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おーい彦六
おーい彦六
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奥州遊侠藩の御城下、高田小牧通りに彦六一家の屋敷はあった。
一家の長、彦六が死んだのは、今年の一月の初めのことである。
『葬式不要、戒名不要』
一代の粋人、黒田彦六の残した、唯一の遺言がこれだった。
さて、彦六には十九になる息子がいた。
黒田親子でこの世に唯一居残った、黒田半兵太である。
当然、二代目は半兵太と決まったが、ここで意外なところからしぶる者が現われた。
彦六の母、きねである。半兵太にとっては祖母にあたる。
七十才をすぎてなお矍鑠とした老婆で、背筋をぴぃーんと張ってはどこへでも出かけていく。しかもこのきねは、昔は高田小町と呼ばれるほど美しかった。そのおかげで、今でも害意のなさそうなかわいいばっちゃまに見えてしまうのである。
ところが、外見をとって判断をしては大まちがいであった。
もう大年寄りもいいとこなのに、真性のいたずら者で、人をからかっては喜んでいる。怒られればすねるし、そうなったら隠居所にひきこもって、三日は出て来ない。
どうしようもないひねくれ者だが、七十才を越えた今でも粋人だった。
歯も丈夫。固い煎餅をばりばりと食う。
きねの外見は、誰が見ても六十程度にしか見えない。下手をすると、五十ですかという目の腐った奴もいる。
きねはその度に、そんなに若くあるもんかい、と怒るが、本心は嬉しいらしかった。次の日のおめかしがまた凄まじい。
当時の七十才と云えば、生きも生きたり、娑婆ふさぎもいいところである。
しかし、そんなきねでも一人息子の彦六が死んだのは堪えたようだ。その寂しさ故の気晴らしに、半兵太以下彦六一家の面々は付き合わされる羽目になった。
奥の座敷に、例のきねばあを中心に、一家の主たるものが集まっている。
「若造になにができるもんかっ」ときねは云うのである。「彦六が体はって守り通した一家ののれんを、半兵太ごとき若輩者に、わたすわけにゃあ相いかぬ」
そう宣わった上に、見得まで切ってみせた。
きね、まだまだ人生は上々のようである。
「しかし、ばっつぁま。ボンは立派なもんですぜ」
と具申したのは、一家の長老格伴兵衛じいである。彦六のよき理解者であり、親友でもあった。はやくして父をなくした彦六は、伴兵衛じいを親代わりにと孝行したものだった。
伴兵衛もそんな彦六が息子のように見えてしょうがないらしい。半兵太にいたっては、もはや孫のようなものだ。
だからではなく、伴兵衛じいは本気で立派なもんだと思っていた。
喧嘩は弱いが、義理人情は人一倍。不条理があれば相手かまわずむしゃぶりついていく。
ただ、彦六の場合はかならず相手を二間は吹っ飛ばしたが、この人の場合そうはいかない。逆にしたたかやられるのである。
それでもへこたれない根性と度胸のよさは、伴兵衛も大物だと思うのだ。
なにより、彦六と気質がうり二つだった。怒りっぽくて涙もろくて、後くされがないのがよかった。
怒るときは焼いた栗みたいに怒って、笑うときはそれこそ心の底から笑っている。細々したことは、なんだろうとすぐに忘れてくさくさしない。
半兵太は彦六の喧嘩の強さ以外の全てを受け継いだようだ。二代目にすんなり押されたのも、当然といえば当然の成行だった。
しかし、きねは納得しない。
彦六一家は、博打以外にもさまざまな店を出しており、町人からも頼られている。そんじょそこらの無頼の徒とは、一味も二味も違うのである。
その一家をつぐには、並みの男では駄目だ。これが、きねばあの主張なのであった。
歯切れの云い声でぽんぽんまくしたてられては、打ち破る論法がない。
大の男がそろいもそろって、七十を越えたばあさまにやりこめられるという、なんとも情けない事態におちいったのであった。
「なにが立派だ。ふらふら遊び歩いているだけじゃないか」
きねは不敵に笑ってやり返す。
喧嘩友達の伴兵衛じいは、いつものように、「うう」と、犬のように唸って返事した。
「篠山さん。お前はどうだね?」
きねが声をかけたのは、彦六の代から一家にわらじを脱いでいる、素浪人の篠山休臥斎である。
彼は大刀を膝ごとかかえ、梁に背をもたせかけ、一家の語らいを聞いていたことだった。
「半さんは二代目をつぐに十分な器量をお持ちなさると思うがね」
休臥斎は答えたが、きねは鼻で息を吹いただけだった。
「おやおや、一同そろって節穴だねぇ。そんな目玉じゃ、死んだ彦六が草葉の影で泣いてるよ」とまで云う。「いいかい。彦六は城下一の一家なんだ。そのくせ店のもんは若い衆が多い。それをとりしきるには、みなが納得しちまうようなことをして見せなきゃいけない。それが一家の衆に対しての、ひいては死んじまった彦六に対してのけじめってもんだ。違うかい?」
違わないが、きねが云うと、どうも信に置けないのである。
