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“真昼の悪夢”
6-2 食ってくれる?
「なんて顔してんだよ、死んでねぇだろ」
どっちが死にそうになってんだと、和唯のひどく青ざめた顔色を見て琉架が小さく笑った。目は覚めたようだが聞かせてくれる声はいつもより弱々しく、少し掠れている。
「……死んだら困ります」
やっと聞けた声に心底胸を撫で下ろし、和唯は気を抜けば落としてしまいそうな涙を必死に塞き止めながら、琉架と至近距離で目を合わせた。髪に触れてくれていた琉架の手をそっと取り、両手で大事に包み込むようにしてぎゅっと握る。琉架の指が変わらずちゃんとあたたかくて、和唯はまた泣きそうになった。
「なんでおまえが困んの? オレが死んだら、住むとこなくなるから?」
琉架がふふっと楽しそうに笑って訊く。
「……そんな、の……」
「オレが死んだら、最上級ランクのケーキが食えなくなるから?」
「……っ、なんでそんな意地悪な訊き方するんですか……」
わざと試すような問いを重ねる琉架に、せっかく落ち着きを取り戻しつつある和唯がまた顔を歪ませる。
「そんな理由なわけないじゃないですか……俺は、本当に……っ、……琉架さんがっ……」
答え方に困っている和唯を見て、琉架がいたずらっ子のように微笑んだ。
「ははっ、いつもの仕返し。いつもおまえにからかわれてばっかだから、たまにはいいだろ?」
「こんなときに仕返しするなんて、琉架さんの神経どうなってんですか……」
きっとあまりにもひどい顔をしていたから、琉架が気を遣って冗談のようにしてくれたのだろうと和唯は思った。軽口を叩けるほどに平気だと伝えたかったのかもしれない。おかげで病室に停滞していた和唯の重苦しい空気が弾け、一気に琉架の軽やかなペースになる。いつもの二人になれた気がして、和唯は今度こそ深くたっぷりと息が吸えた。
「おまえ、怪我ない?」
「かすり傷もないです。俺はなんともないです」
「よかった……。悪かったな、オレのことで、迷惑かけて」
琉架が申し訳なさそうに言うと、和唯は全力で首を横に振って否定した。琉架が謝る必要など何ひとつないと、強い瞳で訴える。
「桜見ながらビール飲もうとしてただけなのに、とんだ大惨事になったな」
「……はい」
和唯も世界の美しさに感謝していた矢先の出来事だったので、浮かれていた自分を思い出すとつらくなる。
「襲われるのはいつも夜道の背後からって勝手に思い込んでたからなー、夜は毎日ちゃんと警戒してたのに……まさか明るいうちに知り合いに正面突破されるとは。……あぁ、あの人、客なんだけど」
琉架が失敗したなと軽く苦笑した。中学の頃に既婚者変態フォークに襲われたのを皮切りに今までもいろいろ危ない目には遭ってきたが、いつも夜の深い時間の、比較的人が暴走しやすいときばかりだったので日中はつい油断してしまった。本当は、普段外で会うはずのないシンがあのコンビニの前にいた時点でもっと警戒すべきだったのに、あまりにも自然に声を掛けられたのであっさりとシンの前に駆け寄ってしまった。きっとコンビニのあとで和唯と公園に寄ることに気を取られていたのだと、おそらくだらしない上機嫌な顔でシンに近づいてしまった自分を思うと琉架は情けなくて仕方ない。
「……俺が洗い物なんて後回しにして、一緒に、コンビニに行ってれば……」
琉架の手を包む和唯の両の手が少し強張った。震えるのを隠そうとしてそうなったのだと和唯は気づく。
何故ひとりで先に行かせてしまったのだろうと、琉架が傷の処置を受けている間も、病室で眠っている間も、その後悔だけがずっと陰湿にまとわりついて和唯を強く苦しめていた。避けられたはずの事件だったのに。自分の判断が琉架をひどい目に遭わせてしまったことに、和唯は本当はまだ呆然としていた。
