『少女、始めました。』

葵依幸

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【1】少女、初めまして。

1-3

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 オレンジ色に染まりつつある街をボンヤリ歩くと長く伸びた影が何とも虚しい。薄く細く伸びきったそれは、何をする訳でも何を求める訳でもなくただ俺の前に横たわり気怠い夕暮れを演出してくれていた。時間の流れなんてとっくの昔に酷く曖昧で、その影がいつの俺の物なのかすら分からない。

 結果は惨敗。そもそもギャンブルで勝てた試しなんて無い。堅実的な人生を送って来ていたはずだった。しかし余り余った金と時間をどうするか悩んだ挙げ句の使い道がコレだ。無駄な浪費、時間の消化。たまに当っても心躍る訳も無く、ただ銀玉が減ったり増えたり。それの繰り返しだ。

「……くそ」

 分かっていてそれしか時間の潰し方は浮かばなかった。映画の撮影にばかり付き合わされて暇の潰し方を忘れてしまったのかもしれない。何かを発散する訳でもなく、苛立ちは募るばかりだ。それでも家にいるよりはマシと、足を向けてしまう。

「ホント、無駄な人生送ってるよ」

 こんな風に自分の残した金を使われてると知ったら先輩は怒るだろうか。荒太は馬鹿だなぁと呆れるだろうか。そうだろうな、きっとそうだ。先輩は怒って、荒太は呆れる。それでもって俺達はきっと笑い合うんだ。「んなくだらねぇ事に金をつぎ込んでるバカがあんなにいる」と。そうしてきと「先輩のタバコだって同じですよね」なんて言って拳骨を落されるんだ。「これは私の栄養だ」が口癖だったか。

「タバコ止めたんすか」
「取る必要なくなったからな」

 そんな会話を交わしたとき、先輩は何を思っていたんだろう。
 俺はタバコの代わりに成れていた。そう思える事は少し嬉しくもあり、辛くもある。

 見上げた空は酷く懐かしく、いつになってもすっかり廃れた心は蘇る気がしない。そもそもそれをどうかしようかなんて思ってもいなかった。

 荒太のいない世界、先輩のいない生活。いざ無くなってみると俺の人生の大半はあの二人で出来上がってたんだなぁと気付かされ――、それが無くてしまった俺には何も残っていなかった。その感傷に浸る心さえもきっと何処かに置いて来てしまったんだろう――。

「って、これが感傷的って言うのかもなぁー。案外腐ってねぇ」

 ポケットに突っ込んで探したタバコは既に空で、溜め息まじりに空箱を突っ込み直した。タバコなんて何本吸っても意味はねぇ。
 そうこうしているうちにマンションに着き、玄関の鍵を差した所で夕飯を買ってこなかった事に気が付く。カップ麺の買い置きがあっても流石に味気ない。一度コンビニまで足を運ぼうか悩み――、

「うにゃああああああ!!!!」

 叫び声に慌てて鍵を回して中に入った。開けるなり行き場を求めていたかの様に焦げ付いた匂いが外へと吹き出す。

「ッ……あの、バカ――!」


 ――お腹が減ったなぁ。


 そう甘えていた姿が脳裏に蘇り、嫌な予感に靴を脱ぎ捨てて台所へ走り、扉を開けると――天井まで届く程の火柱が踊っていた。

「なっ……!」
「ごっ、ご主人さまぁあああ!!!」

 ワタワタと喚き続けるバカを無視して慌てて換気扇を回し、元火を消して消火に当たる。
 幸いにも火災報知器はまだ反応しておらず大事には成らずに済んだ。
 だがフライパンの上に転がる肉片は真っ黒焦げで、とてもじゃないが何の料理かだなんて分かりゃしない。水回りも何に使ったのか分からない調理用具で溢れているし、床も調理台も野菜や小麦粉でぐちゃぐちゃだった。

「ふぅ……まったく、なにをどうすりゃこうなるんだ……」

 文句の一つも言ってやろうかと睨んだ矢先、涙を浮かべる姿に思わず詰まった。
 悔しそうに俯き、そのうち声を殺して泣き始めてしまった。自立していると自分で入っていたが、やはり子供なのだ。それでも腹が減っているのか空腹を訴える腹の虫の声が響き、益々その体は小さくなってしまう。服の裾をギュッと握る仕草は何だが痛々しかった。

「……別に怒ってる訳じゃないから安心しろ」

 火事にはならなかった。なら問題ない。そもそもこいつを一人ここに残して行ったんは俺の責任だし、好きにしていいと言ったのも俺の責任だ。子供一人を責めるの間違ってる。次からは出前を取ってやるなりすれば問題は無いだろうし、ここで目くじらを立てたって仕方が無い。

「とりあえず夕食はなんか取るから適当にデリバリーで頼めそうな物を――、」

 そこまで言ってバカが俯いたまま顔を上げない事に気がついた。相変わらず涙をぽたぽた流して肩を振わせていた。
 部屋に戻ろうとして足を止めた。振り返るが同じ光景が広がっているだけだ。

「なんだ? 言いたいことがあるならはっきり言え」

 そろそろ空腹も限界も近かった。何となく部屋を出てしまって昼飯もろくにとって無い。ろくに使わないにせよ、この後台所の片付けもやってしまわなければならないと思うとそれこそ憂鬱だった。

「……ほら、早く話せ」

 怖がらせるつもりは無い。ただ言いたいことがあるなら言えを言っているつもりだった。だがその震えは止まる事無く、涙はこぼれ続ける。叱られてるとでも勘違いしているのか一向に話しだす気配は感じられなかった。

「あのなぁ――、」

 流石に痺れを切らし、俺の方から話しかけたとき、

「――は、――欲しくて……」

 バカが、何かを言った。

「……あ?」

「――ップ麺ばかりだと、……に――悪いから……」

 ボロボロと溢れる涙で言葉は聞き取り辛い。だが、なにを言おうとしているかは聞き直すまでもなかった。聞き直さなくても何を言おうとしているかなんて分かってしまった。


 ”――カップ麺ばかりだと体に悪いから、ちゃんとしたものを食べて欲しくて。”


 ――俺の為に、作ってたのか……?

