ねじまげ物語の冒険 第一巻

七味春五郎

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第二章 狂った物語と世界の真実

第二章 狂った物語と世界の真実

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   その一 三人の新しい仲間と、牧村一家の役目について

     1

「おい、起きろ」
 奥村が刀のこじりで、団野の肩をついた。
「狸(たぬき)寝入りなどしおって。貴様、洋一に書かせた契約書をどこに隠した」
 洋一は、まだ団野に息があったことに驚いた。
 奥村につめよられると、抵抗する気力も失せたようだ。奥村は細身ながら、その身ごなしはいかにも武術で練りあげたらしい、無駄のなさと切れがある。
「暖炉の上の金庫にある……」
 と団野は言った。口元から、大量の血液がこぼれ落ちた。酔っていることも手伝って、血が止まらない。胸元を血で染めながら、奥村にひったてられていく。
 洋一は、あたりに立ちこめる血の臭(しゆう)気(き)に、団野にたいする恨みの気持ちも忘れた。彼の人生はいたって平穏で、身のまわりでおきた暴力と破壊の結果に、ついていけなかったのだ。三人は団野の惨憺たる様子にも、顔色ひとつかえていない。みんなこういう光景になれているんだろうか? と洋一は思った。気後れから、リビングに向かう一行とも、距離を置いた。
 団野は院生に内職をさせ、こつこつと金を稼いできた。リビングの調度は、デスク、絨毯にいたるまでかなり豪奢なものだった。カーテンひとつにいたるまで、ずいぶん金をかけているようだ。
 大柄な暖炉をつくり、その上には壁をくりぬいた金庫があった。団野がダイヤルをまわし金庫を開けると、札束やダイヤがみえた。かなりの量だ。そのうえに、院生に書かせた契約書の束が、クリップでとめられ乗っかっていた。団野は契約書を男爵にてわたすと、暖炉の前にすわりこんだ。
 ミュンヒハウゼンはしばらくその契約書をパラパラとめくっていたが、やがてビリビリにやぶくと、暖炉にほうりこみ火をつけた。暖炉のなかで、契約書はこれまでの院生の苦しみをあらわすように、身をくねらせ真っ黒になる。紙は灰になり、団野のかわした契約も反(ほ)故(ご)となった。
 団野はその間、ぐったりとうなだれたまま、男爵の方を見ようともしなかった。ひとつには、あごが砕けて、しゃべることもおっくうであったのだ。
 ミュンヒハウゼンは、真っ黒な墨とかしていく契約書をみつめながら、団野にむきなおり、
「これが本物であろうとなかろうと、紙切れで人を縛ることなどできはせんぞ」
 とおごそかに言った。この後、男爵はさまざまな事柄を告げては洋一を悩ませることになるが、このときの振る舞いだけはまっとうだったと言える。
 団野は、一瞬、ミュンヒハウゼンをにらみあげたが、すぐにそっぽを向いた。
「貴様、他の院生にもおなじことをしておるのだろう。一人前の男のくせに、弱い者いじめなどをしおって、恥を知れ」と言った。それから洋一にむかって、「たとえ契約が本物だろうと、無法な法にしたがうことなどはないのだ。社会の法がいかに必要だろうとも、人は魂に法をもっておる。魂の法とは名誉なのだとわしは思う。人の名誉尊厳をおかす権利など、神にとてありはしない」
 男爵はふさがっていない方の目で、団野をにらみつけた。
「貴様が正しいと思うのなら、わしはこの子の洋館におるから、いつでもかかってこい。わしのこの身と名誉にかけて、相手になるぞ」

     2

 団野の家を出たとき、洋一はまさに十何年の刑に服した囚人の気分だった。外はまだ夜で、事故の起こった夜のままで、だけど彼には十年ばかりの月日がたったかのように感じられた。実にさまざまなことが起こり、そのたいていのことが、彼にとっては初めての経験ばかりだった。だけど、彼の中で、まったく色あせることなく燦(さん)然(ぜん)と輝きつづけていたのは、両親を亡くした悲しみ、という感情だった。
 洋一は団野の庭に立ちつくし、しばらくあたりを見回した。男爵たちは、無言で洋一の言葉を待っている。ミュンヒハウゼンは来たけれど、彼の両親は来ていない。吐く息がいやに白く、洋一はそのことにすら悲しみを感じた。
 空を見上げた。悲しみは去らなかった。新しくできた三人の仲間の方を向き、無言で話の続きをうながした。
 男爵は、ゆったりと足を踏みかえながらきりだした。
 その大筋は、こうだ。洋一の両親、牧村恭一と牧村薫の二人は、ただの私設図書館の職員なのではなく、本の世界を守るための番人だった。彼らは世界中から初版本を集め、図書館に保管していた(どうりで、古めかしいへんてこな本ばかりあるわけだ! 大昔の作家の生原稿まであったのだから!)。
 そして、男爵はこう言うのである。今、世界の人たちは本を読まなくなり、物語は力をなくし、その世界は崩壊しかかっている。ある本では話の筋が完全に狂い、善人が悪人となっている。登場人物たちの多くは目的意識をなくし、役割を忘れさっている……。
 ちょっと待ってよ、と洋一は言った。「本の力とか、本の世界とか、どういうこと?」
「だから、本の世界があるのだ。お前の両親は……」
「じゃあ、男爵は!」と洋一は大声をだした。「本物のほらふき男爵だって、そう言ったじゃないか!」
「そのとおり」
「じゃあ、もしもだよ」と洋一は急(せ)きこんだ。「もしも、その話がほんとだとして、だったら男爵は、本の世界の住人ってことになる」
「そのとおりだ」と男爵は重々しくうなずいた。「わしは、もともとがほらを吹くという人物だ。余人とはちがい、創造の力をもっておるのだ。つまりは、物事を生みだす力だ。だから、物語の世界と中間世界を行き来することができたのだ」
 洋一は言葉をなくした。ようやっと、「中間世界?」と問いかえした。
「本と現実世界の中間にある世界のことだ。中間世界は、現実の人々の思考の力、意識の力でできておる……とわしは思っておる」
「勝手に思えばいいじゃないか」と洋一は言った。その唇は震え、瞳からは涙があふれだしていた。「勝手にすればいい。本の世界とか、中間世界とか、わけのわからないことを言うな!」と彼は言った。「ぼくは両親のことが知りたいんだ。父さんと母さんが、なんで死んだのか知りたいんだ。理由なんかなくたって知りたいんだ! それなのに、わけのわからないことを言うな!」
 と彼は言った。彼の言い分は理不尽なものだった。運や不運というものは元来わけのわからないものだし、洋一の両親が事故で死んだのだとするのなら、そこには男爵の知る理由など、あるはずはないのだから。
「洋一」
 と男爵はなだめるように手を伸ばしてくる。彼は、後ろに躙り下がって、その手をかわす。
「よいか、中間世界では、狂った物語の影響が如(によ)実(じつ)にあらわれておる。彼らは中間世界の住人なのだぞ」
 と改めて奥村たちを紹介する。
 本の世界というだけでも信用できないというのに、この中間世界というのも、洋一の理解を苦しめた。それらの世界は、これまでとこれからの人々の、記憶や感情の力で形作られていて、その意識の質により、いくつもの世界にわかれている。中間世界は中つ国とも呼ばれていて、たとえば、奥村親子たちがやってきた世界は、夢と冒険の中つ国と呼ばれているし、ウィンディゴが支配しているのは悪の中つ国である。三人は次元をわたる機関車にのって(江戸時代に奥村の先祖が使ったものらしい。ひどく骨(こつ)董(とう)めいた話だった。)現実の世界にやってきた。しかし、時すでに遅く、牧村夫婦は命を落としたあとであり、たった一人の子息は役人により連れさられたあとだった。
 洋一はますます頭が混乱した。目の前にいるこの男爵が、体温を感じ、血をながしているこの男爵が、本の登場人物にすぎないなんて、そんなことがあるはずがなかった。洋一はこれまで何度となく本を読んできたが、物語の筋が狂っていたことなんて、一度もない。
「さきほどから申しているウィンディゴとは」男爵はさらに言う。「おそらくはわしと同種の……創造の力をやどした人物のはずだ。あやつは悪の登場人物をしたがえて、日々力を増しておる。自分たちの都合のいいように、ストーリーをねじ曲げておる。悪の中間世界を支配し、別の世界に影響をおよぼしておるのだ」
 奥村が言った。「我々はウィンディゴの勢力と戦ったが、力およばなかった」
「そこで我々は本の世界をたてなおし、少しでもウィンディゴの勢力を削ごうと考えたのだ」
 ほらふき男爵は本の世界をとびだし、本の世界の救(きゆう)済(さい)にのりだしたが、そんな中、長年本の世界を守りつづけた洋一の両親は、ウィンディゴの手により殺される。洋一の両親は世界中の初版本だけではない、伝説の書物をもっていて、本当はその本を守ることこそが、その使命であり、役目だったのだ。伝説の書は、書かれたことを現実にしてしまう力を持っている。そしてそれをつかえるのは、ゆいいつ創造の力をもつ、現実世界の人間だけなのだ……。
 洋一はなんとか反論しようとした。本の世界などないし、次元をわたる機関車もない(そもそも別の世界というもの自体がないのだ)。文字はちゃんと紙に印刷されているのだから、それが初版本とはいえ、話が変わってしまうなんてこと自体がありえない。が、男爵も奥村たちも、それが当然の事実であるかのように話し、洋一との会話は、ある、ない、の堂々巡りにおわってしまう。
 洋一は、この三人は、頭がおかしいんじゃないかと疑った。男爵も奥村も、根っからの善人なのだとは思う。まっすぐないい人たちなのだと……。だけど、あの格好としゃべっていることを考えると、団野に負けないぐらいの気ちがいとしか思えない。
 自分をだましているのならまだいい、始末に負えないのは、この三人が、自分の主張を芯から信じていることだ!
 たとえ善人でも、気の触れた人はいるにちがいない……。
 洋一は男爵の話をよくよく考えようとした。矛盾を、というよりは、ちょっとでも信用できそうな部分を探そうと努力した。だけど、そもそもが荒(こう)唐(とう)無(む)稽(けい)な話すぎて、受け入れようにも、とっかかりすら見あたらない。洋一は男爵のことを信じたい気持ちと、そんなばかげた話はありえない、と叫びだしたい気持ちとで、はちきれんばかりだった。洋一のまわりには、ゲームも映画もふくめて(ちくしょう漫画もだ!)作り物の話ならごまんとある。そして、彼はそれが作り物だと知っている……。物語の種は、出尽くしたといっていいほどだし、いろんなことに説明がついてる。つまり、不可思議なことを受けいれる下地は、洋一の心から消えかかっていた。その意味で、人が本を受けいれがたくなっているとはいえる。だからといって、出来物の本が狂ってしまうだとか、この現実以外にも、いくつも世界があるだとか、それも本の世界だとかいう話は、まったく受け入れがたかった。彼はこの三人は、頭がおかしいんじゃないかと思いかけた。死んだ両親の知り合いのことを、そんなふうに思うなんて、彼の良(りよう)識(しき)(それが小学五年生の良識とはいえ)が許さなかったが、そもそも、自分の親の知り合いだという話自体が、怪しいものだった。
「だが、今後をどうするのだ」
 と男爵は言った。洋一の怒りに、初めて揺らぎがさした。
「わしとしては、生き残ったおぬしの力を借りたい。もはやここに残るわけにもいくまい。役人の世話になるというのなら、それでもいいが……」
「家に帰る。あそこはぼくの家だ!」
「それでもよい。家に帰れば、なにが起こっているかはハッキリするからな。だが、お主、あまり気を抜きすぎて、怪我をするなよ」
 よけいなお世話だ、と洋一は思った。

