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“あまくない”
9-2 うん、よかった
「えぇ!? これ全部、琉架さんの彼氏さんが作ったんですか!?」
事務所の休憩スペースにあるテーブルには、たくさんの重箱が所狭しと並べられていた。中には和洋中色とりどりの料理が美しく完璧に詰められている。休憩スペースのテーブルだけでは置き切れなかったため、倉庫から折り畳みの簡易テーブルまで引っ張り出してきて、和唯が家で作ってきたたくさんの料理と、取り皿と箸、大量の缶ビールや缶チューハイを置いていた。
「ははっ、すげぇだろ」
缶ビールを片手にすでに酔っている琉架は、テーブルの上の料理を見て驚いている後輩のボーイに、まるで自分の手柄のような得意気な顔をしてみせる。
「どこかで注文したものだと思いました! すごいです! プロ並みじゃないですか」
「プロだよ。味は保証するから、好きなだけいっぱい食えよー」
琉架は後輩の肩をポンッと軽く叩くと、すでに怪しい足取りでふらふらと別の後輩のところへ向かった。
本日の【Vanilla】は、琉架の送別会のために臨時休業となっていた。勝手に辞めるのだから送別会なんていらないと琉架は強く断ったのだが、琉架によくしてもらった後輩たちが絶対に開くと言って聞かなかった。ここに拾われて十年、ボーイとして働き始めて八年、琉架はいつの間にか【Vanilla】在籍歴最長の、後輩たちに慕われる先輩になっていた。
どこかの店で大々的にやることに気が進まなかった琉架が和唯に相談すると、じゃあ俺が皆さんで食べられるもの作って持っていきましょうか? と提案し、【Vanilla】の事務所でささやかなパーティーが開かれることになった。
「うえぇ、辛っ……!」
「あ、それ、オレ専用のかもー」
見るからに辛そうな色のエビチリを食べた後輩が、その異常な辛さに顔をしかめている。いくつか混ざっている辛い料理は、和唯が琉架のために張り切って激辛にしていた。
「琉架さんこれはやりすぎです……」
「琉架さんバカ舌なんじゃねぇの?」
「おい誰だよ、今バカって言ったやつ!?」
バカという単語に鋭く反応し、重箱を囲んでいる後輩たちから琉架が犯人探しをしようとする。琉架はよく笑い、後輩たちも楽しそうにしていた。
その微笑ましい様子を、和唯は味のしない缶ビールにちびちびと口をつけながら、事務所の隅でそっと眺めていた。料理だけ運んですぐ帰るつもりだったのだが、彼氏さんも飲んでいってよと琉架の後輩たちに激しく引き留められ、うまく断れずに結局参加することになってしまった。こういう場でどう振る舞ったらいいのかまるでわからず非常に気まずかったが、泥酔するだろう琉架の帰りの夜道も心配だったし、何より久しぶりに琉架以外の人が自分の作った料理をうれしそうに食べる姿を見るのは、とても貴重で興味深かった。
「琉架さんのとこ、行かないんですか?」
事務所の隅で気まずそうにじっとしている和唯に、ひとりの男が近づいてきた。手には黄色のパッケージのレモンサワーを持っている。
「えっと……?」
「真緒です」
和唯に話しかけたのは、大学生でボーイのバイトをしている真緒だった。アイドルのような愛らしい笑顔で、礼儀正しく名を名乗る。くりくりとした大きな目が特徴的な、線の細い青年だ。
「真緒、さん……。初めまして、汐屋といいます」
突然現れた琉架とはまた違うタイプのキラキラした男に、和唯が動揺した。ここはやはりこういう人が自然と集まるのかと、【Vanilla】のレベルの高さを思い知らされる。
「あなたが犬の人……」
真緒が楽しそうに和唯を見て言った。
「い、犬?」
琉架が拾った犬を大事に世話しているのを知っていた真緒は、いいえこっちの話です、と笑って誤魔化す。
「琉架さんのとこ行かなくていいんですか? こんな隅っこで……せっかくのパーティーなんだから、みんなとわいわい飲んだらいいのに」
「あ、すみません……そうした方がいいのはわかるんですけど」
こんな風に隅でひとりで立っていたら気を遣われるのはわかっていたが、和唯には離れたところに見えるあの楽しげな輪に加わることができない理由があった。
「たくさんの、いろんなケーキのあまい香りが混ざって、ちょっと……その」
琉架の匂いしか知らない和唯は、乱雑に混ざり合う大量のケーキの香りに、ひどい胸やけを起こしそうになっていた。昔琉架が言っていた通り個人によって香りは様々なようで、個々に楽しむ分にはいいのだろうが、集合されるとそれは未知の重たい鈍器のような濃いあまさとなってフォークを襲ってくる。うかつに近寄れない。
「なるほど、盲点でした。僕たちは自分たちの香りがわからないし、いつもは個人で接客するのでこんな風に大勢で集まることも滅多にないですからね。フォークの方にはつらい環境にしちゃいましたね」
そう言う真緒からも、琉架とは違うやさしい香りがした。真緒の控えめなあまさは、不思議と人をほっとさせる力がある。
「琉架さんあっちで酔っぱらってるし、……じゃあ僕が汐屋さんの話し相手になっちゃおうかな。いいですか?」
「あ、はい……すみません、なんか」
