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第二章

小如、雑技団で舞う

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(私……まさか出なきゃいけないの? 雑技団の演舞に……!? 嘘でしょ、無理よ………!!)

 小如シャオルーが焦っている間にも、どんどん時間は過ぎていく。

櫻子さくらこ、着替えたか!」

 団長が天幕のすぐ外で怒鳴る声が聞こえた。

「も、もう少し……待ってください!」

「早くしろ!」

 いよいよのっぴきならなくなった。
 小如は衣装をそばにあった作業台の上に広げた。
 上は水色の、胸下までしかない短い上着と白い胸当て。下は膝丈よりやや上の位置までを隠す腰布である。
 櫻霞が着ていた桃色の衣装と、どうやら色違いのもののようだった。

 小如は覚悟を決め、制服のスカートを脱いで、腰布を巻いた。
 次いでセーラー服を脱いで、白い胸当てと上着を着た。
 
 大きさは問題なく、ぴったりと小如の身体に吸い付くようになじんだ。
 だが鏡の前に立ってその姿を確認した小如は、思わず眼を覆ってしまった。

(は、恥ずかしい……)

 舞台の上で櫻霞を見ていたときは、かわいい衣装くらいにしか思っていなかったが、いざ自分が着るとなると、小如には刺激が強すぎるものだった。
 
 上着は申し訳程度に肩と脇を隠しているだけで、白い胸当てがかろうじて胸全体を覆っているものの、その下の腹やへそ、腰にかけての線は丸出しである。
 下の腰布も前後は膝近くまで覆っているが、横が切れ込んでいるため、ほぼ太ももの付け根まで見えてしまっていた。

(こんな格好で人前に出るなんて……)

 小如は自分の頬が紅潮するのがわかった。
 だが恥ずかしがっている場合ではない。
 団長がふたたび怒鳴り込んでくる前に、小如は天幕を出なくてはならないのだ。

 小如は急いで天幕の外に出た。
 天幕の外では、団長がいらいらと足踏みをしていた。

「着替えました……」

 小如は胸と腹を両腕で隠すようにしながら、もじもじと内股ぎみに団長に歩み寄った。

「小道具はどうした?」
「こ、小道具?」
「何をやってる、演舞のはじめは手回し棒バトンだろう! 取ってこい!」
「は、はい!」

 そう言われて小如は天幕の中に戻り、たくさんある小道具箱のひとつに駆け寄ると、中から手回し棒バトンを取った。

(あれ……?)

 その時小如は、妙だと思った。
 なぜ自分は手回し棒のある場所がわかったのだろう?
 演舞をしたことはおろか、一度もこの天幕に来たことすらないのに。

 だが考えているひまはなかった。
 小如は急いで天幕の外に駆け戻り、団長と一緒に駆け足で舞台へと急いだ。
 舞台とは、昨日櫻霞が演技をしてみせた、孔子廟の前庭広場である。

 舞台へと到着した小如は、全身から血の気がさっと引くのを感じた。
 前庭広場には、朝十時からの演舞にも関わらず、すでに大勢の人が押し寄せていた。みな、「櫻子」の演舞の開始を待っていたのである。

(嘘……無理、無理よ! できない!)

 小如は、本番のはじまる前に、軽い稽古や打ち合わせがあるのだろうと勝手に思っていた。
 そしてその時に身体の不調を訴えるなどして、どうにか辞退しようと考えていた。
 だがこの雑技団は、何度も同じ演目をやり慣れているからだろうか、いきなり本番をはじめようというのだ。

 小如は、演舞への期待に満ちた観客の雰囲気に飲まれ。思わず数歩、後退あとじさった。
 だが次に団長から発された声が、小如を引くに引けなくさせてしまった。

「えー、たいへん長らくお待たせしました! 今日はいきなり本日の大一番! はるばる内地からやってきた、わが雑技団の可憐なる舞姫、櫻子さくらこの登場です!」

 団長が観客に向けて小如を紹介し、"早く行け"と小声でささやきながら小如の背中を押した。
 小如は舞台の端につんのめるようにして出た。
 その途端、観客の間から一斉に拍手が湧き起こった。

 小如は、まるで悪夢を見ているようだと思った。

 つい昨日のこの時間は、「劉小如リウシャオルー」という名の少女として、美南から打狗まで行く汽車に乗り、車窓から流れる田園風景を楽しんでいたというのに。
 いったいどう運命の歯車が狂ったら、別人に変身して「櫻子さくらこ」という名の雑技団の踊り子になり、できもしない演舞の舞台に放り出される運命になるのだろうか。

 その小如の感傷を引き裂くかのように、雑技団の音楽係が鳴らす、太鼓の音が響いた。
 無情にもその音は観客の気分をいっそう高め、小如に向かって口々に声援を送らせたり、あるいは口笛を吹かせたりする助けとなった。
 
 小如はその盛り上がりに完全に呑まれてしまっていた。
 愛想笑いひとつできず、舞台の隅で手回し棒を抱えてまごまごしており、いっこうに演舞をはじめようとしない。

 脇で控えている雑技団のほかの面々が、"櫻子さくらこ"の様子が変なことに気づき始めた。
 太鼓係も、太鼓を懸命に打ち鳴らしながら、一体どうした? という顔で小如を見ている。

(ど、どうしよう……どうしよう!)

 小如はもう、何もかも振り切って、この場から逃げ出してしまいたくなった。
 逃げ道を確認しようと、恐る恐る後ろを振り返る。
 しかし、そこには鬼のような形相をした団長が、動き出そうとしない"櫻子"を睨みつけていた。
 団長は、小如と目が合うなり、早く行け、という口真似をして、舞台を何度も指差してきた。

(逃げられない……!)