「……バカ。待ち伏せされてたっぽいから意味ねぇよ。オレがひとりのときを狙ってただろうから、おまえがついてきてたら今日は一旦引き返しただろうけど、また別の日に改めて狙われたと思う」
あの人血への執着すごいからと、琉架があきらめたように言った。これがケーキの宿命だと受け入れているような琉架が、暴走するフォークすらも受け入れてしまっているような琉架が、和唯はやはりまだ悲しい。
「じゃあ、毎日、一緒にいます……あなたが絶対にひとりにならないように、ずっと、一緒に……」
「おまえはホント……いっつも大袈裟だな。VIPのボディーガードかよ」
「だって、俺のせ……」
「おまえがいてくれたから助かったんだよ」
自分の過失だと思い込んで己を責める和唯に、琉架の声が強く重なった。
「え……」
「ひとりのときに狙われてたらきっともっと刺されて、発見されんのも遅れて、マジで死んでたかも。おまえがいてくれてよかった。だから、ありがとな」
「……っ」
失敗ばかりのフォークにも、いてくれてよかったと屈託なく琉架は笑いかける。
「いられて、本当によかったです。……琉架さんひとりのときじゃなくて、本当によかった……」
和唯は小さな声でそう返すのが精一杯だった。自分があの場に駆けつけられなかった仮定を一瞬だけ想像し、発狂しそうになるその恐怖に慌てて蓋をする。一箇所刺されただけであの血の量だ、本当に発見が遅れていたらと思うと、また激しい動悸と冷や汗が舞い戻ってくる。目の前で横たわり微笑む琉架を、奇跡だと思った。
「あの、……」
「ん?」
言いづらそうに和唯が重い口を開く。
「……血、売るのやめたって……」
狂乱していたシンの言葉をそのまま信じていいのかわからず、和唯が不安そうに訊いた。
「あの人、そんなことまで言ってた?」
途中で気を失ってしまいその辺りの記憶はない琉架が、少しばつの悪そうな顔をして和唯を見る。
「……っ、それって、……あのとき俺が、余計なことをいろいろ言ったからですか……?」
琉架が首筋に大きな傷をつけられて帰ってきた夜、自分のあまりの無力さと愚かさに苛立ち、感情任せに放ってしまった言葉の数々を和唯は思い出す。
『……俺は、あなたを大事にしたいのに……』
『なんで、こんな……琉架さんが痛い目に合うの、俺、嫌です……』
『……どうすれば、琉架さんがこれ以上傷つけられずに済みますか……?』
口を出す権利などないのに勝手に怒りを募らせ、だからこそ口を出す権利が欲しくて自分を変えたいと願ったあの夜。
あの夜の不躾な態度が琉架を困らせて、その結果が今日の悪夢のような出来事に繋がってしまったのだとしたら、和唯はもうどんな顔で琉架を見たらいいのかわからなかった。バランス良くうまく回っていた歯車を、むやみに押しつけた醜い感情のせいで壊してしまったかもしれなくて、和唯は怯える。その結果客を暴走させ、本来流さなくてもよかったはずの血を、琉架にたくさん流させてしまった。
「……確かに、きっかけはおまえの言葉だったかもな」
傷ついたあの夜を琉架も思い出して、軽く目を伏せる。あの日琉架にとって傷がついた場所は、シンにやられた首筋ではなく、和唯に拒絶されたと思い込んだ心の奥だった。
「おまえにさ、大事にしたいって言われて……あのときはなんで和唯がそんなこと言うのかわかんなかったけど、……もし逆の立場だったら、オレもおまえに同じこと言って怒るわ……って気づいて」
たまたま出会っただけのケーキとフォークだとしても、たまたま一緒に住むことになった同居人だとしても、身近な人が傷つけられて平気でいられるような人間ではいたくないと琉架は思った。恋愛感情抜きに考えても、自分もきっとそうやって和唯を叱るはずだと。きっと和唯にもそういう気持ちがあったのだと。
