Rain after Five

春夜夢

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夜は深く静かだった。
外の通りはすでに人気がなく、事務所の中にはランプの光だけが灯っている。
柔らかな光が、ふたりの影を壁に落とし――その影は、まるでひとつに重なろうとしているように見えた。

蓮と陽翔はソファに並んで座っていた。
ほんの数日前までは何の意識もなかった距離。
でも今は、触れてもいないのに胸が騒ぐ。
息のひとつひとつさえ、相手の存在を強く感じさせる。

「……今日、静かだね」

陽翔がぽつりと呟いた。
いつもの明るい声じゃない。
夜に溶けていくような、少し低い声。
その声を聞くだけで、蓮の指先が熱を帯びた。

「お前が黙ってるときだけな」

「ふふ……」

陽翔は小さく笑い、ソファの背もたれに体を預けた。
蓮の肩と陽翔の肩がふわりと触れる。
ほんの少しの接触。
でも――ふたりの呼吸が変わるには、それだけで十分だった。

「……蓮さん」

「ん」

「ねえ、もう……“普通”には戻れないね」

蓮は何も言わず、陽翔を見た。
陽翔の瞳はまっすぐで、どこか緊張を孕んでいる。
けれど、その奥に宿っているのは迷いじゃなかった。
“確信”に似た、静かな想いだった。

(……戻る気なんて、とっくにねぇ)

「……そうだな」

蓮の答えに、陽翔の肩がわずかに震えた。
それは恐れではなく、期待と高鳴りの震え。
ふたりの距離が、自然に――ほんの少しだけ近づく。

「……あの夜、手、握ったじゃん」

「ああ」

「……今日、もうちょっとだけ、いい?」

「……“いい”ってなんだよ」

「ん……こういうの」

陽翔はゆっくりと、蓮の手に触れた。
指先がかすかに重なる。
ただそれだけなのに、心臓の音が一気に高鳴った。

「……バカ」

「バカって言いながら、逃げないじゃん」

蓮は何も言わなかった。
ただ、陽翔の指を握り返した。
それは意識しなくても自然に出た動作だった。

指と指が重なる。
静かな夜に、二人の息が混ざり合う。
ほんの少し顔を向ければ、すぐに触れられる距離。

陽翔は、まるで息をするみたいに――自然に、蓮の方を見た。
その目に、もう迷いはなかった。

「……蓮さん」

「……」

「キス、してもいい?」

時間が止まったような気がした。
胸の奥のどこかが、強く鳴った。
夜の静寂の中で、その言葉だけがやけに鮮明に響く。

蓮はわずかに目を伏せ、それから――静かに陽翔の顎を指で持ち上げた。
「……お前から言うなよ、そういうの」
そう呟いた声は、いつもよりもずっと低くて、甘かった。

陽翔が息を呑む。
距離がゆっくりと、音もなく縮まる。
額と額がふわりと触れた瞬間、世界が静かになった。

「……」

「……」

鼻先がかすかに触れ、唇と唇の距離がほんの数センチになる。
お互いの呼吸が触れ合って、胸が焦がされるように熱い。
それだけで、言葉なんていらなかった。

そして――

蓮が、そっと唇を重ねた。

最初のキスは、驚くほど静かだった。
強くも、長くもない。
ただ、優しく触れるだけのキス。
けれど、その一瞬で世界の音が全部遠のいた。

陽翔の指が、蓮のシャツの袖をきゅっと掴む。
息が混ざって、鼓動が重なる。
短いキスなのに、心の奥まで響く。

「……っ」

唇が離れたあと、ふたりは息を合わせるように小さく息を吐いた。
視線がぶつかる。
もう目を逸らす理由なんて、ひとつもなかった。

「……初めてなのに」

「うるさい」

「でも、すごく……あったかい」

陽翔が小さく笑い、蓮も肩で息をしながら目を細めた。
それは言葉にならない感情のまま、そっと胸の奥に落ちていった。

(……ああ、もう完全に、こいつにやられてる)

静かな夜に、初めて交わしたキス。
それは派手じゃない。
でも、ふたりにとっては決定的な夜だった。

🕊️ 第17話 予告:「キスのあと、静かな夜」
初めてのキスを交わしたふたり。
一気に関係が進むわけじゃない。
でも、確実に“恋人”の輪郭がそこにある。
夜の静けさが、やさしくふたりを包む――。
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