     3

 洋一はふるさとの洋館に向けて、暗い夜道を歩いていく。住宅街を抜ける、せまい路地だった。さほど高くもないブロック塀が、無表情につづいている。街灯の明かりが四つの影を、たがいちがいに伸ばしている。洋一は街路にみおぼえがあった。自転車でなんども通ったことがある。近くには押尾琢(たく)己(み)という友達の家があるはずだ(タク、タク、と友達は呼んでいる)。とすると、あの養護院は、おなじ町内にあったわけだ。
 さて――
 洋一こそ救うことができたが、恭一と薫(かおる)の二人が死んだいま、一行の足取りは重いものであり、陽気な気配はどこにもない。奥村が洋一の手をひき、くたびれきった男爵を太助が支えている。だが、一行のなかで、もっともくたびれきり、重い足を引きずるように、一歩一歩足を進めていたのは、きっと洋一だったろう。
 彼は今日起こった出来事と、さきほど男爵から聞かされた言葉とを、いくどとなく反(はん)芻(すう)した。痛めた足をひきずりながら歩き、いまごろ寺勘たちは、のんびり眠ってるんだろうなあ、と恨みがましい気持ちで考えた。寺勘こと寺内勘太郎は、クラスでも一番の親友だった。養護院を逃げだしたことで、もとの学校にはもう戻れないだろうし、とすると、寺勘たちにも二度と会えないわけだ。そもそも彼の人生が、これからどうなるのかすらわからない。それなのに、男爵ときたら……(洋一はこの老人のことを、男爵と呼ぶことすらいやだったが、ほかに呼びようがないのだから仕方がない)。
 洋一は、両親の死とあんな養護院に預けられたショックで、ほとほと弱り果てているのに、あんなばかげたつくり話をきかされて、腹が立つやらすっかりうちひしがられるやらで、頭のなかがクラクラした。男爵のことを一端は信用したのだが、その気持ちが消えかけたほどだ。
 洋一はいつの間にか奥村の手を握りしめている。奥村が不審そうにかえりみた。
 不審といえばこの奥村自体が不審だった。彼は本物の侍で、号を休賀斎(きゆうがさい)ともいうらしい。彼は幕末に中間世界にわたった日本人の子孫だそうだ(少なくとも彼らの頭のなかでは、と洋一は皮肉めいた気持ちで考えた)。曾々祖父は幕府の御家人だったそうで、上野の戦争で負けたあと、仲間とともに中間世界にわたる町人たちのなかに、まぎれこんだのだという。
「傷は痛むか」奥村が言った。彼はゆったりとくつろいだ様子の中にも、目つきだけは鋭く、いかにも剣の達人といった風(ふ)情(ぜい)があったが、つないだ手はいかにも柔らかく、暖かだった。低く落ち着きのある声(こわ)色(いろ)で、そのいたわりのにじむ声を聞いていると、こんな人たちの言うことは信じるもんかと気をはる洋一も、ホロリと涙をこぼしそうになる。
 奥村は、身長は百六十センチのなかばほどで、彼の父親の肩ほどしかない。背格好まで、昔の日本人そのままだった。
 奥村は思いをめぐらすように、天に首を仰向ける。彼はこちらの世界にはじめてきた。中つ国とはずいぶんちがうようだった。
 奥村は言葉を選び選びして話しはじめた。「君の父上とは、子供のころあったぎりだったよ。わたしは久々の再会を楽しみにしていた」と湿りを帯びた声で言った。彼は今三十七才で、恭一と出会ったころには、すでに元服をおえていたそうだ。そのころは中つ国とこの世界の通路は、あちこちにあった。恭一は父親に連れられて、なんどか中つ国を訪れていた。だが、その通路がウィンディゴの手により封じられたあとは、恭一の消息は、男爵のもたらす風(ふう)聞(ぶん)によるばかりだった。奥村は、年の似た息子たちを引き合わせようと考えていたが、自分が恭一に会うことは、二度と再びなかったわけである。
 奥村は気を取り直すように肩をゆすり、こうきりだした。
「子供のころの恭一は気が強くてな。わたしはすでに剣術がそうとうつかえたんだが、恭一のやつは関係なく突っかかってきてな。向こうみずで、考えるより先に行動しては、あとで困っていたものだ」
 奥村は思いだすようにかすかに笑ったが、その笑いもじきに涙にまぎれてしまう。
「だが、勇敢で正義感の強いやつだった。私はあいつが大好きだった。会えなくなったそのあとも。私とあいつは血を分けた義兄弟だ」
 洋一は驚いて言った。「親指の傷のこと?」
 恭一の指には一文字の傷があり、子供のころ友達と兄弟の誓いをかわしたときに作ったのだと言っていた。親類はいないが、血を分けた義兄弟がいるんだと。だから、家族の誓いのために親指に傷をつけた団野のやり方は、洋一にとっては他人以上に信(しん)憑(ぴよう)性(せい)のあることだった。
 奥村は軽く驚いたように洋一をみおろした。「そうだ。あいつの指にも残っていたか」
「強い思いのこもった傷はな、なかなか消えんのだ」
 と男爵がぶっきらぼうに言った。
 奥村はまた前を向いて歩きはじめた。
「よくあちこちを冒険したものだ。なつかしい」
 洋一にはその冒険の内容まではわからなかったが、子供のころの父親の姿がほんの少し覗けた気がしてうれしかった。恭一は本好きで穏やかな人だったが、子供のころは、そんな一面も持っていたのである。
「紹介が遅れたが」奥村はやさしげに微笑した。「あれはわたしの子(し)息(そく)。奥村太助だ」
 左隣を歩く少年がぺこりと頭を下げた。一つ年上ということだった。洋一より二ヶ月遅い八月生まれだ。父親とおなじ直(じき)新(しん)陰(かげ)流(りゆう)を習い、こんどの旅にくっついてきた。
「わしらは恭一の力を借りるつもりじゃった」男爵が肩を落として言った。「洋一よ。ウィンディゴはまったくやりたい放題じゃぞ。中間世界との通路はあらかた閉じられてしまうし、使えるものもわしらにとっては危険すぎる。骨董の機関車をつかって、やっとこの世界に来れたのだ。新陰流の使い手も、ほとんどやられてしまったぞ」
「わたしの仲間だ」と奥村が言った。
「わしらは狂った本の世界をすこしでも元にもどし、ウィンディゴの勢力を少しでもそいでおきたかった。だが、やつらはわしらの行動を読んでおるようだ」
「母さんは? 母さんも中つ国に行ったことがあるって言うの?」
「なにを言っとる。お前の母親は、もともと中つ国の人間ではないか」