 小如は絶望感に打ちひしがれた。
 やがて観客も、"櫻子"の様子がおかしいことに気づき、ざわめきはじめた。
 そうまでなっても、小如は何もすることができず、ただ舞台上にいるだけである。

「おーい、早くはじめろ!」

 観客の間から一発のやじが飛んだ。
 それを皮切りに、堰を切ったように客達はやじを飛ばしはじめた。

「何やってんのよ!」

「やらないなら金返せー!」

 経営熱心な団長は、"金返せ"という言葉を聞いた途端、それにするどく反応した。

「えー、皆様、お待ちください、お待ちください! いま、可憐なる舞姫『櫻子』は、"気"を溜めているところです! 間もなく演技を披露するところですから、今しばらくお待ちください!」

 観客席は、どっと笑った。団長のとっさの機転で、場がほんの一瞬、持ち直した。
 団長はほとんど噛みつかんばかりの勢いで、小如のそばに駆け寄るなりまくし立てた。

「何やってる! 早く出んか! 早く!」

 しかし小如は恥ずかしさと情けなさで顔を上げられなくなり、うつむいてしまっている。

「無理です……ごめんなさい、団長さん、私……」

 そう一言、絞り出すのがやっとだった。
 団長はそれを聞くなり、愕然として肩を落とした。

「櫻子、お前……! 一体どうしてくれるんだよぉ……!!」

 観客席の雰囲気はしだいに険悪になりつつあった。
 ところどころから、「金返せ」「帰れ」という怒りに満ちた声が聞こえてきた。
 席を立って去っていく客までいる始末だった。

(もうダメ……逃げよう)

 小如は決心した。
 もはや、これ以上の緊張と恥辱にさらされることに、小如の精神が耐えられなかった。
 団長を押し乗けてでも立ち去ろうと、後ろを振り返ったその時ーー

 視界の隅で、何か黒いものが空中を舞うのが一瞬、見えた。
 それは一瞬のうちに、小如のほうへと向かって飛んできた。
 
 刹那、小如に異変が起こった。
 彼女の眼は、意外なほどすばやくその物体を捉えて、脳に形を認識させた。 

(ラムネ!?)

 それはラムネの空き瓶であった。やじを飛ばした観客のひとりが小如に向かって投げたのだ。
 そして投げられた瞬間も、小如の眼は捉えていた。

 彼女は、ほとんど反射的に動いた。
 ラムネの瓶を避けようととっさに身をよじったつもりだったが、身体は思わぬ方向へと動いた。
 いや、正確には、のである。

 小如の片足が地を蹴った。なんと小如は、飛んでくるラムネの瓶に向かって駆け出したのである。
 二歩ほど助走し、身をよじりながら左足を踏み込んで、伸ばし、空中におどり上がった。
 上半身と腰がねじれ、空中で螺旋らせんの軌道を描くように、小如の身体全体が、空中できりもみ回転した。
 天地がひっくり返り、観客席がぐるん、と半回転して視界の上端へと舞い上がる。

(えっ!?)

 逆さまに空を舞いながら、小如は自分自身の動作に驚いていた。
 ラムネの瓶はまさに、飛び上がった小如に当たろうとしているところだった。
 
 小如の手が瞬時に伸び、空中でラムネの瓶をつかんだ。
 その刹那、観客席は、わっ、と叫んだ。
 瓶の、固い感触が小気味よく手に響き渡るのを感じながら、小如は手を側方へとねじって、団長に向かってラムネの瓶を回し投げた。

 瓶が、団長へと向かって空中を山なりに舞っている間、小如は着地し、さらに背中をのけ反らせてもう一度後方へと飛んだ。
 両手を地面につき、後方倒立回転バクテンをした後、さらにもう一度後方へと飛び上がって、目の醒めるような後方宙返りバクチュウを決めたのである。

 団長がラムネの瓶を受け取るのと、小如が宙返りを終えるのとが同時だった。
 小如は両足を揃えて着地した後、両腕を斜め上に伸ばして屹立した。
 そしてつい昨日、宋櫻霞ソンインシアがしてみせたような、愛らしい笑顔を客席へと振りまいた。
 
 観客席は、目の前で起こった事態に圧倒されたように、しんと押し黙っていた。
 だがすぐにそれは、広場を包み込む歓声へと変わった。
 遅れて、盛大な拍手が広場いっぱいに鳴り響いた。

「すげぇ!」

「お姉ちゃん、かっこいい!」

 観客席の一番前で様子を見守っていた子供たちが叫ぶのが聞こえた。
 一転、舞台の中央へと華麗におどり出た小如は、いっぱいの愛想を振りまきながら、頬を引きつらせていた。

(な、何が起こったの……!?)

 ラムネの瓶が自分に当たると思った瞬間、身体が勝手に動いた。
 そして着地後も、ほとんど自動的に笑顔が作られたのである。
 まるで、何十年と修行して身体に染み付いた条件反射の動作のように。

 しかし、驚いている暇はなかった。
 小如が舞台中央に出たのを合図に、太鼓のリズムが急に変わった。
 それが演舞のはじまりであった。

 そして小如はその音を聞いた途端、ふたたび舞台の地面を蹴った。
 手回し棒を空中へと高く放り投げ、その着地点を追って駆け出した。
 太鼓の音を引き金トリガーに、ほとんど反射的に身体が動き出したのである。
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