「オレさ、おまえに言われるまで、痛い思いして血売ることに対して、ホントになんの感情もなくて。そういう仕事だって割り切ってるし、オレが痛いの我慢すればいいだけって思ってた。金と引き換えについた傷なら仕方ねぇって……実はあの日よりももっとひどく傷つけられたことも過去にはあったんだけど、そういうのも全部、いつかは治るし別にどうでもいいって思ってた」
今まで出会ってきた親密になった男たちにも心配されたことはなかった。これがケーキの定めだと、いつも軽く見られていた。あんなに顔を歪ませて悲しむように怒ってくれたのは、和唯だけだった。
「けど、まず自分が自分のこと大事にしなきゃ、誰がオレのこと大事にすんだよって思って。自分のこと大事にしねぇやつ、他人から大事にされるわけねぇよなって」
こんなケーキでも、気にかけて痛みを悲しんでくれる人がいることに驚いた。あの夜和唯に大事にしたいと言われてうれしかった。その思いを無下にはしたくなかった。
「おまえが大事にしたいって言ってくれたオレを、オレも大事にしたいって思った。……和唯がオレを変えたんだよ」
「!?」
失敗をしでかしたと悔いていたことに思いがけない言葉をもらって、和唯が言葉に詰まる。
「ま、オレが血売るのやめたのは、そういうことだから。あの人に何吹き込まれたか知らねぇけど、オレはこの選択まちがってねぇって思ってるし」
この決断を、琉架は誰にも文句を言わせなかった。それでシンのような過激な客に逆上されたとしても、それはもう琉架の知ったことではない。
「……はい、俺も、まちがってないと思います」
声が変に揺らいだ気がした。琉架がそう思ってくれるようになっただけで、和唯はもう充分に思えた。
「もー、またおまえヘンな顔になってる。……ってか、いつまで手握ってんの」
種明かしを終えて誇らしげな琉架が、いつまでも自分の手を強く握りしめている和唯をからかう。和唯の手の甲が赤く腫れていることに今さら気づき、琉架は握られていない方の手を伸ばした。そっと、腫れた部分をやさしく撫でる。
「なんともなくねぇじゃん……怪我してる」
「あぁ……こんなの、怪我のうちに入りませんよ」
本当にこんな些細なことは忘れていて、和唯は軽く笑った。
「……おまえが必死に助けてくれたんだよな」
和唯が自分の名を叫びシンを引き剥がしてくれたことは覚えていて、不意に琉架の瞳の奥はじわっと熱くなった。琉架も本当はあのとき、このまま死ぬんじゃないかと怖くてたまらなかった。和唯が来てくれて、ヒーローかと思った。
「……、おまえ、人殴ったことなんてねぇだろ」
琉架の声がはっきりと震えた。刃物を持った男に立ち向かうなどどれだけ怖かっただろうと和唯の勇気を思えば、瞳の奥から自然と込み上げてくる涙はもう隠せない。
「はい、初めて殴ったので、すごく下手くそでした……」
ずっと料理バカで、争いごととは無縁の人生だった。こんなことなら少しくらいやんちゃも経験しておくべきだった。もっとうまく殴れていれば無駄に腫らすこともなかったし、もっと早く琉架を助けられていただろうと、未熟な拳を恥じた和唯が苦々しく笑ってみせる。
「ごめんな……」
まつげを濡らし始めた琉架が、そのまま和唯の腫れた手の甲を控えめにさすった。
「和唯の手は、人を笑顔にするうまい飯作る手なのにさ」
「!? ……っ、俺のことなんて、いいのに」
「大事な手だろ。怪我したら、やだよ」
あんな恐ろしい目に遭ったのに人の心配ばかりの琉架に、こちらももう我慢の限界だと和唯の目のふちにも涙が溜まってくる。
四方を白に囲まれたこじんまりとした病室で、大の男が二人、瞳を潤ませながら向き合っていた。