浮いている自分に気を遣ってくれた真緒に、和唯が軽く頭を下げる。真緒は近くから二人分のパイプ椅子を持ってきて、和唯にも座るように促した。二人は事務所の隅で並んで座り、それぞれの飲み物に口をつける。
「そういえば今日、店長さんはいないんですか?」
「須磨子さんは新店舗の準備に行ってます。遅い時間には顔出すつもりって言ってましたけど、どうでしょうね。もしかしたらお別れが悲しくて、今日もわざと仕事してるのかも」
須磨子の琉架への溺愛ぶりを目の当たりにしている和唯も、その可能性は否めないと思った。本当に多くの人に愛されている琉架をこの先自分が支えていくのだと思うと、優越感と責任に、和唯は身が引き締まる思いがする。
「……ケーキとフォークのカップルって素敵ですよね」
真緒がレモンサワーを一口飲んで、ふとそう言った。
「!? そうなんですか……?」
和唯がネットから得た膨大な情報の中ではそういう擁護の類いは出てきたことがなかったので、あまりにも穏やかにそう言う真緒を思わずじっと見てしまう。フォークはいつだって加害者で、欲望を抑えられない愚かな生き物に仕立て上げられていた。そんなフォークと付き合うケーキも、物好きの変わり者のように揶揄されていた。攻撃的な情報ばかりを見ていたら、祝福など永遠にされないような気分になった。
「そんなに驚くことですか?」
逆に真緒が聞き返してしまう。
「……少なくとも俺は、一緒にいるべきじゃないって、一度すごく悩みましたから」
一度は本気で身を引こうと思った。それが琉架の幸せだと思い込んだ。
「引け目に感じ過ぎですよ」
「フォーク、怖いって思わないんですか?」
「思いませんよー。僕も前にフォークの方とお付き合いしてたことありますけど、すごく紳士的でやさしかったですよ」
「真緒さんもフォークと……」
「別れちゃったのはケーキとフォークのこと関係なしに、単純に遠距離になっちゃったからで……今思い出しても、いい思い出です」
思い出を大事そうに取り出す真緒を見たら、その思い出に嫌なことなど何もなかったのが窺える。
「やさしいフォークがいるって聞いたら、少し自信が持てます」
まだ時々フォークとしての自分を信用していない和唯が、その事実に救われた。
「僕のことあまいあまいってたくさん求めてくれて、うれしかったなぁ。僕、承認欲求すごいので、ケーキであることは最高の長所なんです。この仕事も自分に合ってると思うし、ケーキにしてくれてありがとうって感じです」
「そう思えるの、素敵ですね」
やはり琉架とは違うタイプの前向きなケーキに、和唯も勇気づけられる。あまいあまいとたくさん求めることを琉架が喜んでくれるといいなと、恋人とのあまいくちづけを思い出した和唯が、缶ビールの飲み口に口唇を寄せて寂しがった。味のしないアルコールよりも、早くあまい琉架にくちづけたい。
「本当は、もっと一緒に働きたかったな」
真緒は、少し離れた場所で楽しそうに談笑している琉架を見つめてそう言った。店に入ってまだ日の浅い真緒は、琉架とはほとんど一緒に働けていない。
「琉架さんには、もう少しこのまま王座に就いていてほしかった」
店のエースなのに新入りにも気さくに声を掛けてくれて、後輩の不安をちゃんと気にかけてくれて、面倒見の良いお人好しな琉架を、真緒はボーイの先輩として素直に尊敬していた。
「……でも、そういうの全部捨てられるほど、あなたに夢中ってことですよね」
真緒がとびきりの笑顔でそんなことを言うので、和唯は思わず目を伏せてしまった。あなたに夢中、はとても刺激の強い言葉だ。
「……恐縮です」
素直に照れる和唯を見て、真緒がまた笑う。
「あーぁ……でも、琉架さんに手を出すなんて、汐屋さんって本当に勇気がありますよね」
「ん? 勇気とは……?」
「だって、琉架さんみたいな有名人と付き合おうとするなんて、庶民がハリウッドスター口説くようなものじゃないですか」
「んん? ハリウッドスター……?」
真緒が何を言っているのか即座には理解できず、和唯は不思議そうな顔をする。
「あれ? 汐屋さんもしかして知らないんですか? こういう風俗、利用したことないんですか?」
「俺は最近フォークを発症したので、こういうお店にも来たことないですし、ケーキやフォークのことにも疎くて」
そう聞いて、真緒があぁなるほど……と静かに納得した。
「……無知は幸せってことですね」
「え、ちょっと、何ですか……教えてくださいよ、怖い……」
真緒は不敵な笑みを浮かべた。少し、おもしろがっている。
「琉架さんは、この界隈では知らない人はいないくらいの超有名なケーキですよ。予約は常に埋まってるし、遠方の固定客も何人もいます。【Vanilla】のエースっていうか、この辺り一帯のケーキの頂点ですね。客のフォークはみんな琉架さんが大好きだし、ボーイのケーキはみんな琉架さんに憧れてます。もちろん、僕も」
「……ケーキの、頂点……?」
和唯は先程から、真緒の言葉を拾ってくり返すので精一杯だった。予約の取れない男とは聞いていたが、まさかそんな規模で有名な人だったとは初耳だ。和唯は何も知らない。
