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07 - スィナンであるサリフィアに

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 スィナンであるサリフィアにかぎらず、マラティヤの任務に関係のない者は誰であれ転移法術陣を使うことができない。
 かといって通常の法術転移では力の消耗が大きすぎるため、アイディーンがケレス大陸へ渡る手段を思案していると、サリフィアは〈夜の道〉を通っていこうと提案した。
 「魔族しか使えないんじゃないのか」
 アイディーンの当然の疑問にサリフィアが説明する。
 「たしかに夜の道を魔族ではない者が使うと、闇に迷って出られなくなったり心身を冒されたりする。だから深くは踏みいらず、転移法術と併用して夜の道の領域を少しだけ借りるのだ。夜の道を通るよりは遅いが、法術より時間短縮になり術力もおさえられる」
 「そんな方法をどこで?」
 「われが考案した。スィナンは呪術と法術の両方を扱うゆえ、魔族のやりかたに抵抗がないのでな。ずいぶん昔に夜の道の存在を知ってから、長距離を容易に移動できないかと研究したことがある」
 アイディーンは感心して稀有なスィナンを見た。
 彼女は聡明なだけでなく知的好奇心の強い性格なのだろう、くわえて十分な術力ももっている。
 ただ永い時を生きてきたからといって、人は賢者になれるわけではない。
 サリフィアは物惜しみせず青年にやりかたを教えてくれた。
 法術の範囲内で通る夜の道の表層は、夕暮れのような寂寥感のただよう空間と現実世界が交差して二重映しになった不思議な場所だった。
 「あまり暗いほうへは行くな。見慣れた風景へ意識を向けながら進むといい」
 サリフィアの助言に従って歩くアイディーンは、初対面のとき屋敷でのみこんだ彼女の言葉の真意をきいてみた。
 「あのとき、カシウの名に反応した理由はなんだ」
 サリフィアはわずかに眉をひそめて、思案するように目を伏せる。
 そのしぐさが憂意を含んでカシュカイによく似ているのを認めて、視線がそらせない。
 やがて彼女は顔をあげると、はっきりとアイディーンの目を見返した。
 「答えるまえに教えておくれ。カシウが産まれたときのことを、アイディーンは知っているのか」
 「あいつは封印の地で産まれたが、神の紋章が身体に発現したのが原因で同胞に虐げられたと、ビジャール王から以前うかがった。あげく殺されそうになり、法術士に救出させたと」
 「……スィナンは一族の結束が強い。子供への情愛はことのほか深く、皆で大切に子らを守り育てる。だが魔族と人間の交わりを祖とするためか、まれに魔族の悪しき気質が強く出すぎたり、人間のように著しく弱い体質の赤子が産まれることがある。そういう子はスィナンとして生きていけず、忌み子として同胞の手で殺すしかない。その赤子には、確実な死の安寧のため〈忌み名〉が与えられる」
 「まさか、カシウは……」
 衝撃的なスィナンの一族の話に、アイディーンは低くつぶやく。
 サリフィアは憂い表情そのままに首を振った。
 「その名はスィナンの言葉で〈無き者〉という穢れた意味をもつ。
 自身であれ他人であれ、忌み名を口にするごとに死と穢れを本人のもとへ引き寄せるだろう。ゆえに、我はそなたに感謝している。愛称は忌み名の意味をなさないからな。……だが、むごい話だ。穢れた名を与えておきながら生かし続けるなど、どれほどの苦しみか」
 「名を変えられないのか」
 「術力の高い者ほど真名がたいにおよぼす影響が大きいのはそなたも知っていよう。それはスィナンも同じこと。できぬではないが、すぐには難しい」
 アイディーンがカシュカイを愛称で呼ぶようになったのは、共に命をかけるマラティヤという『運命の伴侶』だと思ったからだ。
 その後、カシュカイへの人々の悪辣な接しようを身をもって知ったことで、周囲をけん制する意味でも愛称で呼び合う試みは正しかった。
 それが、さらにカシュカイの救済へつながっていたという事実は、アイディーンにとっても大きな意味があった。
 気づかないうちに自分が彼を窮地に追いこんでいたかもしれないと考えると、ぞっとする。
 とはいえ、正しくカシュカイという名を使ったことは何度かある。
 意味を知れば、もはやその名を口に出そうとはとうてい思えなかった。
