妖狐

ねこ沢ふたよ

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1 白金狐

雲に梯<くもにかけはし>

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九尾狐の白金は、従者の狐、黄に詰め寄られていた。

「いくら何でも、こんなにため込んだ書簡を何とかしなくてはいけません」

黄が白金を睨む。

 書簡の内容は分かっている。そのほとんどが、稲荷からの命令書。そこに書かれている案件を解決して、稲荷に報告をする。そうすることで、一つの書簡が処理される。

 その書簡がうずたかく書斎に積み上がり、掃除もままならない。稲荷からのお叱りの使者が来る回数も、日に日に増えている。

「そもそも、こんなにため込むのが、前代未聞のことなんです。いいですか、九尾狐という物は、その妖力は高く、妖怪の長たる妖狐を束ねる妖狐の長。稲荷様直属の狐という誉れ高き存在なんです。その九尾狐の白金様が、自らの結界に引きこもって……」

クドクドと説教をする黄の前から、白金が消えようとしている。にこやかに微笑んだまま、白金の輪郭がぼやけ始める。慌てて黄は、白金の衣の裾を掴む。

「結界を張って逃げようったって、そうはいきませんからね。書簡を処理して下さらなければ、これから一週間のご飯は、全部ゼンマイを入れて炊きますよ?」

黄が白金を脅す。

「困ったね。それは……」

白金は、苦笑いをした。



 白金と黄の姿は、数刻後、人間の街にあった。

「よりにもよって、人間の街での案件なんて……」

白金が、ため息をつく。白いTシャツにベージュのパンツ姿。現在の人間の生活に合わせた服を着た白金は、カフェで手に入れたハーブティを手にしていた。

人間の姿。長い髪は束ねて、紫の組紐で束ねている。九尾の狐は、難なく狐耳もシッポも隠して、悠然としている。
 いい時代になった物だ。昔は、髪が白ければ、それだけで病気かと訝しまれて、目立ってしまったが、珍しくはあっても、咎められることはない。

だが、人込みは疲れる。これだけ人の魂が沢山あれば、その念も混ざり合う。見ていれば、気分が悪くなる。どうして人間は、かように念や気が悪くなるような環境に、自分の住まいを変えてしまうのか。

 清浄な空気や爽やかな風は、一定の木々と綺麗な水が無ければ、すぐ損なわれる。白金が、不満をそのまま表情にして黙っていると、

「白金様が、ご自分で選ばれた案件ですよ? 文句を言わないで下さい」

 黄が白金の態度を注意する。
 何とかシッポは隠せたものの、自分の狐耳を隠せない黄は、緑の大きめの帽子を目深に被っている。白金と揃いの白いシャツ、淡い黄色のオーバーオール姿が可愛らしい。白金に買ってもらったレモネードを美味しそうに飲んでいる。
 書簡を適当に抜き取ったのは、白金。それが、この案件だった。
 
 街に現れる「小豆洗い」を捕獲して、妖怪の世界に帰すこと。

 簡単に言えば、案件に記された課題は、それだった。

「小豆洗いって、どんな妖怪なんですか?」
黄が尋ねる。

「ひと気のない小川に現れて、小豆を洗う」

「え? それだけですか?」

「そうだよ。それだけ」

微笑んで返答する白金が嘘を言っているとは思い難い。

「そんな人畜無害の妖怪ならば、別に九尾の白金様が行かなくても、他の妖狐が行けば、いい案件なのでは?」

「それが、そうでもないらしい。七尾の妖狐を行かせたが、怪我をして帰って来たのだという話だよ。重症の妖狐の言うことには、何かおかしな力が働いて、あずき洗いに近づけもしなかったらしい」

