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1日目

残照

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寒々しい空に黒く浮かぶ雲の団塊が、沈む太陽の光を反射して残照となっていた。
駅はそのか弱き黄金色の光にぼんやりと照らされている。雪がしんしんと舞う中、自分は駅のホームを目指していた。

改札所に入ると、仕切り越しに駅員が一人立っていた。
中年くらいの彼に乗車券を渡すと、気だるそうに手に持ったパンチでそれに穴を開ける。しかし何やら怪訝そうな顔をしてこちらを見てきた。

「乗車券に何やら変な模様が描かれているぞ。なんだこれは?」
そう言って駅員は乗車券に刻まれた赤獅子の紋章を指差す。

「ああ……すみません。元々入っているものかと思いました。」
適当に誤魔化す。

「はぁっ、さっきも同じ模様の入った乗車券を見たが、待ち合わせなら別の方法でやってくれ。」
駅員の吐き捨てるような愚痴と共に穴の空いた乗車券を受け取る。そしてそのまま駅のホームへと入った。

ホームではジョーゼットと呼ばれる蒸気機関車が白い水蒸気を吐きながらどっしりと佇んでいた。
そしてその横を人が行き来している。その誰もが身なりの良い衣装を羽織っており、それがジョーゼットの格調高さを表していた。
流浪の生活を続けていた自分にとって似つかわしくないその雰囲気に辟易としながらも、その使命の方舟に乗り込む事はまるで辞さなかった。
ふと乗車券を目の前に掲げ、刻まれた赤獅子の紋章を見る。焼けたモスリンビークの森から、この紋章に謳われし貴族と邂逅を果たさねばならない。そして先程の駅員の話を聞くに、他にも仲間はいるのだろう……。


「……あのぅ、もし良かったら募金にご協力いただけないでしょうか?」
いつの間にか目の前に小さな女の子が立っていた。緑色の服を羽織り、黒髪に黒い瞳で、無垢で辿々しい顔をしている。その両腕に手作りのように見える募金箱を抱えていて、こちらに恵みをせがんでいるのが分かった。

「ごめんねお嬢ちゃん。急いでいるんだ。」
そう言って女の子から離れる。可哀想だが構っている暇は無かった。ジョーゼットが出発する刻限はもう迫っている。

「待ってください!私モスリンの人間なんです!モスリンを助けるために募金してくれませんか!?」
背後から女の子の縋るような声がした。その内容に心が動かされる。モスリンを助けるという言葉が無性に胸をざわつかせた。
すっと彼女の方へ振り返る。

「へぇ、不思議な事を言うもんだね。あんな誰も興味がない田舎を救いたいだなんて。どういうことか聞いても良いかい?」
そう女の子に問いかけると、彼女はこちらの興味がひけたのを少し嬉しそうにしながら語り始めた。

「モスリンではブルーという流行り病によって多くの人々が死に絶えました。……何でもその病に冒されて死んだ人は、その名の通り血が真っ青に変色してしまっているんだとか。生き残りはもうほとんどいなくて、今は避難生活をせざるを得ない状況らしいです。私はそんな可哀想な人々を助けるためにお金を集めているんです。」

「……へぇ、モスリンではそんな悲しい事件があったんだね。でも聞いたことがないなぁ。お嬢ちゃんはモスリンの人間だって言ってたけど、それは実体験なのかな?」

「ああ……いえ、私はシフォンで育ちました。なので聞いた話でしかありませんが……本当の話なんです!」

「本当の話……なのかぁ。分かった、募金するよ。」
そう言って女の子が持つ募金箱に硬貨を一枚入れた。
そして嬉しそうに感謝の言葉を言う彼女の頭の上に手をポンと置いて、優しく撫でた。

年端のいかなそうな女の子は、その見た目にそぐわない程達者に語った。しかしその内容は奇特で、自身が過去に経験した事象とはまるで異なっていた。モスリンではブルーという流行り病を一度も聞いたことがなかったのだ。
彼女の育ちの地だというシフォン。それはこの国の首都で、きらびやかな都会だと聞いている。行ったことはないが、おそらくブルーという聞いたことのない病は、そのシフォンで広まっている下劣な噂話なのかもしれない。


「あのお……あなた様はあの列車に乗ってどこまで行かれるんですか?」
女の子はまた話しかけてくる。

「えっ?ああ、シフォンだよ。君の育ちの場所だったかな。」
変な事を聞いてくる子だなと思いつつも、彼女に乗車券をチラッと見せる。すると彼女は興味深そうにそれを見た。

