ビターシロップ

ゆりすみれ

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“巣立ちのとき”

8-2 一緒に、行きたい

「ちょっ、須磨子さん! これほどけって!」

 【Vanillaヴァニラ】の事務所で、どういうわけか琉架は縛られていた。床に体育座りをさせられ、手首と足首をそれぞれ束ねられロープでぐるぐる巻かれている。ロープはマニアックな客のために用意してあるちょうどいいのが店にあったので、須磨子はそれを引っ張り出してきていた。他のボーイにも手伝ってもらって、琉架を拘束する。

「イヤよっ、これ外したら、アンタここ出ていくんでしょぉ!?」

 ぷいっと顔を背けて須磨子が拗ねた。琉架の前で仁王立ちの腕組みをし、苛立っているのか黒いピンヒールで床をコツコツ鳴らしている。ここまで大切に育ててきたモンスター級のケーキを、見す見す失うわけにはいかない。

「なーにが、彼氏できてぇ、彼が風俗辞めろって言うからぁ、店辞めまぁす♡ だぁ? ふざけんじゃねぇぞ! こっちは一体何年琉架の面倒見てやってると思ってんだよ! ぽっと出の男がナマ言ってんじゃねぇぞこら」

「須磨子やめて、男出てる……。あとオレそんな風に言ってねぇ」

「だいたい意味一緒でしょ!? もう! 長期休暇で心も身体もリフレッシュしてくると思ったら、ただ男とイチャついてラブラブになってただけってことー? もぉー!」

「らぶらぶ……」

 そう言われると悪い気はしなくて、縛られているのに琉架は思わず顔をにやつかせてしまった。休暇中ずっと和唯にべったりだったことを思い出し、締まりのない顔をさらにだらしなくさせる。休みの間はサブスクでだらだらと一緒に映画を観たり、目的もなく二人でのんびりと近所を散歩したり、夜になれば勝手にベッドにもぐり込んでくる和唯にひっついて眠った。同居人の寝床兼対価受け渡し用だったリビングのL字ソファは、特殊な役目を終え、ただのソファに戻っていた。

「何ニヤニヤしてんのよ!? こっちはアンタ辞めさせないために手段は選ばないんだからね!」

 傷を癒すための長い休みのあと、店に戻ってきた琉架は仕事を辞めたいと須磨子に告げた。二週間、悩みに悩んで行き着いた答えだった。あまいだけが取り柄の自分に辞めたあと何ができるのかも自信がなかったし、これまで安定して得ていた金銭を手放すのも怖かった。須磨子から受けた恩を返し切れているのかもわからなかったし、なんだかんだで売上の取れる男としてちやほやされ、優遇されていたのも心地がよかった。多くのものを捨てる覚悟ができるまでずいぶん葛藤があったし、頭の中は未だかつて経験したことがないほどにぐちゃぐちゃになったが、その混乱こそが答えのようにも琉架は思えた。少なくとも琉架は今まで一度も、本気で店を辞めようと思ったことはなかった。

 長期休暇の最後の日、琉架は出した答えを和唯に伝えた。すると、和唯もこの休みの間に考えてくれていた或る提案を、お返しのように琉架に渡してくれた。

「手段は選ばない……って、何? オレこのまま監禁でもされんの?」

 胸の前で束ねられた両手首を不思議そうに眺めて、琉架が須磨子に訊いた。拘束されても、監禁されても、須磨子を説得するしかないと琉架は腹をくくる。未来のために、もう決めたことだ。

「琉架の監禁もそうだけど……」

 須磨子が何か、悪巧みをしているような含みのある笑顔を見せる。

「実はアンタの男んとこにも若い子たち行かせてんの。琉架と別れるように説得してもらおうと思ってね。日々のストレス溜め込んでる血の気の多い子たち選んだから、彼氏がヘンなこと言い出したらうっかり手が出ちゃうかも♡」

