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第三十二話 隣人の影
しおりを挟む僕の話は、結婚してすぐの頃に一念発起して買ったマイホームでの出来事です。
その新興住宅地は、近所付き合いはあまり盛んではありませんでした。
ですから、周囲にどんな人が住んでいるかなんてまったく知らなかったんです。
僕ら夫婦のための家ですからね『妻以外には興味ない』なんて思っていました。
まさかそのスタンスがあんな事態を招くことになるなんて……。
引っ越してから数日経ったある日のこと。
僕は仕事を終え帰宅しました。
「ただいま」
いつものようにそう言いながら家のドアを開けると……真っ暗でした。
妻は先に帰ってきているはずなのにと思いました。
(どうしたんだろう?)
不思議に思いながらも廊下の電気をつけてリビングへと向かいましたが…… そこには誰もいません。
キッチンにもトイレにも洗面所にも風呂場にも寝室にもベランダにも彼女の姿はなかったのです。
(どこにいったんだ?)
不安になりつつも彼女はきっと買い物に行っただけだと思い直しました。
「そのうち帰ってくるかな……」
それから数時間待っても彼女は戻ってこなかったのです。
僕は嫌な予感を覚え始めていました。
(何か事件に巻き込まれたんじゃないか?)
警察に捜索願を出すか考え始めたところで、スマホが鳴り響きました。
それは妻からの着信でした。
ホッとすると同時に『まずスマホで連絡を取ってみる』という、最初にやるべきことを失念していた自分にあきれてしまいましたよ。
すぐに電話に出ました。
「あなた、今どこ? 家にいるの?」
「いるよ。そっちこそどこに行っているんだよ、心配しt」
そう言い終わらないうちに、妻が言葉を被せてきました。
「迎えに来て、近所の公園にいるの」
(どうしたっていうんだ? 小さな子供じゃあるまいし……)
不思議に思いながらも、すぐに公園に向かいました。
辺りはすでに暗くなっていたのに、妻はひとりブランコに腰掛けて僕を待っていました。
「こんな時間にひとりで危な……」
そう言いかけて口をつぐみました。
妻の顔は真っ青で、小さく震えていました。
「私、見たの……」
妻は消え入りそうな声でつぶやくように語り出しました。
「隣の家の庭に、なにか不気味なものがいたの」
それは黒くて腕が妙に長くて目がギョロリとした、『ヒトガタだけどヒトではないナニカ』だったそうです。
その『ナニカ』と目が合ってしまい、怖くなって家を飛び出したのだとか。
「きっと野良猫かなにかと見間違いたんだよ。
よくネットとかでふざけて『猫は液体だ』って言うじゃない。
僕ら人間には思いもよらない形態になることもあるさ」
そう妻をなだめて、帰路につきました。
隣の家の前を通るとき妻がひどくおびえるので、僕は先に歩いて庭を確認しました。
ですが、やはり何もいないんですよ。
(きっと妻の見間違いに違いない)
その時には本気でそう思っていました。
「ほら、何もいない」
僕が確認結果を報告すれば、やっと安心したように妻は家に帰り着くことができました。
ですが、それから数日、妻がみるみるまに元気がなくなっていくのがわかりました。
どうしたのか訪ねても「なんでもない」の一点張り。
(まあ、まだ引っ越したばかりで新しい環境になじめないということもあるのかな)
なんて思って、本人が語りたがらないならあまり深追いはしないでおこうと思いました。
でも、ついに妻が寝込んでしまったんです。
高熱で起き上がることもできないので、妻に代わってパート先に休む旨の連絡を入れました。
すると、パート先の店長から驚くべき事実を聞かされたのです。
「奥さん、ずっと『帰るのが怖い、隣の家が怖い』って怯えてるんだよ。
あなたちゃんと話聞いてあげてる?
