ビターシロップ

ゆりすみれ

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“神様の気まぐれ”

5-2 代わってやれたらよかったな

 味の記憶は、てのひらですくった砂浜の砂が指の隙間からさらさらとこぼれ落ちていくように、止め処なく失くなっていった。

 フォーク発症直後にはまだ覚えていた複雑で繊細な味も、今となってはもううまく思い出せない。たった数ヵ月でこのざまだ、数年後にはきっと本当に全部忘れてしまう。そしてそれはもう、取り戻すことは一生ない。

 まだ寒さはとどまっていたが、季節は少しずつ春に向かっていた。ちょうど年度末の区切りの時期ということもあり、求人はいつもより豊富だった。琉架が傷をつけられて帰ってきた日から和唯は真面目に情報誌やネットで求人を探し、いくつか検討もしていたが、いざ再就職となると本当にこれでいいのかと過去の自分が醜く訴えかけてくる。琉架に好きだと言えるまともな男になるために早く社会に適合したい自分と、人生の半分以上を捧げた料理の道をあきらめきれない自分が、和唯の内側でまだ激しくぶつかり続けている。

 どこまでやれるかをまた急に試したくなって、陽が落ちかけている夕方から、和唯はふと気まぐれに調理を始めた。【sugar plumシュガープラム】で提案しようと思っていた新メニューだったが、提案することなく去ってしまったので和唯しか知らない。琉架のマンションの小さなキッチンで二人分の食事を細々と作っているだけの毎日なので、腕はうに鈍っていた。設備も、器具も、技術も足りない。足りないものだらけの中で、頭に思い浮かべていたレシピをなんとかたどっていく。いつも実習室や厨房でしていたようにB5ノートを広げて、気になったことを次々と書き留めていく。琉架のマンションに居候するときに持ってきた少ない荷物の中に、専門時代からずっと書き溜めてきた何冊ものB5ノートはちゃんと入っていた。ノートは和唯にとって宝物だった。フォークになっても、大切な大切な宝物だった。

「……盛り付け、センスないな」

 一応完成させた料理に、和唯はひとりごとをつぶやく。できた試作品は、ここに転がり込んですぐの頃、琉架にホームセンターで買ってもらった白のシンプルな皿にのせた。盛り付けに納得がいかなくて、こういうとき藤岡だったらさらっといい感じに仕上げるんだろうなと、優秀だった友人が頭に浮かぶ。

 ……夢が、あったのに。

 和唯はフォークを取り出し、料理を口に運んだ。なんの味もしない。当たり前だ。

 自分が考えた誰も知らないメニューなのに、作った自分が味わってやれない。これでは完成させてあげられない。責任放棄の、ひどいコックだ。

 何をやっているのだろうと、和唯は虚しくなった。こんなことをしても、なんの意味もないのに。この料理をレストランで披露して、誰かを喜ばせる日など永遠に来ないのに。

「……クソッ」

 悔しさが溢れて思わず声が出た。なんで俺がこんな目に。なんで俺がフォークなんかに。

 誰を、何を、責めたらいいのかわからない。天罰だとしたら、せめて違う何かを奪ってほしかった。他のものなら迷わず差し出すから、いちばん大事にしていたものだけは奪ってほしくなかった。

「……なんでだよ!」

 やり場のない怒りに、和唯は握った拳で思いきりカウンターを叩いた。叩いた衝撃で皿が動き、キッチンカウンターから落ちる。

「あっ……」

 慌てて手を伸ばすが間に合わず、試作品をのせた皿は料理ごとフローリングに落ちた。皿は割れ、料理も床に散乱した。琉架に買ってもらった皿が、綺麗に真っ二つに割れている。……大事にしていた皿だったのに。

「……なんなんだよ……もう、なんで……!」

 皿を割ってしまい、自分への苛立ちが沸点に達した。カウンターに置いていたボウルやバットやスパチュラなどの器具を、腕でなぎ払うようにして勢いよく全部床に落とす。乱暴な腕に巻き込まれたノートも一緒に落下する。宝物のノートに、床にこぼれたソースがゆっくりと染みていく。キッチンの床で、全部がひっくり返ってぐちゃぐちゃになる。