 洋一はあきれて口を開けた。だけど言葉が出てこなかった。彼は奥村に手を引かれて、後ろ向きに歩いている。その視線の先で男爵はひどく落ちこみ、見た目以上に年老いてみえた。
「母さんは、母さんはまともだった」
「あたりまえだ」
 洋一はふと思いついたことを急いで言った。「戸籍は? 生まれたら役所に登録するもん」
「そんなものはなんとでもなる」
 そんなばかな、と洋一は思った。奥村が常識人(のように見える)だから、ついほだされそうになったが、やっぱり男爵のいっていることは異常だった。おかしいよ、そんなの、と洋一は小声でいいかえした。
「なら、母親の祖父母はどこにおる。お前は会ったことがあるのか?」
 母方どころか両親のどちらの祖父母とも会ったことがない。そもそも血縁がまったくないから、養護院に預けられたのだ。洋一は黙ったが、男爵のいっていることには、まったく納得できなかった。そもそも、祖父母がいないことと、中つ国や本の世界のことは、関係がないのである。
 洋一は、男爵にたいして恩義があった。これから養護院に閉じこめられて生きていかなければならないと信じていたから(それも十年だ!)、男爵が院長を倒したときの感動といったらなかった。だけど、自分の両親が本の登場人物に殺されたと聞かされては、黙ってはいられない。
 男爵は本の世界云(うん)々(ぬん)の話以外は、言っていることはまっとうだった。彼の口振りは、端々から誠(せい)心(しん)を感じさせるものだった。洋一はその矛盾に苦しんだ。そもそもミュンヒハウゼンとは、ほらふきを生業としているのである。これらの話自体がほらであっても、おかしくはない。洋一は本物のほらふきは、自分のうそを信じることができる、という話を聞いたことがある。嘘発見器にも引っかからない人間がいるのだ。男爵も、そのたぐいの人なのかもしれない。
 洋一は、このままついて行っていいのか迷った。だけど、相談すべき人が、今はいないのだ……。
 洋一はこれからの身の振り方を決めるにあたって、本当に迷った。せめて担任の阿部先生にだけでも相談したいと思った。男爵がまともなら、すぐについていってかまわない。団野の元を離れ、もといた洋館に戻れるのなら、なんだってしただろう(後に残る院生のことを思うと、気の毒でならなかったが)。
 結局、洋一が男爵に手を貸すことにしたのは、彼の話を信じたからではなく、生まれ育った家に帰りたい、という一心だった。断ったところで、洋一には養護院での暮らししか、残されていないのだ……。
 洋一の両親がどうやって殺されたのか、それは男爵にもわからないということだった。
 月は沈み、星は消えた。夜は朝に変わろうとしている。洋一は、白い息を薄(うす)靄(もや)に吐き出しながら、ここまで誰にも行き当たらなかったのは、幸いだったなと考えた。それから、両親が事故にあったのはどこなんだろうと考え、また涙をにじませるのだった。

     4

 それから歩くこと一時ばかり、洋一は、ついに図書館のたつ小高い丘の森を目にした。その山は針葉樹の深い緑を基本としている。洋館へとつづく、さほど道幅のない曲がりくねった坂道を見上げて立った。空気は冷え冷えとして、靄(もや)も出ている。日が昇りきるまでは、まだまだ時間があった。車が通るには狭すぎる道が、丘の上の屋敷まで、曲がりくねって続いている。少し高いビルに登れば、町のどこからでもその屋敷は見えたから、利用者が少ないわりに、名前だけは知られていた。
 その森が両親のものなのかはわからなかったが、ほとんど手入れはされていなかった。道は一応舗装され、コンクリートの路肩もちゃんとある。対向車両が来ると、徐行して通るのがやっとだった。交通の不便はあるが、静けさだけは一等地であったから、その昔は、利用者も多かったらしい。
 洋一はこの坂を、そのさほど長くもない人生で、なんど上り下りしたかわからない。坂の袂(たもと)で丘を見上げながら、まるで十年ぶりに生まれ故郷に戻ってきたかのような、そんな心持ちだった。道の脇に生える下草にさえ、懐かしさを覚えた。
 洋一は友人たちとピストルごっこをし、山を駆け回り、カブトムシを捕ったりしたことを思いだした。繁殖のために、古畳を拾ってきたこともあった。あれはどこに隠したんだっけ……。
 秘密基地を造り、キャンプをし、焼き芋を焼いて、鳥の巣を作った。この山はこれまでの彼であり、これからの彼でもあるはずだった。両親の、死さえなければ……。
 男爵は疲れた体に鞭打って言った。「さて、もうひとふんばりだ」

     5

 男爵は洋館へとつづく道々、なんとか洋一を訓戒しようとした。洋一は、それが宗教家の述べる信条よろしく、仲間内でしか通用しない、ばかげた戯(たわ)言(ごと)としかとることができなかった。
 洋一は、黙って話を聞いている太助を、不思議に思った。二人は、ほとんど話をしていない。
「君はどう思ってるんだよ? 本の世界に入れるとか、そんなこと本気で信じてるのか?」
 洋一の声はいささか挑戦的になったが、これはいたしかたない。
 太助は洋一の言葉に、かすかに眉根を曇らせた。「わからない。ぼくも本の世界には、入ったことがないんだ」
 洋一は男爵に、ほらあ、という顔をしてみせた。
「無理もない。信じがたいという諸君の気持ちは、我が輩がいっとうよくわかる。なにせ、そんな反応にはなれっこだからな」
 さもあろう、と洋一は思った。
「だが、お主たちの気持ちと、これから降りかかるであろう苦難は、無関係なのだ。城にさえつけば、なにが真実かは、じきに明確になるだろう。そのときに、この話を信じず気を抜いて、敵の計略にかかったとして、そんなときに相手は容赦などしてくれん。一流の剣客たちですら、命を落とすような、危険な輩(やから)が相手なのだ。腹だけは屹(きつ)度(と)かかえて、覚悟してくれ」
 太助が、本の世界のことはともかく、ウィンディゴはほんとにいるし、中間世界はほんとにあるんだ、と言ったから、洋一はますますふさぎこんだ。どうやら味方はいないものらしい。
 洋館までの道には外灯すらない。森(しん)閑(かん)としていた。夜は明け始めていたが、鳥の声すらしなかった。
 洋一には通い慣れたその道が、妙に禍(まが)々(まが)しく見えたのだった。