「今回琉架さんが辞めるってなって、もうこっちではちょっとした騒ぎになりましたよ。問い合わせもたくさん来て、みんなで対応に追われました。結局この前の傷害事件があったから辞めることになったって理由にして、須磨子さんがその場は丸く収めてくれたんですけど……琉架さんに心酔してる過激派のお客さんたちは、きっと事件がきっかけで、裏で恋人に辞めろって言われたんだろうって思い込んでて……」
その続きを聞くのが恐ろしくて、和唯はごくりと唾を飲み込む。
「恨みを晴らしたいお客さんたちが、今犯人探しに躍起になってます。……どうか、夜道の背後には気をつけてくださいね」
「!?」
また真緒にキラキラした笑顔で微笑まれ、和唯の血の気がうっすらと引いていく。知らぬ間に犯人扱いされていた事実に震え、もう夜に出歩くのはやめようと和唯は心の中でそっと誓った。世の中、甘くないと知る。
「ふふっ、琉架さんは本当にすごい人なんですよ? あまさがレベチなんですって。……汐屋さんは琉架さんしか知らないの?」
「え? ……えぇ、そうですが」
「比較対象がないからそんなに余裕なんだ……他のケーキ食べたら、琉架さんがどれだけすごい人か、実感できるかも……」
真緒の声色が少し変わった気がして、和唯が驚いて隣の青年を見る。目が合うと、真緒はさっきまでのアイドルのような爽やかな笑顔ではなく、色欲に満ちた瞳で和唯を見ていた。男娼の眼だ。
「……琉架さんがどれだけあまいのか知りたくなったら、こっそり遊びに来てくださいね。僕がお相手します。好きなだけ、食べ比べていいですよ?」
「……っ!?」
そう耳打ちされて和唯が固まっていると、目の前に揺れる影が現れた。よく知るあまい匂いがふわっと鼻をくすぐって、和唯はほっとする。
「こーら、真緒。……近い」
現れた影は、距離の近い和唯と真緒を思いきり引き剥がした。
「琉架さん! もー、琉架さんが彼氏さんこんなとこでほっとくから、暇潰しに営業しちゃいましたよ」
「抜け目ないなぁー、真緒は」
「琉架さんがいなくなったあとのトップの座、狙ってるんです」
真緒はニコニコと、悪びれる様子もない。
「琉架さん来たし、今度は僕があっちで飲んでこよっかな。……じゃあね汐屋さん、またいつでも遊びに来てくださいね」
ひらひらとレモンサワーを持っていない方の手でバイバイをして、真緒は別のグループに加わりに行った。真緒が座っていた和唯の隣のパイプ椅子に、覚束ない足取りの琉架がゆっくりと腰を下ろす。
「あいつ、フォーク見るとすーぐ誘惑すんの」
琉架が困ったように苦笑した。
「清楚系かと思って油断しました……小悪魔でした……」
「入った頃はもっとピュアな感じだったのに、いつの間にか、たくましく育ってた」
「仕事も楽しんでやってる感じでしたし、【Vanilla】の未来は安泰ですね」
和唯の言葉に、琉架が微笑む。続いていく未来に思いを馳せて、琉架はうれしそうに後輩たちを眺めた。
「外の空気がおいしい……」
時計は日付をまたいでいる。無事に送別会が終わり、和唯は泥酔している琉架に肩を貸し、抱きかかえるようにしながら深夜の帰り道をゆっくりと歩いていた。琉架を支えるのに手一杯だったので、空の重箱は後日改めて取りに行くことにした。
深夜の澄んだ空気が、和唯を軽い胸やけからようやく解放する。混ざり合ったたくさんのあまい香りより、たったひとりの馴染んだあまさの方がやはり落ち着くと、和唯は初夏になりかけている夜の風と一緒に、琉架の匂いを大きく吸い込んで味わった。
「今日、楽しかったなー」
和唯のことを後輩たちに紹介できた琉架は、酔いも手伝って終始ご機嫌だった。意外と恋人を見せびらかしたい欲を持っていた琉架に、また新たな一面を知れたと和唯がうれしがる。
「楽しかったですね。琉架さんは飲み過ぎですけど」
「そうかー? まだ全然飲めたけどなー」
和唯にしがみつきながら、琉架がふわふわと答える。
「琉架さん、もう少ししっかり歩けます? 早く帰らないと、夜道危ないんで……俺が」
このままではマンションまで倍以上の時間が掛かりそうだと、千鳥足の琉架を支えながら和唯が夜道に怯えた。
「夜道……? そうだな! 夜道は危ない。……でもさ、和唯がオレのこと守ってくれんだろー?」
呑気な琉架に、和唯が顔をしかめる。
「いや、危ないの、琉架さんじゃなくて俺」
帰路の途中にあるいつものコンビニが進行方向に見えてきて、その煌々とした明かりにほっとしたのか、
「ちょっと、休憩」
と、琉架が和唯から離れて、路地にあるブロック塀にもたれかかった。和唯もついていき、酔ってとろんとしている琉架の前に立つ。和唯は我慢できなくて、そのまま触れるだけのキスをした。
「ん……」
口唇を合わせただけなのに、あまくて頭がクラクラする。
「琉架さん、キスしたい、いい?」
「……してから言ってんじゃねぇよ」
「許可取るの、癖になってるから」
「舌、入れんなよ……」
酔ってはいるが、一応外であるということの理性は働いている琉架が忠告する。言っても聞かないとは思ったが。
「無理です、先っぽだけ……。舌、少し、出して……」
琉架が遠慮がちに出した舌を、和唯が絡め取る。舌先だけを控えめに交わらせると、互いに何に酔っているのかわからなくなった。
「ん……っ」
