夜霧の怪談短編集

夜霧の筆跡

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第十九話 記憶の中の彼女

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俺、いま同棲してる恋人がいるんだよね。
別に幸せ自慢とかじゃないよ。

いや、だってここ心霊体験を語る場でしょ?
俺の体験談が、その、恋人にまつわる話だからさ。





彼女と初めて出会ったのは、夜の山道だった。
スピードは出してなかったんだけどね、雨が降ってて視界も悪くて。

突然車の前に飛び出してきた彼女を避けきれなかった。
俺、彼女をはねちゃったんだよ。焦ったね。
生まれて初めて人身事故を起こしちゃったんだもんな。

とにかくすぐに救急車を呼んで……それから保険屋と警察にも連絡したんだったかな?
あん時は頭ん中真っ白になっちゃってて、あんまりよく覚えてないんだよな。

幸い俺があまりスピードを出してなかったのと、とっさにブレーキを踏めたんだと思う。
彼女は軽症ですんだんだ。

ただ……頭を打ったのかな?
すべての記憶を失ってたんだ。





記憶喪失って不思議だよな。
『言語』とか『生活に必要な最低限の常識』みたいなものは覚えてるんだよ。
何を忘れるかも人によってまちまちらしくて『ほんの一部の記憶』だけが消える人もいるんだとか。

彼女の場合、自分のことを何ひとつ名前すら思い出せない状態だったんだ。
身元を割り出せるような所持品もなく、警察の調べでも彼女の身元は判明しなかった。

事故にあってからしばらく入院してんだたから、家族からしたら『突然の失踪』になるわけでしょ。
でも、失踪届けのようなものは出てなかったみたいなんだよね。

打つ手なしってわけ。





法定速度は守ってたし、ドライブレコーダーの録画から彼女の飛び出しが証明できたおかげで、俺は罪に問われなかったんだけど……なんだか責任を感じちゃって。
俺、彼女の治療費を負担することはもちろん、退院後の身元引受人になることにしたんだよ。

男の一人暮らしのアパートに一緒に住まわせるなんて嫌がるかなって思ったけど、彼女は嫌な顔ひとつせず黙ってついてきてくれた。
「ひとまず準備が整うまではうちに泊まって。いずれ不自由なく一人暮らしができるようになるまで支援する」
って……そのつもりだったんだけど……

彼女は美人だし、俺は『責任感』だけじゃなくて多少の『好意』も抱いていたことは否定できない。
彼女の方はもしかしたら、記憶を失ってから入院中も退院後もずっと俺がそばにいたわけだから『刷り込み』のようなものかもしれないが……俺の気持ちに応えてくれた。





彼女の一人暮らしを支援する計画はいったん白紙に、俺たちは『同居』から『同棲』になった。

名前さえ覚えていなかった彼女は、仮に『あさ子』と呼ぶことにした。
俺たちが出会った事故が『夜』だったから、それを乗り越えた今を『夜明け』と解釈してのことだ。
正直俺はネーミングセンスには自信がないんだけど、彼女は気に入ってくれた。

で、彼女は名前すら仮のものだし、身分証明もなにもない状態では働くこともできないだろ?
まあもともと俺が彼女の生活のすべてに責任を持つつもりでいたし……

彼女が家事を、俺が外で働く、と自然に役割分担が決まっていった。





いっこうに記憶が戻る様子はなかったが、俺たちはそれなりに幸せに暮らしていた。

ただ、ひとつだけ気になることがあった。
あさ子は鏡を見ることを極端に嫌がるんだ。

ほとんど外に出ることもなく常にすっぴんで過ごしていたため、あまり不便を感じることもなさそうだった。
もともとすごい美人だから、ゴミ出しや近所へ買い物に行く程度ならメイクなんかしなくても問題ないんだ。

俺は毎朝ヒゲをそるし、たまに鼻毛を抜いたりもする。
だから洗面所には鏡がついてるし、卓上の小さな鏡も持ってるんだけど……

彼女が嫌がるので卓上の鏡はしまい込んだし、洗面所の鏡にはカーテンをつけて使う時以外は隠すようにした。
銀色の反射面さえ嫌がるので、食器や調理器具の材質にも気を使って、一部を買い直した。

俺は何よりあさ子が一番大切だったから、それくらいなんとも思わないけど……
そんな嫌がりようはさすがにおかしいでしょ。

(もしかしたら、そこに記憶を取り戻すカギがあるのかもしれない)

と思ったんだ。それに『鏡恐怖症』をいつまでもそのままにはしておけないだろう?
どこで顔が映るようなものに遭遇するかわからないんだから。

(こういう症状の相談って、精神科?心療内科?どこに行けばいいのかわからないけど……)

できることなら、なんとかしてあげたいと思っては、いた。
反面、もし記憶を取り戻すカギにつながってるのなら、不安もあった。

(あさ子の記憶が戻ったら、俺との生活を忘れてしまうのでは?)
(失った記憶の中に、俺よりも大切な男の存在があったら?)