     6

 その洋館は巨大な建築で、小規模ながら三階建ての、立派な城の様相を呈(てい)していた。二階には立派なバルコニーがある。鋭角な尖塔が三本ばかり突き立っている。正面には三メートルばかりの巨大な門をようし、中に入るとすぐは、舞踏会が開けるほどの立派なホールがあって、奥にはスロープの階段が、二階までつづいている。
 個人が持つにしてはいささか大仰すぎるほどで(恭一の愛車はボロのサニーだったし、牧村家は慎ましやかな生活をしていたのだが。)、事務処理に来ていた役場の職員は(男爵たちは彼らに洋一の居所を聞いたらしかった。訊きだすには骨がいったことと思われる。)、ここを結婚式場にでも変えてはどうか、と冗談口を叩いたほどだ。日本で造られたというよりは、ヨーロッパの古城を移植したといった方が想像しやすいかもしれない。
 その城がいつできたのか知っている人は一人もいなかったし、ゆいいつ知っていたと思われる洋一の両親は死んでしまったのだから、なんとでも言えるわけだ。男爵ならば、いろいろと知っていることも多かろうが、洋一はもうこの老人のいうことに、聞く耳を持つ気がしなかった。後(のち)々(のち)には、事情が変わるわけだが……。
 屋敷の内訳は、このような形である。部屋は大小三十を数え、トイレは一階と二階にふたつあり、ほとんどの部屋が本で埋まっている(トイレもふくめて)。洋一の部屋と、両親の部屋は二階にある。友達が来たときにつかう部屋は、一階の玄関の右側。開けると庭に出られる大きな観音扉がついているから、冬場は寒い。もちろん個人の部屋にも、本がたくさんある。
 通路にも、各個室にも、羅(ら)紗(しや)地(ぢ)の高価な絨毯をひいていて、これだけでも図書館の値打ちは高かった。高級な暖炉があちらこちらにあったし(それこそ院長宅の暖炉など比較にならない)、天井を支える柱は本物の大理石。図書館という体(てい)裁(さい)があるとはいえ、親子三人が暮らすにはあまりにも広すぎる。このため三階には、かくれんぼにつかう以外は、ほとんど行った試しがない。
 おかしなことは、その図書館の書物が、あらゆる国の言語で集められていることだ。洋一の両親はフランス語の部屋、英語の部屋と整理してはいたが(もちろん、日本語の部屋が、もっとも蔵(ぞう)書(しよ)豊かだが)これでは利用者がふえないのも、当然といえた。こうした事情も、洋一が男爵の言葉を、まるきり否定できない要因のひとつだった。日本にある日本の図書館で、外国の客などめったに来ないのに(なにせ日本人すら来てくれないのだから)、外国語の書物を集める理由がないのである。洋一は、以前から不思議だった。図書館には作家の生原稿を集めた部屋もあって、結構値打ちものと思われるこれらの品々を、どうやって集めてくるのか、実に不思議だった。それに、男爵が話していた伝説の書――洋一は、それとおぼしき本の在(あり)処(か)を、知っている……。
 一行は朝(あさ)靄(もや)を抜けて、鉄格子の門をくぐった。空は、まだ明け切ってはいない。地面の土は朝(あさ)霜(じも)で氷り、踏むと、パリパリと音を立てる。その薄い、日射しともいえない日射しの中で、苔(こけ)むした白亜の洋館を見上げたとき、洋一は、百年ぶりに凱(がい)旋(せん)した兵隊のように、妙に感傷的な気分になった。この図書館だけが、変わっていないことに(敷地に生えている、草の数すら変わっていないことに)、妙に不思議と感動したのだった――出発したのは、この晩のことだったのだから、変わっていなくても当然だったが、彼の体内時計は、ずいぶんと早回しを行ったようで、この一晩が十カ年にすら感じられたのだった。そして図書館は、自分の凱旋を、喜んでいるようにさえ見えた。
 洋一は、今にも窓の明かりがついて、心配した両親が飛び出してくれたら、どんなにかいいのに、と思った。そして、長い坂道にこそ辟(へき)易(えき)しながらも、自分がこの図書館を、どれほど深く愛していたかに気がついた。へんてこな部屋、へんてこな書物、へんてこな両親を愛していた。どれもが、彼の自慢の種だった。
 洋一は二人に会うのは無理なんだという気持ちと、もしかしたらという期待を、胸でせめぎ合わせながら、玄関の階段に近づいた。脇に回ると、左から三つ目、下から三番目のブロックに手をかけた。そのブロックを揺り動かすこと数度、ブロックが石垣から外れた。洋一はそのあとにできた空洞に手を差しこみ、冷たく冷えた鍵をとりだした。振り向くと、三人に、震える声で言った。
「あった……」
 もし、これまでの人生の、なにもかもが変わったのなら、この鍵もなくなっていて、もう図書館には二度と踏みこめないだろうと覚悟していた。だから、その合い鍵の存在は、洋一の肺に、朝のすがすがしい空気を送りこむように、胸にあったかすかな希望をふくらませた。
 洋一が、泥で汚れ、朝露に濡れる合い鍵を、大事な戦利品のように掲げてふりむいたとき、すべての部屋で明かりがつき、何万人という数の人間の声が、あふれ出してきた。
 洋一は、図書館をかえりみた。玄関の階段を、ふらつく足で下りながら。明かりのついた窓を見た。見慣れた厚手の本が、ボールのように横切るのを見た。ガラス越しに、空を飛び交う本の姿を、確かに見た。
「誰かいる……」
 と洋一が震える声でつぶやいたときには、ミュンヒハウゼンと奥村は鋭く剣を抜いて、洋一と太助の背後にきていた。男爵が厳かな声で、こうつぶやくのが聞こえた。
「すでにはじまっておる。見捨てられた書物が、怒り狂っておるぞ……」


   その二 見捨てられた書物と、最初の対峙について

     1

 洋一は震える指で、時代めかした大きな鍵を、扉の穴に差しこんだ。クルリと回すと、カチャリと大きな音がした。中から聞こえた、人のさんざめく声が、ぴたりとやんだ。洋一はこう思った。こいつら、ぼくらが来たのに気づいてる。
 洋一がふりむくと、男爵は大きくうなずいた。ミュンヒハウゼンは帽子を手で押さえ、足を開いて身構える。奥村と太助は、中からなにかが出てくるのに備えるように、扉の脇に回りこんだ。
 洋一は、その巨大な扉を、ゆっくりと開いていった。中から明かりの筋が伸び、バルコニーのつくる影をすーっと左右に払っていく。洋一はホールを目にした。昨晩出かけたときと、なんら変わりがないようだった。洋一はそっと身を忍ばせて、ホールの絨(じゆう)毯(たん)にその足を置いた。その瞬間、人声が復活して、洋一は尻餅をついた。目を回しながら感じたのは、今、屋敷には、何万人という人間がいる、ということだった。ただいるだけではなくて、ありとあらゆる騒ぎをしている。悲鳴がするし、話し声に怒鳴り声、男女の聞くに堪えない嬌(きよう)声(せい)に、断末魔の声までする。まるで屋敷の中で、騒ぎ合って、愛し合って、殺し合って、大喜びして……人間が営(いとな)むありとあらゆる行為を、一時に楽しんでいるみたいだ。
「しっかりしろ、洋一」
 男爵が洋一の脇に手を差しこみ、彼を外に引きずりだした。
 洋一は、男爵の腕に手をかけ、息も絶え絶えに言った。
「な、なにがおこってるの?」
「あれは、本から漏れる声だ。登場人物の声が、漏れ出ておるのだ」
 と男爵。奥村が刀を鞘(さや)に収めながら、洋一の傍らに片膝をついた。
 洋一は、太助と顔を見合わせる。二人は本の世界になどは、とんとお目にかかったことがない。声(というか騒動)を聞いたあとも、男爵の話はピンとこなかったが、それでも度肝を抜かれたのだ。
 太助は、男爵を助けるという、父親についてここまで来た。奥村左右衛門之丞真行が、ミュンヒハウゼンを補佐しているように、父を助けるのは、ほんの子供のころからの彼の役目だった(もっとも奥村休賀斎は、他人の助けなど、必要としない人物ではあったが)。本の世界を救うだとか、伝説の書だとかいう話は、いっさい男爵のほらであって、真剣に考えてみたことはなかった。だけど、機関車にのって別の次元に来られたのはうそ偽りのない話だし、本の世界を守る一家というのも、ほんとにいた。太助は、物語の世界というのは、ほんとにあるのかもしれない、自分はその世界を、冒険することになるかもしれない、と思って、にわかに緊張したのだった。
 一行は中を確かめながら、ホールへと踏みこんでいった。屋内には人影らしきものは、なにもなかった。だけど、あちこちの部屋からは人の気配がして、声も漏れでていた。
 本のある部屋はどこだ、と男爵が訊くと、洋一は、たいていの部屋には本がある、と答えた。
 ともあれ、ほらふき男爵は、左手の、もっとも手近な扉に身を寄せた。中からは、人の声が寸(すん)断(だん)なく漏れ出てくる。悲鳴、話し声、怒鳴り声、声という声と物音が。洋一は男爵の腰にピタリと寄り添って、耳をそばだてていたが、やがて、
「ここはぼくの家だぞ」
 と怒りに震える声で言った。彼は物語の世界なんて、まだ信じることができなかった、両親と自分の留守中に、泥棒が入ったにちがいない、と信じた。
 男爵が、彼の肩を叩いて合図した。
「中に踏みこもう」

