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始まりと鬼編

しせん

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「それで、退院はいつぐらいになりそうですか?」

「早ければ今日中に。検査して異常が見つからなければ、ですが」

医師は確かに、そう告げたのだ。


一日に二度も救急車に運ばれた高校生なんて、俺ぐらいだろう。

全身血まみれで登校して、ぶっ倒れたのも俺ぐらいだ。

学校で意識が途絶え、次に目が覚めたときには病室のベットに寝かされていた。

頭は包帯でぐるぐる巻き。体のあちこちに痛みが残っている。

…一歩間違えていたら死んでいたと。

そう聞かれたときは、まさかそんなはずないと思った。こんな姿でも、俺はぴんぴんしている。

大げさだなんて考えは、付きっきりで病室にいた母の顔を見てすっ飛んだ。

母に泣きつかれたのは生まれて初めてだった。

「母さんを一人にしないで」

と。

心配してくれた母に何度も謝ったが、ずっと罪悪感でいっぱいだった。

怪我でこれといった不自由はない。実感はなかったものの、母の必死の涙に、身近まで迫っていたであろう死に恐怖した。


だから。

医師から出た、今日中に退院できそうだなんて話、素直に飲み込めるわけがない。

全治何か月とか、余命宣告だっておかしくない。そう覚悟をしていたのに。

母も同じ気持ちだろう。

「本当なんですか?大けがだったんですよね?もっと詳しく診てくださいよ」

母は医師に訊くが、

「何の手術も必要なく、ここまで回復したんですよ。運ばれたときは酷く出血していて、なんとか輸血しましたが、そのくらいでしょう。様子を見る限り、脳に異常があるわけでもないでしょう」

「そうかもしれませんが…」

「廻君、何か体に異常を感じるかな。」

「…いえ、強いて言うなら、少し痛むぐらいで。そのぐらいですかね」

息子が言うことなら納得するだろうと思ったか、話を俺に振ってきた。

確かに退院しても問題なさそうなのは事実だ。特に困るようなことはない気がする。

「だそうですお母さん。お気持ちはお察ししますが、今は息子さんを信じてあげてください。また何かあるようなら、その時に来てもらえればいいですから」

母ははぁ、とため息をつく。まだ満足していない様子だったが、

「…はい、分かりました。先生、ありがとうございました」

と認めて、ゆっくりと頭を下げた。

「いえいえ。廻君、退院はできるけど、激しい運動は避けるように。お母さんを心配させないように」

「はい。そうします。ありがとうございました」

めんどくさがって邪険にされているのかと。医師は思っていたよりいい人そうだ。

俺も頭を下げて、診察室を後にした。


入院期間わずか一日。

明日には俺の青春が再開できそうだ。




ーーーーーーーーーーー


検査後、荷物を取りに俺が寝ていた病室に戻ってきた。

どこにも異常はないようで、改めて今から退院というわけだ。

荷物をまとめていると、病室のカーテンが外からの風で揺れた。

一瞬、カーテンの隙間から綺麗なピンクが見えた気がした。

「なんだろ」


気になってカーテンを両端に寄せて見ると、病棟の中庭に植えられた大きな桜の木が、月明かりに照らされて花弁を散らしていた。

中庭に植えられた木は、たった一本。

それも相まって、大きな桜の木に目を奪われてしまう。

決して、絶景などと言えないだろう。世界で最高の景色とは程遠いものかもしれない。

背景は隣の病棟で、斑に灯る部屋の明かり。

絵にしても、歪だといわれるかもしれない。

美術とかそういうものは分からないが、何か心に来るものがある。

ここの患者たちに、エールを送っているようで。

桃色に染め上げる大木に、大きな生を感じた。

「うわあ…すっげえ…」

言葉には上手く表せない。この病室の額縁から目が離せない。


明日から色々と不安だった俺だが、なんだかどうでもよくなってきた。

ちっぽけな悩みだよまったく。

精一杯生きろと、そう背中を押してくれる気がした。


「やっぱり、ここから眺める桜は綺麗だ…」


しゃがれた声は、俺の後ろから聴こえてきた。

夢中で気が付かなかったか、振り返ってみると、点滴に管で繋がれた老人が一心に窓の外を眺めていた。

一体いつからいたのだろう。

前にこの部屋を使っていた患者だろうか。

振り返った俺には目もくれず、老人の視線は景色を捉え続けている。

「あぁ、変わらないな…」

懐かしみながら、目には涙を溜めていた。

ここから見る景色に、何か思い入れがあるのだろう。

「綺麗ですよね、桜」

黙っているのも気まずくて、俺は老人に話しかけた。

迷惑だっただろうか。折角の景色を、邪魔してしまっただろうか。


ーーーーそして老人は、意外な行動に出る。


先程まで景色だけを捉えていた目は俺へ向き、鬼気迫る表情で両肩をがしっと掴んできた。

「君は!」

何かまずかっただろうか。

それは傷口に響く。痛い。

「いっt」と声が漏れる。

「ああ、すまないっ、つい取り乱してしまった!」

老人は申し訳なさそうに手を放し、一歩二歩と後退した。

「い、いや、大丈夫すよ」

「そ、そうか…」

先とは一変して、しゃがれた声はか細く、今にも消えてしまいそうだった。


「君は、私が見えるんだな…触れることもできた…」

急に訳の分からないことを言い出す老人。その喜ばしい表情といったら。

何がそんなに…。

そう考えようとしたが、老人の言った一言が、俺の頭の中で大きく響いていく。

見える、触れられる。


きっと、予感はしていただろう。老人がそう言う前に。

それも違う。訳の分からないことじゃなかった。その言葉が示す事実は、嫌でも理解していたはずだ。

分かってしまう、気付いてしまうことを恐れていたんだ。

「うっ…」

吐き気がする。体が震える。

体の熱が引いていく、夜風のせいではない。

「お、おい君!大丈夫か!」

その場で倒れこんでしまった俺に手を差し伸べる老人。

そこには善意があったが、今の萎縮した俺に、そんなものは見えていない。


差し伸べられた手の奥、


それは、信じていたかった妄想を現実という形にするに十分だった。

「うわあああああああああああああああ」


自分でも考えるより先に体が動いていて。

頭より先に動いた足を必死に動かした。

目の前に立つ老人を避けることなく、

「お、おい君!待ってくれ!君だけが頼りなんだよ!」




老人が何か叫んでいたが、そんなこと知ったことか。

病院から家まで30分ほど、先に帰っている母の顔が見れるまで走り続けた。


きつねとか、空飛ぶ芋虫とか、動く骸骨とか。

色々見えてしまう俺の目は、妄想じゃない。

真実だ。俺だけはそう思っている。

しかし、この日。

姿を見てしまったのは、初めてのことで。


未知と異様な不気味さに、不快感は増していった。




結局、廻は一睡もすることができず。

自分に起きた変化を、どうすることもできず。

忘れることもできず。

闇と寒さから逃れたくて、ひたすら日の光が差してくるのを待っていた。



ーーーー出会いは、繰り返される。



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