短気の雷蔵が、なにをばばあと立ち上がりかけたが、そこは若衆頭の文悟が、
「それじゃあ、若が二代目を継ぐにふさわしいとおわかりになすったらいいんですね?」
と、目を光らせたことだった。
もともときねの口にかかっては、文悟たちに勝てる道理はない。きねが意地になっているのは明白だったが、この案を切り出すしかなかった。粋を気取るこの老婆が、前言を撤回しないのは、これまでで証明ずみである。
「まっ、気を落すなよ、半ちゃん」
といったのは、半兵太にとっては兄のような存在にあたる、灸蔵である。
彼は彦六がとりしきる店の一つで働く、一家の若いもんであった。今も、店の戸口で石をとんとんやっている。
年も四つしかちがわないから昔から何かとかわいがってもらっている。灸蔵だけはいつ何時も、半兵太の味方であった。
つい先刻、座敷であった大詮議のことは、伴兵衛の方から半兵太にも伝えられてある。
そういうわけだから、なんとかしてくれ、とのことであった。
「ああ」
半兵太は二代目なんて気が進まなかったから、気のない返事をしている。
文悟たちの心配は、まさにこの一点にあった。当の半兵太に、二代目におさまるつもりが全くないのが問題なのである。
きねの真の目的もこれにあった。一件を利用して、半兵太のやる気を呼び起こす腹積りなのである。
きねは手は出ないが、口は講釈師より出る。数年前から彦六一家にとりついた貧乏神(といっても、これはどこの一家でも同じだったが)も、きねにかかれば半刻で荷物をまとめてしまいそうな気がするのである。
半兵太は完全にやりこめられていたが、これは仕方のないことだった。一家の若いもんはおろか、古いもんでさえこのきねは苦手だったからだ。
(親父……)
家長の彦六がどのように思っていたかは判然としない。あれで親思いであったから、わがままは聞いてやっていたようだ。
座敷の奥で、子分から隠れるようにして、肩を叩いてやっている父の姿を、半兵太は何度か見かけたことがある。軽い嫉妬を覚えたものだ。
半兵太にはできない。理由があった。
彼の母は、五年も前に死んでいた。
「こまったばあさまだなぁ」
ちっとも困っていない口調で灸蔵はひとりごちた。
不思議なことに、家中の者できねを嫌う者はいない。憎まれっ子、世にはばかるの典型だろうか。とにかくどんないたずらをしても、人に恨まれるという事がなかった。
そんなきねが、みなうらやましいらしい。年をくっても、きねのように生きたい、と思うのである。
灸蔵は、黙っている半兵太を横目で見ながら、ふと疑問に思った。
喧嘩ばかりしているが、半兵太はきねにとっても可愛い孫だ。憎いはずはないのに、なんでこんなことを云い出したんだろう。
そのことを口にすると、半兵太はこう答えてきた。
「ばっちゃんのは半分冗談、半分本気なんだろうよ」
さすが孫だけあって、灸蔵よりは見抜いている。
灸蔵は、そうかもしれねぇなぁと、またとんとんやりはじめた。
半兵太は正面にある石に見入った。灸蔵が少しづつ削って形を造ったものだ。
半兵太の母はいない。目の上のこぶだった親父が死んだ。辛くないはずがなかった。
灸蔵は石をこんこんやりながら、ぽつりと云った。
「元気だしなよ。二代目」
灸蔵のやさしさが、胸に沁みた。半兵太は何も云わずに黙りこくった。
(こうなりゃ意地の張り合いだぁ)
館球磨川の脇の道を、子分の仁助を引き連れねり歩きながら、半兵太は心に誓った。
今回の一件はきねの意地ではじまった。息子の消えたさびしさをまぎらわすための意地だった。それなら半兵太にも意地がある。その意地が、「二代目ぐらいなんだ」と、半兵太の胸中でわめくのである。
(彦六一家二代目。しかと受け継いでやろうじゃねぇかっ)
そう思った瞬間、腹が据わった。この時点できねの目論みは成功したに相違なかった。
半兵太は勢い込んだが、しかし手段がなかった。二代目をつとめあげるだけの器量を見せろと云われても、どうすればいいのかとんと見当がつかない。
きねとの喧嘩はいつもの事だが、今回のはちょっと分が悪いな、と半兵太は思っていた。
「やっかいなことになりやんしたねぇ」
仁助が、脇で我が事のようにぼやいている。この男にもいい案がないのは明白だった。
「ふん、娑婆ふさぎのばばあにしてやられてたまるかよ。二代目くらい、しかとなってやらぁな」
半兵太がうそぶいた。
「ううっ。その言葉、親父さんが聞いたら喜びますぜ」
と、仁助が手で鼻をずずっと吸い上げている。仁助は大事な子分だが、涙もろいのには困ったものだった。
「半、ていへんだっ」
背中から彼を呼ぶ声がした。二人がふり向くと、幼なじみの修馬が走ってきた。
父親の後を継いで岡っ引になったが、今でも変らずいい男である。昔は一緒に悪をやったが、この頃ようやく十手が板についてきた。
「どうしたい、修馬?」
半兵太は修馬の慌てぶりをいぶかって小首を傾げた。
修馬はぜいぜいと息を整えると、諸手をふって話はじめた。
「てぇへんなんだっ。さっき、ちらっと小耳にはさんだんだが……西田屋は知ってるか?」