和唯の手が、琉架の腰を深く抱く。その異様な力強さに、琉架は恋人の妬心を感じた。構ってほしいと、指先から伝わってくる。
「拗ねてんの?」
「琉架さんが、他の男とばっか仲良さそうにしてるから」
「みんなネコだよ?」
「でも嫌です。みんな琉架さんのこと好きだし……俺がいちばん、琉架さんのこと好きなのに……」
あからさまに和唯が口を尖らせる。
「おまえだって真緒と楽しそうにしてた」
「気になってたんですか?」
「……だって、真緒、かわいいし、若いし」
「かわいくて若い子が俺の隣にいるの、嫌だったんだ?」
「だって、和唯は、オレのなのにぃ……」
我慢できなくなって、琉架が和唯の肩に両腕を巻きつける。しがみつくと、和唯も腰と背中をさらに抱いてくれた。
「……かずい、……すき」
「酔ってる琉架さんは素直でかわいいね」
「おまえは、よってねぇの……?」
「俺も酔ってる。……大好きだよ、琉架さん……、キスいい?」
「ダメっつったらやめんのかよ……」
「やめない」
「じゃあ……もう、いちいち訊くな……、ンっ」
舌の先の方だけを器用に絡める中途半端なくちづけが逆に気持ちよくて、琉架がまっすぐ立っていられなくなる。外であるのも忘れて、止まらなくなる。
「琉架さん、……ねぇ、もっと?」
「ん……、……きもちい……、やば……たちそ、……」
琉架がそう言って、もう舌を全部入れるのを許してしまおうと思ったとき、
「あれ? ……琉架ちゃん?」
という聞き慣れた声がした。
「──!?」
驚いた琉架が、一瞬で酔いを飛ばし、和唯の胸の辺りを押してドンッと突き飛ばす。今さらどう誤魔化しても無理なのに、琉架は無理やり何事もなかったように振る舞った。
「おじさん、こ、こんばんは……」
「やっぱり琉架ちゃんと和唯くんだった。こんばんは」
コンビニ店主は穏やかな笑顔を浮かべて二人を見つめている。この地での父、もしくは祖父のように思って慕っている店主に、なんというところを見られてしまったのかと、琉架は頬を真っ赤に染めてうぅっと頭を抱えた。わりと濃厚な絡みを、身内のような存在に目撃されることほど恥ずかしいことはない。
「……おじさんどうしたの? 帰り?」
「そうだよ、退勤したからね。琉架ちゃんたちは……飲み会の帰りって感じだねぇ」
「そ、そう。……あー、オレ、酔い覚ましに、ちょっと水でも買ってこよっかなー」
居づらくなった琉架が、適当な言い訳でその場から逃げた。まだ少しふらふらしながら、前方に見えるコンビニに向かっていく。
「……仲良さそうで何よりだよ」
琉架の背を眺めながら店主が言った。偶然目にしてしまった濃厚なものについては、敢えて言及しないでおく。
「おかげさまで」
「聞いたよ、二人で和唯くんの地元に引っ越すんだってね」
「はい、……この街には、琉架さんを知り過ぎている人がたくさんいるので」
ついでに俺の背後も狙われているらしいので、と和唯は心の中だけでそっと付け加えた。
「いつ行くんだい?」
「来月の頭には。今は少しずつ荷造りしてる最中です。俺の荷物は全然ないんですけど、琉架さんの洋服類が多くて難航してます」
「ははっ、そうかい。そういう準備も楽しいものだよねぇ」
新しい生活に向けての明るい準備が進んでいるのならもう何も心配することはないだろうと、店主は和唯を見た。ぼんやりとした街灯の明かりが、和唯を淡く照らしている。
「君が自信を失いかけてたときは、年配者としてどう励ましてやったらいいか迷ったけど、……きちんと自分で乗り越えられたんだね」
病院のロビーでひどく参っていた青年が、今はとても強く逞しく見えた。
「たくさん迷いましたけど、琉架さんが俺のこと好きって言ってくれたから。……騎士にだって、ヒーローにだって、なんにだってなれる気がする」
「それは琉架ちゃんもメロメロだねぇ」
店主と和唯は顔を見合わせて笑った。
「寂しくなるけど、向こうで穏やかに暮らせるといいね」
「はい、また連絡します。なんにもないとこですけど、ぜひ奥さんと旅行がてら遊びに来てください。おいしいものご馳走するので」
「わぁ、それは楽しみだ」
しばらく談笑していると、買い物を終えた琉架が戻ってくるのが見えた。コンビニのレジ袋と水のペットボトルを手にし、やはりまだ怪しい足取りで和唯の元に帰ってくる。
「何買ってきたんですか?」
「スタ牛弁当! この時間に二個残ってるのレア過ぎて思わず買ったわ。夜食にしようぜ、おまえ送別会でほとんど食ってなかっただろ」
屈託なく笑いながら、琉架がコンビニの袋を掲げてみせる。そのまま和唯に近づこうとして、覚束ない足が絡まり、転びそうになった琉架をおっと、と言って和唯が抱きとめた。やさしい時間が流れる。
「琉架ちゃん」
「ん?」
呼ぶと、琉架がこちらを見た。幸せかい? と訊こうとしたが、そんなつまらない問いかけはいらないかと思い直し、店主は別の言葉を選んだ。
「琉架ちゃん、よかったね」
店主にそう言われ少し目を見開いたが、すぐに琉架は愛くるしい笑顔を見せる。
「うん、よかった」
すべてがこのひと言に集約されている気がして、店主は微笑んだ。
「おじさん、ありがとね」
夜の風は少しずつ夏になろうとしている。進む季節も、天高い夜空も、黄色の丸い月も、すべてが尊くいとおしいと琉架は思った。
