カニのおかげで、カニのせい

綴灯ミア

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カニ鍋大事件

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「さーあ、できたわよぉ~」
丸太のような太い腕で巨大な鍋を持つ母さんが、俺たちが座る丸テーブルの方へ歩いてきた。
エアコンをきかせながらの鍋というのも、よく考えれば少しおかしい気がしたが、今日の鍋は特別だ。
今か今かと待ち構える腹を空かせた俺を含めた 2 頭の猛獣の前に、ドン!という強い衝撃と共に、鍋がテーブルに置かれた。鍋から顔をのぞかせる赤いカニたちに、思わず涎が垂れる。た、食べてくれって言ってる……。思わず手を伸ばしたら、パシッと叩かれた。
「食べるのは、いただきますをしてからでしょ!」
いつもは適当なくせに変なところで細かい母さんは、太い眉を下げて俺を睨むと、バンッと手を合わせた。大きく膨らんだ腹が揺れる。俺たちも、仕方なく手を合わせた。
母は目をつぶり、手を合わせてゆっくりとつぶやく。
「ノコギリガザミ様、美味しくいただきます!」
「いただきます!」
「いただきますっ!」
「す」が言い終わるか言い終わらないかのうちに、2 本の腕が鍋に突っ込んだ。途中から、母さんも参戦。
もはや合戦だ。数匹のノコギリカザミを箸で自分の皿に奪おうとするが、重みがあり途中で落下する。
3 人全員が2回はカニを鍋に突き落とし、汁を浴びて悲鳴を上げた。
俺は、散々悩んだ末欲しかったのをどちらも奪われて、結局他のを食べるしかなかった。それでもなんとか、自分が満足したカニの甲羅を、母さん譲りの剛力でガバっとこじ開けた。何にはパンパンに詰まったカニ味噌が現れた。
「おっしゃああ!!」
ほぼ同時に甲羅をあけた仁も雄たけびを上げる。
「父さんはいつも、こんな美味いカニ食ってんのかね?」
と、俺はカニ味噌をすすりながら、汁をすすっている母さんに声をかけた。
「飽きちゃったんじゃないの? あとなんかイセエビとかも食べてるって」
「最高じゃんかよ。俺も研究調査についていけばよかった」
「兄貴がなんの調査すんだよ? 沖縄そばの食べ比べ調査か?」
いつも通りの仁の嫌味だが、カニの旨みが勝り、俺は無言でカニを食べ続けた。
「このノコギリガザミってね。すごいのよ!ほら! この大きいハサミ! このハサミの力
どれくらいか知ってる?」
一瞬、不穏な空気を察してか母がカニのハサミを掲げる。
「知らない」と俺。
「なんとね、一トンよ!一トン! もう、猛の指なんかちょんぎっちゃうだから」と
母さんは俺の方にハサミを向ける。
「ほら、仁の髪の毛も」と、長髪の仁の髪をハサミで切るふりをする。
「やめてよ」と仁。母には相変わらず弱い。
あっけなく各々のノコギリガザミがなくなり、大皿には最後の一匹が鎮座していた。さすがに最後の1匹を俺だけが食べるのは忍びない。どこか一部をもらおう。
俺は悩んだ。甲羅をまたもらうか。それともカニの肉がびっしりつまった……。うーん。
その時だった。カニが宙を舞って、仁の皿に着地したではないか
「おい! お前、全部自分で食うな!分けろ!」
「はぁぁ? 兄貴がぼーっとしてんのが悪いんだろ? いらないんだろ?」
「いるにきまってんじゃねえか! この猿が」
「やんのかコラ!」
俺と仁は、ガタッと音を立てて、椅子から立ち上がる。ただでさえ逆立っている俺の髪が、さらに逆立った。
お互いに、ゴキゴキと手を鳴らす。母さんは、手慣れた動作で鍋やその他総菜を机の隅に移動して後ろに下がった。もはや、観戦者。こんな喧嘩、もう何回も見てきているので、楽しむことにしているようだ。しかしいまは、それに気を取られている場合ではない。
「俺のほうが年上なんだから、まず決定権は俺にあるに決まってんだろーが」