「はぁ!? んだよ、それ!?」

 和唯の方にも手を回していたのは予想外で、さすがに琉架の顔色が変わった。仕事を辞めたいと言っているだけなのに、大事おおごとになり過ぎている。

「和唯は関係ねぇだろ!? あいつに辞めろって言われたわけじゃねぇし!」

 自分が我慢して済むことならいくらでも耐えられるが、和唯が関わるなら話は別だ。

「おい須磨子! 和唯に手出したらいくらあんたでも容赦しね……」

 そうやって琉架が須磨子に口悪く突っかかったところで、

「琉架さん!」

 と、事務所の開き戸が壊れそうな勢いでバンッと内側に開き、和唯が息を切らしながら駆け込んできた。

「和唯……!? なんで……」

 突然の恋人の登場に琉架は目を丸くし、しかし和唯の後ろからついてきていた後輩のボーイ二人の姿を確認すると、してやられた……と、この状況の違和感に気づく。この後輩ボーイたちは、【Vanilla】の中でも群を抜いて温厚で控えめな平和主義の二人だ。人を殴るはずがない。

「……っ、琉架さん、大丈夫、っ、ですか……?」

 琉架のマンションからここまでは徒歩で15分程度だが、全力で走ると日頃の運動不足がたたるのか、和唯はうまく息を吸えなかった。必死に息を整えながら琉架を案じる。聞いていた通り、拘束された姿の琉架が和唯の視界の隅に入った。

「このお二人に、……っ、琉架さんと店長さんが辞める辞めさせないで大喧嘩してるから、……助けに来てほしいって、言われて……、店長さん、めちゃくちゃ怒ってるし、っ……このままじゃ琉架さん、監禁されて、二度と家に戻れなくなるんじゃないかって、教えに来てくれて……」

 慌ててマンションを飛び出してきたのか、和唯は部屋着として着ているスウェットのままだった。腰を曲げ、両膝に手を置きながら、少しずつ整っていく呼吸の中で経緯を説明する。

「須磨子さん! 一体どういうつもりだよ!?」

「ふふっ、……ま、アンタはおびき寄せるための餌ってこと。アタシが本当に用があったのは、こっち」

 須磨子はそう言うと、仁王立ちをしていた琉架の前から離れ、ピンヒールをコツ、コツ、とゆっくりと鳴らしながら和唯に近づいた。和唯の前に立つ。

「アンタが琉架の男? ……あぁ、あのときの……。病室ではどうも」

 そういえば琉架の傷害事件のときに病院で少しだけ見たことがあるなと、須磨子が思い出した。あのときは確か友達だとかなんとか琉架が言っていたような気がするが、あれから無事に進展したのかと思うと少し感慨深い。

「……どう、も」

「アンタが琉架に辞めろって言ったの? うちのNo.1を簡単に辞めさせようとするなんていい度胸じゃない」

 須磨子は真剣な表情で和唯をじっと見た。呼吸を元に戻した和唯も、目の前に立ちはだかる須磨子を見る。きっと一筋縄ではいかない大きな壁だ。それでも、突破しなければ琉架をここからさらうことはできない。

「琉架さんとお付き合いさせていただいてます。……実は、俺が近々地元に帰ろうと思っていて、一緒に琉架さんを連れていきたいんです」

 それは、琉架が和唯に店を辞めると伝えたとき、お返しに和唯がプレゼントした提案だった。地元に戻る自分にとにかくついてきて欲しい、一緒にこの街を出ようと、決して悲観的なことではなく、和唯はわくわくと瞳をきらめかせて琉架を誘った。

「和唯に辞めろって言われたわけじゃねぇからな!? 先に辞めるって決めたのオレだから!」

 少し離れたところから、床に近い場所にいる琉架が叫ぶ。和唯を悪にしたくない思いがあふれて、言い方がきつくなる。

「琉架は黙ってて! アタシはこの男と話がしたいの」

 琉架をしゃがれ声で一蹴し、須磨子は再び和唯に向き合った。向けられた目の圧力にひるみそうになるが、和唯も戯れに琉架をさらいたいわけではない。負けるわけにはいかない。

「……アンタもしかして、……フォーク?」

「……っ」

 胡乱うろんな目を向けられ、和唯がはっとした。否定はしない。これが自分に対する風当たりなのももう知っている。和唯の無言を肯定と受け取った須磨子が、眉をあからさまに吊り上げた。

