happy mistake trip

あこ

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気合を入れ始めた美蕾とエメリーの間の空気は、使用人たちが様相を呈している。
そもそも、美蕾がエメリーに惹かれていくのはある意味仕方がなかった。
“あの調子”のアロイジアも美蕾は仕える相手と同じ、他の使用人は余計にそうだ。
美蕾がこの世界の人間ではないと知っている中で唯一、自分を美蕾として、自分に傅かずに“自分を見てくれる”のはエメリーである。
日本にいた時そのままとは言えなかったとしても、傅かれる事に困惑する美蕾も、なんとか馴染もうとなって空回して落ち込む美蕾も、どんな美蕾でもエメリーは余所見をせずに時に導き時に手を取って受け止めてくれた。
その上エメリーは美蕾にとても紳士的で優しく、そして──美蕾はよく分かっていないが──甘い。
相手は男だぞと言い聞かせ、この世界は自分の世界ではないんだ、いつか帰る事になるのではないか、とか色々とを用意しても、平和な日本で生まれ何も持っていない19歳の美蕾にはどんどんと、そのストッパーに抗えなくなっている。
男のエメリーを“そう言う気持ち”で見ている自分がいる。そう思うたびに美蕾は深く悩み、もすればに考えもした。
──────このエメリーへの想いは、縋れる相手、守ってくれる相手が“エメリーだから”で他の人間だったらその相手になるのではないか。このように同じ気持ちを抱くのではないか。
──────ある種の吊り橋効果によるものではないか。
そう悶々ともする美蕾をよそに、エメリーは変わらず接してきた。


「旦那様も人が悪くございますねぇ」

執務室にいるのはエメリーとベルトホルト。
エメリーに嫌味ったらしく何か物申せるのは、両親を除けはこのベルトホルトと彼の弟くらいだろう。
「最初はかわいそうな異世界人を保護してやろうと言う、そんな純粋な同情であったよ」
表情なく言うエメリーの手は書類を裁き続けている。
「いえいえ、そう言う割には早くから“アラン”と呼ばせておいででしたでしょう?」
ベルトホルトの手も止まらず動く。
「使用人たちに確実な形で、大切な客人と教えたかったからな」
「そう言う事にしておきましょう」
いつも浮かべる“無表情な微笑み”とはまた違う笑みを、ベルトホルトは作った。

この世界で、ミドルネームやそこから生まれる愛称を呼べるのは両親と伴侶だけであると、で決まっている。
ミドルネームとその愛称は魂に結びつくものがあり、それを家族以外の他者に呼ばせると言うのは自分の人生を委ねてもいいと言うそういう意味があるのだ。
ちなみに『魂に結びつくもの』というのはずっとずっと昔にはそう信じられていたと言うだけで、今はそれが迷信である事は広く知られているが、それでも貴族社会はそのように意味を持たせ、これらを特別なものとしてきた。
エメリーは美蕾にミドルネームどころがその愛称の『アラン』と呼ばせている。
確かに特別な大切な客人と認識させるのは十分だろうが、それにしてもこれはだろう。
やりすぎだと言う思いを「そう言う事」と言ったのだと、ベルトホルトの表情から感じ取ったエメリーは

「まあ、愛らしいじゃないか。私を見つけると安心したように表情を綻ばせ、手伝いが出来れば嬉しそうに笑う。絆されない方がおかしいだろう」
「さようで」
楽しそうに聞くベルトホルトにエメリーは
「ああ、肯定しよう。私はいい大人ではないからな。ミライが可愛いと、人を、家族以外をそう思った事がない私がミライを愛らしいと思ったその時決めたんだよ。あの子を絡め取って、愛して愛して、元の世界に帰りたいなんて思わせないようにしよう。と。私はほら、“優秀な公爵”だからね」
「おやおや、まあ。さすが“優秀な公爵”である旦那様。怖いですねえ」
「この感情は本物だよ。こうなってしまうと私は確かに噂の通り男色家だったのかもしれないね。父と母にはもう話してある。許可は出るだろうね」
「この年までであった旦那様が幸せなら、先代様方も両手もろてをあげてお喜びでしょう」
ちょっと狂気じみた発言で美蕾を囲い込むと宣言するエメリーだが、このくらいの言動が出来なければ、王宮で腕を存分に振るい名声を想いのままにというを蹴って領地経営に没頭するなんて出来ないだろう。
発言は怖いがこれも全て、彼が美蕾に心底惹かれ遅すぎる初恋に参ってになっている結果なだ。
もう少し落ち着けば真っ当な大人の恋でなんとか出来るだろう。そうベルトホルトは希望を持っている。
尤も、ベルトホルトの希望通りにならなくても優秀なモートン公爵エメリーアリスターモートンは、“こんな気配”はおくびにも出さないだろうけれど。