白金の言葉に、黄が身震いをする。

「怖い?」

「へ、平気です。妖狐ですから」

強がる黄の頭を白金が優しく撫でる。

「さて、黄よ。どこにいるとも分からない、妖を見つけるには、どうしたら良い?」

白金が、黄に問う。

「ええと、どうしましょう。人里ですから、人に怪しい者はいないかを尋ねましょうか?」

森ならば、静かに集中して気配を探れば、怪しい者がいれば見つかるが、ここは人が多い。集中しても、人の念が邪魔で、妖の念は容易には見つからない。

「半分正解かな。もっと昔ならば、それで見つかる。ただ、これほどの広さ、多数の人でそれは、骨が折れる」

「では、いかがいたしましょう?」

黄は、首をかしげる。

「人間の知恵を借りてみようぞ」

白金がそう言ってポケットから出したのは、スマートフォン。

「わ、引きこもりで現代社会に付いて行っていない白金様が、なぜこんな物を?」

黄は、買い出しの途中で見かけた人間の機械を、白金が持っていたことに、露骨に驚く。

「お前は、時々ずいぶんと口が悪くなる。借りたんだよ。人間社会に溶け込んでいる妖の友達にね。今回の依頼内容から必要だと思ったからね」

「それは、……白金様に、そんな物を貸して下さるお友達がいらっしゃったとは、存じませんでした」

黄の言葉に、白金は苦笑いする。

 まあ、いい。それだけ憎まれ口が聞けるということは、白金に気を許し、自由に振舞えているということだろう。
 気を取り直して、白金は、スマホを操る。

「ほら、見てごらん。この付近に怪しい老人の目撃情報」

 白金に言われて、黄はスマホを覗き込む。

 白金の言う通り、「変な老人に注意」「小汚い爺に、腕を引っ張られた」「なんか頼み事をされたんが、訳分からん」「川辺のあれ、何なん? 小さい爺」「警察に連行されたのに、またすぐ戻って来た。コワッ」「頼まれたことをしたら、小豆をもらった。気持ち悪いし、食べられなかったけれど」なんて、不思議な情報が投稿されている。

「白金様、これが小豆洗いでしょうか?」

「たぶんね。これらは、全部、ここ最近の情報だよ。それに、他に妖が人間界で迷惑をかけているという話は、この付近にはないよ」

「ということは、川辺で人間に声を掛けている、小さい汚い爺が、小豆洗い」

「そうだね」

「なぜ、こんなことをしているのでしょう」

黄は首をひねる。だって、白金は、ただ小豆を洗っているだけの妖だと言っていた。

「さあ。本来、小豆洗いは無害な妖だ。だから、人間の傍にいても稲荷も黙認している。それが、何らかの事情で、人間に『頼み事』をしなければならなくなって、人間社会で話題になった。だから、稲荷から七尾の狐が派遣されたのに、油断していたのか返り討ちにあった」

「なるほど。何があったのでしょうか?」

「それは、小豆洗い本人に聞いてみないと。その為に、今回は結界に隠れずに人間のフリをしているのだよ」

白金に言われて、黄は初めて、人間の出で立ちをしてきた意味を知る。

「引きこもりの白金様でも、気分を一新したいのかと思っていました。意味があったんですね、この姿」

黄が、クルンとその場で回って、自分の姿を確認する。黒い大きな瞳を輝かせて、ニコリを白金に笑いかける。

「本当、黄は、私に遠慮なく意見を言ってくれるね」

白金は、今日何度目かのため息をついた。

 白金と黄は、並んで小豆洗いを探す。この街の川は、コンクリートで周辺を固められた匂いの臭い小さな川しかない。しかも、川の上流と下流は、両方とも、アスファルトの道路の下を流れていて、川と呼べる部分は、ほんの僅か。

「これなら、すぐに見つかりそうですね」

黄が、キョロキョロと周囲を見て小豆洗いを探す。自慢の鼻は、少しも妖の匂いを拾わない。先ほどから、ドロドロとした川のヘドロの匂いで、鼻は、馬鹿になっている。困ったことではあるが、おかげで、すれ違う犬に吠えられることもない。犬の方でも、鼻がおかしくなっていて、黄達の匂いを判別できないのだろう。

 時折、ビルからの吹きおろしの風で、帽子が飛びそうになるから、黄は必死で帽子を押さえる。狐耳が外に出てしまえば、流石に妖狐とばれてしまう。ぎゅっと帽子をつかみ、白金をみれば、白金が優しく抱き上げてくれる。