「……アンタ、琉架を幸せにできんの?」

 須磨子の問いかけに、和唯も、離れたところにいる琉架も、同時にからだをびくっとさせた。

「この子はね、まだほとんど子供だった16のときに、からだ売らなきゃ生きていけないところまで追い詰められてたのよ。もうここしかないって……、経営者のアタシが言う資格なんてないけどさ、子供ながらに本心ではさぞかし絶望したでしょうね。ボーイになってからは毎日知らない男の相手をさせられて、望んだわけじゃない仕事に、きっと幸せのしの字もわからなくなってたと思うわ。ケーキってだけで何度も何度も危ない目に遭ってきて、からだも心もいっぱい傷つけられて、……それでも琉架はここで懸命に生きてきた」

 琉架を守るために、言葉は次々と須磨子からあふれ出た。生半可な気持ちで琉架をさらおうと言うなら、許さない。

「それを……そうやって琉架を散々追い詰めてきたフォークのアンタが、琉架をちゃんと幸せにできんのかって聞いてんだよ!」

 感情が走って、須磨子の言葉遣いも崩れる。和唯をまっすぐに射貫く目は、ただの店長を逸脱していた。須磨子にも、琉架を拾った十年分の愛情がある。和唯の返答次第では、本当にこのまま琉架を閉じ込めようとさえ思っていた。

「できます」

「──っ」

 間髪を入れず返ってきた和唯の迷いのない声に、須磨子の方が驚いた。

「あ……、できますなんて、おこがましいですね。できます……します……やれます……なんでしょう? でも……、俺と一緒にいたら琉架さんはこの先、ずっと幸せですよ」

「根拠は?」

「俺が幸せだから」

 和唯のまっすぐな想いが琉架にも届いて、琉架が目を伏せる。

「たとえ琉架さんがあまくなくても、俺はきっと琉架さんに惹かれました。出会った瞬間から、すごくやさしくしてくれたんです。ずっとやさしくて、ずっと支えてくれて、失敗しても怒らないし、でも俺がまちがえたときはちゃんと叱ってくれる。俺は本当に与えられてばかりなんです」

 琉架からもらったものを数え始めたらキリがない。言い尽くせないのはわかっているのでこの辺でやめておく。

「俺の作ったごはんをおいしいって言って笑ってくれる琉架さんが、俺は大好きです。たったそれだけで、俺は無敵になれる。俺がこの人を大好きで幸せだから、きっとその幸せは琉架さんにも伝染うつると思います」

 幸せのしの字もわからなくなっているなら、これから嫌というほど教えてやろうと和唯は思った。

「……琉架さんを、俺にください」

「──なっ!?」

 まるでプロポーズでもされた気分で、不覚にも琉架が胸を高鳴らせる。

「そ。それがアンタの気持ちなのね」

 息子の彼氏に挨拶でもされた気分になり、須磨子はむき出しにしていた牙をそっと仕舞った。息子さんをくださいは初めての経験だが、案外いい気分だ。

 須磨子は和唯の前から離れると、再び琉架に近づいた。ピンヒールをコツ、コツ、とやさしく鳴らし、今度は視線を合わせるために琉架の前でしゃがみ込む。

「琉架、今度はアンタの番よ。アンタの気持ちを、もう一度教えて」

 須磨子にやさしく瞳をのぞき込まれると、この十年が、込み上げた。仕事などまともにできない子供を拾って面倒を見てくれたこと、不遇さを気にかけてくれた先輩たち、元彼に殴られて須磨子に買ってもらったアイスのあまさ、懐いてくれたかわいい後輩たち、体液を売って初めてもらった金の重み、味のしないコンビニ弁当、仕事帰りの雪の夜にフォークの男と出逢ったこと。

 言葉にできない想いが、込み上げる。

「……一緒に、行きたい」

 琉架が声を震わせて言った。

「和唯についていきたい……和唯と一緒に行きたいっ……、須磨子さんごめん、オレ、店辞めたいっ……」

 一緒に行きたいは、一緒に生きたいと、同音で同義だと須磨子には思えた。一緒に生きたい、大事な人に出逢えたのだと。

「……今まで男ができても女ができても、仕事辞めたいなんて言ったことなかったのにねぇ」

 須磨子がやれやれとため息をつく。

「和唯に悲しい思いさせたくねぇんだ」

「わかってたわよ。アンタがアタシへの恩義で、ずっと店辞められなかったの」

 救ってやったはいいが、その分大きなかせをつけてしまったのも事実だと、須磨子は少し反省した。

「あのときのピザ代は、もう充分すぎるくらいに返してもらったから、もういいのよ」

「……っ」

 琉架が辞めるのは寂しいが、大事な人と日向ひなたで生きていくことができるなら巣立ちも悪くない。須磨子は琉架の頬にそっと手を添えた。長いネイルで琉架を傷つけないように、やさしく自分の方を向かせる。