と思うと、どうしてもあと一歩を踏み出すことができなかった。

(このままではいけない)

と思いつつも、何もできないまま日々が過ぎていった。





そんなある日、決定的なでき事が起きたんだ。

燃やせるゴミの日、あさ子はいつものようにゴミをまとめて収集所に捨てに行ったらしい。
そこは近所の奥さんたちのたまり場になってて、特にゴミの日はゴミ出しついでによく話し込んでるんだって。

その日の朝は、キレイ好きの奥さんが収集所を掃除してたんだ。
そういうことは業者がやってくれるんだけど、自分が納得するレベルまでキレイにしないと満足しない人ってたまにいるじゃん。
他人にも掃除を強要するわけでなし、自分で好きでやってることだからって誰も何も言わなかったんだよね。

で……その奥さんが使ってたチリトリがスチール製で、それも銀色の面がむき出しのものだったそうだ。
あさ子がカラスよけのネットをめくってゴミを出したところへ、奥さんがやってきた。
普通に世間話をするつもりだったらしいんだけど……

「ヒャアッ」

あさ子はそのチリトリに過剰な反応をしてしまったんだって。
奥さんはあさ子が鏡恐怖症だなんて知らないから「は?」ってなるでしょ。それで

『失礼な態度を取ってしまった』

って謝ろうとして、事情を話したんだ。
奥さんは事情を知って許してくれたけど、それはそうと言われてしまったそうだよ。

「あなた、それは異常よ。病院で診てもらいなさいな」

ってね。それはそう。記憶がない時点で正常ではないんだから。
奥さんも悪気があって言ったわけじゃない、よかれと思ってのことなんだろうけど。





『異常』って言葉にあさ子はひどく傷ついた。
俺の前では態度には出さなかったけど、もしかしたら『自分がまともではない』事を普段から気に病んでいたのかもしれない。

仕事から帰って、その話を涙ながらに聞かされた俺は、ついに決心したよ。

(記憶を取り戻すための手助けをする。
もしそれで俺と別れることになってもかまわない)

……いや、かまうよ、本音を言えば。かまわないわけないよ。
でも、あさ子がつらい思いをしていることが一番ダメだからさ。
自分のエゴのためにあさ子を縛り付けておく選択は違うでしょ。





決心したはいいけど、結局どこを受診すればいいのかはわからないままだった。

だから、まあ、もしかしたらあまりいいことではないのかもしれないけど……
俺はネットに頼ったんだよ。
医療系の質問ができる掲示板みたいなとこ、あるじゃん。

「記憶喪失の相談ってどこでできる?」

って聞いてみたんだ。
返答のほとんどがひやかしだったけど、一人だけ

「催眠療法は?」

って反応してくれた人がいてね、催眠療法士についていろいろ教えてくれたんだ。
ワラにもすがる思いで、教えてもらった連絡先に電話をかけて予約を入れたよ。





そして予約の日、俺はあさ子を車で診療所まで送っていった。

ああ、言い忘れてたけど彼女をはねてしまった車は手放したよ。
まあまあな凹みができてしまっていたし、縁起が悪いから所有し続けたくもないしね。
なので、当日はレンタカーだ。反射で映り込みしにくいボディカラーのを選んだよ。

あらかじめミラーをすべて布で覆った状態にしておいて、あさ子を乗せる。
シートに座ったらアイマスクをつけてもらって、その状態で運転するってわけ。





『逆行催眠では本人も思いもよらないプライベートな情報が出てくる可能性もあるから』

ってんで、俺は待合室で待たされる事になった。

こういうのは1回でうまくいくことは少なくて、回数を重ねる必要があるらしいね。

その日のあさ子も、事故の瞬間まではさかのぼれたんだけど……
ショックが大きかったようで、そこから先へは進めなかったらしい。

「本人の負担を考えて、今日はここまでにしましょう」

ってことになったよ。

それから何度も日をあらため直して、催眠療法は続いた。
そのたびに少しずつ記憶がよみがえっていくあさ子。





あるとき、療法士から俺に個人的に連絡があったんだ。

「本来ならば患者の個人的な情報を第三者に漏らすわけにはいかないのですが……
どうしても、ふに落ちないことがあります。
あなたが事故の当事者であるとお聞きしたので、無関係ではないと判断してお話ししたいのですが」