「結界に隠れるかい? 隠してあげるよ? 何なら狐屋敷に戻るかい?」

白金に聞かれて、黄は、首をフルフルと横に振る。

「お傍にいたいです。白金様のお仕事を一番近くで見ていたいです」

黄が、目に涙を溜めて訴える。

「では、頑張りなさい。だが、無理はしないでおくれ」

言われて、黄が、コクンと頷く。

「あの、もし」

足元で声がして、そちらを見れば、三十センチほどの大きさの爺が立っている。痩せた体にみすぼらしい服とは言い難い布を纏い、大きな目をぎょろりとこちらに向けている。

「なんだい?」

白金が、返事をする。

「お子様とお散歩中とお見受けいたします。お時間がございましたら、少し手伝いをお願いしたいのですが、よろしいでしょうか?」

 小汚い爺は、そう言って頭を下げる。
 先ほど、人間の情報を見た時には、もっと乱暴な相手かと思ったが、慇懃な態度に、黄は驚く。

「構わないよ。私に出来ることなら」

白金が、ニコリと笑って、返事をする。どうやら、このまま、小豆洗いが人間に何を頼み、どのような目的で出現するのかを、確認するようだ。

 小豆洗いも鼻が利かなくなっているようで、黄と白金を、妖狐とは見破れない。

「ありがとうございます。では、こちらへお越しください」

小豆洗いが、二人を先導する。案内されたのは、すぐ近く。桜の木が一本、植わっている。立派な樹だが、根元は、人間に踏み固められた硬い土。桜の精気は、僅かにしか感じられない。死にいこうとしている桜の木。これに、何をしようというのか。

「私の持っている笊では、この桜に水をあげられません。どうにかして、この桜に水を与えてやりたいのです。川の水を汲んではいただけませんか?」

桜の樹の前に立った小豆洗いが、そう白金に頼む。

「この川の水を? それでは、樹に負担がかかるだろう? この川の水は、汚れすぎている」

白金が当然の意見を小豆洗いにぶつける。

「やはりそうですか。昔は、とても美しい川でした。私は、ここで長年、この桜と共にいて、川で小豆を洗っていたのですが、もうどんなに小豆を洗っても綺麗にはならないのです」

 小豆洗いは、ため息をつく。悔しそうな表情で、首を横に振る。
 両手一杯の真っ黒な粒を見せてくる。これは、小豆? 普段見る、赤い艶やかな粒とは違う黒くドロドロとした粒に、黄が手を伸ばせば、

「触ってはいけないよ。瘴気を纏っている」
と、白金が小声で黄を制する。

瘴気は、悪い気を練り固めた物。瘴気の中で棲む妖魔でもなければ、妖でも害を受ける。長い年月をかけて、汚い川で洗われた小豆は、小豆洗いの妖力と穢れた気が練り込まれて、瘴気を纏うようになってしまったのだろう。

「小豆を洗いたいなら、山に行けばいいのに。街を離れれば、清い川はあるさ」

白金が、優しく小豆洗いを諭す。

「ええ。ですが、この桜の傍にいたいのです。近くで寄り添っていたいのです」

そう言って、小豆洗いは、木肌を撫でる。

 小豆洗いの手で撫でられた桜の樹が、小豆洗いの妖気を感じて、一瞬、ポウッと光る。

「木花咲夜姫……」

 ポツリと白金がつぶやく。

 とたんに、小豆洗いの表情が変わる。今までの柔和な爺の顔が、恐ろしい形相に変わる。

「お前、人間でないな? ヒイ様が見えるお前は誰だ!」

 そう叫ぶ小豆洗いの周辺を、霧のように白金の結界を囲む。
 自分達の周辺から人間を締め出し、小豆洗いの逃げ道を防ぐ。小豆洗いの形相に驚いて帽子から手を離してしまった黄の頭から、ビル風が帽子を取り去ってしまう。
 黄の金色の狐耳を見て、小豆洗いが、目を大きく見開く。