 屋敷で初めてカシュカイの名を耳にしたサリフィアの不快げな反応は、当然だったのだ。
 「そなたの話どおりならば、カシウは生後すぐに一族から引き離されたのだな……」
 ふと、スィナンの女が痛ましげに言った。
 「法術士のもとで養育されたが、尋常な処遇ではなかったと聞いている」
 あえて感情を排して淡々と告げたアイディーンに対してサリフィアは目を閉じ、なんらかの衝撃に耐えているようだった。
 機械的に歩き続けてはいたが、そうでなければ膝を崩してしまうのではないかというような動揺だ。
 しばらくしてまぶたを上げた彼女の目からは大きな感情の波は消えていたが、最後に漏らした長いため息はそれまでに受けた心中を物語っている。
 「……スィナンの子供が一族の庇護下から隔離されることは、人間の子が親元から離れて育つのとは比べものにならない悪影響にさらされる。普通、長命な種は成熟の過程がゆるやかで成体となるにも時間がかかるものだが、スィナンは数百年の寿命をもちながら人間よりも成人が早い。たった十五年で心身を成熟させるため、幼年時代はひどく不安定な存在だ。精神も肉体も繊細で脆弱な幼年の子らは、一族の大人たちに大切に守られ外に出されることは決してない。それほど注意深く育まねば、砂糖菓子のようにたやすく壊れてもとには戻らないからだ。
 ……アイディーン、そなたの目から見て、カシウはひとの形・・・・を保っているだろうか」
 投げかけられた問いに、アイディーンは答えられなかった。
 彼女の言葉は、以前カシュカイは張りつめた糸の上に立っているようだと感じたアイディーンの印象とまったく一致している。
 正気を保ちながら一歩足を踏みだすのに、多大な労力と犠牲を払わなければならないような危うさ。
 カシュカイは十九年間ずっとそんな生きかたをしてきたのだ。
 「あいつの」とアイディーンはようやく言った。
 「心の強さを、俺は信じている」
 その言葉は本心だった。
 カシュカイは彼のやりかたで自分を守り、自分の足で確かに立っている。
 どれだけ傷つきいびつであっても、どんな形でも、カシュカイであるかぎりアイディーンは彼に惹かれ続けるだろう。
 サリフィアは、それ以上知ろうとはしなかった。
 ただカシュカイとよく似た白くほっそりとした指を前方へさして「その先から現世へ戻ろう」と静かに言ったのだった。
 身体にかすかな違和感を覚えながら薄闇のとばりを抜けると、外の世界は夜になっている。
 「どこだ、ここは」
 どうやら森のなからしく、ざわざわと葉擦れの音が響く。
 見上げれば、揺れる葉陰の合間から星あかりが瞬いていた。
 「セヴィヨルの首都とリステムのちょうど中間地点あたりだ」
 サリフィアは当たり前のように答えたが、ほんの数刻で本当にカプラン大陸からケレス大陸へ船も使わず渡ってしまうとは、転移法術陣よりもはるかに驚異的だった。
 しかしアイディーンが驚きにひたる間もなく、周囲に魔獣の気配が濃厚になってきたのを感じてサリフィアに目配せすると、彼女はうなずいて術文を唱えはじめる。
 機をはかったように四方の暗がりからいっせいに飛びだしてきた大きな獣の群れに、二人もまた一気に技をくりだした。
 剣と法術を併用するアイディーンに対して、サリフィアは法術と対術を駆使して応戦している。
 獣たちの鋭い牙と爪を軽い身のこなしで回避するさまは舞のようですらあったが、すその長い衣でこれほどの動きができるのはスィナンゆえだろうか。
 魔獣の一団を苦もなく片づけてしまうと、二人は夜じゅう湧いてくるに違いないそれらを避けるため、狭い範囲に結界を張って夜明けを待つことにした。
 「旅装束に着替えなくてよかったのか」
 火をおこしながらアイディーンが尋ねると、サリフィアは「問題ない」と言う。
 彼女の黒い衣はほっそりとした、しかしあまりにも女性らしい肢体の曲線にぴったりと沿った長衣で、すそは足首まで隠れる長さだが、片側に腿の上まであらわにする切り込みが入っている。
 腕も肩もむきだしで、背中まで大きくひらいた煽情的な意匠は、彼女の妖艶さをじゅうぶんに表していた。
 「そなたら人間の基準と違い、スィナンは自らの肌をより魅力的にみせ相手を誘うのを好むのでな。髪も長くのばして頭の高い位置で結うのが女人のたしなみだが、スィナンは髪をのばしはするが結う習慣はない。結ってしまっては、この色艶の美しさが損なわれてしまうだろう?」
