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卒業後

夏休み 1

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 夏休み前半の慌ただしさを越えて、リシアは先生の家に向かう馬車に揺られていた。
 メイローズ先生が色々教えてくれてとても助かっている。
 今までで一番充実した一学期だった。
「楽しそうだね」
「はい! とっても楽しみです」
 隣に座った先生が微笑みに目を細める。
 そう言う先生もどことなくいつもと様子が違う。
 先生も楽しみにしていてくれたのなら、とっても嬉しい。
 一緒にいられるのがうれしくて心が浮き立つ。
 学園でも時間を共にすることはあるけれど、あまり長い時間はいられないもの。
「夏休み前のテストも成績が上がっていたし、教員室でも君の話で持ちきりだったよ。
 君が勉強会を開いているおかげで、前半のテストの成績が悪かった子も点数を上げているとね」
 テスト期間中はリシアも基本的には教員室に入れないのだけれど、まさか中でそんな話がされていたなんて。
「みんな勉強するっていう習慣が付いてきただけですよ」
 リシアがきっかけなのは確かかもしれないけれど、リシアのおかげというのは違うと思う。
 友達といっしょに勉強を始めたのがきっと大きい。
 みんな自分に足りない部分や得意な部分が、よくわかるようになっていた。
「ふふっ、ついこの前まで自分も同じ場所にいたのに、おかしいですね。
 みんなすごいなって、いつも思うんです」
 周りを見なかった学生時代と違って色々気が付くことがある。
 一日一日変わっていく生徒を見て、自分も変わらなきゃという気分にさせられて、それがとても楽しい。
「良かった。 君に学園で働くことを勧めたのは苦肉の策だったんだけれど、思ったよりずっと良い影響を受けているみたいで安心した」
 リシアの方はとても良い刺激を受けている。
 周りにとってもそうだったなら良いのだけれど。
 話すことは尽きない。
 先生の家は学園から離れていたはずなのに、楽しくてあっと言う間だった。


 特徴的な三角屋根のお屋敷が先生の家、リスター子爵家だった。
 グランヴェル伯爵家とかよりも屋根が上に尖っていて、可愛らしい。
 先生に手を引かれて中に入る。
 扉を開くと家令のジェフリーさんが迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、アルベール様」
「ああ、久しぶりだね」
 案内されて屋敷の奥に通される。
「こちらがリシア様のお部屋です。 お荷物はこちらにどうぞ」
「ありがとうございます」
 荷物を置いて応接間に向かう。
 落ち着いた色の室内に緊張が少し解れる。
 ソファに腰を下ろすと先生がジェフリーさんに尋ねた。
「最近変わったことはあったか?」
「屋敷の周りや領地内を徘徊する不審者が増えました」
 ジェフリーさんの台詞にぴくりと反応してしまう。
「それで?」
「不穏な噂を流そうとしていた者は捕らえて役人に引き渡しました。
 同様に屋敷に侵入しようとしていた者も捕らえてあります」
 リシアの頭に嫌な予感が広がる。
 父親の手の者が先生の弱味を探ろうとしている、そう思えてならない。
 話を聞き終えて先生がジェフリーさんを部屋から下げる。
「謝るのはなしだよ」
 先手を打って先生がにっこりと笑う。
 そう言われると何を言っていいのかわからなくなる。
「君が心配することは何もないよ」
 でも、父親はきっと敵には容赦しない。
 不安は、きっと消えない。だから―――。
「先生、後悔していませんか?」
「そういうことを聞くと怒るよ?」
 眼鏡の向こうの瞳が怒っている。
 先生の気持ちが少しだけわかった。
 真剣に応えてくれる、想ってくれるのは、こんなにうれしい。
「先生、大好きです」
 じっと瞳を見つめながら口にする。
 初めて伝える想い。
 恥ずかしいけれど、それ以上にうれしい。
 怒りに冷えていた瞳に熱が点る。
 こんなに大好きな人がいて、その人が想いを受け入れてくれている。
「大好きです」
 胸に満ちる喜びが、口を突いて飛び出す。
 新緑の瞳が潤み、頬に朱が差していく。
 堪らなく抱きしめてほしかった。
 リシアの瞳から願いを読んだように先生がリシアをぎゅっと抱きしめる。
「まったく…、君には敵わないな」
 零した言葉。声に溢れた想いに心が震えた。
「君が好きだよ。 言葉にして何度も伝えたかった」
 瞳を合わせて伝え合う言葉は特別なもの。
 リシアの気持ちは先生に伝わっていたし、先生からも大切にされてると知っていたけれど…。
 今交わす言葉は想いの全てが詰まっていて、代えられるものがない。
「初めて聞きました…。 とってもうれしいです」
「学園内では遠慮していたからね。 ここでは抑える必要ないから私も嬉しいよ」
 甘過ぎる瞳がリシアを捉えて離さない。
 いつの間にか近づき過ぎていた距離に身を離そうとすると手を引いて止められる。
「君の気持ちも初めて聞いた。 うれしかったな、とっても」
 もう一度言って?とねだるような瞳に負けて何度も口に出す。
 恥ずかしさよりも幸福感の方が大きかった。


 繰り返し気持ちを伝え合った後、先生が静かな声で話し出す。
「伯爵家のことが不安なのはわかるけれど、大丈夫」
 リシアを安心させるためかと思ったけれど、やけに確信に満ちている。
 どうしてか安心と共に、妙な胸騒ぎを感じた気がした。
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