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15 - デニズリ王宮には

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 デニズリ王宮には、いや王宮と呼ばれる場所であれば、たいていはマスマラク鉱という特殊な鉱石を用いてつくられた部屋がある。
 より厳密にいえば、部屋というより牢としての役割が強い。
 すべての壁と床、天井に最低でも大人の手のひらをこえる厚さのマスマラク鉱の板が隙間なく埋めこまれ、檻も同じ材質でつくられている。
 この鉱板には、瘴気に反応し吸収する特殊な性質があった。
 人間から気流を抜くと死んでしまうのと同様に、魔属もまとう瘴気を強引に吸いとられれば衰弱してしまう。
 人間ほどたやすく息絶えることはないが、長くマスマラク鉱のそばにいるとやがて動けなくなり、生命活動を停止してしまうのは同じだった。
 現在、その牢はからではない。
 一人の囚人が粗末な椅子に腰をおろして顔を伏せている――カシュカイである。
 周囲にひとつの窓もなく、頼りない灯火が壁の四隅にあるだけの薄暗い空間のなかでは、不意に揺らぐ火影のせいもあいまって、スィナンの青年の美貌をより凄みのあるものにみせる。
 しかし、牢の前に立つ二人の兵は緊張しきっており、檻を背にしていて、なかをのぞこうとはわずかも考えなかった。
 魔属やスィナンの一族の眼が呪力をもつのはよく知られた話だが、彼らはカシュカイの姿を見ただけで魂までとられてしまうと、本気で信じこんでいるようだ。
 カシュカイもまた、石膏像のようにかたまった兵たちへ意識を向けることはなかった。
 身体にまとわりつく不快な感覚に耐えていたからである。
 かつて拷問じみたあらゆる折檻をうけてきたが、マスマラク鉱の牢に入れられたのは初めてだった。
 この鉱石は非常に稀少で、どこにでも気軽につかえる代物ではない。
 もし養父の家に同じ部屋があったら、おそらく幼少期のほとんどをそこで過ごしただろうと想像して、カシュカイは目を閉じた。
 全身の皮膚から力がじわじわと抜けていくのがわかる。
 ひどい倦怠感と貧血に似た症状で意識が遠ざかりそうになるのを、なんとかこらえる。
 瘴気と気流をあわせもつ身ゆえに死にはしないだろうが、昏倒するような醜態をさらすわけにはいかなかった。
 アイディーンが王宮を発ってどのくらいの時間が過ぎたのだろうか。
 ひとり王宮に残されたカシュカイを前に、メユヴェ王女は言った。
 「この部屋のなかにさえいてくれれば、おまえは自由よ。罪人のように縛りあげたりもしないし、シャルキスラ殿との約束どおり誰も近づけたりしない」
 それがどれだけ矛盾に満ちた言葉でも、彼女は気にしないのだろう。
 なんであれスィナンの一族に自立的権利などないと、疑いなく信じている。
 アイディーンと行動を共にするようになってからというもの、自分がスィナンであるという事実があらゆる枷となって主に迷惑をかけているのを、カシュカイは重く感じていた。
 今回もまた自らの嫌疑を晴らすために、アイディーンを奔走させている。
 もし万一、彼の身に危機を感じたときは、この牢を破壊して駆けつけるのになんの躊躇もないが、いまはただおとなしく待っているしかない。
 檻の向こうに立つ兵のひとりが、ふと身じろいで腰にさげた剣の鞘の留め具をかちゃりと鳴らしたとき、カシュカイが顔をあげた。
 兵は自分のせいかと怯えて肩をすくめたが、カシュカイの行動の理由はそんなことではなく、部屋の外にも配置されているはずの兵の気配が不意に乱れたからだ。
 乱れただけではなく、直後に気流が途切れ、かすかに衣擦れの音がする。
 目の前の二人の兵は外の異変に気づいた様子もなかったが、前触れもなく突然ひらいた扉に驚いてとっさに身構えた。
 間違えようのない瘴気が濃厚にただよってきて、カシュカイはすばやく立ちあがる。
 なぜこんな場所に魔族が、と思ったのもつかの間、姿を現したのは過日ファズーラの地で技を交えた男、エフェスだった。
 「何者だ!」
 兵のひとりが剣を抜きながら詰問する。
 しかしもう一方の兵は法力の心得があるのか瘴気を感じるらしく、ほとんど失神しそうになりながら恐怖を顔にはりつけて牢の格子に背中を押しつけた。
 「な、なんで、魔族が、こんなところに」
 歯を鳴らしながらつぶやいた瞬間、彼は沈黙して崩れ落ちた。
 その喉に真円の穴があいている。