廊下を慌ただしく行き交う人々の気配や、病院独特の匂い、家とは違う照明の色、すべてを浄化してくれるような真っ白いリネン。非日常の病室と、今日短い時間で味わった悪夢のような衝撃、痛み、恐怖、いろいろなものに強く触発されて、琉架も和唯も素直な感情があふれた。
「オレのこと心配した?」
琉架の問いは、もうからかうような素振りもない。和唯の本心を素直に聞きたがっていた。
「当たり前です。気が狂うかと思いました」
「なんで? おまえにとってオレは、ご褒美のただのケーキじゃねぇの?」
和唯はゆっくりと首を横に振ってみせる。
「もう、ただのケーキだなんて、思ってないです……」
そんなの、とっくに。出会ったときから、そんなの。
「……今日刺されたとこ、傷、きっとひでぇだろ? で、傷跡が、この先もずっと、腹んとこ残ってさ」
琉架がひとつひとつ言葉を選ぶように言った。
「オレは高値で売れるような見た目が綺麗なケーキでいられなくなって、いろんなフォークにもういらないって突き放されて、誰もオレを欲しがらなくなって」
せっかく大事にしたいと思えた自分を結局傷つけてしまって、琉架が極度に不安がる。和唯は、傷がつくのを嫌がるから。
「それでも、おまえは……食ってくれる?」
拒絶されたあの感情を、琉架はもう二度と知りたくなかった。綺麗には消えないかもしれない傷を負ってしまい、これからの自分に急に自信がなくなってしまう。
不安に揺らぐ琉架の潤んだ瞳を見て、和唯はためらうことなく何度も大きく頷いた。愚問だと思った。それでも琉架がその問いへの答えを求めるなら、いくらでも何度でも聞かせてやろうと思った。
「どんなあなたでも、俺は全部綺麗に食べ尽くしますよ」
そう言って和唯は、琉架の瞳に口唇を寄せた。いつかしたように舌を器用に瞳のふちに這わせ、濡れていた琉架のまつげをさらに唾液でたっぷりと濡らす。大人しく目を瞑って和唯の舌の感触に酔う琉架は、この舌に呆れるほど依存している。涙を啜られているのに、また泣きそうになった。
「やさしい味する……」
「病院で何やってんの」
「涙はレアなんです」
やさしく触れてくれた舌にほっとし、琉架は少し上にある和唯の顔を見上げた。白いベッドに横になったまま、熱く見つめる。
「オレ、和唯に言いたいことあるよ」
和唯の美しく潤む瞳が、真摯なまなざしで琉架の続きを静かに待つ。
「オレとおまえのことなんだけど」
このまま好きだと言ってしまおうかと琉架が思ったとき、病室の白い扉が、慌ただしいノックで大きく揺れた。
どっちが死にそうになってんだと、和唯のひどく青ざめた顔色を見て琉架が小さく笑った。目は覚めたようだが聞かせてくれる声はいつもより弱々しく、少し掠れている。
「……死んだら困ります」
やっと聞けた声に心底胸を撫で下ろし、和唯は気を抜けば落としてしまいそうな涙を必死に塞き止めながら、琉架と至近距離で目を合わせた。髪に触れてくれていた琉架の手をそっと取り、両手で大事に包み込むようにしてぎゅっと握る。琉架の指が変わらずちゃんとあたたかくて、和唯はまた泣きそうになった。
「なんでおまえが困んの? オレが死んだら、住むとこなくなるから?」
琉架がふふっと楽しそうに笑って訊く。
「……そんな、の……」
「オレが死んだら、最上級ランクのケーキが食えなくなるから?」
「……っ、なんでそんな意地悪な訊き方するんですか……」
わざと試すような問いを重ねる琉架に、せっかく落ち着きを取り戻しつつある和唯がまた顔を歪ませる。
「そんな理由なわけないじゃないですか……俺は、本当に……っ、……琉架さんがっ……」
答え方に困っている和唯を見て、琉架がいたずらっ子のように微笑んだ。
「ははっ、いつもの仕返し。いつもおまえにからかわれてばっかだから、たまにはいいだろ?」
「こんなときに仕返しするなんて、琉架さんの神経どうなってんですか……」