和唯が隣にいてくれるだけで。
事務所の休憩スペースにあるテーブルには、たくさんの重箱が所狭しと並べられていた。中には和洋中色とりどりの料理が美しく完璧に詰められている。休憩スペースのテーブルだけでは置き切れなかったため、倉庫から折り畳みの簡易テーブルまで引っ張り出してきて、和唯が家で作ってきたたくさんの料理と、取り皿と箸、大量の缶ビールや缶チューハイを置いていた。
「ははっ、すげぇだろ」
缶ビールを片手にすでに酔っている琉架は、テーブルの上の料理を見て驚いている後輩のボーイに、まるで自分の手柄のような得意気な顔をしてみせる。
「どこかで注文したものだと思いました! すごいです! プロ並みじゃないですか」
「プロだよ。味は保証するから、好きなだけいっぱい食えよー」
琉架は後輩の肩をポンッと軽く叩くと、すでに怪しい足取りでふらふらと別の後輩のところへ向かった。
本日の【Vanilla】は、琉架の送別会のために臨時休業となっていた。勝手に辞めるのだから送別会なんていらないと琉架は強く断ったのだが、琉架によくしてもらった後輩たちが絶対に開くと言って聞かなかった。ここに拾われて十年、ボーイとして働き始めて八年、琉架はいつの間にか【Vanilla】在籍歴最長の、後輩たちに慕われる先輩になっていた。
どこかの店で大々的にやることに気が進まなかった琉架が和唯に相談すると、じゃあ俺が皆さんで食べられるもの作って持っていきましょうか? と提案し、【Vanilla】の事務所でささやかなパーティーが開かれることになった。
「うえぇ、辛っ……!」
「あ、それ、オレ専用のかもー」
見るからに辛そうな色のエビチリを食べた後輩が、その異常な辛さに顔をしかめている。いくつか混ざっている辛い料理は、和唯が琉架のために張り切って激辛にしていた。
「琉架さんこれはやりすぎです……」
「琉架さんバカ舌なんじゃねぇの?」
「おい誰だよ、今バカって言ったやつ!?」
バカという単語に鋭く反応し、重箱を囲んでいる後輩たちから琉架が犯人探しをしようとする。琉架はよく笑い、後輩たちも楽しそうにしていた。
その微笑ましい様子を、和唯は味のしない缶ビールにちびちびと口をつけながら、事務所の隅でそっと眺めていた。料理だけ運んですぐ帰るつもりだったのだが、彼氏さんも飲んでいってよと琉架の後輩たちに激しく引き留められ、うまく断れずに結局参加することになってしまった。こういう場でどう振る舞ったらいいのかまるでわからず非常に気まずかったが、泥酔するだろう琉架の帰りの夜道も心配だったし、何より久しぶりに琉架以外の人が自分の作った料理をうれしそうに食べる姿を見るのは、とても貴重で興味深かった。
「琉架さんのとこ、行かないんですか?」
事務所の隅で気まずそうにじっとしている和唯に、ひとりの男が近づいてきた。手には黄色のパッケージのレモンサワーを持っている。
「えっと……?」
「真緒です」
和唯に話しかけたのは、大学生でボーイのバイトをしている真緒だった。アイドルのような愛らしい笑顔で、礼儀正しく名を名乗る。くりくりとした大きな目が特徴的な、線の細い青年だ。
「真緒、さん……。初めまして、汐屋といいます」
突然現れた琉架とはまた違うタイプのキラキラした男に、和唯が動揺した。ここはやはりこういう人が自然と集まるのかと、【Vanilla】のレベルの高さを思い知らされる。
「あなたが犬の人……」
真緒が楽しそうに和唯を見て言った。
「い、犬?」
琉架が拾った犬を大事に世話しているのを知っていた真緒は、いいえこっちの話です、と笑って誤魔化す。
「琉架さんのとこ行かなくていいんですか? こんな隅っこで……せっかくのパーティーなんだから、みんなとわいわい飲んだらいいのに」
「あ、すみません……そうした方がいいのはわかるんですけど」
こんな風に隅でひとりで立っていたら気を遣われるのはわかっていたが、和唯には離れたところに見えるあの楽しげな輪に加わることができない理由があった。
「たくさんの、いろんなケーキのあまい香りが混ざって、ちょっと……その」
琉架の匂いしか知らない和唯は、乱雑に混ざり合う大量のケーキの香りに、ひどい胸やけを起こしそうになっていた。昔琉架が言っていた通り個人によって香りは様々なようで、個々に楽しむ分にはいいのだろうが、集合されるとそれは未知の重たい鈍器のような濃いあまさとなってフォークを襲ってくる。うかつに近寄れない。
「なるほど、盲点でした。僕たちは自分たちの香りがわからないし、いつもは個人で接客するのでこんな風に大勢で集まることも滅多にないですからね。フォークの方にはつらい環境にしちゃいましたね」
そう言う真緒からも、琉架とは違うやさしい香りがした。真緒の控えめなあまさは、不思議と人をほっとさせる力がある。
「琉架さんあっちで酔っぱらってるし、……じゃあ僕が汐屋さんの話し相手になっちゃおうかな。いいですか?」
「あ、はい……すみません、なんか」
浮いている自分に気を遣ってくれた真緒に、和唯が軽く頭を下げる。真緒は近くから二人分のパイプ椅子を持ってきて、和唯にも座るように促した。二人は事務所の隅で並んで座り、それぞれの飲み物に口をつける。