 遅れてふきだした大量の血を見て、え、と声を漏らしたもうひとりの兵もまた、まばたきをする間もなく頭を石壁に叩きつけられて剣を手にしたまま絶命した。
 すべてが驚くべき速さでありながら、流れるように優雅だった。
 「やあ」
 魔族の男が何事もなかったように牢の正面へ来るまで、カシュカイはなにもできず見ているしかない。
 「今夜はすばらしく月が美しいというのに、こんなところにいては空を見上げることもできない」
 嘆息すらしながら気の毒げに言う男の言葉は、いましがたくりひろげた凄惨な行為とのあまりの乖離に、これ以上なく不気味だ。
 返事もしないカシュカイに、エフェスは不思議そうに問うた。
 「なぜ、おまえはこんな不快な所にわざわざ留まっているんだい」
 カシュカイの力をもってすれば牢を破壊するのは容易だと、魔族の男ですらわかっている。
 それなのに、自らの力を削られながらただ耐える理由がどこにあるのか、と疑問をいだくのはエフェスにとっては当然だった。
 しかしカシュカイに答える気などない。
 「私に、なんの用だ」
 男は、逆に問い返されたのに気分を害した様子もなかった。
 「まだ遊びたりないからね、おまえにもう少しつきあってもらわないと。……おや? その左腕は自前・・か」
 言葉尻の不明確なつぶやきに、カシュカイは平静を保ちながらも内心いぶかしく思わずにはいられなかった。
 左手の甲には紋章がある。
 スィナンでありながら神のしるしを持っているのをあげつらわれたのかと思ったが、この魔族に左手をさらしたことはないし、いまも甲当てをしていて紋章は見えない。
 それとも気配でマラティヤと感づかれただろうか。
 考えられなくはなかったが、もっと別のひっかかりを覚えて、カシュカイははっとした。
 自分と同じ紋章を持つ者が北方の地で暴れているという、人間たちの話を思いだす。
 それは十中八九この男の支配するもうひとりの魔族に違いないが、だとすれば人々が目にした紋章はこの男が用意したのだろうか。
 風の神と光の神の紋章が複雑に絡みあう特殊な形の紋様は、実際に見なければ再現することもできないはずだ。
 機会があったとすればファズーラで対峙した際、気を失わされたときしかないが、そこで紋章を見たとしても魔属が神のしるしをつくりだすなど不可能だった。
 アイディーンは怪我ひとつしていなかったと言っていたが、気を失っていたあいだに危害を加えられた可能性はある。
 「それにしても、これが噂に聞くマスマラク鉱か。初めて見たが、たしかに近くにいるだけで瘴気が引きよせられる。おまえはすでに、かなり瘴気を失っているようだね」
 エフェスは見物でもするような気軽さで室を見渡した。
 それからもう一度カシュカイへ観察の目を向ける。
 「スィナンの一族は瘴気と気流を等しく半分ずつ持ち合わせるといわれているのに、おまえはずいぶんと瘴気が濃い。これほど瘴気を抜かれてしまっては、立っているのがやっとだろう」
 自身のことを正確に測られていた以上に、その無遠慮な感想の内容にカシュカイは皮膚をあわだたせた。
 以前、対峙したときもこの魔族は不思議そうに言ったのだ。
 カシュカイの身の内にあるのはほとんどが瘴気で、わずかに含まれる気流も変質していると。
 あの言葉に動揺して、術を中断し気絶させられるという失態を犯したのだった。
 法術士たちのとある目的のため、カシュカイの身体には長期法術を施されており、それによって徐々に気流が瘴気へ変質しつつあるのは自分でも自覚していた。
 ただし法術を使えなければマラティヤの任務に支障がでるので、一定割合の気流はそのまま残ると説明されていたのである。
 いずれ、この身体は純粋な瘴気で満たされるというのだろうか。
 そうなったとき、果たしてマラティヤとしての存在意義が自分にあるのか。
 カシュカイにはわからなかった。
 「私の瘴気がどうなろうと、おまえには関係ない。おまえの無意味な遊びにつきあうつもりもない」
 魔族に対するカシュカイの対応は一貫している。
 男の戯れの言葉を切り捨てながら、手のなかで小さく印を結び密かに精霊を呼び集めようとしていた。
 指摘されるまでもなく、カシュカイの体力はほぼ底をついていて、次の一撃が勝敗を分けるだろう。
 エフェスは緊張のかけらもない様子でスィナンの青年に近づく。
 「ぼくはおまえにとても興味がある。身体の隅々にまで複雑な術式や禁呪が張りめぐらされているようだが、なんのためのものか解読したいし、その左腕をどうやって再生したのか調べてみたいんだ」