「西田屋? ああもちろんだ」
奥州一と云われる呉服屋のことである。
「そこの主人が、彦六一家の千町の店をしめろと云っているんだよ」
「千町の店をっ?」
半兵太は一瞬呆気にとられた。修馬の云っているのは、千町にある呉服店のことである。
半兵太は妙だと思った。千町の店は、老舗の西田屋も了承の上で開いているのである。彦六がとりつけた約束事だった。
「なんでいまさらそんなことを?」
「わからねぇ。とにかくそう云ってるんだ」
修馬が一気にまくしたてた。
「先代が死んだのが原因じゃないんですかい」
仁助が半兵太にささやいた。
彦六が死ねばいろいろと問題が起こるのは当然である。なにしろ彦六一家は若い衆が多い。裏にまわった時の老獪さがなかった。
まわりの一家が、彦六が死んだ今を付け目と狙ってくるのは、わかりきったことである。しかし、西田屋が文句をつけてくるとは妙な話だ。千町の店のもうけなんて、云っちゃあなんだが微々たるものである。まさか、堅気の西田屋がシマ取りをやるわけではあるまい。
「どうする、半?」
修馬が聞いた。半兵太は千町の方向に向き直った。
「周五郎の店に行ってみるか」
周五郎は、千町の店の主人である。
西田屋に比べれば微々たる儲けでも、周五郎にとっては生活のかかった大事な収入だ。閉じさせるわけにはいかなかった。
「西田屋もなんだってこんな時に……」
修馬はしかめっ面で首をひねっている。
「そいつは周五郎に話を聞けばわかるさ。行くぞ、仁助」
「へいっ」
半兵太は仁助を引き連れ、千町に出向いていった。
年明けの城下町を、からっ風が吹き抜けていく。生憎の曇天に、人々の顔まで晴れない。
千町の店は小さい。彦六一家にとっては唯一の呉服屋だった。半兵太たちが着ているのも、ここから買い取ってやったものである。
店の主人、燻し銀の周五郎は、弱り切っていた。
「昨日になって突然云ってきたんでさぁ。あっしは不意をくらったんで、泡をくっちまって。なんせあっちは大富豪でやんすからねぇ」
周五郎はそう云って、顎の不精髭をごしごしやった。
「そんなこと関係あるかっ、了解をとってやってる事にいちゃもんをつけるたぁなんだ!」
半兵太が店の土間に座り込んで喚いている。
「やっぱあれですかね。親分が死んで、彦六一家にたいする義理も情もなくなったんですかね」
周五郎がさびしそうに云った。この男も彦六に惚れ込んだ一人だった。
半兵太は何も云わない。仁助が云った。
「西田屋のは本気でしょうかね。周五郎兄貴、どうしやす?」
「どうしますもくそもあるか、この店をしめるわけにゃいかねぇよ。彦六の親分が、体を張って開いてくれた店だ。そいつを親分が死んだからって、つぶしちまっちゃ、俺の男がすたっちまう」
まさに血もにじまんばかりの声だった。
彦六一家では、周五郎のような古株は自分の店を持っている。いずれも、死んだ彦六が町の長老たちにかけあって開いたものだった。今となっては形見の品も同然である。
「周五郎兄貴っ」
と声がして、男たちがぞろぞろと入ってきた。文悟たちである。
「若、いらしてたんで?」
雷蔵が半兵太に気づいた。
半兵太は、「ああ」と素っ気がない。
「話は聞いたか」
周五郎がちろりと文悟を見上げた。
「聞きやした。問題が起こるとは思っていやしたがね。まさか西田屋とは……」
後は苦渋ににじんで声にならない。
周五郎も苦そうに奥歯をかんでいる。
「若、少し席をはずしやしょう」
文悟が半兵太の袖をひっぱり、外に連れ出した。仁助が付いて来ようとしたが、それは眼光でやめさせた。
文悟と半兵太は店の脇にある路地に入った。
半兵太は丸木に腰をおろし、文悟は立ったまま、腕を袂に入れて話はじめた。
「これから、西田屋みてぇなのや、もっと質の悪いのがたくさん出てきますよ。あっしゃ御隠居のおっしゃったことは、あながち間違いとは思いません。そういう連中に、彦六一家の二代目は、大した奴なんだと認めさせる。これは必要なことなんですよ」
文悟がいつものくだけた口調で云った。
「むずかしいな……」と、半兵太が呟いた。
「そうです。難しいし、全員に認められるには時間がかかる」文悟は半兵太に向き直って、「まぁ、気長にやりやしょうや」
気楽に笑った。半兵太は黙したままだった。この男にはめずらしいことである。文悟はおやっとなった。
「西田屋に行ってみるか」
半兵太は出し抜けに云って、腰を上げた。
文悟が声をかけた時には、もう歩き始めていた。
西田屋は草町にある。これが豪邸と云うものかと、半兵太はしみじみ思った。ようようの繁盛で、今では藩に金まで出している。西田屋にとっては、まさに我が世の春といえた。
その西田屋が、ちんけな周五郎の店をつぶしにかかっている。半兵太にとって、これは我慢のなるものではなかった。
西田屋に来た半兵太は、広めの座敷楼に通された。一人で来るつもりだったが、文悟はおろか雷蔵たちまで付いてきた。結局、広い座敷が手狭になった。
背に彦六と縫い付けられたはんてんが、ズラリとならぶさまは壮観である。