「はぁ? 年下の弟にまず譲るモンだろ!」
喧嘩は、まず口から始めると決めている。相手の怒りを煽ることで、冷静さをなくす戦略なのだ。
やってやる。お互い机から立ち上がり、テレビ前のリビングでにらみ合う。
「兄貴はさ、カニ以下だな!」
唐突に仁が叫ぶ。
「は? 何言ってんだ、てめーは!」
「いっつもそうじゃねえか、何ひとつ決められねー!あっちがいいかな、こっちがいいかな、やっぱこっちかな、右にも左にもいけなくてプルプルしてよ! カニのほうがよっぽど兄貴より頭いいじゃねえの? 右から左には動いてたんだろうからよ!」
いつもの仁がしかけてくる馬事雑言には慣れている。だが、どうも今回は違う。俺の身体は無意識に震えていた。明らかに俺自身が冷静さを失っていくのがわかった。
「うるせえ!」と俺は仁につかみかかる。
仁はひょいっとかわして机側によけた。
「逃げんな、タコ! 意気地なし、お前の負けだ!」
俺は勝利宣言を出した。どうだ。来るなら来やがれ。
しばらく、無意識にボコボコ殴りあっていた。途中からカニのハサミを持ち出してきたから、もう血だらけ傷だらけ。そして我に帰ったのは、仁の一言だった。
「俺の勝ちだな、兄貴」
「は?」
ボロボロの俺がハアハアと息を荒げていると、同じく傷だらけの仁が、勝ち誇ったように言った。意味がわからなくて、思わず眉を顰める。仁は、フンッと鼻を鳴らした。
「なんのために喧嘩してたか、忘れたのか?」
ハッとする。後ろにある仁の皿から最後のカニが消えていた。仁は、甲羅を開けて、カニ味噌を口一杯に仁は飲み込んだ。
「うはー、カニ味噌! 兄貴に勝ったから、余計美味かったぜ」
「てめえ返せ!」
喧嘩してる間に、なにか手を伸ばしているなと思ったら、そういうことだったのだ!
俺は仁にとびかかり、持っていたカニを鷲掴みにした。
「痛ぇ!」
甲羅のとげが食い込み、俺はのけぞって机にぶつかり倒れた。机から落ちた総菜とバラバラになったカニが床に飛び散った。
「二人ともいい加減にしな! 仁、みんなで分ければいいでしょ。猛も真っ赤になりすぎ! カニみたい」
それを聞いて仁がこらえきれず笑う。
「うるせえ! 二人とも俺をバカにしやがって! こんな家出てってやるよ!!」
俺は床に落ちたスマホや手拭きやらを無造作にポケットに詰め込んで玄関へと駆けていく。
廊下に出ただけで、むわっとした空気が俺を覆った。今日も熱帯夜だろう。早くエアコンの部屋に戻りたい。
やっぱり、部屋にいつも通り閉じこもったほうがいい?
一瞬そう思ったが、首を振って靴を履いた。ぐっと足に力をかけて、地面を蹴り上げる。そして家のドアを開け放ち、俺は、家から飛び出し自転車にまたがった。一気にスピードをつける。
家を出ても、走り続けた。地面を蹴って、スピードを上げて……。とにかく、負けたという事実から目を逸らし、無心になるよう心を砕いた。途中で小学生が並んで歩いていたが、俺の姿を見ると、さっと離れた。掃き掃除をするおじいさんも、猛スピードで駆けてくる俺を目にして、さりげなく後ずさった。
景色が、ぐんぐん後ろに流れて行く。最初は、よく見知った近所だったのが、だんだん、見たことのないものになり変わっていく。とうとう体力が切れて立ち止まった時には、もう俺は知らない町に来ていた。右を見ても左を見ても、見たことがあるものはない。夕焼け空さえも、なんだか違うように見えた。ここまで遠くに来ることができる足を持つことが誇らしい。けど、帰れないのは困るな……。そう考えてから、今帰っても仕方がないことを思い出した。
「なら、この町を見物して帰るか。」
そんな呑気なことを呟きながら、俺は、のんびりと歩き出した。血に塗れた俺の周りには、人がいなくなっていた。
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