     2

 男爵が金のドアノブに手をかけ、チョコレート色の扉を開いた瞬間、中からは轟(ごう)然(ぜん)たる風が一同に向かって吹き付けた。口の中で風が渦を巻き、息も吸えない。
 洋一は、自分の見たものが信じられなかった。部屋の中では本という本が、鳥のように羽ばたき、ぶつかりあっていたからだ。
 男爵は果敢にも部屋に飛びこみ、しかし、唸(うな)りを上げて立ちつくす。洋一たちも中に入ったが、本という本がこうも暴れていては、手の施(ほどこ)しようがない。仲の悪いのもいるらしく、互いをちぎり合ったりしている。おまけに男爵の手元では、本の見開きから、馬が出てこようとしていた。
 洋一は、その馬が、充血したギョロ目をいかつかせ、ぶふうと鼻から吐いた息で、髪をなびかせるのを感じた。馬は空間に身を乗りだした瞬間に、実物大の大きさになるようで、ページの縁(ふち)に前足が出ると、その蹄(ひづめ)は実物大に大きくなった。身をくねらせながら、現実世界に出てこようとしたのだが、あと少しのところで、ミュンヒハウゼンに本を閉じられてしまった。
 馬はいななきを残して、洋一の前から消えた。男爵の手の中で、本が暴れ出し、彼はこいつめこいつめと、その本を縦に横にと振り立てた。別の本が抗議をするかのように、男爵の頭を、表紙の角で攻撃する。ミュンヒハウゼンは、後頭部に一撃を食らって、足をよろめかせたが、それでも気(き)丈(じよう)に本をつかんでいる。
 そのとき、部屋中の本が、互いに争うのをやめ、洋一たちに目をつけた。本は、空中で制止した。その刹那、洋一は部屋にある、何百という本の背表紙から、悪意が放たれるのを感じた。
 奥村が暴れる本を叩き伏せようとする男爵の肘をとり、洋一と太助を追い立てた。空中に浮かんだ本が、四人の後を追うように、ゆっくりと向きを変えている。
 本の群れが、こちらに向かって突撃を開始しようとした瞬間、洋一の鼻先で扉が閉まった。本のいくつかが、扉にぶつかり音を立てた。
 洋一は高鳴る心臓に手をやることもできずに、呆然と見開いた目をこすった。おかげでまつげが目に入ったが、その痛みも気にならない。なにが起こったのかわからなかった。洋一は男爵たちをかえりみて、「ありえないよ」と叫んだ。ちょうど男爵が、部屋から持ちだした本を踏みつけにするところだった。
「貴様」と男爵は地面に落ちた本に向かって言った。「わしはお前たちを助けに来たのだぞ。狂った世界を、元に戻しに参ったのだ。わかったか」
 絨毯の上で、本が抗議するように飛び跳ねた。男爵は屋敷中に聞こえるように、首を仰(あお)向(む)けて口説した。
「よいか貴様ら! 我が名はミュンヒハウゼン、高名なるほらふき男爵である! 本の世界を救うため、物語を飛び出し、仲間と共に馳(は)せ参(さん)じた。残念にも牧村夫妻は命を落としたが、子息と我が輩、そして中つ国の仲間がいるかぎり、物語は終わりはしない! 諸君らに良心があり……!」騒いでいた屋敷がシンとなった。とここから男爵は、涙に視界を曇らせ、わきおこる熱情に声をつまらせだす。「自らの物語を思う心があるならば、一時でいい、我が輩らに力を貸してくれ。我が輩は……」
 そのとき、静まりかえったかと思った屋敷内から一斉に抗議の声があがり、あちらこちらで扉が開きはじめた。洋一たちはほうほうの体で、その場を逃げだした。
 洋一は先頭になって、男爵たちを、本のない場所へと導いた。彼のよく知る図書館は、一夜にしてお化け屋敷になったかのようだ。あちらこちらで、廊下をうろつく人影が見えた。洋一は、なんども方向を転換せねばならなかった。この屋敷の中で本のない部屋なんて、それこそ見つけだすのに苦労したが、記憶の地図を返す返す、ようやく一つ見つかった。
 彼らは洋一を先頭に廊下を走って、ついに本のない物置小屋へと逃げこんだ。そこは掃除用具を入れこんだ部屋で、中は埃っぽく、四人が入ると(うち二人が子供とはいえ)ずいぶん手(て)狭(ぜま)だ。今日はなんと物置に用のある日だろうと思うと、情けなかった。
 一同は、真っ暗な部屋で座りこんで、荒い息をついた。とくに、体を痛めている男爵と洋一には、全力疾走が身に堪えた。
 洋一は壁をさぐって、物置の明かりをつけた。
「持ってきたの?」
 男爵はへたりこんだままだったが、その膝元ではまだ赤い本を手にしていた。見慣れたはずの本の背表紙が、なんとも薄気味悪く、不吉なものに見えた。
「捨ててくればよかったのに」
「あ、あいつら」と男爵はその本を持ち上げ、荒い息の下で言った。「わ、わしらにたてつきおって、どうなるか見ておれ」
 だが、洋一はさきほどの抗議の中にも、賛同の声があがったのを、確かに聞いた気がした。その証拠に男爵が手にもつ本は、先ほどはあれほど暴れていたのに、今はすっかり大人しくなっている。奥村が、
「ですが、その本は聞く耳をもっているようですな」と言った。
「さもあらん。見て見ろ、本の題名を」男爵は洋一に向かって、本を突き上げた。本の表紙には、『ロビン・フッドの冒険』とある。「多くの人に読みつがれた歴史ある本だ。そのような本は強い力をもっておる」
 彼は気迫のこもった目で、洋一をにらんだ。屋敷では、まだ騒ぎがつづいている。でも、山の中だから、誰も気づく人はいないんだろうな、と洋一は思う。つまり、誰か洋一がいなくなったことに気づいて洋館を訪ねてくるまで、この自体を知る人はいないわけだ。団野は洋一がいなくなったことを、隠すに決まっている。
 男爵は、洋一に向かって言った。「どうじゃ。これで信じたか?」
「あれを信じろっていうの?」
 洋一には、男爵の申し出の方が信じられない。
「きっと、ぼくらは院長に殴られすぎて、頭がおかしくなったんだよ」
「それとも、今見たものは、夢かうつつのたぐいだと?」
「でなきゃなんなんだ」洋一は頭をかきむしった。「どうすればいいんだよ。せっかくうちに帰ってきたのに、ぼくはゆっくり休みたいだけなんだ。体だってボロボロなんだ」
 男爵は座りこんだまま、洋一の胸を突いた。「その痛みこそが、現実なのだ。今の情況とて、現実なのだ。目をさませ」
 洋一は半分べそをかいて、問い返した。「ぼくに、どうして欲しいのさ?」
「伝説の書を手に入れたい。本の場所へ案内しろ」