半兵太は一同の前で、座布団に座って待っている。西田屋主人、四郎衛門が入ってきた。半兵太はすっと見上げた。
背が高く、横幅もたっぷりある。城下一の主人たる貫禄があった。無論、半兵太は初対面である。
「なにかようかね、彦六のぉ」
低い声で、半兵太をちらり見やった。ずんと、へその緒まで威圧するような声だった。
「千町の店の一件できた」
半兵太も負けてはいない。見事に腰を据えている。雷蔵たちは、見ていて体の芯が熱くなった。
「なんだね」
またジロリ。
「周五郎の店をしめろとはどういうこった?」
「どうもこうもない。こっちはしめろといっている」
「それじゃあ納得できないね。あんたは千町に店を出すのを認めたじゃないか。長老たちが判を押した証文もある」
「気が変わった。しめろ」
とたん、雷蔵が立ち上がろうとした。躍りかかるつもりだった。文悟が肩を押さえて止めた。四郎衛門はちろりと見ただけだった。
「それでは聞けないね。あの店に養われている者もいるんだ。しめさせるには理由があるだろう、それを云えっ」
半兵太のは噛み付かんばかりの勢いだった。仁助などは見ていてひやりとなった。
四郎衛門は、これで切れるような鋭さを持っている。人一人殺して、もみ消すだけの力を持っているのである。
仁助たちは、正直四郎衛門に萎縮していた。さすが西田屋惣名主だった。その四郎衛門に、面と向って立ち向かえる半兵太を、改めてすごいと思った。
「証文をかわしたのは彦六とだ」
「違うっ。彦六一家とだ」
「その一家はもつのかね?」
四郎衛門の目がキロリと光った。
半兵太は、一瞬四郎衛門の云っていることがわからなかった。だが、直ぐに気がついた。
四郎衛門は、彦六一家が、主人の死とともにつぶれるのではないかと云っている。
「彦六一家はつぶれたりしない」
半兵太は声に怒りを乗せて四郎衛門にぶつけた。しかし、当の四郎衛門はにやりと笑っただけだった。
「どうかな。二代目もまだ決めかねているんじゃないのかね。彦六一家のシマは広い。狙う奴は大勢いるのさ。ぐずぐずしてると他の一家に荒らされて、お前さん方終っちまうよ」
慧眼と云えた。西田屋四郎衛門は彦六一家の置かれた立場を、正確によんでいる。
文悟は四郎衛門の腹がようやく読めた。この男は、彦六一家を心配しているのだ。親友だった黒田彦六の残した一家を、どうにかして救いたいと思っている。それが行動として現われたのが、今回の千町騒動だった。この男も粋人だと、文悟の心は踊った。
「黒田彦六は大した奴だったよ。だが、後を継ぐ者はいるかね」
「いるっ」
「どこに?」
「目の前だっ」
ほとんど叫ぶような語気だった。文悟は正直ぎょっとなった。半兵太が二代目につくことを渋っていたのを知っていたからだ。
やる気のない男が、二代目におさまってもろくな事になりはしない。今にして思えば、きねが云いたかったのはそこだったに違いない。あれもいっぱしの粋人だから、本心を見抜かれるのを恥じていたに相違なかった。
とにかく、この瞬間、半兵太は二代目の資格を手に入れたのである。
四郎衛門は半兵太の目を、じっとのぞきこんだ。めったにない、いい目だった。
(彦六と同じ目をしていやがる)
「そうか、お前が彦六の一粒種か」
感にたえたように笑った。
「いいだろう。おめぇが二代目やってみろ」
それが西田屋四郎衛門の御免状だった。
きねは土手に敷かれた道に立って、下の河原を見下ろしていた。半兵太たちが、打間芝居にいちゃもんをつけてきた坂本一家と喧嘩を演じている。
こちらの勢力は、雷蔵を筆頭に中々のものだ。石屋の灸蔵も頑張っている。きねは彦六の生きていた頃を思い出してほろりとなった。あの名親分は、老人になってなお喧嘩ときくと飛んでいった。率先して拳を振るった。
その役を、今は半兵太が受け継いでいる。
「おばば様」
よしずの陰から男が出てきた。篠山休臥斎である。この男も彦六が死んだことを、心底残念がっている口だった。
河原の喧嘩をじいっと見つめる。倒れこむ半兵太が見えた。あの若者は休臥斎から見ても、立派なものだった。
「そろそろ、いかがです?」
休臥斎がきねを見た。もういいかげんにしてやれという意味が、多分に含まれている。
きねはしばし逡巡した。半兵太にしかと二代目つとまるだろうか? しかし、西田屋との一件は文悟から聞いている。
「よしっ」
と、きねが太ももをはたいた。合格、という意味だった。
休臥斎が、花が咲いたように笑った。
「先代は強かったのに、二代目は弱いなぁ」
「しっかりしてくだせぇよ、二代目」
河原では昏倒した半兵太が、子分どもに両腕をとられてひっぱられている。
坂本一家の方はさんざんにやられてぶっ倒れている。まだ元気の残っているのに、雷蔵がしつこく拳をくれていた。
半兵太の弱さはもはやどうしようもなく、喧嘩が始まってすぐにやられてしまった。
彦六一家の面々が、気絶している半兵太を囲んで笑い合っている。きねの許しを聞いたわけでもないだろうに、勝手に二代目と呼んでいた。半兵太を認めた証拠だった。