 男が檻に手をのばしたとき、部屋の外で悲鳴があがった。
 それを叱責するようにたしなめたのは女の声だ。
 エフェスが扉のほうへふりむくのと同時に部屋へ入ってきたのは、メユヴェ王女である。
 外と同様に殺された兵と見知らぬ男を見て歩をとめたが、後からついてきた彼女の夫、ディエール・カリヨンは妻の肩にぶつかったうえ、室内の惨状を見てふたたびかん高い悲鳴をあげた。
 「おまえは……大気のマラティヤの仲間なの」
 メユヴェは顔をひきつらせながら言ったものの、とり乱してはいない。
 しかし王族はその血統から潜在的に法力を持つ者が多く、彼女も例外ではなかったために、男がまとう濃い瘴気が魔族のものだと気づいてしまった。
 「マラティヤの仲間とは、常に人間ではなかったかな」
 エフェスはさもおかしそうに笑う。
 魔族はほかの魔族を同胞だと認識しても、仲間のように絆ある存在とは考えない。
 ましてやスィナンの一族に対しては、種としての共通点もなければ情として親近感をおぼえることなどあり得なかった。
 「だったら、わざわざここ・・へ現れたのはなんのためだというの」
 完全に妻の後ろに隠れてがたがたと身を震わせるカリヨン公爵の前で、王女は気丈に踏みとどまって魔族を睨みさえした。
 「玩具をとりにきただけだ。すぐに出ていくさ」
 エフェスは答えて、彼女へ向かってゆっくりと腕を上げる。
 二人の会話に加わらず無言だったカシュカイはその瞬間、戦慄をおぼえて叫んだ。
 「逃げろ!」
 メユヴェ王女は驚いて彼を見た。
 口をひらこうとしたのと同時に血走るほど目を大きく広げ、首から血を噴きださせながらくずれおちる。
 エフェスの放った真空の刃はほっそりとした喉を貫き、カリヨン公爵の胸まで達していた。
 妻に引きずられるようにして倒れた彼は、なにがおこったのかわからないまま絶命した。
 大量の鮮血が飛沫しぶきとなって視界を遮ったのを、カシュカイは見逃さなかった。
 手のなかに集めていた精霊による光のつぶてを一気に血の向こうへ放つ。
 「ぐっ……」
 聞こえたのはほんの小さなうめき声だったが、魔族の男が顔をおさえてよろめきながら壁にぶつかったのがわかった。
 致命傷にはなっていない――カシュカイはひどく失望したが、二撃目をくりだす力は残っておらず、自らもよろめいて床に片膝をつく。
 血しぶきのカーテンがなくなった後に見えたのは、血まみれになった顔の左半分をおさえて石壁にもたれたエフェスの姿だった。
 「……なるほど、小動物を狙う獣を狩るのは狩猟の鉄則というわけか。あいにく頭を吹き飛ばすほどの威力はなかったが……頬と耳の肉をこれだけ削がれては、完全には戻らないかもしれないな」
 呼吸は少し乱れていたが、男はただ感想を言ってみたという態度で、憤りもみせない。
 一方、カシュカイの息は魔族よりもずいぶん荒れていた。
 瘴気と気流の不足を補うために激しく脈打つ心臓が痛みを訴えてくる。
 立ちあがれず床に手をついてしまったカシュカイは、直接触れるとより吸収の増すマスマラク鉱の特性によってわずかな瘴気すらも根こそぎ奪われ、いっそう心臓を酷使する悪循環に陥った。
 これ以上、法術を使うのは無理だ。
 カシュカイはなんとか床から手をひきはがすと、喉に指を押しあてて言葉を発する。
 とたんに魔族の男は身体をこわばらせ、先ほどとはうってかわって険しい表情をあらわにした。
 「やめろ!」
 自分の血にまみれた手をのばして檻のあいだから差し入れると、カシュカイの腕をつかんで引きよせる。
 力任せにひっぱられた青年は檻に肩をしたたか打ちつけ、抵抗する余力もなくずるりと座りこんだ。
 「真言エウェットを、まだ使う者がいたのか」
 エフェスは吐き捨てるように言い、マスマラク鉱の檻の格子を切断すると、意識はあるものの動けないらしいスィナンの青年を引きずりだした。
 「おまえはぼくを驚かせる天才だな。そんな奇怪な身体に改造・・されて、よく正気でいられるものだ。アーシャーよりよほど強靭な忍耐力だよ」
 苛立ちのなかに感嘆を含ませてそう評すると、魔族の男はカシュカイを肩にかついで、石壁に人ひとりぶんの大穴をあける。
 自ら手をくだした六人のむくろには目もくれず、男はそのまま外へでていった。

七話 密計 END
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