     3

「ともかく」
 と男爵は言った。
「本の多くはウィンディゴの影響を受け、やつに味方しておる。悪の中つ国の力が、物語の世界に影響しておるのだ」
「物語は、ハッピーエンドに決まってるんだ。正義は必ず勝つんだぞ」
「それは昔の話だ」とミュンヒハウゼンは洋一を睨む。「わしが今知る物語には」と彼は前置いた。「悪が正義をうち倒し、誠が嘘に破れ、陽が陰にとってかわる、そんなものばかりだ」
「それが、ウィンディゴのせいなの?」
 洋一は尋ねた。男爵は無言でうなずいた。洋一は、無意識のうちに、ほうきをつかんで考えこんだ。ある疑惑が、さっと心に浮かんだ。物語の世界が本当だとして、ウィンディゴが本当にいるとしたら――? ぼくの父さんと母さんが、そいつに殺されたのも、ほんとかもしれない。
 まだ見ぬウィンディゴにたいして、猛烈でどす黒い怒りが、洋一の胸の中で渦を巻いた。
「伝説の書は、なにも書かれてない本だ。そうでしょ?」
 男爵は目を見開いた。「伝説の書を、開いたことがあるのか?」
 洋一がうなずいて口を開こうとすると、男爵が、慌ててその口をふさいだ。「待て待て待て。伝説の書のありかはいうな。誰が聞き耳を立てておるか、わからんぞ」その証拠に、屋敷はまた静まりかえっている。まるでウィンディゴ配下の書物が、全精力を傾けて、洋一たちの居場所を探っているかのようだった。
 洋一は、声を落として言った。「でも、ぼくは伝説の書に落書きしたのに、なにも起こらなかった」
  男爵は顔を真っ赤にした。大事な伝説の書に落書きをしたときいて、腹を立てたようだった。
「それはお前がものを書いたときに、なにも念じておらんかったからだ。その本はな、人の意志、信じる力に反応するのだ。ただの落書きなんぞが、現実化してたまるか。あれを使いこなすには、とんでもない修(しゆう)練(れん)がいると思え」
 洋一はむっとした。
「ともかく、伝説の書の在処を、お前は知っておるわけだ」
 男爵が身をかがめる。洋一は、ミュンヒハウゼンの耳にささやいた。「両親の部屋の机においてある」
 男爵は、あまりのことに唖然とした。「鍵をかけた金庫か書箱にいれておらんのか? むき出しにおいてあるのか?」
「そうじゃなかったら、ぼくがさわれるわけがないよ」
 奥村は声を出さないよう、注意して笑った。「いかにも恭一らしい」
「赤い表紙のでっかい本でさ、カバーもなんもないやつで」
「それだ!」
「か、どうかはわからないけど、すごく大事な本だって言ってた」
「中にはなんと?」
「なんにも。真っ白なページだった。分厚い本なのに、ずっと白紙なんだ。それにぼく……」と洋一は告白を恥じるようにうつむいた。「あの本を持ったとき、熱いと思ったんだ」
 あの本は生きてるみたいだった、と洋一は言った。
 男爵たちは顔を見合わせた。もはや、まちがいない、と男爵は言った。
「なんということだ。ことは一刻を争うぞ。ウィンディゴのやつに、先を越されるわけにはいかん。やつがそれを手にしたら、きっと使いこなして、世の中をめちゃめちゃにしてしまう」
「そいつは、こっちの世界に来てるの?」
 洋一は訊いた。身の程も考えずに。彼はこれほど怒りが強ければ、その力だけで、ウィンディゴがやっつけられる気がした。男爵の言うとおり、いかに世の中が変わろうとも、彼の中では、まだまだ正義が悪に勝つ、古い世界が信じられていたからである。
 それに対する、男爵の答えは頼りなかった。
「わからん。やつの動きが、わしに読めるわけがない」
 ともあれ、彼らはせっかく逃げこんだ安全な物置を出て、両親の寝室に向かうことになった。問題は、両親の部屋にも本があることだが、男爵がいうには、
「恭一が部屋に置くぐらいだから、それらの本は、力の強い、正しい本に決まっておる」
 彼は、それらの本自体が強い力を持っているのでウィンディゴの影響を受けていないはずだと、信じたがっているようだった。
「もっとも、お前は気をとち狂わせておったようだがな」と男爵は『ロビン・フッド』を見下ろして言った。

     4

 洋一たちはこっそりと部屋を出たのだが、六歩と行かないうちに、その行動を知られることになった。静まりかえっていた屋敷が、また騒がしくなり、騒音という名の強風は、たちまち暴風の域に達した。書物があちこちの部屋から飛び出してくる。中には、五、六キロはあろうかという、巨大なハードカバーもあって、洋一はあやうく頭を砕かれかけた。彼らは全力で二階に駆け上がると、両親の部屋に逃げこんだ。
 両親の部屋は広かった。壁は本棚に埋め尽くされている。ベッドは右の隅に、ストーブが中央にあり、恭一が生前くつろいで、本を手にしていたソファが、そのそばにある。そして、窓際に、背を向ける格好で、大きなデスクが置かれている。洋一の友達が、校長机と呼んでいた、立派なデスクだ。
 この部屋だけは、見受けられる異常はなにもなく、両親の生前の姿を保っているかのようだった。奥村が洋一の肩を叩いて指をさす先で、彼の両親が残したらしい、いくつもの紋(もん)様(よう)が壁に描かれているのが見えた。暗い部屋の中にもかかわらず、まっさきに目に飛びこんできたのは、紋様自体が光を放っていたからである。
「恭一の残した結界らしい」
「おかげで助かったぞ」
 とミュンヒハウゼンは、急にノビノビとした大股で、恭一の大机に歩み寄った。よく見ると、寝室にはあちこちに不思議な文字が書かれていた。大きな物は、東西南北に四つある。洋一は書物の喧(けん)噪(そう)が、部屋にはいった瞬間に遠のいたことに気がついた。男爵のあとについて、大机まで歩いていき、両親の残した遺品の数々を眺めやった。恭一の残した万年筆、開いたままのノート。もう二人がつけることはない、ライトをつける。明かりが落ちる。洋一は涙のこもった目で、男爵を見上げた。
「どうだ?」とミュンヒハウゼンが訊く。
「なくなってる。きっと父さんが隠したんだ」
「ウィンディゴが持っていったんじゃあ」太助が言った。
「いや、やつがこの部屋に入れたとは思えん」
 と男爵は引き出しを開けはじめた。
 洋一は壁に据え置かれた本棚に寄っていった。棚にはくたびれた古い書物や、新書本まで、ありとあらゆる時代の本が並べられている。この部屋の本は洋一ですら許可がない限り、読むことはできなかった。両親は男爵のいう、強い力をもった本ばかりをこの部屋に集めたのだろう。
「あったぞ」
 男爵が言った。洋一がふりむくと、ミュンヒハウゼンが一番下の引き出しから、広辞苑ほどの分厚さのある古びた本を取りだしたところだった。一同は男爵のもとに集まり、彼の手元をのぞきこんだ。
「あったぞ、これこそ伝説の書だ」と男爵は、本の表紙をパタパタとはたいた。それからまた引き出しの中をのぞきこみ、「鍵はかけられておらんが、封印がほどこしてあるぞ」と机の中にあった魔よけをみつけて、感嘆を上げた。
「あいつは勘がよかった。身に危険がおよんでいることに気づいていたのでしょう」
 奥村が静かな口振りで言った。
 ミュンヒハウゼンは、洋一に伝説の書を手渡した。洋一はその本を手にした瞬間、以前とおなじ熱気を掌に感じた。その本にはタイトルも表紙絵もない。だが、真っ赤なその装(そう)幀(てい)は、洋一の手の中で、うずくような息吹を発した。
 この本には力がある、と洋一は思った。
 その本はパリパリと真新しげな音をたてた。ページにはなにも書かれていないが、真っ白というよりは古茶けた色をしていた。ページを繰(く)ったが、なにかが書かれたような痕(こん)跡(せき)がない。昔書いた落書きが、どこにもなかった。
「ボールペンで書いたのに……」
 彼がつぶやくと、危険な書物なんじゃぞ、と男爵は言った。
 洋一は男爵を見上げた。「これはおもちゃじゃないって、すごく怒られたよ」
「さもあろう」危険もあるからな、と彼はうなずいた。
「これからどうするの?」
 洋一が言うと、男爵はふたたびこの屋敷に来てはじめて手にした本、ロビンフッドを一同に向けて示し、「これもなにかの縁じゃ」と言った。「まずはこの本の世界に入る」
 その言葉を訊いた瞬間、洋一は脳天までしびれあがった。驚きと興奮のあまり、髪が逆立つようだった。ここにあるのが両親のお気に入りの本だというのなら、洋一にとってはロビン・フッドこそがお気に入りだった。カバーこそなくなっているが(ロビンと森の盗賊たちが、木陰から、道を行くノッティンガム侯爵とその一行の様子をのぞき見ている絵のついたやつ)、洋一はその本を、なんど読み返したかわからない。盗賊たちが悪い代官をやっつける痛快さが好きだし、とくに主人公を支えるちびのジョンが大好きだった。洋一は、友達と森の盗賊ごっこをずいぶんしたものだ。母さんの家裁道具からゴムひもを盗んで、手製の弓矢を作ったこともある(ときどき弓矢がピストルにかわったけれど)。
 男爵と奥村は、『ロビン・フッド』を開いて、物語の冒頭辺りを確かめている。
「すごいよ」太助に向かって言う。「ロビン・フッドに会えるんだ。読んだことある?」
 太助がうなずいた。洋一はつづけて言った。「ほんとにすごいよ。知ってる? ロビン・フッドにはモデルになった人物がいるかもしれないんだ。でもぼくたちは、本物のロビン・フッドに会えるかもしれない」
「君は、本の世界なんてないって、言ってたじゃないか」
「お前こそ、中間世界から来たとか言ってたくせに、信じないのか」
 二人の言い争いは、大人たちの、
「物語が変わっておる」
 というつぶやきで消されてしまった。男爵が、呆然たる顔でふりむいた。
「この物語ではロビン・フッドは冒頭から死んだことになっておる」
「そんな」と洋一は、本を男爵の手からひったくった。彼は本の世界をまるきり信じていなかっただけに、ロビン・フッドに会えない、という現実が耐え難かった。「どうなるの? ロビンは生き返るの?」
「わからん」男爵は首を横に振る。「物語が変質をはじめてからは、わしは他人の本に入ったことがない」
「わたしもないな」と奥村。
「本の世界に入ったことがあるの?」と太助が訊いた。
 奥村は、恭一と二度ほど物語の世界に入りこんだことがある、と言った。男爵が、この二人にはわしが方法を教えたから、そういうこともあるだろう、と付け足した。
「ともあれ、この世界に入りこんでみんことには、いかんともしがたいわい。まったく、主人公がことのはじめから死んでおるとは、サー・ロビン・ロクスリーも、なんともふがいないではないか」
「ちくしょう、それもウィンディゴってやつがやったんだ」と洋一は決めつけた。
「もうしばらく先まで読んで物語がどう変わったのか、頭に入れた方がいいでしょう」奥村が言った。「これからも、変わりつづける可能性があるとはいえ」
 男爵がうなずこうとした、そのときである。
「ミュンヒハウゼン!」
 と、誰のものともしれぬ野太い巨(きよ)声(せい)が、屋敷中に響き渡った。

