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30 裕太郎と緑里の喧嘩

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 お見合い......、だと?
 裕太郎に複雑な感情が沸き起こる。
「幼い頃の初恋相手らしいが......」
「そうか。大きくなってから、会った事はあるのか?」
「一度な。海軍将校なんだけど、嫌な奴になっていた。それにわたしは軍人だ。どうしてお見合いしなきゃいけないんだ」
「そうだよ、な」
 軍人でもあったのだ。

 新聞を見れば大陸での戦況は、まだ、あまりよく載らないが、快挙がたまに載るくらいだ。
 どこそこの街を帝和軍が占領した、と、あったり。

 伊吹もその兵隊の一人に?
 少尉だから指揮をとるのだと思うのだが、どうも考えられない。
「......お見合いの検討をすればよかったじゃないか?」
 そう言ったら、伊吹の表情が固まる。
「どうして?」
「だって、何も戦地に行かなくても済むだろう?」
「裕太郎と1日遊べないじゃないか。だから、見合いを断ったんだ」
 伊吹は恥ずかしそうに話した。
 
 見合いを断らなければ、
 違う人生があったのか......?
 だが、もし、そこで決まれば、
 彼女には会えなくなる......、と、いう事だ。

(なんだ? この複雑な思いは?)

「裕太郎?」
 暫く間の開く裕太郎に、伊吹は声を掛ける。
「これから、毎朝途中まで一緒に行かないか?」
「......え?」
 何を言ってるんだ、この男は? と言う顔をされた。
「いや、忘れてくれ」
 臆病になる。
 チンチン電車が走る。
「わたしはあの電車に乗るんだか、裕太郎は乗るのか?」
 伊吹が訊ねる。
 裕太郎はニコリと微笑んだ。
「それじゃ、待ち合わせだ。6時40分発の電車でいいか?」
「ああ」
「じゃあ、明日の朝から」
 伊吹は恥ずかしそうに頷く。
「明日」
 短く言って、二人は別れた。
 
 裕太郎は伊吹が見えなくなるまで見守るように見ていた。
 
 胸がチクチクする。

 劇場に着く。
 楽屋ロビーに、珈琲セットが置かれていた。
「おぉ、裕太郎、おはよう」
 スタッフの前田が忙しそうに声を掛けた。
「これは?」
「マスターの配慮。好きな時に飲めってさ」
「モーニング珈琲か」
「それもあるね」
 前田は舞台の方へ駆けて行く。
 鼻歌を入れながら珈琲を淹れていると、
「わたしにもちょうだい」
 と、緑里にせがまれた。
「どうぞ、プリンセス。ちょうど出来たところだ」
 珈琲カップを渡した。
「何よ、気持ち悪い。なんか機嫌いいじゃない?」
「そう。珈琲セットがあるからじゃないのか?」
「......ふーん、それ伊吹の提案ですって」
「え?」
「みなさんにどうぞ、って、マスターが言ってたわ」
「そうか。高級豆かな、それじゃ」
「最低ね」
「なんだよ」
「朝、楽しそうにしているところを見ちゃった」
「そう」
 裕太郎はコーヒーカップに口をつける。
「初に近い子を誑かす悪い男」
「誑かしちゃいないよ。そうしてあげてるだけだ」
「自覚なしね」
「突っかかるなぁ」
「あんたが傷つくだけよ」
「何で」
「あの子の目は、軍神が宿ってる。そう言えば分かるかしら」
「そんな話をするな」
「深入りすれば、するだけ......」
「ならその覚悟はある」
 自分でもどうしてそう言ったのか理解し難かった。
「裕......」
「......少しでも楽しめたら、それでいいさ」
「お嬢様はどうすんの......」
「ああ、そうか」
「それを誑かすって言うのよ」 
「ハッピーエンドはないのか、俺に」
「誑かす男に、ハッピーエンドはないわ」
「酷いな。緑里だって、男を誑かしてるじゃないか。評論家と芸術家。芸術家は金にならねぇ、評論家ならどうだ? ん? それと、どっちがうまい? 若造と中年だろう」
 裕太郎は睨み付けた。
「下世話な言い方」
 緑里も睨み付けた。 
「先に喧嘩売ったんだろ」
 緑里は手を上げようとすると、裕太郎がその手を掴んだ。コーヒーカップがガチャンと、音を立てて落ちる。
「一応俳優だろ、傷つけるなよ」
 裕太郎のすまし顔に、緑里は足をヒールで踏みつけた。
「いってえ!」
「あんたが戦場に行って死んじまえ」
「少なからず死ぬよ!」
 
 マスターがやって来て、
「みっともない......」
 と、言い捨てる。
 二人はマスターを睨み付けた。
「なら、パトロンのいない生活にして下さいよ!」
 裕太郎と緑里の叫びである。
 マスターはいそいそ事務室へひっこんでしまった。

 
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