手を降ろし、体をまさぐる。身を横たえたまま、目玉をわずかに動かす。総身が痛み、呼吸をするのも億劫だ。
(一体、自分は、どこにいるのか――)
眩暈がおさまると、朦朧とした視界の中に、樹幹がくっきりと浮かび上がる。茫漠とした意識が、わずかに立ち直る。上野のお山か、と思ったときには、慌てて身を起こしていた。
赤子の激しい泣き声が、いくさ場を引き裂くように、轟き渡っていたからだ。
○ 二
辺りは一面水浸しで、泥濘の中に、具足を着た体が沈まっていた。パチパチ、パチパチ、木の爆ぜる音がして、見ると、御堂が火を噴き上げているのである。
一体、どのぐらい気を失っていたのか。泥から腕を上げるのにも苦労した。にもまして厄介なのは、胴丸を貫通してくいこんだ、数発の弾丸である。
敵弾を三発、立て続けに受けて倒れたことを思い出した。腹と胸に一つずつ。胴丸を貫通して食い込んでいる。それで怯んだところ、左の側頭を横殴りにされて、昏倒したのだ。
痛みに堪えて身を返す。どうにか肘をついた。
「あの赤子だ……」
仁右衛門は、刀を探して這いまわる。
あの赤子、といっても、彼はその赤子のことを知らない。どこの誰で、どこにいたのかも。ただ、幾度か見たことがあるのである。
仁右衛門はその赤子を夢の中で、あるいは白日夢の中で見た。普通の白昼夢と違うのは、始まる前は、必ず激しい頭痛を伴うこと。夢の間も意識があるということである。夢はごく短かな物で、情報は少ない。ビジョン――と彼は呼んでいる。意味はわからなかったが、夢の中でときおり浮かんでくるのである。西洋に同じ言葉があるのを知ったのは、最近のことだ。彼にはそんなところがあった。知るはずもない知識を口にしたり、行ったはずのない場所なのに、妙に詳しかったりした。自分でも気味が悪く、ビジョンについて他人に話したことは一度もない。
仁右衛門がビジョンの中で目にするのは、赤子だけではなかったのだ。
地面は、敵味方が踏み荒らして、泥沼と化している。辺りには、仲間の遺体が、あちこちに転がっている。仲間の血海と雨とが、入り交じっているのである。
不忍池をこして放たれたアームストロング砲の威力は凄まじく、仲間は散々に引き裂かれてしまった。
仁右衛門はふと手を止めて、膝立ちのまま顔を上げた。
「いくさは終わったのか……?」
(彰義隊は負けたのか――)
そのわりに、銃声だけは散発的に聞こえてくる。
あたりは火気とともに、硝煙の香りが未だ漂い、鼻腔をさしてくる――
○ 三
時節は、黴雨(ばいう)である。
時は、幕末――
所は、江戸。
上野、寛永寺、境内であった。
仁右衛門の奥村家は、御徒衆を代々続ける、歴とした御家人である。この二百年ばかり、徳川家の禄を食んできた。
仁右衛門は、現当主だ。本人が死ねばお家は断絶だが、彰義隊にノコノコと参加した、困った男だ。
御徒組――といっても、文久の軍制改革から、御持小筒組と改称されている。以来、洋式銃砲の訓練を行ってきた。
この男も、その変遷をたどって、生きてきた。
やがて、その統率力を買われて、フランス伝習隊の隊長となり、長州征討、鳥羽伏見と、幕末の戦いを、幕府の命脈が尽きるまで続けてきた。
その大半が負け戦であったが、ここ上野でも、この男は敗れたわけだ。
○ 四
山内の伽藍(がらん)が、続々と焼かれている。
が、仁右衛門の関心は、徳川家の霊廟になく、赤子にあった。
とまれ、仁右衛門は、刀を拾い上げると、燃えさかる文殊楼を後にし、声の出所を目指す。
赤子は雨の中、林の中にいたはずである。今の状況と合致している。
明晰夢、とはいえ、夢はいずれも茫漠としてとりとめがなく、意識の覚醒と反比例するかのように、薄れてしまう。赤子と、同じ夢に登場する老人――二人は仁右衛門に、何事か伝えたがっているかのように、幾度もフラッシュバックを繰り返しては消える。二人が雨の中にいて、一方が死体であったことを思い出した。
仁右衛門は、刀を杖に彷徨し、やがて官軍の捨てたとおぼしき新式銃を拾い上げた。
うまい具合に、スペンサー銃だ。後込めの連発銃である。弾丸は七発までこめられるはずだ。伝習隊で、操作は習熟している。
弾倉はチューブ式になっており、後部銃床におさめられている。確かめると、二発の残弾があった。
仁右衛門は、レバーアクションをして排莢(はいきょう)する。ハンマーを起こし、銃床を頬に当てた。
そのまま、わずかに腰を落とし、移動を開始する。
○ 五
この仁右衛門という男、元々彰義隊士ではない。
洋式訓練を受けてはいるが、元は直新影流の皆伝者で、長じてからは牛込の試衛館で、近藤の食客となっていた。本人が御家人であるので、清河八郎の浪士組には参加しなかったが、試衛館の面々とは、ずっと剣を通じてのつながりがあった。上洛のおりは屯所に立ち寄り、親交を深めてきた。
だから、江戸に戻って後は、伝習隊の脱走組には加わらず、甲陽鎮撫隊に身を投じたのであった。
仁右衛門は、荒い息をつきながら、手近の幹に背を預けた。
思ったよりも、傷が深い。胴丸にたまった血が腰を降り、側線入りのズボンを染めあげている。仁右衛門は脇の紐をとくと、竹胴を落とし、より軽装になった。