度胸も切符もいいくせに、この致命的な欠陥のある二代目がおかしかった。
黒田半兵太。二代目彦六、襲名。
一家の長、彦六が死んだのは、今年の一月の初めのことである。
『葬式不要、戒名不要』
一代の粋人、黒田彦六の残した、唯一の遺言がこれだった。
さて、彦六には十九になる息子がいた。
黒田親子でこの世に唯一居残った、黒田半兵太である。
当然、二代目は半兵太と決まったが、ここで意外なところからしぶる者が現われた。
彦六の母、きねである。半兵太にとっては祖母にあたる。
七十才をすぎてなお矍鑠とした老婆で、背筋をぴぃーんと張ってはどこへでも出かけていく。しかもこのきねは、昔は高田小町と呼ばれるほど美しかった。そのおかげで、今でも害意のなさそうなかわいいばっちゃまに見えてしまうのである。
ところが、外見をとって判断をしては大まちがいであった。
もう大年寄りもいいとこなのに、真性のいたずら者で、人をからかっては喜んでいる。怒られればすねるし、そうなったら隠居所にひきこもって、三日は出て来ない。
どうしようもないひねくれ者だが、七十才を越えた今でも粋人だった。
歯も丈夫。固い煎餅をばりばりと食う。
きねの外見は、誰が見ても六十程度にしか見えない。下手をすると、五十ですかという目の腐った奴もいる。
きねはその度に、そんなに若くあるもんかい、と怒るが、本心は嬉しいらしかった。次の日のおめかしがまた凄まじい。
当時の七十才と云えば、生きも生きたり、娑婆ふさぎもいいところである。
しかし、そんなきねでも一人息子の彦六が死んだのは堪えたようだ。その寂しさ故の気晴らしに、半兵太以下彦六一家の面々は付き合わされる羽目になった。
奥の座敷に、例のきねばあを中心に、一家の主たるものが集まっている。
「若造になにができるもんかっ」ときねは云うのである。「彦六が体はって守り通した一家ののれんを、半兵太ごとき若輩者に、わたすわけにゃあ相いかぬ」
そう宣わった上に、見得まで切ってみせた。
きね、まだまだ人生は上々のようである。
「しかし、ばっつぁま。ボンは立派なもんですぜ」
と具申したのは、一家の長老格伴兵衛じいである。彦六のよき理解者であり、親友でもあった。はやくして父をなくした彦六は、伴兵衛じいを親代わりにと孝行したものだった。
伴兵衛もそんな彦六が息子のように見えてしょうがないらしい。半兵太にいたっては、もはや孫のようなものだ。
だからではなく、伴兵衛じいは本気で立派なもんだと思っていた。
喧嘩は弱いが、義理人情は人一倍。不条理があれば相手かまわずむしゃぶりついていく。
ただ、彦六の場合はかならず相手を二間は吹っ飛ばしたが、この人の場合そうはいかない。逆にしたたかやられるのである。
それでもへこたれない根性と度胸のよさは、伴兵衛も大物だと思うのだ。
なにより、彦六と気質がうり二つだった。怒りっぽくて涙もろくて、後くされがないのがよかった。
怒るときは焼いた栗みたいに怒って、笑うときはそれこそ心の底から笑っている。細々したことは、なんだろうとすぐに忘れてくさくさしない。
半兵太は彦六の喧嘩の強さ以外の全てを受け継いだようだ。二代目にすんなり押されたのも、当然といえば当然の成行だった。
しかし、きねは納得しない。
彦六一家は、博打以外にもさまざまな店を出しており、町人からも頼られている。そんじょそこらの無頼の徒とは、一味も二味も違うのである。
その一家をつぐには、並みの男では駄目だ。これが、きねばあの主張なのであった。
歯切れの云い声でぽんぽんまくしたてられては、打ち破る論法がない。
大の男がそろいもそろって、七十を越えたばあさまにやりこめられるという、なんとも情けない事態におちいったのであった。
「なにが立派だ。ふらふら遊び歩いているだけじゃないか」
きねは不敵に笑ってやり返す。
喧嘩友達の伴兵衛じいは、いつものように、「うう」と、犬のように唸って返事した。
「篠山さん。お前はどうだね?」
きねが声をかけたのは、彦六の代から一家にわらじを脱いでいる、素浪人の篠山休臥斎である。
彼は大刀を膝ごとかかえ、梁に背をもたせかけ、一家の語らいを聞いていたことだった。
「半さんは二代目をつぐに十分な器量をお持ちなさると思うがね」
休臥斎は答えたが、きねは鼻で息を吹いただけだった。
「おやおや、一同そろって節穴だねぇ。そんな目玉じゃ、死んだ彦六が草葉の影で泣いてるよ」とまで云う。「いいかい。彦六は城下一の一家なんだ。そのくせ店のもんは若い衆が多い。それをとりしきるには、みなが納得しちまうようなことをして見せなきゃいけない。それが一家の衆に対しての、ひいては死んじまった彦六に対してのけじめってもんだ。違うかい?」
違わないが、きねが云うと、どうも信に置けないのである。
短気の雷蔵が、なにをばばあと立ち上がりかけたが、そこは若衆頭の文悟が、
「それじゃあ、若が二代目を継ぐにふさわしいとおわかりになすったらいいんですね?」
と、目を光らせたことだった。