お互いの距離が縮まって、また少し時間が経った。
美蕾がこの世界に来てから4ヶ月が過ぎている。

“大人の恋”が『囲い込んでノーと言わせないもの』であるのなら、まさに大人の恋を成就させた“遅い初恋に狂った男”が誕生した。
つい先日、薄いピンクに輝く月──この世界でこれは月ではなく『女神の涙』と言われる“夜空に浮かぶもの”なのだけれども、美蕾からすれば夜に浮かぶ大きなそれは月である──を見て「この世界にもウサギはいるのかな。ここはとても優しい場所だけど、帰りたい気持ちはあるんだよね……」と呟いたのがエメリーの耳に届き、遅い初恋に狂ったこの男、優秀な公爵という名前をかなぐり捨てて情けなくも懇願したのだ。
──────一目惚れをした。帰るなんて言わないでほしい。どうかずっとそばにいてほしい。ミライがいる当たり前を愛おしく感じている私は、君がいなくなったら抜け殻になって、生きる屍にしまう。
三十路目前の男の、それはもう情けない姿の懇願に美蕾は自分の心の中にある気持ちを認め、家主と同居人から恋人という形へ二人の関係は変化を遂げた。
アロイジアは「に捕まってしまいましたね……このアロイジア、もしもミライさまが逃げたい時は全力を持ってお助けします」と言い出して、ますます雇い主に対する扱いを酷くしているけれど、屋敷の人間は「ついに落ち着く所に落ち着いたようだ」とこれと言って大きな変化だなんて思っていないようだった。
エメリーは初恋成就に浮かれているようだが、彼が元々持っている“表情管理”と性格もあるのか、その辺りは決して悟られず、紳士的な年上の恋人の態で美蕾をリードしている。
リードされている美蕾はを今も継続中だけれど、書類をまとめたと見せれば頬や額へキスをされ、食事だとかなんだとかで移動する時はさりげなくエスコートされる。キスとハグに至っては書類云々よりもエメリーが美蕾を可愛いと思うたびにしているようなふしがあるが、美蕾は日本では経験した事がない、自分だって恋人にここまでした事がないぞという、スキンシップと“本物のエスコート”に照れたり恥ずかしがったりと大忙しだ。
その姿がまたいっそうエメリーを原因になるのだけれども、とにかくつまり、バカップルのようなものが出来上がったのである。
しかし、この世界では“この程度”は愛していればでもあるので、誰もが当たり前のように見て過ごす。それがまた美蕾の気持ちを羞恥まみれにするのだろう。
もし二人が政略結婚で婚姻し冷え切った中であればまた話は違っただろうが、二人は思い通じ合った恋人だ。
ならば屋敷の人間がみな、エメリーの“愛情表現”に違和感を感じず──エメリーがこんなに愛情を表現するのかと驚いたり、今までとのあまりの違いに違和感を感じたとしても──当たり前のように二人の事を見るだろう。
日々羞恥と格闘するのは、美蕾一人であった。

「アランさん、お茶の時間にしませんか?」
日々『羞恥心とは』と哲学的に考え始めている美蕾の誘いをエメリーは喜んで受け取る。
「今日は天気がいい。外でしよう。アロイジア、準備をよろしく」
「お任せください」
アロイジアは執務室の扉を開け廊下に消える。
彼女は外にいるメイドに準備をするようにと伝えたのだろう、すぐに部屋に戻ってきた。
アロイジアは二人の関係が恋人となってから、より美蕾にである。なんでも「悪い男がいたいけな少年に昼間から不埒な真似をしないように、私が見張らなければなりません」という事なんだとか。
これに対して「そうか。夜なら問題ないというわけだな」と返したエメリーに想像して沸騰したかのように真っ赤になった美蕾。
それを知ってわざと耳元で「ミライの気持ちが準備を終えるまで、何もしないよ」と吹き込んだ悪い男がエメリーである。
片付けを終えた二人は準備されているというガゼボに向かう。勿論エメリーのエスコートだ。