「そういえば今日、店長さんはいないんですか?」
「須磨子さんは新店舗の準備に行ってます。遅い時間には顔出すつもりって言ってましたけど、どうでしょうね。もしかしたらお別れが悲しくて、今日もわざと仕事してるのかも」
須磨子の琉架への溺愛ぶりを目の当たりにしている和唯も、その可能性は否めないと思った。本当に多くの人に愛されている琉架をこの先自分が支えていくのだと思うと、優越感と責任に、和唯は身が引き締まる思いがする。
「……ケーキとフォークのカップルって素敵ですよね」
真緒がレモンサワーを一口飲んで、ふとそう言った。
「!? そうなんですか……?」
和唯がネットから得た膨大な情報の中ではそういう擁護の類いは出てきたことがなかったので、あまりにも穏やかにそう言う真緒を思わずじっと見てしまう。フォークはいつだって加害者で、欲望を抑えられない愚かな生き物に仕立て上げられていた。そんなフォークと付き合うケーキも、物好きの変わり者のように揶揄されていた。攻撃的な情報ばかりを見ていたら、祝福など永遠にされないような気分になった。
「そんなに驚くことですか?」
逆に真緒が聞き返してしまう。
「……少なくとも俺は、一緒にいるべきじゃないって、一度すごく悩みましたから」
一度は本気で身を引こうと思った。それが琉架の幸せだと思い込んだ。
「引け目に感じ過ぎですよ」
「フォーク、怖いって思わないんですか?」
「思いませんよー。僕も前にフォークの方とお付き合いしてたことありますけど、すごく紳士的でやさしかったですよ」
「真緒さんもフォークと……」
「別れちゃったのはケーキとフォークのこと関係なしに、単純に遠距離になっちゃったからで……今思い出しても、いい思い出です」
思い出を大事そうに取り出す真緒を見たら、その思い出に嫌なことなど何もなかったのが窺える。
「やさしいフォークがいるって聞いたら、少し自信が持てます」
まだ時々フォークとしての自分を信用していない和唯が、その事実に救われた。
「僕のことあまいあまいってたくさん求めてくれて、うれしかったなぁ。僕、承認欲求すごいので、ケーキであることは最高の長所なんです。この仕事も自分に合ってると思うし、ケーキにしてくれてありがとうって感じです」
「そう思えるの、素敵ですね」
やはり琉架とは違うタイプの前向きなケーキに、和唯も勇気づけられる。あまいあまいとたくさん求めることを琉架が喜んでくれるといいなと、恋人とのあまいくちづけを思い出した和唯が、缶ビールの飲み口に口唇を寄せて寂しがった。味のしないアルコールよりも、早くあまい琉架にくちづけたい。
「本当は、もっと一緒に働きたかったな」
真緒は、少し離れた場所で楽しそうに談笑している琉架を見つめてそう言った。店に入ってまだ日の浅い真緒は、琉架とはほとんど一緒に働けていない。
「琉架さんには、もう少しこのまま王座に就いていてほしかった」
店のエースなのに新入りにも気さくに声を掛けてくれて、後輩の不安をちゃんと気にかけてくれて、面倒見の良いお人好しな琉架を、真緒はボーイの先輩として素直に尊敬していた。
「……でも、そういうの全部捨てられるほど、あなたに夢中ってことですよね」
真緒がとびきりの笑顔でそんなことを言うので、和唯は思わず目を伏せてしまった。あなたに夢中、はとても刺激の強い言葉だ。
「……恐縮です」
素直に照れる和唯を見て、真緒がまた笑う。
「あーぁ……でも、琉架さんに手を出すなんて、汐屋さんって本当に勇気がありますよね」
「ん? 勇気とは……?」
「だって、琉架さんみたいな有名人と付き合おうとするなんて、庶民がハリウッドスター口説くようなものじゃないですか」
「んん? ハリウッドスター……?」
真緒が何を言っているのか即座には理解できず、和唯は不思議そうな顔をする。
「あれ? 汐屋さんもしかして知らないんですか? こういう風俗、利用したことないんですか?」
「俺は最近フォークを発症したので、こういうお店にも来たことないですし、ケーキやフォークのことにも疎くて」
そう聞いて、真緒があぁなるほど……と静かに納得した。
「……無知は幸せってことですね」
「え、ちょっと、何ですか……教えてくださいよ、怖い……」
真緒は不敵な笑みを浮かべた。少し、おもしろがっている。
「琉架さんは、この界隈では知らない人はいないくらいの超有名なケーキですよ。予約は常に埋まってるし、遠方の固定客も何人もいます。【Vanilla】のエースっていうか、この辺り一帯のケーキの頂点ですね。客のフォークはみんな琉架さんが大好きだし、ボーイのケーキはみんな琉架さんに憧れてます。もちろん、僕も」
「……ケーキの、頂点……?」
和唯は先程から、真緒の言葉を拾ってくり返すので精一杯だった。予約の取れない男とは聞いていたが、まさかそんな規模で有名な人だったとは初耳だ。和唯は何も知らない。
「今回琉架さんが辞めるってなって、もうこっちではちょっとした騒ぎになりましたよ。問い合わせもたくさん来て、みんなで対応に追われました。結局この前の傷害事件があったから辞めることになったって理由にして、須磨子さんがその場は丸く収めてくれたんですけど……琉架さんに心酔してる過激派のお客さんたちは、きっと事件がきっかけで、裏で恋人に辞めろって言われたんだろうって思い込んでて……」