もともときねの口にかかっては、文悟たちに勝てる道理はない。きねが意地になっているのは明白だったが、この案を切り出すしかなかった。粋を気取るこの老婆が、前言を撤回しないのは、これまでで証明ずみである。
「まっ、気を落すなよ、半ちゃん」
といったのは、半兵太にとっては兄のような存在にあたる、灸蔵である。
彼は彦六がとりしきる店の一つで働く、一家の若いもんであった。今も、店の戸口で石をとんとんやっている。
年も四つしかちがわないから昔から何かとかわいがってもらっている。灸蔵だけはいつ何時も、半兵太の味方であった。
つい先刻、座敷であった大詮議のことは、伴兵衛の方から半兵太にも伝えられてある。
そういうわけだから、なんとかしてくれ、とのことであった。
「ああ」
半兵太は二代目なんて気が進まなかったから、気のない返事をしている。
文悟たちの心配は、まさにこの一点にあった。当の半兵太に、二代目におさまるつもりが全くないのが問題なのである。
きねの真の目的もこれにあった。一件を利用して、半兵太のやる気を呼び起こす腹積りなのである。
きねは手は出ないが、口は講釈師より出る。数年前から彦六一家にとりついた貧乏神(といっても、これはどこの一家でも同じだったが)も、きねにかかれば半刻で荷物をまとめてしまいそうな気がするのである。
半兵太は完全にやりこめられていたが、これは仕方のないことだった。一家の若いもんはおろか、古いもんでさえこのきねは苦手だったからだ。
(親父……)
家長の彦六がどのように思っていたかは判然としない。あれで親思いであったから、わがままは聞いてやっていたようだ。
座敷の奥で、子分から隠れるようにして、肩を叩いてやっている父の姿を、半兵太は何度か見かけたことがある。軽い嫉妬を覚えたものだ。
半兵太にはできない。理由があった。
彼の母は、五年も前に死んでいた。
「こまったばあさまだなぁ」
ちっとも困っていない口調で灸蔵はひとりごちた。
不思議なことに、家中の者できねを嫌う者はいない。憎まれっ子、世にはばかるの典型だろうか。とにかくどんないたずらをしても、人に恨まれるという事がなかった。
そんなきねが、みなうらやましいらしい。年をくっても、きねのように生きたい、と思うのである。
灸蔵は、黙っている半兵太を横目で見ながら、ふと疑問に思った。
喧嘩ばかりしているが、半兵太はきねにとっても可愛い孫だ。憎いはずはないのに、なんでこんなことを云い出したんだろう。
そのことを口にすると、半兵太はこう答えてきた。
「ばっちゃんのは半分冗談、半分本気なんだろうよ」
さすが孫だけあって、灸蔵よりは見抜いている。
灸蔵は、そうかもしれねぇなぁと、またとんとんやりはじめた。
半兵太は正面にある石に見入った。灸蔵が少しづつ削って形を造ったものだ。
半兵太の母はいない。目の上のこぶだった親父が死んだ。辛くないはずがなかった。
灸蔵は石をこんこんやりながら、ぽつりと云った。
「元気だしなよ。二代目」
灸蔵のやさしさが、胸に沁みた。半兵太は何も云わずに黙りこくった。
(こうなりゃ意地の張り合いだぁ)
館球磨川の脇の道を、子分の仁助を引き連れねり歩きながら、半兵太は心に誓った。
今回の一件はきねの意地ではじまった。息子の消えたさびしさをまぎらわすための意地だった。それなら半兵太にも意地がある。その意地が、「二代目ぐらいなんだ」と、半兵太の胸中でわめくのである。
(彦六一家二代目。しかと受け継いでやろうじゃねぇかっ)
そう思った瞬間、腹が据わった。この時点できねの目論みは成功したに相違なかった。
半兵太は勢い込んだが、しかし手段がなかった。二代目をつとめあげるだけの器量を見せろと云われても、どうすればいいのかとんと見当がつかない。
きねとの喧嘩はいつもの事だが、今回のはちょっと分が悪いな、と半兵太は思っていた。
「やっかいなことになりやんしたねぇ」
仁助が、脇で我が事のようにぼやいている。この男にもいい案がないのは明白だった。
「ふん、娑婆ふさぎのばばあにしてやられてたまるかよ。二代目くらい、しかとなってやらぁな」
半兵太がうそぶいた。
「ううっ。その言葉、親父さんが聞いたら喜びますぜ」
と、仁助が手で鼻をずずっと吸い上げている。仁助は大事な子分だが、涙もろいのには困ったものだった。
「半、ていへんだっ」
背中から彼を呼ぶ声がした。二人がふり向くと、幼なじみの修馬が走ってきた。
父親の後を継いで岡っ引になったが、今でも変らずいい男である。昔は一緒に悪をやったが、この頃ようやく十手が板についてきた。
「どうしたい、修馬?」
半兵太は修馬の慌てぶりをいぶかって小首を傾げた。
修馬はぜいぜいと息を整えると、諸手をふって話はじめた。
「てぇへんなんだっ。さっき、ちらっと小耳にはさんだんだが……西田屋は知ってるか?」
「西田屋? ああもちろんだ」
奥州一と云われる呉服屋のことである。
「そこの主人が、彦六一家の千町の店をしめろと云っているんだよ」
「千町の店をっ?」
半兵太は一瞬呆気にとられた。修馬の云っているのは、千町にある呉服店のことである。