「クソッ、また妖狐か!」

小豆洗いが、どこから取り出したのか、両手一杯の小豆の粒を白金と黄に投げつけてくる。白金は、黄を抱き上げたまま、涼しい顔で、それを片手で弾き返してしまう。

 汚れた川で洗い、瘴気をまとった小豆は、ドロドロと足元で溶けていく。
 白金の銀の狐耳、九の尾が露わになり、圧倒的な妖気を放つ。

「半分正解。七尾ならば、不意打ちで投げつければ、怪我もおわせられよう。だが、九尾の妖狐に、その小豆は、何の足しにもなりはしない」

穏やかな白金の言葉に、小豆洗いが足を震わせる。怯えた表情で、白金をみて、ガクリと膝をつく。

「九尾狐様。あああ……」

うまく言葉を継げずに、小豆洗いは、泣きながら頭を下げた。

「祠はどうしたのだね? 姫様の祠があったはずだよ?」

白金の問いに、観念した小豆洗いは、よろよろと歩いて、白金たちを案内する。

「こちらに」

促されて、白金たちは、小豆洗いの後を追って、川横の暗いトンネルの中に入っていく。
これは、人間達の作った、下水という物ではないだろうか?道路に溜まった雨水や生活ででた排水を流すためのトンネル。酷い匂いに、きゅう、と黄が鳴けば、白金が結界を使って自分たちの身を包んでくれる。薄い膜のような結界だが、息苦しさは緩和される。
トンネルの先に、ほの明るい光。石の小さな祠が、ポツンと置かれている。

「人間が、撤去して公園を作ろうとしましたので」

それで、小豆洗いが急遽この場所に移したということだろうか。石の祠の前で、小豆洗いが祈れば、美しい女性の姿が空に浮かぶ。

「かような場所に、おいたわしい」

白金が眉をひそめる。

「白金様。この方は、女神様ですか?」

木花咲夜姫なら、黄も聞いた事がある。太古の昔から、この国に住まい、桜の花と縁深い格の高い神様。それなのに、目の前の姫は、ずいぶん弱々しい。

「これは、神自身ではないよ。その一息分の息吹。この祠に宿り、桜を守っていたのだろうね。だけれども、人間達が、祠が不要になって捨てようとしていたのを、小豆洗いが、慌てて移設して守っていた……ということかな?」

白金の言葉に、小豆洗いが、はい、と答える。

「九尾様。私は、ずっと小川で小豆を洗っておりました。その川に桜が植えられて、祠が建てられたのは、もう昔のこと。それからずっと、私は、桜の傍で見守り、語りかけ共に過ごしてまいりました。しかし、最近になって川はあのように汚れ、祠を移設すると言われて、慌ててここに移しました。しかし、祠の守りの無くなった桜の樹はあのように枯れ始めてしまいました。祠があっても、桜が無ければ、姫様は息吹は消滅してしまいます。私の弱い妖力では何ともしがたく、人間に声かけて桜に水をやっていただき、お礼に小豆を渡す。その毎日でした」

「では、姫の息吹を神に帰せばどうだろう?」

それが、当然だと黄も思う。通常、祠を移設する時には、御霊抜きをして、祭っていた物に感謝を込めて本体に帰す。そうすれば、祠はただの石くれに戻る。姫の息吹も、本体に戻れば、救われるだろう。
白金の言葉に、ハラハラと涙を流して小豆洗いが震え出す。

「分かってはおります。分かってはおりますが、とても離れがたく……」

 突っ伏して小豆洗いがヒンヒンと泣く。

 いつまでも泣く小豆洗いを見て、困ったね、と白金がため息をつく。

「恋……ですか?」

黄の言葉に、小豆洗いがピクリと震える。

「恐れ多く浅ましいことです。私のような下賤が、高き神の息吹に心をよせるなど。ただ、私は、姫のお傍にいたいだけで。姿を見られるならば、それで幸せです」

泣きながら、小豆洗いが言葉をこぼす。

「それを恋というのでは、ないでしょうか?ただ、傍にいたい。願わくば、少しでも役に立ちたい。身分違いであるからこそ、それ以上は望めない。雲に梯はかけられないから……」

黄の言葉に、小豆洗いが無言でうなずく。

「おや、随分詳しいね」

「白金様は、鈍いですからね。こういう恋愛沙汰は、ちっとも分からないんです」

黄の言葉に、白金が、目を丸くする。

「白金様、なんとかなりませんか?」

「なんとかとは?」

「せめて、共にいられるように、桜を元気にするとか、祠を置いても、撤去されないようにするとか……」

「無茶を言う。もう、あの桜は、命は尽きている。小豆洗いの献身を受けて、少しだけ延命しているだけ。祠も、一時的に撤去を免れさせたとしても、ここは人の街。いつかは邪魔にされてしまう。撤去されなくとも、桜が枯れれば、祠の姫の息吹は消えてなくなるだろう」