その続きを聞くのが恐ろしくて、和唯はごくりと唾を飲み込む。
「恨みを晴らしたいお客さんたちが、今犯人探しに躍起になってます。……どうか、夜道の背後には気をつけてくださいね」
「!?」
また真緒にキラキラした笑顔で微笑まれ、和唯の血の気がうっすらと引いていく。知らぬ間に犯人扱いされていた事実に震え、もう夜に出歩くのはやめようと和唯は心の中でそっと誓った。世の中、甘くないと知る。
「ふふっ、琉架さんは本当にすごい人なんですよ? あまさがレベチなんですって。……汐屋さんは琉架さんしか知らないの?」
「え? ……えぇ、そうですが」
「比較対象がないからそんなに余裕なんだ……他のケーキ食べたら、琉架さんがどれだけすごい人か、実感できるかも……」
真緒の声色が少し変わった気がして、和唯が驚いて隣の青年を見る。目が合うと、真緒はさっきまでのアイドルのような爽やかな笑顔ではなく、色欲に満ちた瞳で和唯を見ていた。男娼の眼だ。
「……琉架さんがどれだけあまいのか知りたくなったら、こっそり遊びに来てくださいね。僕がお相手します。好きなだけ、食べ比べていいですよ?」
「……っ!?」
そう耳打ちされて和唯が固まっていると、目の前に揺れる影が現れた。よく知るあまい匂いがふわっと鼻をくすぐって、和唯はほっとする。
「こーら、真緒。……近い」
現れた影は、距離の近い和唯と真緒を思いきり引き剥がした。
「琉架さん! もー、琉架さんが彼氏さんこんなとこでほっとくから、暇潰しに営業しちゃいましたよ」
「抜け目ないなぁー、真緒は」
「琉架さんがいなくなったあとのトップの座、狙ってるんです」
真緒はニコニコと、悪びれる様子もない。
「琉架さん来たし、今度は僕があっちで飲んでこよっかな。……じゃあね汐屋さん、またいつでも遊びに来てくださいね」
ひらひらとレモンサワーを持っていない方の手でバイバイをして、真緒は別のグループに加わりに行った。真緒が座っていた和唯の隣のパイプ椅子に、覚束ない足取りの琉架がゆっくりと腰を下ろす。
「あいつ、フォーク見るとすーぐ誘惑すんの」
琉架が困ったように苦笑した。
「清楚系かと思って油断しました……小悪魔でした……」
「入った頃はもっとピュアな感じだったのに、いつの間にか、たくましく育ってた」
「仕事も楽しんでやってる感じでしたし、【Vanilla】の未来は安泰ですね」
和唯の言葉に、琉架が微笑む。続いていく未来に思いを馳せて、琉架はうれしそうに後輩たちを眺めた。
「外の空気がおいしい……」
時計は日付をまたいでいる。無事に送別会が終わり、和唯は泥酔している琉架に肩を貸し、抱きかかえるようにしながら深夜の帰り道をゆっくりと歩いていた。琉架を支えるのに手一杯だったので、空の重箱は後日改めて取りに行くことにした。
深夜の澄んだ空気が、和唯を軽い胸やけからようやく解放する。混ざり合ったたくさんのあまい香りより、たったひとりの馴染んだあまさの方がやはり落ち着くと、和唯は初夏になりかけている夜の風と一緒に、琉架の匂いを大きく吸い込んで味わった。
「今日、楽しかったなー」
和唯のことを後輩たちに紹介できた琉架は、酔いも手伝って終始ご機嫌だった。意外と恋人を見せびらかしたい欲を持っていた琉架に、また新たな一面を知れたと和唯がうれしがる。
「楽しかったですね。琉架さんは飲み過ぎですけど」
「そうかー? まだ全然飲めたけどなー」
和唯にしがみつきながら、琉架がふわふわと答える。
「琉架さん、もう少ししっかり歩けます? 早く帰らないと、夜道危ないんで……俺が」
このままではマンションまで倍以上の時間が掛かりそうだと、千鳥足の琉架を支えながら和唯が夜道に怯えた。
「夜道……? そうだな! 夜道は危ない。……でもさ、和唯がオレのこと守ってくれんだろー?」
呑気な琉架に、和唯が顔をしかめる。
「いや、危ないの、琉架さんじゃなくて俺」
帰路の途中にあるいつものコンビニが進行方向に見えてきて、その煌々とした明かりにほっとしたのか、
「ちょっと、休憩」
と、琉架が和唯から離れて、路地にあるブロック塀にもたれかかった。和唯もついていき、酔ってとろんとしている琉架の前に立つ。和唯は我慢できなくて、そのまま触れるだけのキスをした。
「ん……」
口唇を合わせただけなのに、あまくて頭がクラクラする。
「琉架さん、キスしたい、いい?」
「……してから言ってんじゃねぇよ」
「許可取るの、癖になってるから」
「舌、入れんなよ……」
酔ってはいるが、一応外であるということの理性は働いている琉架が忠告する。言っても聞かないとは思ったが。
「無理です、先っぽだけ……。舌、少し、出して……」
琉架が遠慮がちに出した舌を、和唯が絡め取る。舌先だけを控えめに交わらせると、互いに何に酔っているのかわからなくなった。
「ん……っ」
和唯の手が、琉架の腰を深く抱く。その異様な力強さに、琉架は恋人の妬心を感じた。構ってほしいと、指先から伝わってくる。
「拗ねてんの?」
「琉架さんが、他の男とばっか仲良さそうにしてるから」