この世界の基準では“立派な大人”と呼ばれる年齢の美蕾だけれど、生まれ育った環境平和な日本で生まれ育ったからか、下手な貴族より箱入りな雰囲気がムワッと漏れ出している事と、日本人の顔が幼く見せているのか、どうにも子供扱いされているようで夜同じベッドに入ってもエメリーは指一本触れてこない。
それなりに彼女がいて体験なるものもある美蕾は、
(恋人がそばにいて指一本も触れないなんて、鋼鉄の理性?異世界紳士はすごい)
なんて考えている。しかし実際は、年齢以上に幼く見える美蕾に初恋が叶ったいい歳の大人が“若干気後れ”しているだけ。
この気後れした気持ちが吹き飛ぶか、美蕾が誘えば“鋼鉄の理性”はあっという間に崩壊するだろう。
心の準備が終えるまで何もしない、なんて偉そうな言葉はエメリーのヘタレ気味の気持ちを誤魔化す体のいい言い訳である。

ガゼボに到着するとさっと最後の仕上げがなされる。
優秀な侍女アロイジアが菓子の準備と紅茶の支度をパッとやってのけ、エメリーと美蕾に全く気にされる事なく少し後ろに控えた。
この洗練された動きは見ているだけで楽しい。
こういうところを見ると、確かにとても優秀な侍女なんだなとまざまざと感じさせてくれる。
本来の侍女の仕事ではないだろう事だけれど、こうした事までアロイジアがするのは信頼しているベルトホルトの娘というだけではなく、彼女自身への信頼が大きいからだ。
自分の口に入るものを──────特に今は大切な美蕾の口に入るものなら尚更、信頼している彼女に用意してほしいというエメリーの考えを、何も言われていないけれどアロイジアが感じ取っているからである。

ガゼボは実によく手入れされた庭園の中にある。
この庭園だけで入園料が取れると、思わず美蕾がつぶやいたほど見事なものだ。
それをそのまま庭師に伝えると、彼はいっそう庭仕事に力を入れているという。だから日々、この庭は美しく進化し続けていた。
「本当に、庭が綺麗だね。芝生も青々していて、もったいなくて靴で歩けない」
今日も美蕾が素直に言うと、隣に座っているエメリーが少しだけ美蕾に顔を寄せて
「ならば、庭では私が常に抱き上げようか?それなら芝生を踏むのが一人で済む」
なんていけしゃあしゃあと言う。美蕾は「そんなの恥ずかしい!そんな事をするなら、裸足で歩くよ!」とむくれた。
最初は子供扱い過ぎやしないかと思っていた美蕾だが、あまりに自然にこの屋敷の人間がそうしてくるので時々子供っぽさが顔を出す。
「ミライが来るまで、こんなふうに庭でゆっくりしようなんて思いもしなかった。庭師は毎日ここを私のために美しくしていると言うのに、肝心の私はただの景色の一部として視界に入れていた。ミライがこうして美しさを教えてくれた。我が家の庭は実に美しい。庭師には悪い事をしてしまったと、反省しているよ」
エメリーはそう言って優雅に紅茶を飲んで微笑む。とはいえ、その微笑みは「微笑んでる?」くらいな変化にも近いけれど、無表情にも近かったエメリーを知る人間は飛び上がって驚くだろう微笑みであった。
「俺、こんな綺麗な芝生の庭が家にあったら、ロッキングチェアとかおいたり、なにか敷いたりして毎日寝そべるよ。あと、自宅にいながらピクニックも出来るよね」
お茶の時間といえば料理長のクッキーが必ず登場する。美蕾が美味しすぎると褒めに褒めたから料理長は「ミライ様のお好きなものだから、それはもう念入りに」と作って用意してくれる。最近は味はもちろん形も様々増えてきていた。料理長の創意工夫のなせる技だ。
その自慢のクッキーを美蕾は摘みパクりと食べる。
こういう時、エメリーは特に「ふたりだけなのだから」とマナーより楽しさを優先させてくれた。
ちなみに、マナーに関しては恋人になったのを機に、美蕾は今まで以上にしっかりと学び始めている。
「そうか。なら今度は昼はピクニック、そのまま二人で昼寝もしよう」
ほんと?と目を輝かせた美蕾に頬にエメリーはキスを落とす。
そっと美蕾の顔を固定する指の優しさに、美蕾の顔はキスをされているから以上に赤くなった。
この愛おしく触れていると言われているような優しい触れ方に、エメリーからの愛を伝えられている気がして美蕾は嬉しいし恥ずかしかった。
「美蕾は恥ずかしがり屋だな。可愛らしい」
言ってまたキス。
病気になったかと心配されそうなほど赤くなった美蕾に「その真っ赤な顔も可愛い」と言って額にキス。

(今日は顔が赤いまま引かないかも……)

美蕾はエメリーの手から逃げ、両手で顔を覆う。
エメリーはその手の上からもキスをした。
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