     5

 その声を聞いた瞬間に、ミュンヒハウゼンは、
「ウィンディゴ!」
 と叫び、サーベルをひきぬいた。ゆっくりとその場で一回りをし、警戒するように周囲に気を配る。
 声はさらに、
「久しいな、ミュンヒハウゼン!」
 と言った。
 奥村が声の方向に見当をつけ、バルコニーのガラス戸に走り寄ると、真冬用にあつらえた分厚いカーテンを引き開けた。洋一はウィンディゴに対する怒りを新たにしていたが、カーテンがあいた瞬間、悲鳴を上げてしりもちをついた。
 窓の外には、巨大な顔がうかんでいた。まず目を引いたのは、でっかい団(だん)子(ご)鼻(ばな)だ。仁(に)王(おう)のような形(ぎよう)相(そう)をして、一同を睨みつけている。透明で、背後の空をうつしている。
 奥村が長刀をすっぱ抜いて、子供たちの前に回りこんだ。
「あ、あれがウィンディゴ」洋一は唖然として言った。
「うろたえるな」とミュンヒハウゼンが言った。「やつはお前がもっとも怖れるものに姿を変えるぞ」
「さよう」ウィンディゴは怒鳴った。部屋の結界が揺らぎ、辺りの喧(けん)噪(そう)が戻ってきた。「察しのとおりだ、ミュンヒハウゼン。わしはお主とおなじく、創造の力を擁(よう)する者! さあ、その本を渡してもらおうか。伝説の書は、お主にはすぎ足るものだ」
「黙れ!」洋一は窓に駆け寄ろうとして、奥村と太助に抱き留められた。「お前が父さんと母さんを殺したんだな! よくも、よくもやったな。見てろ」
「黙れ、わっぱ!」ウィンディゴの怒声にうたれ、洋一はその場にくずおれた。男爵すらも片膝をついた。「身のほどを知るがいい! ぬしらの仲間はほとんどが死に、残ったのはそこにいる、奥村休賀斎と小僧!」とウィンディゴは脅すかのごとく、窓際まで攻め寄せてくる。「そして、なにも知らぬ非力な牧村の子息」
 ウィンディゴは洋一をあざ笑いつつ、窓から離れていく。洋一は悔し涙を流し、奥村の手の中で暴れた。あんまり暴れるものだから、奥村の刀で手の甲を切ってしまった。
「洋一、やつの口車に乗るな!」
 と奥村は刀をおさめながら説き聞かせた。
 男爵が小声で、「そのとおりじゃ、今は物語の世界を正し、少しでもやつの力を弱めるしかないのだぞ」
 その男爵の言葉を、ウィンディゴは聴いていたようだ。
「あわれなるかな、ミュンヒハウゼン」顔だけのウィンディゴが宙を回る。「本の世界を救おうなどとやめておけ。人々はもはや、お主を必要とはしておらぬ。善がお主にどれだけ味方する! まだ、わしにさからうつもりか! もはや、お主に力は残されておらぬ! その証拠にお主は年老い、創造の力も、大半をなくしておるではないか!」
 洋一は驚いてミュンヒハウゼンをかえりみた。男爵は、ガックリと肩を落としてうなだれている。ウィンディゴの言葉は、事実らしかった。だから、彼は牧村一家の助けと、伝説の書とを求めたのだ。男爵がいった、ほらもふけないほらふき男爵とは、そういう意味だったのだ。
「世界の人々は、お主の紡(つむ)ぐ物語を忘れ去ろうとしている。もはやお主を信じておらんのだ」
 ウィンディゴの巨顔が壮絶とも呼べる笑みを形作った。
「お前なんか!」怒鳴る洋一に、太助が組みついた。「ぼくの父さんと母さんを殺したって、まだ男爵がいる!」
「ミュンヒハウゼン!」ウィンディゴはさも驚いた風に、「そやつは年老い力をなくしておる。世界の人々は、お前を忘れ去ろうとしている」
 ウィンディゴが窓に近づく。
「だまれ!」
 洋一は涙をながし、ウィンディゴにたち向かおうとした。
 奥村が開き戸まで駆け寄り、カーテンをしめた。そのカーテンの裏地では、洋一の母親がほどこしたら、呪文の文字が光を放っていた。母さんは死んでもぼくを守ってるんだ、と思うと、洋一の胸は二人への愛情と悲しみ、ウィンディゴにたいする新たな怒りで熱くなった。
 カーテンがしまると、音は遠ざかり、ウィンディゴの声は、はるか彼方から響く遠(えん)雷(らい)のようになった。
 奥村が肩に手を回すと、洋一はガックリとうなだれた。ふりむくと、男爵もおなじように消沈している。三人は男爵のところまで歩いていった。男爵はひどく青ざめた顔をしていたが、近づいてきた三人に気づき、気丈にも立ち上がった。
「ぼくは男爵を信じるよ」と洋一は言った。「前はあんなこと言ったけど、全部取り消す。だって男爵は院長の家でぼくを助けてくれた」
「わしはもうだめだ……」
「男爵、あいつの言葉を聴いちゃだめだ。ぼくは男爵を信じる。男爵は本物のミュンヒハウゼン男爵だ」
「ああ、ああ」ミュンヒハウゼンは、ウィンディゴの言った言葉がひどくショックだったようだ。その顔は、どんな深海よりも青ざめている。「だが、やつの言ったことも真実なのだ。わし自身の物語世界が、すでに狂いを見せておる。わしの仲間たち――グスタバス、アドルファス、バートホールド、アルブレヒト……あやつらはいまいったいどこでどうしておるのか」とミュンヒハウゼンは帽子をむしりとる。
 洋一は男爵の白(しら)髪(が)頭(あたま)を見下ろした。「ぼくには、強くあれって言ったくせに……」怒りに震える胸。そこから息を吹きだした。「この大うそつき! 弱虫のへっぴり腰野郎!」
「なにおう」これには負けず嫌いの男爵が、目を剥いて立ち上がる。
「男爵のほらふき。でも、こいていいほらと、悪いほらがあるぞ」
「なにを言うか! お前はなにもわかっておらんのだ!」
「わかってないのは、男爵だ」洋一は静かに言った。「男爵は、ぼくに力を貸して欲しいって言った。なのに男爵は、自分があきらめてる。うそはついてもいいけど、約束を破っちゃだめなんだぞ!」
「言われましたな」
 奥村が伝説の書をとって戻る。それを、ミュンヒハウゼンの胸に押しつけた。
「男爵」と洋一はミュンヒハウゼンの手をとった。以前は彼の情熱を表すかのごとく、熱い力に満ちていた手が、今は冷たく冷えている。そのことも、彼の心を傷つけた。洋一は目に涙を溜めた。声は、震えた。「本の世界がほんとにあって、父さんたちが殺されたのもほんとなら、仇をとりたいよ男爵」
「それは、我が悲願でもある」
 とミュンヒハウゼンは言った。彼の頬に赤みが差した。彼は名付け子の前で、弱気になった自分を恥じた。恭一たちは本の世界を守るため――それはいうまでもなく、ミュンヒハウゼンの世界を守るためでもある――戦って亡くなった。世界中の人間が、彼を忘れ去ろうとも、少なくとも牧村夫妻は、彼のことを信じて亡くなったのである。
 男爵は立ち上がると、洋一の肩に手を置き、日が差してきた表に向き直った。
「この期におよんで弱気になるなど、わしはどうかしておった。ウィンディゴ!」と外に向けて呼ばわる。「貴様など、世間にろくに名も知られておらぬ。わしの物語は、これまで全世界で読み継がれてきた」
「映画にもなった」と洋一。
「そのとおり!」
 男爵が声も高らかに叫んだ。奥村が快(かい)活(かつ)に言った。
「まずはロビン・フッドを、救いにまいりましょう」

