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楠木正成の忠義

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8.受験

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    その翌日から、ひかりは突然学校に来なくなった。それまで遅刻した事すら一度もなかった真面目な彼が不登校になったのだ。僕は疎遠になった彼と少しでもコミュニケーションを取りたかった。だが、そう思いながらも学校に来ないひかりに僕は何の連絡もしていなかった。しようしようと思いながら、ずっと先延ばしにしていた。
   そして先生と二人で話をした日から、僕は学校が終わると図書館に通うようになった。今まで手に取ったことすらなかった、LGBTについて書かれた本を読むためだ。一冊の本を続けて読むのではなく、何冊かの本を拾い読みした。家でも読むと勉強に手がつかなくなるため、借りることはしなかった。それと読む時間は三十分と決めていたため、それほど受験勉強には影響がなかった。今考えると、自分は器用だったなと我ながら感じる。あの時は、本当に色んなことを一気にこなしていた。受験勉強に加え、LGBTの本を読む、そして入試の願書を提出する。加えて定期的にボールを蹴ることも忘れていなかった。
   だがこの時期、もっと忙しいのは受験生を受け持つ先生方だろう。通常業務に加えて成績の査定や調査書、そして生徒や父兄らのケアなども大切な仕事だ。本当に多忙な日々を送られ、そんな中でもいつも温かく振舞ってくださった橋本先生には感謝の気持ちしかない。
   そして第一志望の私立校受験の前日だった。それは私立校最後の試験でもあった。夜九時頃、僕は勇気を出してひかりにLINEしてみた。
  「最近、元気か?」
    それだけだった。何と言えばいいか分からない。思えば、僕はなぜ彼とほぼ何の会話もせずに一ヶ月以上を過ごせていたのだろう。受験直前という特殊性さえなければ、そのことでずっと悩み続けていたかも分からない。
   「元気ではない」
    彼からの返信が来た。既読になるのも返信が来るのも意外に早かった。僕は久々の彼とのコミュニケーションに、思わずガッツポーズをとった。
  「緊張するよな。この時期は」
    次は続けざまにこんな風に送った。
  「明日、試験なんだよね。第一志望なんだ。緊張して夜も眠れないよ。来月は都立だけど、私立受かっておいてさあ、落ち着いた心境で都立に挑みたいよね」
    既読になっただけで何も返ってこない。続けて何と送ろうか思いつかなかった僕は、スマートフォンを閉じた。彼からの返信を期待せず、勉強に取りかかった。
   そして、翌日になった。試験が始まる直前に、何となくスマートフォンを開いた僕にちょっとした贈り物が届いていた。
  「平常心でね」
    と言うひかりからのLINEだった。僕は手が震えた。試験直前の受験生としてあってはならないのかもしれないが、手が震えた。喜びから震えるというのは初めての経験だった。その日、僕はずっと体のどこかが震えるという不思議な現象に見舞われた。とは言え、試験に影響が出るほどでもなく問題なく取り組むことができた。僕の私立校受験はこうして終わった。
   毎日のように拾い読みをし続けているLGBTの本、中でも性同一性障害に関するそれは最も多く手に取った。勉強をしていても、その内容が蘇ってくる。特に英語の勉強ではそれが顕著だった。
  "sexual"、"gender"、"minority"など、長文読解の教材でそんな言葉をちらほらと見かける。僕が読んできた本に頻繁に登場する単語だ。それでも、僕の学力はメキメキと伸びて行った。
    さて、問題の私立校受験の結果を先にお伝えする。結果は三校受けて一校のみが合格だった。幸いと言って良いのか、合格したのは第一志望の学校で某大学の附属校である。その他の高校は滑り止めと考えていたにもかかわらず不合格だったことを考えると本当に皮肉なものだ。
    僕はその結果を伝えようとひかりにLINEをした。 
  「ひかり、久しぶり!」
   だが、そこまで打って手を止めた。彼はまだどこにも合格していないかもしれない。合格校のない受験生にとって、他の生徒が合格したという知らせを聞くことほど残酷なことはない。なぜそんな簡単なことも分からないのかと反省した僕は、スマートフォンを閉じた。外の様子は美しい夕暮れ時に満ちていた。人々は何かに急かされるようにして、まだ寒い街中を回りも見ずに歩いていた。僕の心もどこかそわそわして、行き先のない渡り鳥のようにふわふわとしていた。
  そんな中、突然スマートフォンに着信があった。
 「高岡ひかり」
   ディスプレーには、はっきりとその名前が出ている。LINEではなく、普通の電話でかけてきている。通話料はかかるがそんなもの知ったことではない。僕はドキドキしながら電話に出た。
  「もしもし!」
  「ゴホッ、もしもし富永」
    いきなり咳からスタートした電話に少しだけ笑いそうになった。ひかりは風邪をひいているのか、声がかすれている。
   「ひかり、大丈夫?風邪ひいた?」
   「うん、そうそう。声聞いただけて心配してくれるなんて、やっぱり優しいなお前。久しぶりだね」
    ひかりはいつにも増して声が小さかった。風邪をひいているというのもあるだろうが、どうも元気がない。
  「話したかったよ、お前と。最近どうしてるんだ?」
  「…」
    突然、ひかりは無言になった。
  「ごめん…もう電話切っていいかな。お前と少しだけでも喋れて良かったよ」
  「え?あ…うん…分かった。また喋ろうな」   
   「じゃあね」
    不思議に思ったが、電話を切った。無理に話すことも出来ない。
   その夜、僕はひかりの種々様々な表情を思い浮かべた。笑った顔、哀しい顔、怒った顔、もどかしい顔、悔しそうな顔、切ない顔、そして最後に浮かんだのが虚しい顔だった。あの忘年会の日。彼は確かに虚しい表情をしていたのを思い出した。
   「あいつは日々、男の子に憧れ、男の子になりたいと思い続けている。そして自分は男の子だと思っている。あいつの気持ち、もっと聞いてみたいなあ」
   僕は勉強をしながら彼のことを考えた。親友のために何ができるのだろう。親友のために何ができるのだろうか。
   「傷ついたんだろうなあ。人と話すのが怖くなったのかな」
    都立高校の入試に向け、僕は図書館に通うのをやめていた。そして、漠然とした気持ちのまま入試を迎え、それも終わった。入試の翌日、僕らは教室で新聞を見ながら、入試の自己採点をした。都立高校入試問題の解答が入試翌日に掲載されるのだ。僕は殆ど問題なく受験校の合格ラインに達していると言えた。得意の国語は九十点を超えていたし、苦手な理科と社会も七十点台だった。
   しかし、僕にとって受験は結果さえ出れば後はもういい。とにかく、ひかりの事が一番大事なのだ。
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