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34 情愛よりも... 

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 邸宅に戻った伊吹は、父の書斎へ向かった。
 ドアをノックする。
「どうぞ」
「今日の夕方はお休みさせて下さい」
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「少し野暮用です」
「......頑張っているからな。まぁ、息抜きもいいだろう」
 こうゆう時、父は物分かりがいい。
「ありがとうございます」
「あ、あと、伊吹」
 謙三は机から茶封筒を取り出して、渡す。
「これは?」
「前崎から聞いた。芳江に小遣いの前借りを頼んだそうだな」
「あっ、えっと......」
 恥ずかしくなる。
「だが、芳江に断られた」
 謙三はくすくす笑う。
「あの娘もしっかりしているからな。これはその足しにしなさい。お見合いを断るくらいでは、大事な約束なのだろう。洋服でも買うといい」
「お父様......」
 父の心遣いが、ひしひしと伝わる。
「......前崎にも言っておいた」
「え?」
 愕然とする。
 おみ通しなのだろうか......。
「家にいるとな、色々分かってくる。だが......、暫く、そうもいかなくなる......。伊吹......」
「はい」
「よく聞きなさい。わたしの言うことだ」
「はい」
「雲行きが怪しくなっている状況だ。お見合いが嫌なら、今、すべき事を本気で取り掛かるんだ。軍事訓練や、事情を勉強しろ」
 謙三の真剣な顔付きを初めてみたような気がした。父の表情ではない。上司だ。さらに背筋が伸びる。
「戦場で戦うのなら、死ぬ気で、一人でも多く殺せ。戦場とは、そうゆう場所だ」
「......一人でも...」
「そして、その命を......、先祖に恥じぬよう、散らせ!」
 父の最後の言葉が震える。

 将軍の名を恥じぬよう......。

「覚悟はしております。お父様」
 
 謙三は悲しい笑み。
「そうか。やはり、お前はそちらを選ぶのだな」
「なんのために、今までそうしてきたと思うのですか?」
「臨機応変もあるんだが。情愛より愛情を選ぶのか」
「はい」
 伊吹は微笑んだ。
 部屋を出る。

 謙三は看板俳優のことも、前崎から耳に入っていた。雰囲気がどうも相思相愛ではないか、と。
「こればかりは、どうにもならんぞ、伊吹」
 謙三の肩が震えた。


 ※  ※  ※

 
 謙三は軍服からスーツに着替える。
「あなた。どちらへ?」
 と、依子。
「うん。たまには兄の所へ行ってみようと思ってな」
「赤いルージュ劇場ですか? 今、凄く話題らしいですよ」
 珍しく嬉々として話す。
「なんでも看板俳優の裕太郎......様とか?」
(娘ならまだ許せるが......、こんなマダムにも人気なのか)
 眉間に皺を寄せる。
(解せん奴だ)
 男の嫉妬である。
「プロマイドを買ってきて下さる?」
「な、なんだ? そのプロマイドとはっ。ただでくれるだろう、流石に」
「そうですかね」
 ニコニコしている依子だ。
「......なら一緒に来るか?」
「えーーーっ、よろしいのですか?!」
「たまにはいいだろう」
「まあ、あなたとデイトなんて、何年ぶりかしら」
「そ、そうだな」
 ネクタイを締める。
「わたしも着替えをしてきます」
 謙三は恥ずかしそうに頷く。
 部屋を出た依子を確認して、
「何年ぶりか...」
   と、嬉しそうに呟いた。

 老舗デパートでお土産を買い、二人は夜の街をぶらぶら歩いた。
 やがて赤いルージュ劇場に着く。
 依子は看板を見上げた。
「まぁ、大きな看板。お義兄様も立派です事」
 二人は裏口へ回わる。
 仲には謙三を知っている者もいて、お辞儀をしたり、兵隊上がりは慌てて敬礼する者もいた。
 事務室のドアをノックすると、ドアが開く。
「おぉ、謙三に依子ーっ、よく来てくれたな」
「たまにはいいかと思ってね。裕太郎という男を知りたいんだ」
「え?」
 和夫と依子の同時進行。
「裕太郎は、ここの看板俳優だが......、どうしたんだ?」
「呼んでくれないか」
 威厳のある口調に、和夫もスタッフを呼んで来させる。
「どうした?」
「ん、ああ、いや......」
(お見合いを断るほどでは、どんな奴か見てみたい)

 ドアのノックする音。
「入れ」
「失礼します。お呼びでしょうか」

「まぁ......」
 嬉しそうに呟いたのは、依子だ。

「弟夫妻だ。いつも援助してくれる」
「そうでしたか。伊吹お嬢さんと、たまに楽しくさせてもらっています」
 裕太郎は微笑んで、お礼を言う。裕太郎の礼儀正しさに、謙三は目を丸くした。
 だらしのない奴なら、文句言ってやろう、と、思っていたのだ。
「それでは、舞台がありますので」
「ああ、頑張りたまえ」
 謙三は裕太郎につられて微笑む。
 裕太郎は出て行く。

 依子を見てみると、ほうっ、と、うつつを抜かしていた。
「色男ではないか」
「なんだ、謙三も分かるか。あいつと女優の緑里で、ここが保っているようなもんだ」
「ほぉ。依子を見ると、なるほどな。土産だ。みんなで分けて」 
「土産もいいが......」
 チラリと謙三を見る。
 謙三は胸ポケットから、茶封筒を取り出して、和夫に渡した。
 和夫は茶封筒の中身を見る。
「ほう」
「もう少し、しっかりしてくれよ、兄さん」
「ああ、こっちも色々あってな」
 ニマニマしながら、ポケットに入れる。
 謙三は溜め息。
「それじゃあ、劇場の方に回るが......、彼のプロマイドが欲しいんだ」
「お安いご用だ」
「10枚よろしい?」
 と、今まで黙っていた依子が、語る。
「ああ」
「サインを付けて。お茶会のお友達にあげるの」
「義妹、依子のためだ」
 
(おなごだな...)

 と、男二人は思った。
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