     6

 洋一たちは、物語の世界に入りこむしかなくなった。忘れられた書物が、部屋を攻撃しはじめたからだ。壁が太鼓のように音をたて、扉の蝶(ちよう)番(つがい)はがたつき、軋(きし)み音を上げている。天井からは、ちり積もった埃までもが落ちてきた。洋一と太助は、無意識のうちに手をとりあった。何者かが、中に入ろうとしている。恭一がつくった結界がいかに強力とはいえ、あまり時間は残されていなかった。
 隣で男爵が、急いで懐に手をつきこむと、中から二枚の紙をとりだし、二人の少年に手渡した。
「これには、物語の世界に入るための呪文が書かれてある、一字一句まちがえるなよ」
 と彼は言った。それから『ロビンフッドの冒険』を手にすると、部屋の中央に行った。男爵はページをパラパラと繰ると、
「この辺りがいいだろう」
 と言って、そのページを手で押し、しっかりと開いた。
「城の中の調理場のシーンだ。我々はそこにでるぞ」
 洋一と太助はその紙片に目を通して、なんとかそのヘンテコな呪文を暗記しようとした。そのとき、男爵は懐から伝説の書をとりだし、じっと見つめた。ややあって、その書物を、洋一に向かって差し出し、
「お前がもっておれ」
 と言った。洋一はその本が(すくなくとも男爵にとっては)、重要な本だとわかっていたから、驚いた。
「でも――」
「お主の両親が、半(はん)生(せい)をつうじて守りぬいた本だ。お主が持っておれ」と男爵は言った。「万が一、ということがないかぎり、この本を使ってはならん。とはいえ、お主では、なにを書きこもうとも現実化はせんだろうがな」
 洋一は伝説の書を、恐る恐る受けとった。彼はその本の背表紙をなで、ためつすがめつ眺めつした。父さんと母さんに変わって、ぼくがこの本を守るんだ、と思うと、こころよい緊張感のようなものが胸を走る。彼はうなずいて、伝説の書を抱いた。洋一はその本をセーターの中につっこんだ。
 子供たちは男爵と奥村にせきたてられて、本の前に立った。四人は本を囲んだ。
 男爵が言った。
「手を取り合え」
 洋一は太助の手をとった。そして、開いた左手で、ミュンヒハウゼンの手をとった。ミュンヒハウゼンは一心に『ロビン・フッド』を見つめている。
 本当に、本の世界に入れるんだろうか?
 そう疑問を浮かべた瞬間に、洋一はその書物の放つ脈動をかんじ、本が生きていることを確信した。
 彼らを中心に、左回りの風がおきた。ウィンディゴが騒いでいる。まるで地震が起きたかのように鳴(めい)動(どう)している。洋一はこう思った。あいつら、この部屋を、サイコロみたいに揺すぶってるぞ。
 男爵はそんな妨害をものともせず、落ち着き払って言った。
「目を閉じろ」
 取り囲まれているさなかに、目を閉じるのは怖かったが、同時にものすごく興奮してもいた。洋一は自分の股間が硬くなっているのに気づく、わき上がるような力を感じた。その力は、彼のまだ知らぬ性の衝動にも似て、まるで、原始の力が、彼の中に眠る能力を、目覚めさせていくかのようだった。目を閉じているのに、周囲の景色が見えた。洋一は、四人のつないだ手を通して、未知なるエネルギーが駆けめぐるのを感じる。歓喜ともとれるうめき声がする。ウィンディゴの怒りの叫びも。
「呪文を思い浮かべろ」
 その瞬間、洋一のまぶたの裏には、ほんとにあの呪文が浮かんできた。日本語だけでなく、ありとあらゆる言語で浮かんできた。洋一はうろたえながらも、呪文が消えないようにしがみつく。体ではなく精神の力で。彼は呪文の音を覚えることは、無意味なんだと直覚する。だから、その言葉の裏にある力をつかまえにかかった。
 ウィンディゴは男爵の言うとおり、とてつもなく怖ろしいやつだ。でも、自分に、自分たちにこんなことができるのなら、両親の仇を討つことだって、不可能ではない気がする。
 ウィンディゴがガラス戸にぶつかる音がし、男爵が叫んだ。
「声をそろえて唱えるんじゃ」
 四つの声が唱(しよう)和(わ)する。
「ラガナリボーノ、オチミマーヤ、タエガンカウコ!」
 その瞬間、洋一のお気に入りの本である『ロビン・フッドの冒険』は光り輝き、瞼(まぶた)を通して四人の脳(のう)髄(ずい)を貫いた。その光とともに、文章の洪水がおしよせてくる。文の流れに脳を揺さぶられ、洋一は悲鳴を上げる。彼らの意識は、遠くなる。洋一が目を開こうかと迷ったその刹(せつ)那(な)、髪の毛をわしづかみにされるような感触が、頭皮を襲った。腰が浮いたかと思うと、洋一の体は虚(こ)空(くう)にむかって放り投げられた。天井にぶつかると思ったのに、そんな感触はない。目を開くこともできずに、彼は大空高くに舞い昇っていった。
 数瞬の後、四人の姿は、わずかな煙を残して、その部屋からかき消えていた。
 あとには、風にページをはためかせる
『ロビン・フッドの冒険』
 だけが残された。
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