半兵太は妙だと思った。千町の店は、老舗の西田屋も了承の上で開いているのである。彦六がとりつけた約束事だった。
「なんでいまさらそんなことを?」
「わからねぇ。とにかくそう云ってるんだ」
修馬が一気にまくしたてた。
「先代が死んだのが原因じゃないんですかい」
仁助が半兵太にささやいた。
彦六が死ねばいろいろと問題が起こるのは当然である。なにしろ彦六一家は若い衆が多い。裏にまわった時の老獪さがなかった。
まわりの一家が、彦六が死んだ今を付け目と狙ってくるのは、わかりきったことである。しかし、西田屋が文句をつけてくるとは妙な話だ。千町の店のもうけなんて、云っちゃあなんだが微々たるものである。まさか、堅気の西田屋がシマ取りをやるわけではあるまい。
「どうする、半?」
修馬が聞いた。半兵太は千町の方向に向き直った。
「周五郎の店に行ってみるか」
周五郎は、千町の店の主人である。
西田屋に比べれば微々たる儲けでも、周五郎にとっては生活のかかった大事な収入だ。閉じさせるわけにはいかなかった。
「西田屋もなんだってこんな時に……」
修馬はしかめっ面で首をひねっている。
「そいつは周五郎に話を聞けばわかるさ。行くぞ、仁助」
「へいっ」
半兵太は仁助を引き連れ、千町に出向いていった。
年明けの城下町を、からっ風が吹き抜けていく。生憎の曇天に、人々の顔まで晴れない。
千町の店は小さい。彦六一家にとっては唯一の呉服屋だった。半兵太たちが着ているのも、ここから買い取ってやったものである。
店の主人、燻し銀の周五郎は、弱り切っていた。
「昨日になって突然云ってきたんでさぁ。あっしは不意をくらったんで、泡をくっちまって。なんせあっちは大富豪でやんすからねぇ」
周五郎はそう云って、顎の不精髭をごしごしやった。
「そんなこと関係あるかっ、了解をとってやってる事にいちゃもんをつけるたぁなんだ!」
半兵太が店の土間に座り込んで喚いている。
「やっぱあれですかね。親分が死んで、彦六一家にたいする義理も情もなくなったんですかね」
周五郎がさびしそうに云った。この男も彦六に惚れ込んだ一人だった。
半兵太は何も云わない。仁助が云った。
「西田屋のは本気でしょうかね。周五郎兄貴、どうしやす?」
「どうしますもくそもあるか、この店をしめるわけにゃいかねぇよ。彦六の親分が、体を張って開いてくれた店だ。そいつを親分が死んだからって、つぶしちまっちゃ、俺の男がすたっちまう」
まさに血もにじまんばかりの声だった。
彦六一家では、周五郎のような古株は自分の店を持っている。いずれも、死んだ彦六が町の長老たちにかけあって開いたものだった。今となっては形見の品も同然である。
「周五郎兄貴っ」
と声がして、男たちがぞろぞろと入ってきた。文悟たちである。
「若、いらしてたんで?」
雷蔵が半兵太に気づいた。
半兵太は、「ああ」と素っ気がない。
「話は聞いたか」
周五郎がちろりと文悟を見上げた。
「聞きやした。問題が起こるとは思っていやしたがね。まさか西田屋とは……」
後は苦渋ににじんで声にならない。
周五郎も苦そうに奥歯をかんでいる。
「若、少し席をはずしやしょう」
文悟が半兵太の袖をひっぱり、外に連れ出した。仁助が付いて来ようとしたが、それは眼光でやめさせた。
文悟と半兵太は店の脇にある路地に入った。
半兵太は丸木に腰をおろし、文悟は立ったまま、腕を袂に入れて話はじめた。
「これから、西田屋みてぇなのや、もっと質の悪いのがたくさん出てきますよ。あっしゃ御隠居のおっしゃったことは、あながち間違いとは思いません。そういう連中に、彦六一家の二代目は、大した奴なんだと認めさせる。これは必要なことなんですよ」
文悟がいつものくだけた口調で云った。
「むずかしいな……」と、半兵太が呟いた。
「そうです。難しいし、全員に認められるには時間がかかる」文悟は半兵太に向き直って、「まぁ、気長にやりやしょうや」
気楽に笑った。半兵太は黙したままだった。この男にはめずらしいことである。文悟はおやっとなった。
「西田屋に行ってみるか」
半兵太は出し抜けに云って、腰を上げた。
文悟が声をかけた時には、もう歩き始めていた。
西田屋は草町にある。これが豪邸と云うものかと、半兵太はしみじみ思った。ようようの繁盛で、今では藩に金まで出している。西田屋にとっては、まさに我が世の春といえた。
その西田屋が、ちんけな周五郎の店をつぶしにかかっている。半兵太にとって、これは我慢のなるものではなかった。
西田屋に来た半兵太は、広めの座敷楼に通された。一人で来るつもりだったが、文悟はおろか雷蔵たちまで付いてきた。結局、広い座敷が手狭になった。
背に彦六と縫い付けられたはんてんが、ズラリとならぶさまは壮観である。
半兵太は一同の前で、座布団に座って待っている。西田屋主人、四郎衛門が入ってきた。半兵太はすっと見上げた。
背が高く、横幅もたっぷりある。城下一の主人たる貫禄があった。無論、半兵太は初対面である。
「なにかようかね、彦六のぉ」