血が流れすぎた。手先に痺れが走る。
仁右衛門は、木立を離れ、さまようようによろめいた。
(総司……)
植木屋に残してきた、沖田の姿が、胸裡を埋める。悔恨があった。近藤の死を、沖田には告げずじまいで出てきたのだ。医者ではない仁右衛門の見立てでも、総司はとても助からない。
自分は飯もろくにとれんのに、近藤の心配ばかりして。奴は近藤の消息を知るためだけに生きているようなものだった。
この二人、年が一つしか違わない。ゆえに互いを意識して、切磋琢磨し生きてきた。ふいに試衛館での日々を思い起こし、涙が胸を埋めた。多摩での出稽古の日々が、鮮やかによみがえった。
彰義隊への参加をほのめかしたとき、沖田は彼を笑わなかった。が、今思うと、沖田は、これ以上病み衰えていく姿を、自分に見せたくなかったのではないか――いや、自分こそが、あの強い総司が骨と皮だけになっていく様を、見ていられなかったのではないか、と思うのである。
「卑怯者め……」
仁右衛門は、そう自らを責めると、赤子の声に導かれるようにして、よろぼうていく。
仁右衛門が上野に来たのは、夢の光景に執着してのことでもあった。こんなことは一度ではない。これまでに幾度もあった。夢の光景に従うことで、自分の部隊を救ってきたのである。度重なる窮地を切り抜けてきた。いつしか自分の見ている光景が、幻などではなく、未来――それもかなり近しい未来であることを、確信するようになっていた。だが今回だけは、この窮地を脱するどんな方途も、見当たりそうになかった。総司は、江戸を守ってこいと佩刀までよこしてきたが、江戸は守れず、早晩自分も死ぬことになりそうだ。
(総司、すまん、先にあの世で待っておくわい)
仁右衛門は、決然顔を上げると、最後のいくさにのぞんだのであった。
○ 六
慶応四年。
五月十五日、のことである。
江戸城は無血開城し、徳川慶喜は、すでに水戸へと去っている。
が、彰義隊は、徳川家、霊廟守護を名目に、寛永寺に留まり続けた。薩長軍と敵対しては、政府軍兵士を殺傷する。そんな事件が、多発していたおりである。
その新政府が、対旧幕軍の司令官として呼び寄せたのは、天才軍略家、大村益次郎であった。大村は、手始めに、上野山に総攻撃をかけることを、江戸中に布告した。市中に散らばる隊士を、一カ所に集めて殲滅すること、逃げる時間を与え、戦闘を回避することを、目的としている。
事実、四千名を超えていた隊員も、決戦の間際には、千名ほどに減ってしまった。
寛永寺は二百四十年間、江戸の鬼門を守り続けた、将軍家の菩提寺である。開府以来、隆盛を誇ってきたが、それも、わずか半日の闘争で、地形が変わるほどに荒廃している。根本中堂はおろか、三十六坊にのぼる子院も、五重塔も、大仏殿を要する伽藍も灰燼に帰そうとしている。
黒門にいた仁右衛門らは、よく戦った。山王台からの砲撃をくわえ、旺盛な射撃を見せている。官軍を諸門に近づけなかった。
が、会津藩兵に化けた長州軍が、藩旗を掲げ、彰義隊陣地に出現すると、背後を打たれた部隊は大混乱に陥った。
時を同じくして、加賀藩邸に据えられたアームストロング砲が、不忍池を越して炸裂した。薩摩兵の決死の吶喊がはじまると、各隊は総崩れとなり、ついには黒門口まで抜かれてしまった。
圧倒的多数の官軍に囲まれ、彰義隊は、寛永寺本堂まで退却している。
仁右衛門は、生きたまま、戦場に取り残された。
○ 七
今、仁右衛門は、スペンサーのみを頼りに、声の主へと近づいている。
この体ではもう刀は振るえないだろう。銃床を頬に当て、いつでも射撃ができるよう、引き金に指を添えて慎重に近づいていく。
声は、近い。
辺りを索敵しながら、木立の蔭を拾うようにして移動する。
赤子の悲鳴に混じって、激しい剣戟の音がする。
残存兵がいる、と思った。自分と同じく逃げ遅れた連中だろう。
声がいっそう高くなった。
巨大な樫の根元で、争う人影が見えた。
上下真っ黒な着物をきた男が、太い根の合間に倒れた男に向かって、刀を突き下ろした。仁右衛門は息をのんだ。黒づくめの足下で、救いを求めるように虚空に右手を突き出しているのは、白髪の老人だ。ビジョンのとおりだ。
眼の裏が痛み、視界がくらんだ。体がこわばる。鼓動が早まった。血液が沸点をあげ、全身の細胞がざわめくかのようだ。
どちらが官軍かはわからない。が、仁右衛門は老人を味方と思った。故郷を遠く離れた薩長兵に、あんな老兵が混ざっているとは思えない。
(赤子は――?)
いた。胸を貫かれ、あげていた腕をドッと落とした老人の側で、白布にくるまれた赤子が、盛大に声を上げている。
仁右衛門はしばらく動けなかった。激しい頭痛とめまいに襲われ、息ができない。夢が現実と重なるとき、必ず現れる症状だった。こんなとき、いつも浮かぶ幻像がある。自分をはさんで、巨大な二つの波濤が衝突し合っている幻影である。仁右衛門はひそひそと距離をつめた。失血のため、視界がくらんできた。この距離では当てる自信がない。
男が赤子に向かってかがむのに及んで、仁右衛門は力を絞って声を荒げた。
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