きっとあまりにもひどい顔をしていたから、琉架が気を遣って冗談のようにしてくれたのだろうと和唯は思った。軽口を叩けるほどに平気だと伝えたかったのかもしれない。おかげで病室に停滞していた和唯の重苦しい空気が弾け、一気に琉架の軽やかなペースになる。いつもの二人になれた気がして、和唯は今度こそ深くたっぷりと息が吸えた。
「おまえ、怪我ない?」
「かすり傷もないです。俺はなんともないです」
「よかった……。悪かったな、オレのことで、迷惑かけて」
琉架が申し訳なさそうに言うと、和唯は全力で首を横に振って否定した。琉架が謝る必要など何ひとつないと、強い瞳で訴える。
「桜見ながらビール飲もうとしてただけなのに、とんだ大惨事になったな」
「……はい」
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「襲われるのはいつも夜道の背後からって勝手に思い込んでたからなー、夜は毎日ちゃんと警戒してたのに……まさか明るいうちに知り合いに正面突破されるとは。……あぁ、あの人、客なんだけど」
琉架が失敗したなと軽く苦笑した。中学の頃に既婚者変態フォークに襲われたのを皮切りに今までもいろいろ危ない目には遭ってきたが、いつも夜の深い時間の、比較的人が暴走しやすいときばかりだったので日中はつい油断してしまった。本当は、普段外で会うはずのないシンがあのコンビニの前にいた時点でもっと警戒すべきだったのに、あまりにも自然に声を掛けられたのであっさりとシンの前に駆け寄ってしまった。きっとコンビニのあとで和唯と公園に寄ることに気を取られていたのだと、おそらくだらしない上機嫌な顔でシンに近づいてしまった自分を思うと琉架は情けなくて仕方ない。
「……俺が洗い物なんて後回しにして、一緒に、コンビニに行ってれば……」
琉架の手を包む和唯の両の手が少し強張った。震えるのを隠そうとしてそうなったのだと和唯は気づく。
何故ひとりで先に行かせてしまったのだろうと、琉架が傷の処置を受けている間も、病室で眠っている間も、その後悔だけがずっと陰湿にまとわりついて和唯を強く苦しめていた。避けられたはずの事件だったのに。自分の判断が琉架をひどい目に遭わせてしまったことに、和唯は本当はまだ呆然としていた。
「……バカ。待ち伏せされてたっぽいから意味ねぇよ。オレがひとりのときを狙ってただろうから、おまえがついてきてたら今日は一旦引き返しただろうけど、また別の日に改めて狙われたと思う」
あの人血への執着すごいからと、琉架があきらめたように言った。これがケーキの宿命だと受け入れているような琉架が、暴走するフォークすらも受け入れてしまっているような琉架が、和唯はやはりまだ悲しい。
「じゃあ、毎日、一緒にいます……あなたが絶対にひとりにならないように、ずっと、一緒に……」
「おまえはホント……いっつも大袈裟だな。VIPのボディーガードかよ」
「だって、俺のせ……」
「おまえがいてくれたから助かったんだよ」
自分の過失だと思い込んで己を責める和唯に、琉架の声が強く重なった。
「え……」
「ひとりのときに狙われてたらきっともっと刺されて、発見されんのも遅れて、マジで死んでたかも。おまえがいてくれてよかった。だから、ありがとな」
「……っ」
失敗ばかりのフォークにも、いてくれてよかったと屈託なく琉架は笑いかける。
「いられて、本当によかったです。……琉架さんひとりのときじゃなくて、本当によかった……」
和唯は小さな声でそう返すのが精一杯だった。自分があの場に駆けつけられなかった仮定を一瞬だけ想像し、発狂しそうになるその恐怖に慌てて蓋をする。一箇所刺されただけであの血の量だ、本当に発見が遅れていたらと思うと、また激しい動悸と冷や汗が舞い戻ってくる。目の前で横たわり微笑む琉架を、奇跡だと思った。
