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セレスタ 帰還編

遠い休み

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 執務室に溜まった書類の数は減ったけれどまだまだ王子は、いてはマリナたちも忙しくしていた。
  マリナが戻って貴族たちも王子は双翼を変えるつもりはないと認識し始めたせいか、最近視線が鬱陶しい。
  王子の謁見で控えているときはまだいい。視線だけだから。
  廊下を歩いていたりするとよく知らない貴族に話しかけられることもあった。
  流石に大多数の人はあからさまに疎んでいた人間に急に態度を変えて近づいても警戒されると思ってか、すれ違う時に会釈をするぐらいの関係だ。
  それでも驚きのことだった。
  最初に会釈されたときは驚きに足を止めてしまったくらい。
  驚きに硬直して返礼をしなかったマリナにその人は苦笑して去って行った。
  マリナの態度が当然だというように。
  責められるかと思ったのでそれも驚きだった。
  それ以降も色々な人が簡単な挨拶をしてくれる。
  廊下を歩く女官とか医務室に来ていた官吏とか食堂のおばさんとか。
  王宮内で何らかの仕事に就いている人はマリナとの距離感を測っている人が多い。
  中には取り入ろうとする気持ちが丸見えな人もいるけれどそれはマリナが気をつけていればいい。
  不思議なことに内務卿が急に親しげに近づいてくる人間の躱し方、役に立つ人間の見分け方使い方について教えてくれた。
  王子のためとはいえマリナに教授してくれるとは意外だった。
 『あなたが不出来だと王子の恥になりますからね』といいながら事細かに。
  実践で磨いていけるかはマリナの努力次第だといった彼は実はお人好しなのかもしれない。
  そんなことを口、どころか態度に出したらすごい勢いで否定されるだろう。もう何も教えてくれなくなるかもしれないので、そんな危険は冒したくなかった。
  せっかく有用なことを教えてくれたのでこの程度も活かせないと言われないようにするつもりだ。
  何事も起こらないのが一番なんだけれど、そうもいかないだろう。
  そう、今のように。


 「マリナ殿少しよろしいですか」
  呼び止めるならせめて後ろに疑問符くらいは付けてほしい。
  マリナは無表情に男を見返す。
  返事もしないマリナに男がわずかに顔を顰める。
 「突然声を掛けて申し訳ない、お忙しいとは存じますが少しだけお時間をいただけますかな?」
 「?」
  何故か妙にへりくだって話す男は王宮に勤めている者ではなかった。
  王都から半日ほど離れた場所に領地を持つ貴族、確か子爵家だったはず。
 「この度は双翼のお役目に戻っていらして本当にめでたいことです、王子殿下もより一層マリナ殿を信頼していらっしゃるようで真にすばらしい関係だと臣下一同感じ入っております」
  長い。
  早く結論に入れ、と口に出さずに念じる。
 「実はお話というのはよりお役目に集中出来るようにマリナ殿を補佐する人間を側に置いたらいかがでしょうか、ということなのです」
  つまり…。
 「マリナ殿を支えられる伴侶を探してもよろしいのではないかと思いましてね」
  想像通りの言葉。もう少し捻った面白いことを言ってほしい。
  ちなみにマリナを補佐する部下・・を付ける場合は内務卿に希望を出して候補者を連れて来てもらうという手順が必要になる。
  王子の側近くに控える人間は決められている、マリナの一存では無理だ。
 「マリナ殿に相応しいと申し上げるのは烏滸がましいと思うのですが、私の息子も中々出来た息子でしてね」
  子爵の息子は騎士団で見習いとして働いている。何度か見かけたことがあった。
 「僭越ながら私もお力添えをしたいと考えております」
  ここまであからさまだと不快に感じるというより呆れる。
  息子との婚姻と引き換えに後見についてやると言っているのだ。要は。
  そもそもマリナはヴォルフの結婚の約束をしたので他の人間の申し込みを受ける訳がない。
  それをここで口にすることはないが。
  いかがですかな、と聞かれても…。面倒くさい。
 「突然のお話で何と言っていいのか…」
  戸惑う表情の裏側で思考を巡らせる。
 「過分なお話だとは思いますが、子爵のご子息には私のような者は似つかわしくないでしょう。 今のお話は聞かなかったことにいたします」
 「そんな、ご謙遜を」
  お前如きが断るつもりか、という顔で食い下がる子爵。
  そんな彼にもう一つ続ける。
 「それに私ではご子息を惹きつけることなど到底できないでしょうし、並び立つには不足が多すぎると思います」
  身長とか、外見とか。
  アイツが訓練所前で口にした暴言は忘れてない。
 「以前ご子息は私のことを婚姻相手として見られる者が現れることなどないくらい幼いと言っていらしたので、私では何かと不足と存じます」
  ついでに言うなら胸は大きくなければ女じゃないとか腰がどうとか大声で話すにはどうかと思うことを口にしていた。
  たまたま反対側から通りがかった女官はそんな話をしている集団を見て冷ややかな目を向けて去って行った。
  きっと彼女の親しい女官たちには子爵の息子たちの悪評が回っていることだろう。
  酒場で話す男同士の話ならともかく王宮の、それも多くの人間が通りがかるところで仲間内の下卑た話をするような頭の足りない人は彼女たちが望む結婚相手としては不適格だっただろうから。
 「年上の女性らしい魅力にあふれた方がお好みのようですから、真逆の私に目を留めることはないでしょう」
  息子の口にしていた貴族子弟としては問題な暴言に子爵も流石に顔を引きつらせていた。
  そもそもマリナはまだ成人もしていないので、そんな娘に対して女としてどう思うかとの評価を述べるのは貴族としても騎士としても相応しくない行為だ。
  息子のあんまりな一面を知ってしまった子爵は辛うじて謝罪をするとふらふらと去って行った。
 「知らなかったんだ」
  王宮内では少しだけ話題になっていたので親も知っていると思っていた。ちょっとだけ悪いことをしたかなと思う。
  これを機に改善されれば子爵にも悪いことじゃないと思い直して今の事は忘れることにした。
  しかし執務とは違うことでの煩わしさが増えるのは困る。
  時間を取られたので急ぎ足で執務室に戻る。休みを取れるのはいつになるのか…。
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