「わぁ、お金持ちなんですね!よく見ても良いですか!?」
そう言って女の子は乗車券を手に取った。すると途端に女の子は周囲を見渡し、ソワソワとし始める。……何か良からぬ事を考えているのかもしれない。

「ああこらお嬢ちゃん、盗んじゃダメだよ!」
そう言って乗車券を女の子から取り返し、財布にしまう。それに彼女はすねたような顔をしながらこちらに縋り付いてきた。
しかしこんなことに時間を費やしている暇はない。


――ジョーゼットから汽笛が鳴り響いた。

もう出発するらしい。周りを見れば乗客が早足に乗車しようとしている姿がちらほらと見えた。

「ごめんね。もう行くよ。……悪いんだけど離してくれない?」
そう言って嫌がる女の子をなんとか引き剥がし、小走りでジョーゼットの客車へと向かった。

その途中、水色の制服と帽子を着た従業員の女を見つけた。丁度いい、これから乗る車両について聞きたかった。彼女の前へ駆け寄る。

「すみません、ジョーゼットの801号室を探しているのですが、少し迷ってまして……。どれに乗れば良いでしょうか?」
これからお世話になる部屋の場所を訊ねると女はこちらを見る。

「はい、8番車両にございます。そこまでご案内致しますね。」
そう言って女は歩き始めた。こちらも彼女の案内に従ってついて行く。

そんな彼女は……妙に特徴的な風貌をしていた。腰まで続く長い銀の髪を三つ編みにしていて、薄赤い瞳、それに透き通った白い肌。……なんとなく高貴さのある雰囲気にどこか既視感を覚えつつも、それが誰かという事は分からない。

「あの……突然失礼ですが、あなたとは……どこかで会ったことはありませんでしたっけ?銀の髪をされた女性にどこか見覚えがありまして……。」
そう話しかけると女は苦笑する。

「あはは……すみません。どうなんでしょうか。少なくとも私の記憶にはございません。……ただ私はこんな見た目をしていますので、よく誰かと間違えられてしまいます。恐らく私によく似た別人がいらっしゃるのかと思っておりますが。」

「そうなんですか。でも何故だか懐かしい感じがして……よければお名前を伺ってもよろしいですか?」

「どうかご勘弁くださいませ。さぁどうぞ、こちらが8番車両です。じきにジョーゼットは出発いたしますので、お急ぎください。」
そう言って女は立ち止まり、お辞儀する。どうやら目的の車両についたようだ。

名残惜しい気持ちを残しつつも、ジョーゼットへ乗車した。


◾️8番車両 通路

車両の両端は広いスペースになっていて、その間を二人がすれ違える程度の細い通路が繋いでいた。
出発間近で人通りのある車内は、駅で見た通り身なりの良い乗客ばかりだった。ふと自身の服装を見直してみれば、やはりみすぼらしい。しかし高い服を調達できるほど金もツテも無かった。もはや開き直るしかない。堂々と通路を歩く。
そして目的の801と書かれた部屋を見つけた。

◾️8番車両 801号室

客室内は列車の個室にしては広く、そして暖かい。
大きいベッドに、洗面台、高そうな机と座席。奥には専用のトイレやシャワールームも付属していた。壁には各所に橙色の照明が付けられており気分を落ち着かせてくれる。

カバンを床に置き、洗面台に手をつく。
鏡には黒髪で、覇気がなく眠そうな黒い瞳をした男。
深いため息をつき、その手を見る。
さっきの女のやけに白い肌を思い出した。あの特徴的な見た目、何か無性に引っ掛かった。しかしそれが何を意味するのかはまだ分からない。

おもむろにベッドの上に寝そべる。
近いような、あるいは遠いようなぼんやりとした記憶がうっすらと蘇る。
故郷モスリンの新緑に覆われた穏やかな景色。そして窓から見えるのはそれとは程遠い寒々しい雪原。それはまるで数年前から今日に至る自身の残影のようであり、昏く落ちてゆく過去をひたすらに想起する。
過去の温かな記憶の残響はすでに、今沈みゆく残照のように姿を消していた。
今はただ暗き深淵をもがき続けながら歩むことを自身に強いている。
これからジョーゼットで過ごす3日間、その鉄の箱舟は淡々とシフォンへと向かうだけ。しかしその間に自身が果たすべき事はただ一つ決まっていた。

――ジョーゼットは汽笛を鳴らしながら出発した。

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