「あの、……」
「ん?」
言いづらそうに和唯が重い口を開く。
「……血、売るのやめたって……」
狂乱していたシンの言葉をそのまま信じていいのかわからず、和唯が不安そうに訊いた。
「あの人、そんなことまで言ってた?」
途中で気を失ってしまいその辺りの記憶はない琉架が、少しばつの悪そうな顔をして和唯を見る。
「……っ、それって、……あのとき俺が、余計なことをいろいろ言ったからですか……?」
琉架が首筋に大きな傷をつけられて帰ってきた夜、自分のあまりの無力さと愚かさに苛立ち、感情任せに放ってしまった言葉の数々を和唯は思い出す。
『……俺は、あなたを大事にしたいのに……』
『なんで、こんな……琉架さんが痛い目に合うの、俺、嫌です……』
『……どうすれば、琉架さんがこれ以上傷つけられずに済みますか……?』
口を出す権利などないのに勝手に怒りを募らせ、だからこそ口を出す権利が欲しくて自分を変えたいと願ったあの夜。
あの夜の不躾な態度が琉架を困らせて、その結果が今日の悪夢のような出来事に繋がってしまったのだとしたら、和唯はもうどんな顔で琉架を見たらいいのかわからなかった。バランス良くうまく回っていた歯車を、むやみに押しつけた醜い感情のせいで壊してしまったかもしれなくて、和唯は怯える。その結果客を暴走させ、本来流さなくてもよかったはずの血を、琉架にたくさん流させてしまった。
「……確かに、きっかけはおまえの言葉だったかもな」
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「おまえにさ、大事にしたいって言われて……あのときはなんで和唯がそんなこと言うのかわかんなかったけど、……もし逆の立場だったら、オレもおまえに同じこと言って怒るわ……って気づいて」
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「オレさ、おまえに言われるまで、痛い思いして血売ることに対して、ホントになんの感情もなくて。そういう仕事だって割り切ってるし、オレが痛いの我慢すればいいだけって思ってた。金と引き換えについた傷なら仕方ねぇって……実はあの日よりももっとひどく傷つけられたことも過去にはあったんだけど、そういうのも全部、いつかは治るし別にどうでもいいって思ってた」
今まで出会ってきた親密になった男たちにも心配されたことはなかった。これがケーキの定めだと、いつも軽く見られていた。あんなに顔を歪ませて悲しむように怒ってくれたのは、和唯だけだった。
「けど、まず自分が自分のこと大事にしなきゃ、誰がオレのこと大事にすんだよって思って。自分のこと大事にしねぇやつ、他人から大事にされるわけねぇよなって」
こんなケーキでも、気にかけて痛みを悲しんでくれる人がいることに驚いた。あの夜和唯に大事にしたいと言われてうれしかった。その思いを無下にはしたくなかった。
「おまえが大事にしたいって言ってくれたオレを、オレも大事にしたいって思った。……和唯がオレを変えたんだよ」
「!?」
失敗をしでかしたと悔いていたことに思いがけない言葉をもらって、和唯が言葉に詰まる。
「ま、オレが血売るのやめたのは、そういうことだから。あの人に何吹き込まれたか知らねぇけど、オレはこの選択まちがってねぇって思ってるし」
この決断を、琉架は誰にも文句を言わせなかった。それでシンのような過激な客に逆上されたとしても、それはもう琉架の知ったことではない。
「……はい、俺も、まちがってないと思います」
声が変に揺らいだ気がした。琉架がそう思ってくれるようになっただけで、和唯はもう充分に思えた。
「もー、またおまえヘンな顔になってる。……ってか、いつまで手握ってんの」