厳しい白金の言葉に、黄は、狐耳を伏せてしょげる。

「子狐様、優しいお心使いをありがとうございます。もう、運命は決まっております。私は、ここで姫の消滅を見守り、その後に、命を絶とうと思います。それで、人間を騒がせる妖怪もいなくなりますし、構いませんでしょう?」

愛しそうに祠をなでる小豆洗いを、黄は、なす術もなく見守る。

「仕方ないね。少し待っていてくれるかい?」

白金が、ため息をつく。白金の体から、無数の小さい狐が外に飛び出す。管狐。妖狐が使役する自らの分身。白金と同じ白銀の毛並みの狐たちが、下水道を抜けて辺りに飛びまわる。

「やあ、やっと見つけた」

一時間ほどして、戻って来た一体の狐から報告を受けて、白金が笑う。
 一体、どういうことだろう。黄と小豆洗いは、顔を見合わせる。

「乗りなさい、小豆洗い。その祠を努々落とすでないよ」

熊程の大きさにした管狐に、白金と黄と小豆洗いが乗る。小豆洗いは、しっかりと祠を抱きしめて震えている。黄は、小豆洗いが落ちないように、服の裾をもってやる。
走り出した白銀の管狐は、天を駆けて、風に乗って雲を蹴る。白金の結界に包まれているためか、人間達は、突風に驚いてはいても、白金たちに気づかない。
空を駆けるのは、心地よい。先ほどまで酷い場所にいたから、余計にその解放感に黄は心が躍る。

「早く自分で管狐が操れるようになりたいです」
黄が言えば、

「ふふ。その内にね」
と白金が、微笑む。

 小豆洗いは、目をしっかり閉じて、祠を落とすまいと、必死で歯を食いしばっている。必死過ぎて、管狐が山に到着して姿を消しても、気づかないでそのまま蹲って震えている。

「小豆洗いよ。見るがよい」

白金に言われて、小豆洗いが目を開ければ、小さな山桜の若木が植わっている。辺りを見渡せば、人の気配は無く、木々に囲まれて、清浄な小川が流れている。
 水音清々しく、魚が遊んでいる小川の周りには、蝶が舞い、遠くに鹿の鳴く声が響いている。

「なんと……」

小豆洗いは、久しぶりの澄んだ空気に感嘆する。大きく息を吸い込めば、肺に広がるのは、冷たい清らかな木々の精気。

「祠を若木の前に」

 白金に言われて、抱きしめていた祠を小豆洗いが、若木の前に据える。
 白金が祝詞を詠唱し、桜の枯れ枝に息を吹けば、街の桜に宿っていた木花咲夜姫の息吹が山桜の若木に宿る。
「ここも、また人間の手が入れば、変わってしまうやもしれない。その時は、また稲荷に相談に行きなさい。」
突っ伏して泣く小豆洗いに、白金が、そう声を掛ける。何度も黄と白金に頭を下げる小豆洗いは、泣いて声も出ないようだった。


「身分違いの恋ですか……」

狐屋敷に帰宅して、黄が小豆洗いを思い出してつぶやく。
片や、神々の中でも格の高い木花咲夜姫。片や、妖力も弱い妖の小豆洗い。誰がどう見ても、釣り合わないし、成就はしないだろう。

「ですが、幸せそうでしたね」

「うん。叶わなくても、傍にいられるだけで、心が満たされるんだろう。あの小豆洗いの心は、誰よりも清浄。そのまま、あの桜を守りながら、上手くやれるよ」

白金は、稲荷に報告する書簡を管狐に持たせて飛ばす。

「夕暮れは雲のはたてに物ぞ思ふ天つ空なる人を恋ふとて」

白金が、ポツリと和歌を呟く。

「天の空のように高貴な人に恋して、夕暮れに物思いにふけっています。ですか?」

「そう。昔の人間が詠んだ歌だよ。今の小豆洗いにピッタリだと思って思い出した。」

白金が、ニコリと笑う。
金の瞳に見つめられば、黄はドキリとする。サラサラとこぼれ落ちる白い髪に、つい見惚れる。

「さあ、ちゃんと仕事は果たしたのだから、ゼンマイは……」

「分かっています。今日のところは、勘弁して差し上げます」

「今日のところは……?」

「ええ。書簡は、まだまだ溜まっていますから。これからは、ビシビシと働いて下さい」

黄が発破をかければ、白金は悲しそうにうなだれていた。
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