なんて言うんだ。

「彼女の記憶をさかのぼっていくと、事故の前の記憶が明らかに別人のものであるとしか思えないのです」

「え、どういうことですか?事故をきっかけに人格が変わってしまったと?」

俺は理解が追いつかないながらも自分なりの解釈で聞き返した。
すると返ってきた返答はもっととんでもないものだったんだ。

「いいえ、まったくの別の個人の記憶。私はそう判断しました」

最初は冗談かと思った。でも……

──事故に合う前の彼女の記憶は

「鏡を見るのが恐ろしいと思うほど容姿にコンプレックスを持っていた。
外に出て他人に顔を見られるのも怖かった。
いつもマスクを付けていた」

と。おかしいですよね。
彼女は客観的に、私の目から見てもかなりの美人だと思います。
マスクなんかつけずにあんなにも堂々としていらっしゃる──





俺は、彼女の鏡恐怖症については何一つ説明してないんだよ。

(もしかしたら失った記憶にカギが)

……なんて思っていたことは確かだ。でも

「ひとまずは記憶を取り戻すことに集中しよう。
恐怖症についてはいったん伏せておこう」

ってふたりで話し合ったんだ。
彼女だって話してはいないはずだ。

でもここで突然『鏡恐怖症に関係する』としか思えない事実が出てきて、俺は恐怖にも似た驚きを感じた。





「もしかして事故で顔にひどい傷を負って……
手術により顔が変わってしまったなんてことがあったのでしょうか?」

療法士がそう聞くので、俺は首を横に振った。

「いえ……頭を軽く打ちはしましたが、外傷は手足の擦り傷程度でした」

俺の返答に、療法士も頭を抱えてしまった。

「それでは……今後も逆行催眠を続けて、情報を引き出してみます。
また何か新しい情報があればお伝えします」





そして数週間後、次回のセッションの後また療法士から連絡が入った。

「最新の催眠で得られた情報ですが……これは御本人にはお伝えしていなくて……
迷ったのですが、彼氏さんにだけお伝えして判断を仰ぐのが良いかなと……」

歯切れの悪い療法士の口調に、俺は嫌な予感しかしなかった。
でも聞かないわけにはいかないだろう。

「なんでしょう?」

俺が尋ねると、療法士は恐る恐るといった感じで続けた。

「事故前の記憶から、彼女の本当の名前や住んでいた場所などを聞き出すことができました……
ただ……その名前、住所で調べたところ、彼女は事故よりもずっと前に亡くなっているんです。
自殺でした。
まさにあなたがたが事故を起こした山、その奥地で、首をつっているところを発見されています」

「そんなバカなことが!」

思わず声を荒らげてしまった。

「はい。私も信じられませんでした」

療法士は俺を落ち着かせるように肩に手を置き、そして一呼吸の後に静かに言った。

「仮に彼女が『自殺をした少女』のニュースを知っていたとします。
少女に同情した彼女が、自分の中に『少女』の心を作り出してしまう。
そうして『少女に救済がもたらされた』と思い込もうとしてしまう、そういうケースも考えられます」

それを聞いて、俺も少し落ち着きを取り戻した。

「次回はもっと深く催眠をかけてより詳しい話を聞き出す予定です。
本来ならばダメなんですけど……今回は特例ということで。
できれば、あなたにも催眠に立ち会っていただきたいのです」

療法士の言葉に、俺は二つ返事でOKを出した。
言われるまでもなく、いや、療法士から先に言われなければ俺から何が何でも「立ち会わせてくれ」って頼み込むつもりでいた。





そして次の予約の日。

彼女は深い催眠に落ちていった。
俺は療法士の質問にゆっくりと答えていく彼女を見守っていた。

その口からは驚きの事実が語られた。





──私は、死を選んでからというもの、どこに行くこともできず、山の中をずっとさまよっていました。
そしてそこで『彼女』を『見つけ』ました。
自分とは違う美しい顔を羨ましいと思いました。

(自分もあんな顔に生まれていれば死を選ぶこともなかったのに)

そう考えた瞬間『彼女』に吸い寄せられるように、すごい力で引っ張られたような押し込まれたような、そんな感覚があったんです。

気がつくと山道のわきに立っていた……
けど、頭痛がひどくて、めまいがひどくて、まるで『自分の体ではないような感じ』で、立っていられなくて。
ふらふらとよろめいて、たぶん車道の真ん中にまで出ちゃったんだと思います。

その瞬間、すごい衝撃を受けて意識を失いました。
次に目が覚めたときには病院のベッドの上でした。

そのときには、私は何も思い出せなくなっていた……
どうして忘れていたんだろう、私は──





彼女は、催眠にかかっている間に話したことを覚えていない。
後から療法士によって必要な情報を知らされるかたちになる。

だけど、このことは療法士と俺のふたりだけの秘密になってしまった。
だって、彼女にこんな事を話せるわけがないじゃん。

そうそう、記憶を取り戻すための逆行催眠は止めることにしたんだ。
今は治療方針を変え『鏡に対する恐怖心を忘れる』催眠療法に力を注いでもらってるよ。





彼女の『体』の本来の持ち主はどうなったのか……
もしそれが目覚めてしまったら、今『あさ子』として俺と付き合っている彼女はどうなってしまうのか……

俺はずっとそれを恐れながら、今もあさ子と暮らし続けてるんだ。
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