低い声で、半兵太をちらり見やった。ずんと、へその緒まで威圧するような声だった。
「千町の店の一件できた」
半兵太も負けてはいない。見事に腰を据えている。雷蔵たちは、見ていて体の芯が熱くなった。
「なんだね」
またジロリ。
「周五郎の店をしめろとはどういうこった?」
「どうもこうもない。こっちはしめろといっている」
「それじゃあ納得できないね。あんたは千町に店を出すのを認めたじゃないか。長老たちが判を押した証文もある」
「気が変わった。しめろ」
とたん、雷蔵が立ち上がろうとした。躍りかかるつもりだった。文悟が肩を押さえて止めた。四郎衛門はちろりと見ただけだった。
「それでは聞けないね。あの店に養われている者もいるんだ。しめさせるには理由があるだろう、それを云えっ」
半兵太のは噛み付かんばかりの勢いだった。仁助などは見ていてひやりとなった。
四郎衛門は、これで切れるような鋭さを持っている。人一人殺して、もみ消すだけの力を持っているのである。
仁助たちは、正直四郎衛門に萎縮していた。さすが西田屋惣名主だった。その四郎衛門に、面と向って立ち向かえる半兵太を、改めてすごいと思った。
「証文をかわしたのは彦六とだ」
「違うっ。彦六一家とだ」
「その一家はもつのかね?」
四郎衛門の目がキロリと光った。
半兵太は、一瞬四郎衛門の云っていることがわからなかった。だが、直ぐに気がついた。
四郎衛門は、彦六一家が、主人の死とともにつぶれるのではないかと云っている。
「彦六一家はつぶれたりしない」
半兵太は声に怒りを乗せて四郎衛門にぶつけた。しかし、当の四郎衛門はにやりと笑っただけだった。
「どうかな。二代目もまだ決めかねているんじゃないのかね。彦六一家のシマは広い。狙う奴は大勢いるのさ。ぐずぐずしてると他の一家に荒らされて、お前さん方終っちまうよ」
慧眼と云えた。西田屋四郎衛門は彦六一家の置かれた立場を、正確によんでいる。
文悟は四郎衛門の腹がようやく読めた。この男は、彦六一家を心配しているのだ。親友だった黒田彦六の残した一家を、どうにかして救いたいと思っている。それが行動として現われたのが、今回の千町騒動だった。この男も粋人だと、文悟の心は踊った。
「黒田彦六は大した奴だったよ。だが、後を継ぐ者はいるかね」
「いるっ」
「どこに?」
「目の前だっ」
ほとんど叫ぶような語気だった。文悟は正直ぎょっとなった。半兵太が二代目につくことを渋っていたのを知っていたからだ。
やる気のない男が、二代目におさまってもろくな事になりはしない。今にして思えば、きねが云いたかったのはそこだったに違いない。あれもいっぱしの粋人だから、本心を見抜かれるのを恥じていたに相違なかった。
とにかく、この瞬間、半兵太は二代目の資格を手に入れたのである。
四郎衛門は半兵太の目を、じっとのぞきこんだ。めったにない、いい目だった。
(彦六と同じ目をしていやがる)
「そうか、お前が彦六の一粒種か」
感にたえたように笑った。
「いいだろう。おめぇが二代目やってみろ」
それが西田屋四郎衛門の御免状だった。
きねは土手に敷かれた道に立って、下の河原を見下ろしていた。半兵太たちが、打間芝居にいちゃもんをつけてきた坂本一家と喧嘩を演じている。
こちらの勢力は、雷蔵を筆頭に中々のものだ。石屋の灸蔵も頑張っている。きねは彦六の生きていた頃を思い出してほろりとなった。あの名親分は、老人になってなお喧嘩ときくと飛んでいった。率先して拳を振るった。
その役を、今は半兵太が受け継いでいる。
「おばば様」
よしずの陰から男が出てきた。篠山休臥斎である。この男も彦六が死んだことを、心底残念がっている口だった。
河原の喧嘩をじいっと見つめる。倒れこむ半兵太が見えた。あの若者は休臥斎から見ても、立派なものだった。
「そろそろ、いかがです?」
休臥斎がきねを見た。もういいかげんにしてやれという意味が、多分に含まれている。
きねはしばし逡巡した。半兵太にしかと二代目つとまるだろうか? しかし、西田屋との一件は文悟から聞いている。
「よしっ」
と、きねが太ももをはたいた。合格、という意味だった。
休臥斎が、花が咲いたように笑った。
「先代は強かったのに、二代目は弱いなぁ」
「しっかりしてくだせぇよ、二代目」
河原では昏倒した半兵太が、子分どもに両腕をとられてひっぱられている。
坂本一家の方はさんざんにやられてぶっ倒れている。まだ元気の残っているのに、雷蔵がしつこく拳をくれていた。
半兵太の弱さはもはやどうしようもなく、喧嘩が始まってすぐにやられてしまった。
彦六一家の面々が、気絶している半兵太を囲んで笑い合っている。きねの許しを聞いたわけでもないだろうに、勝手に二代目と呼んでいた。半兵太を認めた証拠だった。
度胸も切符もいいくせに、この致命的な欠陥のある二代目がおかしかった。
黒田半兵太。二代目彦六、襲名。
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