 こんなはずじゃなかった。夢があった。藤岡と叶えたい夢があった。藤岡におれたちならやれるよと言われて、和唯も本当は同じ気持ちだった。藤岡とならやれると思った。
 藤岡がいちばん欲しかったものをもう持っていない俺は、もうどうしたって藤岡の力にはなれない──。

 ぐちゃぐちゃになった床に座り込み、和唯は頭を抱えてうずくまった。





 どれくらいそうしていたか、わからない。いつの間にかすっかり陽は落ちて夜になっていた。そのまま床で少し眠ってしまっていたようで、うずくまったままだったからだがしびれて重い。とりあえずリビングのカーテンを閉めなくてはと固まったからだをゆっくりと起こそうとしたとき、

「……かず、い……?」

 と、少し離れた頭上の方から琉架の怯えた声がした。

 しまった、今日の琉架は休日で、午後はジムに行くと言っていたのを和唯は今思い出す。琉架が帰ってくる前に綺麗に片付けようと思っていたのに、とんでもない惨状をいちばん見られたくない人に見られてしまった。

「和唯!? どうした!?」

 めちゃくちゃなキッチンと、床でうずくまっている和唯を見て、ジム帰りのラフな格好の琉架が血相を変えて駆け寄ってくる。和唯の前に来て、目線を合わせるために琉架も床にしゃがんだ。

「大丈夫か!?」

「……ごめんなさい、すぐ、片付けます」

 心配そうに顔をのぞき込んでくる琉架の目を直視できるはずもなく、和唯は琉架の視線を避けて立ち上がろうとした。その腕を強く掴んで引き止めて、琉架は和唯をフローリングに引き戻す。

「片付けなんてどうでもいい。……何があった?」

 とても正常な精神状態だとは思えず、琉架が少し険しい表情で和唯を見つめた。その表情に観念して、和唯はまた床に沈み、琉架に叱られる覚悟で思いつく限りの言葉をでたらめに紡ぐ。

「……ごめんなさい……味がしなくて……俺もう何もできなくて……なんで俺がこんな目にって……昔のこと思い出して……夢叶えられなくなって……悔しくて……」

 支離滅裂な和唯に、琉架は険しい表情をすっと手放した。フォークの絶望をまた心に返してしまったのだとすぐに理解し、琉架はいつものようにほがらかに笑む。常にまとわりついている絶望を和唯はいつもうまく隠して上手に生きているが、時々はこうやって抑えきれずに溢れてしまうのだろうと、琉架はこんな風にぐちゃぐちゃになって弱る和唯も全部受け入れてやりたいと願う。

「大丈夫だから、心につっかえてるもの、ゆっくり話してみな?」

 話はきっと長くなるだろうと、しゃがんでいた琉架は和唯の前に腰を下ろした。

「……話、なんて……」

「オレの家めちゃくちゃにしたんだから、ちゃんとオレが納得する言い訳しろよ、な?」

 すべてを許すような瞳をする琉架に甘えて、和唯はうつむいてぽつりぽつりと話し始める。子供の頃のこと、専門学校時代、就職してからのこと、藤岡のこと、いつか藤岡の夢に関わりたかったこと。

 すべて吐き出した和唯の口が止まると、琉架はひどくやさしい目を和唯に向けた。

「……おまえ、そいつのこと好きだったんだな」

「す、き……?」

 あまりの衝撃に和唯の時が止まった。顔を上げてわかりやすく目を丸くし、驚きすぎて、俺が好きなのは琉架さんだよと思わず口に出しそうになってしまう。

 まったくそんなつもりはなかった。自分にも、藤岡にも、時々それぞれに恋人はいたし、そういう目で見たことはないはずだった。けれど今初めて琉架に言われて、あぁそうだったのかもしれないと、今までくすぶっていたような妙な気持ちにふと合点がいく。