「やってみな、琉架。……もしうまくいかなかったら、また戻っておいで」

 帰る場所はいつでもここにあると、すっかり芽生えてしまった親心で須磨子が琉架の背中を押した。

「ボーイ以外に、アンタにできること、いくらでもあるよ」

「……うん」

 あまいことだけが取り柄だと信じて疑わない日々だったが、今なら少しは素直に聞き入れられる。 

「アンタはケーキにとらわれてるけど、普通の人間のアタシからしたら、琉架なんてただの可愛らしい男の子なんだから」

「須磨子さん……」

 想いは大きすぎて、感謝は伝えきれない。ありがとうの代わりに、瞳を潤ませた琉架が笑って須磨子に言う。

「おふくろみたいに思ってたよ」

「アタシも、息子だと思ってたわ」

 泣き出しそうになるのを二人でこらえて、二人で笑った。

「和唯、だっけ?」

 須磨子が立ち上がり、改めて和唯を見る。

「琉架はアタシのかわいい息子みたいなもんだったからね、寂しくてちょっと意地悪しちゃった。試すようなことしてごめんねぇ。でもアンタの琉架への想い、悪くなかったわよ。聞けてよかった。……琉架を、よろしくお願いします」

「はい、任せてください。一生大事にします」

 須磨子の目を見てきっちりそう伝えると、和唯は琉架の元に駆け寄った。須磨子がしたように、しゃがんで恋人と目線を合わせる。

「琉架さん……無事でよかった」

「おまえこそ」

 最初から監禁されたり殴られたりするはずのないただの茶番だったのだが、それでも和唯が息を切らして駆けつけてくれたことがただうれしかった。和唯を呼びに行ってくれた後輩たちは、空気を読んだのかいつの間にかいなくなっている。

 しばらく和唯は、じぃっと琉架を見つめていた。

「? 和唯? とりあえず、このロープ外してくんない?」

 茶番劇にしては大掛かり過ぎんだろ、後輩まで巻き込んで……と琉架は突っ込みたくなったが、須磨子に文句を言ったらまた騒がしいことになりそうなので口をつぐんだ。和唯のプロポーズに似たものが聞けたので、よしとする。

「早く外せよ」

「……琉架さん、それ、すごく興奮します……」

「はぁ!?」

 手も足も頑丈なロープで縛られて身動きの取れない琉架に、和唯が思わず欲情した。無意識に、からだを徐々に寄せていく。

「なっ!? こんなとこでサカってんじゃねぇよ!」

 からだを寄せられても逃げられない琉架が、近づいてくる和唯に襲われそうになって焦った声を出した。

「だって、家まで待てない……」

「お、おい!」

「ちょっとアンタたち! 事務所でおっぱじめんじゃないわよ! ……もーっ、最後まで世話が焼けるんだから! 空いてる部屋貸してあげるから、そっち行ってちょうだい!」

 須磨子の口調は怒っていたが、どこか楽しそうだった。琉架が大事にしたいと思える人に出逢えて、その人に大事にされていることが、この上なくうれしい。本当は上下スウェットのまま全速力で走ってここに駆けつけたのを見たときから、この男になら琉架を託しても大丈夫だと思っていた。いい男をつかまえたのはきっと、琉架が言いつけ通りに愛されるための努力を惜しまなかったからだと須磨子が誇る。

「ま、マジですんの……?」

「したいな……ダメですか?」

 しゅんとしてねだる和唯に、振り回されてる……と琉架が痛感する。そんな顔でお願いされたら、断れるはずがない。

「まったく……、琉架はこんないい男、どこで見つけてきたんだか」

 須磨子の言葉に、琉架と和唯がきょとんと顔を見合わせて、そして笑った。琉架が教える。

「……道で拾ったんだよ」
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