 朝から何も食べていない癖に、腹が減ったと図々しくも訴えて来ていたのに――カップ麺も作らず、俺の為に、料理を……?

 もう一度台所に目をやる。

 流し台に突っ込んであるフッ素コートだか何だかを施したフライパンは黒こげで、調理台の上にはあれこれと調味料が散乱し、割るを失敗した卵や牛乳なんかがそこから飛び出して床に落ちてなんかしていて――、フライパンの上の物はもう水に浸かり食べられた物じゃない。けど、一つだけ皿に盛られた――、もられたなんて大層な事じゃない。ただ一枚だけ、黒こげになりながらも僅かにその原型を留めているもので何を作ろうとしていたかを知る。

 恐らくはフレンチトースト……。食パンを卵に付けて焼いただけの物だが、朝食としては申し分無い。

 そんなに難しい料理じゃない、卵と牛乳を混ぜてフライパンで焼くだけ……それだけの行程がどれほどの難しさかなんて考えるまでもない。なのに大量に作られたバーベキューの燃えかすみたいな炭。もしくは最初は違う物を作ろうとして最終的にそれしか材料が余らなかったのかもしれない。

 なんにせよ、恐らくは冷蔵庫の中身を殆ど使い果たしてしまったであろうその台所は、ただ何となく――何となくその光景は懐かしかった。
 台所で悲鳴を上げる声が思わず蘇るようだ。咥えた煙草を落としそうになりながら、フライパンを片手に慌てふためく後ろ姿。

 “――どっ、どうすりゃいいんだ、これっ!?”

 助けを求めて来る声は切羽詰まっていて、普段からは考えられない程慌てる姿に思わず笑ってしまった。そうして助けら助けたで後に殴られる。「料理が出来ないだけで笑うな」と。俺がどれだけ悪かったと何度謝っても拗ねて許してくれない。またタバコに火をつける――。そんな時俺は出来損ないの料理が目に入り――、

「……ったく、反則だろ、これは」
「ぇ……?」

 突然流し台に歩いていった俺に驚き、バカが顔を上げる。

 ――常套手段だっていうなら、乗ってやるよ。

「あー、そういや。腹が減ったなぁー」

 わざとらしい臭い芝居にありふれた台詞。驚き俺を見つめる目には大粒の涙がまだ乗っていた。

「ん、こんな所になんかあるじゃねぇか。頂きまーす」

 そうしてそのパンを口に放り込んだ。苦いというよりも、まるで砂利を口に含んだような食感に思わず顔をしかめる。こんな物を口に入れた事を早くも後悔し、吐き出してしまおうかとも思うが――。

「――――、」

 その顔を見てしまっては残りの分も口に含まざる得なかった。

「……ホンと、腹が減ったわ」

 ジャリジャリとジャリを噛むような感触、口の中に広がる苦く、辛い味。無理矢理飲み込んでからゆっくりと冷蔵庫に手を伸ばし、牛乳のパックに口を付け、そのまま煽った。

 口の端からポタポタと牛乳が溢れるが気にしない。というか、流石に気にしていられない。どうせ床にも溢れてんだ、気にしなくても良いだろ。ゴクゴクとそのまま最後まで飲み干した頃、ようやく口の中は落ち着いた。

「わりぃ、お前の分まで食っちまった」
「ッ――――」

 ――ああ、そうだ。確か先輩もこんな顔した。

 いまにも泣き出しそうな程、目に涙を浮かべてるくせに、顔を真っ赤にしていまにも怒りだしそうだ。口をパクパクさせて、何か言いだしそうになるのに、何も言えなくて口を結んで――、

「……次作る時は俺がいるときにしろ、火事になると困るからな」

 蘇ってくる記憶を振り払うかのように言葉を吐き捨て、バカの隣を通り過ぎる。感傷的になるには余りにもバカバカしく、また今更そんな事でくよくよしてしまう程繊細な感性を持ち合わせてなどいない。

 ――夕食はピザだな。

 確かチラシがこの前ポストに入っていた事を思い出し、リビングのチラシ置き場を漁りに行く。最悪ネットでも注文出来るから有っても無くても良かったんだが体が自然とそれを探しに動いていた。

「ちょっと待って下さい!」

 呼び止められたのはバカの隣を通り過ぎた時だ。
 振り返ると顔を真っ赤にしたまま、俺を睨む姿が目に入る。

「ピ、ピザを注文しても文句言いませんよねッ!? 私のご飯食べちゃったんですから……!」

 とその言葉に先輩もそう言えばそうだったと体に染み付いた習慣を恨んだ。
 料理に失敗し、俺がそれを食べ、照れ隠しに拗ねる。

 チラシを漁り、何が良いかを伺う作業は先輩の御機嫌取りで――、俺と先輩の欠かせない思い出だった。


「……好きにしろ」


 感傷的になるにはバカバカしい、クヨクヨするには下らない。
 なんて事無い、特別な事なんて何一つ無い、くだらない日常の繰り返しだ。


 でもまぁ、人の手料理を食ったのは……実に一年ぶりだった。
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