夜も眠れないって言ってたから、心労がたたったんじゃないかなあ。
こっちは大丈夫だから、ゆっくり休んでって伝えて。お大事に」
(あの日だけではなかった。
妻はずっと隣にいる『ナニカ』に怯え続けて、それで衰弱してしまっていた。
それなのに、僕が最初に「猫だろう」「見間違いだ」なんて決めつけてしまったばかりに……
きっと僕に話しても『信じてもらえない、理解してもらえない』
そう考えて、相談できなかったんだ)
そんな妻をひとり置いて仕事に行くことはできませんでした。
僕の職場にも連絡を入れて、休むことにしたんです。
「妻が熱を出したので」なんて言えませんから、仮病を使いました。
看病といってもそんなにやることは多くはありません。
僕はほとんどの時間を家事をして過ごしました。
そして、リビングの掃除をしていたときのことです。
ベランダの窓の方から視線を感じ、そちらに目をやると……
いたんです、妻が話していた『ナニカ』が。
確かにあれは、猫ではないし、他の何の見間違いでもない。
庭で洗濯物を取り込んでいる女性の後ろから覆いかぶさるようにしてそこにいました。
女性は意に介さない様子ですから、見えていないのかもしれません。
じっと見ていると頭がおかしくなりそうでした。
時刻はちょうど妻がパートから帰宅して家事をこなしている頃。
普段の僕なら、まだ帰宅していないはずの時間帯です。
きっと妻だけがあれを目撃し続けていたのでしょう。
僕は急いでカーテンを引き、妻の元へ急ぎました。
「僕も見た! ごめん、今まで気付いてあげられなくて……」
「ううん、私も黙っていてごめんなさい。
一度決着したはずの話を蒸し返して、あなたに面倒な女だって思われたくなくて……」
妻は体を起こして言いました。
「半日休んで少し楽になったみたい。
家事もしてくれて、ありがとうね」
僕はもう少し休むように妻を寝かそうとしましたが、隣にアレがいると思うと寝付けるはずもありません。
少し思い直して、妻が起き上がり着替えるのを手伝いました。
「少し動けるなら、病院へ行こう。
もしかしたら何かの病気かもしれないし、それに……」
そっと妻に近付き、声をひそめて耳打ちしました。
「外のほうが安心できるだろ」
連れ立って近くの内科に行き、診察を受けました。
妻は診断の結果『極度のストレスによる発熱』であると診断され、解熱剤のみを処方されました。
なんとなく、まっすぐ家に帰る気にはなれませんでした。
近くのファミレスに寄って、夕飯をとることにしたんです。
そこであらためて、アレについて話し合いました。
すぐ隣の庭にいると思うと、家で話し合うのもはばかられたので、ちょうどよかったんです。
「あの黒い人影、君は毎日見てたの?」
「実際出るのは時々なんだけど、いつ出るのかわからなくて毎日怯えてた……
いつもあれくらいの時間に出るから、あなたにはわからないだろうし、言えなくて……」
そう言う妻の目には涙が浮かんでいました。
「う、ごめん……」
「ううん、見たことないもの信じろってほうが無理だもん、仕方ない」
妻は笑ってそう言うんですよ。
笑っていられる状況じゃないはずなのに…… そのけなげさに、僕のほうが泣けてきます。
そんなことを言い合っていて、ふと疑問が浮かびました。
「隣の家の人、自分の庭にあんなものが出て平気なのかな?」
「いつも目の前にいてもまるで見えていない様子だから、気付いてないんだろうね……」
そうこう言っているうちに注文したメニューが届きました。
あまり混み合わないファミレスなのをいいことに、夕飯を済ませてもずっと話し続け、そこで夜を明かしました。
僕が帰宅する時間帯にはもうアレはいないとわかってはいても、なんとなく不気味で……
夜間に家に近寄る気にはなれなかったんです。
夜が明けてから帰宅し、簡単にシャワーを浴びてすぐ寝床に潜り込みました。
さすがに連続で仮病を使うわけにはいかないので、数時間だけでも睡眠を取っておこうと思いまして。
そんな寝不足の状態で出勤をすると上司に心配されました。
「お前、ひどいクマだぞ。まだ体調が戻ってないんじゃないか!?
今日はもういいからあがれ。病院寄って帰って休め」
(昨日は仮病だったんだけど……)
僕は少し罪悪感を抱きながら、お言葉に甘えて半休の手続きをして会社を後にしました。
病院に行くよう勧められましたが、ただの寝不足である僕に必要はありません。
かわりに僕が向かったのは神社でした。
「すみません、予約とかしてないんですけど、相談に乗ってもらえますか?」
そう言って飛び込んだのですが、親身に対応してもらえました。
神主さんに話を聞いてもらって、僕と妻の二人分のお守りと、隣の家に向いているベランダに貼るお札、そして魔除けの置物を購入しました。
置物は隣の家の敷地に置けば、お祓いをするほど確実ではありませんが、それなりの効果が期待できるそうです。
やはり『お祓いはアレが出る隣の家の人自身から依頼がなければ動くことができない』とのことで、そのかわりに勧められました。
これを『プレゼント』としてお隣に贈って、家に飾ってもらうのです。
いえ、飾ってもらえなくたって、しまい込まれたとしても、家の敷地内に置いてさえあればいいのです。
解決の糸口が見えたようで、僕は少しウキウキしながら帰宅しました。
神社にはさすがにラッピング用品は準備されてませんでしたからね、購入した置物を妻にキレイに包んでもらいました。
それを持って妻とともに、隣を訪ねたんです。
『少し遅れたけど引っ越しのあいさつ』『今後ともよろしく』ということにして。
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われわれは正当な仕事をしています」
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