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 私は、人と目を合わせることが出来ない。

 ___________否、合わせない。





 アヴァは、ごく普通の夫婦から生まれた一人娘である。母が不妊に苦しむも治療を続けた結果、2人の愛、そして努力の結晶として、望まれて、私はこの世界に生命を確立した。父は徹夜で母に寄り添ったにも関わらず、病院のスタッフに止められるほど大喜びし、母は初めての我が子の誕生に感極まり、前が見えないほど目を涙で満たしていた。
 母の胎内から外気に触れた瞬間、元気な産声をあげたのも、私がごく普通の赤子である証であった。散々産声で両親を喜ばせた後、すぐに眠りについた様子は、大喜びしてすぐ安心したように寝落ちした父と似ていた。
 興奮が冷めやらないまま寝てしまった父は、仮眠レベルの長さの睡眠後、私の顔を改めて間近で見ようと部屋にやってきた。数時間前と同じようにスタッフに怒られてりしないよう、少しだけ静かに。

 _________それは突然で不可解な「嵐」であった。

 ベビーコットにいる私が初めて父と目が合わせたその瞬間。
 漁師に釣り上げられ、船の甲板に落ちたばかりの魚のような酷い痙攣。鼓膜を破りかけるほどに病院内に響く、もはや凶器のような叫び声。


 _________その姿はある意味、一種の《怪物》であった。


 突然の出来事に驚き、なんの騒ぎだと病院のスタッフたちが集まってくるのは、極めて自然のことである。しかし、この状況においては、そんな人間らしい団体行動は最悪の状況といえる。痙攣のために上下左右にブレる私の視線が、ほんの一瞬でも彼らの視線と重なってしまえば、たちまち私の痙攣と叫び声は激しくなった。
 もちろん私のいた部屋には他にもたくさんのベビーコットが、つまりの新生児たちがいて、寝息を立てるなり、呆れて天井と睨めっこするなりしていた。しかし、私の叫び声によって一斉に現に引き戻され、一斉に泣き出した。私の行動の原因特定も急がれたが、部屋で揃って泣き声をあげる新生児たちを泣き止ませることにも、スタッフ達は必死であった。
 原因が《目を合わせること》であるという推測も追いつかないほど、《嵐》はあまりにも突然で不可解すぎた。確信もないまま私を別室に移した後、目にタオルを被せ、誰の視線も見なくなったその瞬間。突然で不可解に《嵐》は闇、凪いた病院がそこにはあった。
 結局、因果関係の詳細なメカニズムは解明されなかった。対人恐怖症と診断するには、そうなるまでの過程となりうるトラウマなどの《経験》が、新生児の私にはなさすぎた。産婦人科以外の医師の力を持ってしてもそれは叶わず、しまいには「前世の記憶が対人恐怖症を引き起こした」などと、オカルトめいた理論まで現れる始末であった。
 それからの病院生活は、私の扱い方を手探りながらも、目にタオルを被せることで《嵐》が起きることはなかった。当然、新生児なのでお腹が空いた時などに泣くことはあったが、それまでだった。
 大人たちは、童謡やガラガラなどの音の刺激や、たまに抱き上げたときの体温で私を笑顔にした。目が使えないながらも、私はごく普通に、健康にしばらく過ごして病院を出た。
 しかし、本当に対人恐怖症であるならば、病院を出れば《嵐》が起きなくなるとは言えない。母はあの時の突然で不可解な《怪物》を恐れ、他人はもちろん、自身を含めた親族でさえも、私と目を合わせないようにした。
 目を一切扱わない生活に不安を抱いてもいたが、母にとっては《怪物》への恐怖の方が大きかった。
 私は物心がつき、「人と目を合わせてはいけない」と理解するまでの数年間は、1cm先の布が私の世界の果てであった。

 _________というのが、母から聞いた私についての話である。この話をされたのは一度やニ度ではない。


 貴方のあんな姿はもう見たくないから、と。

 貴方のことは愛してはいるけれど、あの時の恐怖は何年経っても拭えないの、と。

 ごめんなさい、と。

 また、これは最近初めて母が私に話したことだが、《嵐》の日を境に、父が私や母に会いに来ることは無くなってしまったという。

 貴方の父親は意外と小心者だったのよ、と。

 彼のこともずっと愛しているけれど、貴方のことを彼の分まで近くで愛すると決めたから、遠きにいる彼のことを後回しにしても許されるかしら?と。

 彼もきっと貴方を愛しているわ、と。


 母は少しお茶目な言い方をして、横顔で小さく微笑んだ。正面で見たいと駄々をこねたくなるほど、母の笑顔は美しかった。
 世間体的に、私に父がいないことを気にしていた時期もあったが、母を問い詰めたことはなかった。父がいなくても母との日々が幸せだったからだ、と思う。
 母が大好きな私は、幼い頃から母の言いつけを守り、人と目を合わせることが出来ない。_________否、合わせない生活は続いている。生まれたての私を《怪物》と表現したほどに私を恐れているにも関わらず、私をひとりにしないでいてくれた母を裏切る行為など、思春期が来ようと出来ないだろう。
 しかし、変わったこともある。
 「目を合わせてはいけない」が、「姿を見ては、また見られてはいけない」という訳ではないことが推測されているからである。
 私がタオル生活を卒業し、母の横顔を初めて見たのは5歳の頃だ。正確にはタオルに24時間囲まれた生活が終わったというだけだが、目前1cmで集結していた世界が開けて広く、高く、明るくなり、私の視覚を震わせたときの感動は今でも忘れられない。けれど、感動は母の発した言葉で、流れ去っていった。
「取引はおしまいよ。それじゃあね」
 母の横顔を見れたのは、その時だけだった。
「ママ?」
「ママ?私が?あなたみたいな怪物の母親ですって?馬鹿言わないでよ、気持ち悪い」
「ママはママでしょう?」
「その話し方もやめて。6歳の癖に妙に達観してて。あの人に頼まれなきゃあんたなんて生まなかったわよ」
 私を突き飛ばし、すぐに背を向けて、扉の向こうに消えていった。
 いつも呼べばすぐに駆けつけてくれた母が、いくら呼んでも戻ってはきてくれなかった。 
 床に座り込んでしまっていた私を支えていた誰かを突き飛ばし、母の姿を追った。しかし、すでに扉の向こうにも母の姿はなかった。
「ママ・・・?」
 その時、私のどこかで何かがプツンと切れ、足から力が抜け出ていってしまった。その場に座り込んでしまった私の頬には涙が伝っていた。
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