「みんなネコだよ?」
「でも嫌です。みんな琉架さんのこと好きだし……俺がいちばん、琉架さんのこと好きなのに……」
あからさまに和唯が口を尖らせる。
「おまえだって真緒と楽しそうにしてた」
「気になってたんですか?」
「……だって、真緒、かわいいし、若いし」
「かわいくて若い子が俺の隣にいるの、嫌だったんだ?」
「だって、和唯は、オレのなのにぃ……」
我慢できなくなって、琉架が和唯の肩に両腕を巻きつける。しがみつくと、和唯も腰と背中をさらに抱いてくれた。
「……かずい、……すき」
「酔ってる琉架さんは素直でかわいいね」
「おまえは、よってねぇの……?」
「俺も酔ってる。……大好きだよ、琉架さん……、キスいい?」
「ダメっつったらやめんのかよ……」
「やめない」
「じゃあ……もう、いちいち訊くな……、ンっ」
舌の先の方だけを器用に絡める中途半端なくちづけが逆に気持ちよくて、琉架がまっすぐ立っていられなくなる。外であるのも忘れて、止まらなくなる。
「琉架さん、……ねぇ、もっと?」
「ん……、……きもちい……、やば……たちそ、……」
琉架がそう言って、もう舌を全部入れるのを許してしまおうと思ったとき、
「あれ? ……琉架ちゃん?」
という聞き慣れた声がした。
「──!?」
驚いた琉架が、一瞬で酔いを飛ばし、和唯の胸の辺りを押してドンッと突き飛ばす。今さらどう誤魔化しても無理なのに、琉架は無理やり何事もなかったように振る舞った。
「おじさん、こ、こんばんは……」
「やっぱり琉架ちゃんと和唯くんだった。こんばんは」
コンビニ店主は穏やかな笑顔を浮かべて二人を見つめている。この地での父、もしくは祖父のように思って慕っている店主に、なんというところを見られてしまったのかと、琉架は頬を真っ赤に染めてうぅっと頭を抱えた。わりと濃厚な絡みを、身内のような存在に目撃されることほど恥ずかしいことはない。
「……おじさんどうしたの? 帰り?」
「そうだよ、退勤したからね。琉架ちゃんたちは……飲み会の帰りって感じだねぇ」
「そ、そう。……あー、オレ、酔い覚ましに、ちょっと水でも買ってこよっかなー」
居づらくなった琉架が、適当な言い訳でその場から逃げた。まだ少しふらふらしながら、前方に見えるコンビニに向かっていく。
「……仲良さそうで何よりだよ」
琉架の背を眺めながら店主が言った。偶然目にしてしまった濃厚なものについては、敢えて言及しないでおく。
「おかげさまで」
「聞いたよ、二人で和唯くんの地元に引っ越すんだってね」
「はい、……この街には、琉架さんを知り過ぎている人がたくさんいるので」
ついでに俺の背後も狙われているらしいので、と和唯は心の中だけでそっと付け加えた。
「いつ行くんだい?」
「来月の頭には。今は少しずつ荷造りしてる最中です。俺の荷物は全然ないんですけど、琉架さんの洋服類が多くて難航してます」
「ははっ、そうかい。そういう準備も楽しいものだよねぇ」
新しい生活に向けての明るい準備が進んでいるのならもう何も心配することはないだろうと、店主は和唯を見た。ぼんやりとした街灯の明かりが、和唯を淡く照らしている。
「君が自信を失いかけてたときは、年配者としてどう励ましてやったらいいか迷ったけど、……きちんと自分で乗り越えられたんだね」
病院のロビーでひどく参っていた青年が、今はとても強く逞しく見えた。
「たくさん迷いましたけど、琉架さんが俺のこと好きって言ってくれたから。……騎士にだって、ヒーローにだって、なんにだってなれる気がする」
「それは琉架ちゃんもメロメロだねぇ」
店主と和唯は顔を見合わせて笑った。
「寂しくなるけど、向こうで穏やかに暮らせるといいね」
「はい、また連絡します。なんにもないとこですけど、ぜひ奥さんと旅行がてら遊びに来てください。おいしいものご馳走するので」
「わぁ、それは楽しみだ」
しばらく談笑していると、買い物を終えた琉架が戻ってくるのが見えた。コンビニのレジ袋と水のペットボトルを手にし、やはりまだ怪しい足取りで和唯の元に帰ってくる。
「何買ってきたんですか?」
「スタ牛弁当! この時間に二個残ってるのレア過ぎて思わず買ったわ。夜食にしようぜ、おまえ送別会でほとんど食ってなかっただろ」
屈託なく笑いながら、琉架がコンビニの袋を掲げてみせる。そのまま和唯に近づこうとして、覚束ない足が絡まり、転びそうになった琉架をおっと、と言って和唯が抱きとめた。やさしい時間が流れる。
「琉架ちゃん」
「ん?」
呼ぶと、琉架がこちらを見た。幸せかい? と訊こうとしたが、そんなつまらない問いかけはいらないかと思い直し、店主は別の言葉を選んだ。
「琉架ちゃん、よかったね」
店主にそう言われ少し目を見開いたが、すぐに琉架は愛くるしい笑顔を見せる。
「うん、よかった」
すべてがこのひと言に集約されている気がして、店主は微笑んだ。
「おじさん、ありがとね」
夜の風は少しずつ夏になろうとしている。進む季節も、天高い夜空も、黄色の丸い月も、すべてが尊くいとおしいと琉架は思った。
和唯が隣にいてくれるだけで。
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