 藤岡の強さに憧れて、とても尊敬していた。藤岡は聖域で、絶対に手を出してはいけないと、無意識に淡い想いに蓋をしていたのかもしれない。絶対にそういう想いを抱いてはいけない、絶対にそういう関係にはなりたくなかった、そうやって大切にしたかった唯一無二の友人。

「あぁ、そうか……そうだったのかもしれませんね、今ではもうよくわからないですけど」

 真実はもうあやふやだった。正しいともまちがっているとも言い切れない。それでも今夢中になっている男が目の前にいるのはまちがえようがなく、和唯は琉架を見つめて頼りなく苦笑する。

「俺は、本当に、全部なくしたんですね」

 恋も、仕事も、味覚も、夢も。

 和唯が弱々しくもほんのりと恋を認めて、自分が言い出したくせに琉架は強く心が痛むのを感じた。大切なやつ、そりゃあいるよな……と、自分が絶対に入る隙のないような和唯とその同僚との絆に苦しくなる。無意識に好き“だった”と指摘してしまったが、本当は今も好きなのかもしれない。勝ち目なくて詰みそう……と、琉架も頼りなく苦く笑う。

 ふと近くにノートが落ちているのに気づき、琉架がなんだろうと手に取った。こぼれたソースで汚れていたところをクロスで丁寧に拭いてやり、乾いたことを確認して、ぱらぱらと中をめくる。

「……すげぇな、おまえ。オレが思いつきで専属コックになってよって頼むレベルじゃなかったわ」

 ものすごい量の書き込みに琉架は圧倒された。これを少し見ただけで、和唯がどれほど妥協せずに努力を続けてきたかわかる。わかるなどという言葉を使うのもおこがましいと、琉架は思った。中学もろくに行けず学びに対して劣等感しかない自分には、和唯の苦悩に寄り添うことなど一生できないような気がして急に弱気になる。

「……なんで、和唯だったんだろうな」

 ノートを眺めながら、琉架がつぶやいた。こんなに、こんなに、頑張っていたのに。

「神様の気まぐれで和唯をフォークにしたんだとしたら、オレは神様ぶっ飛ばしたい」

「乱暴者ですね、琉架さんは」

 和唯が小さく笑う。

「……オレが代わってやれたらよかったな」

「!?」

「オレ、グルメでもなんでもないしさ、……まぁ和唯の飯の味しなくなるのは寂しいけど、こんなのいくらでも代わってやれるのに。おまえみたいな、料理で人を笑顔にする才能のあるやつが持ってた方がいいのにな、味覚」

 琉架は笑って、和唯にそう言ってやった。

 ケーキがフォークを発症することはないし、そもそも代わる代わらないの問題ではないのに、琉架は大切なものをいとも簡単に差し出そうとする。冗談でもそのやさしさに想いがあふれて、和唯の瞳は勝手に潤んだ。

「そんなこと、言わないで……俺のごはん、おいしく味わって食べてください……」

「……あぁ、そうだよな、ごめん」

 和唯の潤んだ瞳は反則だと琉架は思う。思い返せば道で拾ったあの雪の夜、ぼろぼろ泣いていた和唯の瞳が美しくて、思わず親指を伸ばして涙を拭った。いつの間にか、味のない世界が心細くて唾液ばかりねだるこの男を、どうにかして救ってやりたいと思うようになった。思いつきや気まぐれでここに和唯を置いたように思い込んでいたが、本当はきっと、あの瞳に出会ったときから、もうずっと──。

 琉架は座ったまま、和唯をそっと抱きしめた。

「!」 

 抱きしめられた和唯が硬直する。背中に回された手が、やさしくて熱い。

「……琉架、さん……?」

「……悔しかったよな」

 どうにもうまくいかない人生があることを、琉架も知っていた。こんな人生じゃなかったはずだと、何度も立ち止まりそうになった。悔しい思いをバネに強く生きていこうなんて綺麗事は、悔しさを知っている自分には、言えない。