種明かしを終えて誇らしげな琉架が、いつまでも自分の手を強く握りしめている和唯をからかう。和唯の手の甲が赤く腫れていることに今さら気づき、琉架は握られていない方の手を伸ばした。そっと、腫れた部分をやさしく撫でる。
「なんともなくねぇじゃん……怪我してる」
「あぁ……こんなの、怪我のうちに入りませんよ」
本当にこんな些細なことは忘れていて、和唯は軽く笑った。
「……おまえが必死に助けてくれたんだよな」
和唯が自分の名を叫びシンを引き剥がしてくれたことは覚えていて、不意に琉架の瞳の奥はじわっと熱くなった。琉架も本当はあのとき、このまま死ぬんじゃないかと怖くてたまらなかった。和唯が来てくれて、ヒーローかと思った。
「……、おまえ、人殴ったことなんてねぇだろ」
琉架の声がはっきりと震えた。刃物を持った男に立ち向かうなどどれだけ怖かっただろうと和唯の勇気を思えば、瞳の奥から自然と込み上げてくる涙はもう隠せない。
「はい、初めて殴ったので、すごく下手くそでした……」
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「ごめんな……」
まつげを濡らし始めた琉架が、そのまま和唯の腫れた手の甲を控えめにさすった。
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「!? ……っ、俺のことなんて、いいのに」
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「オレのこと心配した?」
琉架の問いは、もうからかうような素振りもない。和唯の本心を素直に聞きたがっていた。
「当たり前です。気が狂うかと思いました」
「なんで? おまえにとってオレは、ご褒美のただのケーキじゃねぇの?」
和唯はゆっくりと首を横に振ってみせる。
「もう、ただのケーキだなんて、思ってないです……」
そんなの、とっくに。出会ったときから、そんなの。
「……今日刺されたとこ、傷、きっとひでぇだろ? で、傷跡が、この先もずっと、腹んとこ残ってさ」
琉架がひとつひとつ言葉を選ぶように言った。
「オレは高値で売れるような見た目が綺麗なケーキでいられなくなって、いろんなフォークにもういらないって突き放されて、誰もオレを欲しがらなくなって」
せっかく大事にしたいと思えた自分を結局傷つけてしまって、琉架が極度に不安がる。和唯は、傷がつくのを嫌がるから。
「それでも、おまえは……食ってくれる?」
拒絶されたあの感情を、琉架はもう二度と知りたくなかった。綺麗には消えないかもしれない傷を負ってしまい、これからの自分に急に自信がなくなってしまう。
不安に揺らぐ琉架の潤んだ瞳を見て、和唯はためらうことなく何度も大きく頷いた。愚問だと思った。それでも琉架がその問いへの答えを求めるなら、いくらでも何度でも聞かせてやろうと思った。
「どんなあなたでも、俺は全部綺麗に食べ尽くしますよ」
そう言って和唯は、琉架の瞳に口唇を寄せた。いつかしたように舌を器用に瞳のふちに這わせ、濡れていた琉架のまつげをさらに唾液でたっぷりと濡らす。大人しく目を瞑って和唯の舌の感触に酔う琉架は、この舌に呆れるほど依存している。涙を啜られているのに、また泣きそうになった。
「やさしい味する……」
「病院で何やってんの」
「涙はレアなんです」
やさしく触れてくれた舌にほっとし、琉架は少し上にある和唯の顔を見上げた。白いベッドに横になったまま、熱く見つめる。
「オレ、和唯に言いたいことあるよ」
和唯の美しく潤む瞳が、真摯なまなざしで琉架の続きを静かに待つ。
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