 ひそやかに、そして蠱惑的な微笑をみせたサリフィアの姿に、アイディーンはスィナンが享楽の種族ともあだ名されるほど性に奔放な質をもっているのを実感した。
 彼らにとって肉体の快楽を気軽に分かち合うのは、日常的な意思疎通の手段のひとつでしかないのだ。
 それは排他的であり一族内の結束の強いスィナンならではの特質といえるかもしれないが、人々のあいだで広く享楽の種族などという呼び名が囁かれるのは、人間たちも少なからず彼らに魅せられ関係をもってきたという事実に他ならない。
 サリフィアはまさにスィナンらしいスィナンというべき女だったが、それはカシュカイの本質からはほど遠いものだった。
 彼は常に一分の隙もなく身体を布で覆い隠している。
 素肌がみえるのは顔と指先だけだが、日常で許されるならフードと手袋も身に着けたに違いない。
 さらにいえば、カシュカイが閨の行為に積極的だったことは一度としてなかった。
 ゴルシュ島で一線を越えて以降、カシュカイの精神的な事情からアイディーンはやむを得ず幾度か彼を寝台へ引き入れたが、スィナンの青年にとって他人からの接触と快楽は苦痛に耐えるのとほとんど変わらないようだった。
 かの一族らしからぬ反応はすべて、サリフィアが正常に育たなかったのではないかと恐れたように、カシュカイの幼少時の環境に起因しているのだろうか。
 「カシウは必ず連れもどす。そうしたら、サリフィアにぜひ会ってほしい。あいつには同胞の助けが必要なんだ」
 「もちろん、力を貸そう」
 アイディーンは具体的なことを言葉にしなかったが、彼の願いと決意をサリフィアは正しく汲みとって躊躇なくうなずいた。
 「サリフィアに聞きたいこともある。終の契約について……」
 続けて言ったアイディーンの言が不意に途切れたのは、彼がはっとして空を見上げたからだ。
 サリフィアが理由を尋ねる間もなくアイディーンは立ちあがり、南の方角へ視線を定める。
 「サリフィア、感じないか。精霊がおかしい」
 両手で耳をおさえながらまっすぐ真南へ目を凝らす青年に従って、サリフィアも意識を向けると、はるかかなたから精霊の異様な声がかすかに聞こえた。
 精霊は音としての声を発することなどないが、大気を伝わって届く波動は悲鳴といってもいいものだ。
 「精霊たちが狂乱している。この大陸ではない。海よりも南――」
 サリフィアが言った瞬間、二人は同時に互いを見た。
 ここからほぼまっすぐ南下した先には、中央大陸がある。
 「だが、エシュメに精霊は存在しない」
 「いや、あの大陸の中心には神々の聖域があるはずだ。もし強力な結界が張られているなら、精霊が生息していてもおかしくない」
 「なるほど、それがそなたらの目指す暗黒期終焉のための切り札というわけか」
 サリフィアは青年の簡素な説明にすぐに理解を示した。
 そうだとしたら、この時機にかの地へ干渉できるのは大気のマラティヤ以外には考えられない。
 「カシウをエシュメへ連れていくすべを、あの男はみつけたようだな」
 「いったいどうやって」
 あまりにも信じがたい可能性ではあったが、断続的に狂った信号を送ってくる精霊のほとんどが大気属下のものたちだと気づいて、アイディーンはなんらかの危機的状況がカシュカイに迫っているのを認めないわけにはいかなかった。
 「サリフィア、ここからリステムまで通じる夜の道はないのか」
 「五里ほど南下しなければ出入りできる狭間がない」
 「だったら法術転移で行くしかない」
 サリフィアの返事を聞くまえに、すでにアイディーンは術文を唱えだしていた。
 固定設置された法術陣でなく簡易の術陣も描かない詠唱だけの転移は、法力を膨大に消耗する。
 だからこそ夜明けを待って次の夜の道の入り口まで徒歩で移動するつもりだったが、もはやそんな悠長なことはしていられなかった。
 青年が唱える文のなかで行き先をリステムと定めたのを聞いて、サリフィアはおよそ三七五里もの距離を一気に跳ぶつもりかと驚く。
 さらに彼はサリフィアも同時に転移させるよう詠唱を組みあげていた。
 これだけの大がかりな法術を使えば、リステムに着いたとたん卒倒してもおかしくない。
 サリフィアは迷う時間も惜しいというように自らも補助法術を唱え、術力の増幅とアイディーンへの供給のため意識を集中した。
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