「和唯……キス、していい?」

 手は和唯の背中に残したまま、少しからだを離した琉架が和唯の顔を見てそう訊いた。

「……どう、して……?」

 琉架がキスをする理由が見当たらず、和唯が狼狽ろうばいする。

「オレは、これしか、おまえを慰める方法が思いつかない」

 フォークが欲しいものを、与えてやることでしか。

「……っ」

「おまえは、そんなのもう求めてないかもしれないけど、……これしか、知らな、……んっ……」

 言い終わる前に、和唯が噛みつくように琉架にくちづけた。

「……っ、……ん……」

「求めてないわけ、ないです……」

 指先だけと言ったあの夜から和唯は唾液を求めなかったので、少し久しぶりのキスだった。互いに余裕なく舌を絡ませ、すぐに息が上がる。しばらく唾液のやり取りをしていなかった期間を取り戻すような激しいくちづけに、琉架も和唯も歯止めが利かない。琉架が唾液を溜めて、和唯の口の中に流し込む。

「ほら、あまいのやるから……いつもみたいにさ、生意気な口で、オレのことからかえよ」

 わざとたくさん流し込まれるあまいあまい唾液に、久しぶりに濃い体液を大量に摂取した和唯は、飛びそうになる理性と必死で闘った。あまさの暴力ででたらめに殴られる。脳が溶けそうだった。

「同情ですか……? ずるいです、俺が拒否れないのわかって、こんな……」

 バグらせた距離を正常に戻すために琉架に触れていなかったのに、一瞬で簡単に引き戻されてしまう。またバグったと、呆然とする。

「全部オレの独り善がりだから気にすんな。……オレがこうしたいって思っただけ」

 お人好し過ぎると和唯は呆れ、それでももう琉架の口唇から離れられる気はしなかった。

「……お皿割っちゃいました、ごめんなさい。琉架さんに買ってもらったの、大事にしてたのに……」

「いいよ別に。また買いに行けばいいだろ」

 また、を約束してくれるのか、この人は。最初いつまでいるかわからないからと、買うのをためらった皿だった。それでも琉架は迷わずカートに入れてくれて、割ってもまた買いに行こうと言ってくれる。いつも、少し先の未来をくれる。ここにいてもいいと言ってくれる。

 ──好きだ。琉架さんが、好き。

「……俺、覚えてる味もどんどん忘れていってるんです。このままだと数年後には本当にすべての味を忘れるんじゃないかって、怖くて」

「……」

「……いつか、この家を出たら、琉架さんの味も忘れてしまうのかなって思ったら、……っ、寂しくて、怖くて……」

 そんなの怖くて狂いそうになると、和唯が目を伏せる。

「……っ」

 離れた口唇を追って、今度は琉架の方からくちづけた。

 ──出ていくなんて言うな、忘れるなんて言うな。

「……ンっ、……んっ……」

「……琉架、さん、」

 せつなげに名を呼ぶ和唯に、琉架が訊いた。

「……ベッド、行く?」

「!?」

 和唯がその美しい瞳を震わせて、琉架に問う。

「……こんな、何もできない、からっぽの俺が、……またあなたに触れて、いいんですか……?」

 触れる権利も資格もないような気がしていた。まだ何もできていない。今日は夕飯の支度さえできていないのにと、対価をもらえないはずの和唯が戸惑う。

「最初にオレが言ったんだよ……好きなだけ舐めていいって。そういう約束だった」

 約束やルール、ケーキとフォークの関係に理由をつけて、琉架は和唯をあまい餌で縛る。縛って、与え続けて、和唯がどこにも行かないようにここに閉じ込める。

 あまいオレだけが、和唯を癒せる──。

「……抱いていいの?」

「ん、いいよ……」

 和唯は琉架を強く抱き寄せて、琉架の左耳に口唇を寄せた。

「琉架さん、……可哀想な俺を、慰めてよ」

 同情でいいと和唯は思った。同情でもなんでも、何かしらの情があるなら幸せだった。

 全部なくした可哀想な俺を、あなたのあまいので、慰めて──。
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