楽園崩壊症候群

戦場鮮青

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天使と寄生虫

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■東方蜂巣及び、言詞に関する報告書■ 

 東方蜂巣。その教会の支配者、女王。彼女ら、あるいは彼らは──信徒たちの言詞配列に忠誠心を埋め込むことで、教会に秩序をもたらす。
 しかし、女王の支配も永遠には続かない。老いた女王の言詞は劣化し、やがて汚染される。そうして、しばしば倒錯的な行動が目立つようになるのだ。何より問題なのは、縺昴?逕滓ョ匁ゥ溯?縺悟、ア繧上l繧九%縺ィである。
 だが女王に忠誠を誓う信徒たちは、言詞汚染に侵された女王の暴走を止めることはできない──故に、教会倫理員が存在する。
 何にも染まらぬ、黒衣を纏う者──教会倫理員は、教会内部において、唯一独立を保つ機関である。彼女たちの使命は、女王の行動を監視し、その行動に倫理違反があれば、然るべき処置を与えること。
 それから何より、女王の継承者を育成することである。
 蛟ォ逅?藤縺ッ螟夜Κ縺九i隱俶巨縺励※縺阪◆蟄蝉セ帙?荳ュ縺九i縲∝・ウ邇九?雉?ウェ繧呈戟縺、繧ゅ?繧帝∈蛻・縺吶kのだ。
 そして女王の品格が失われたと倫理委員が裁定したとき。彼女らは継承者の《即位宣言》を通達する。
 
 女王に選択を迫るのだ。
 潔く王台を譲り渡すか──継承者を殺すまで、抵抗するか。




   ★




 子守歌が聴こえた。私の知らない言語──だが、どこか懐かしい響きであった。
 瞼の向こうから光が漏れてくる。凍てつく冬の満州の大気の中、温かい肌が私の頬を撫でていた。遠い昔……きっと。生まれるより前に夢見た、母を思い出すような温度だった。
 微睡む瞼を持ち上げる。白髪の少女が──丹哭が、私を覗き込んでいた。彼女が私の額に、唇をつける。そのような期待には応えられない、と私は乾いた喉で言った。
「信徒と関係を持つことは禁じられている、から? 本当、真面目だよね」
「有楽に嫉妬されるから」
「そんなこと言って。霧島くん、この前ちょっと可愛い系の兵卒を連れ込んでたよね」
「……頼むから。兄上には絶対に言わないでくれ」
 くすくす、と彼女は肩を震わせる。鈴のような笑い声が、私の耳で踊っていた。
「女の子との浪漫には、興味ない?」
「……女性の身体は脆い。すぐに死んでしまいそうで、見ていられない」
「私の身体は、霧島くんより全然強いと思うけど?」
 そう言って、もう一度口づけをしようとする彼女を止める。
「勘違いだよ、霧島くん」彼女は悪戯っぽく笑った。「私のこと、何歳だと思ってるの? 君みたいなお子様と私じゃ、不釣り合いでしょ」
「別に、勘違いなど──」
 私の言葉を遮って、丹哭は結局また私の額に接吻をした。
「君を見ていると、倅のことを思い出すんだ。だからこの接吻は、親子愛、みたいな?」
 丹哭に倅がいたとは。私は驚いて、つい上体を起こした。
「いつかもしも──本当にもしも。どこかで逢うことがあれば、仲良くしてあげてね」
 目を弓なりにして微笑む彼女を見て、思う。この人を守らなければ──と。
 母という存在が失われることなどあってはならない。私は二度と同じ過ちを繰り返しはしない。そう誓った……誓った。そのはずだった、のに。

 は、と目を覚ます。寝台の上。私の隣で、白髪の青年が──ツバキが眠っていた。
上体を起こして、あたりを見渡す。天井から釣り下がるいくつもの天球儀。そこかしこに備えつけられた歯車が、蒸気とともに廻っている。至るところに無骨な足場が組まれ、この寝台は部屋の中二階に据えられていた。
 窓の外を見る。砕かれた金剛石のような雪が、赤光に縁どられた雲の下をきらきらと舞っていた。陽の方角からして、今は夕方だろう。
──ぼんやりする額に手を当てて、記憶を整理する。
 女王継承者・蜜留と、彼の従者──倫理員の詞綺(しき)は、ツバキに協力を仰いだ。即位宣言をしても尚、王台を退かぬ喑李を打倒するために。
 その代わり私たちは彼女らから安全な部屋を与えられ、休息をとることになったのだ。そうして、眠っていた。半日の間、ずっと。
「あ、起きてる。元気出た?」
 蜜留の声。彼はじゃれるように、背後から私に抱き着いてくる。
「はい。助かりました。しかし彼は……」
 隣に視線を落とす。ツバキは目覚める気配もなく、ただ静かに白い胸を上下させていた。
「大丈夫だよ。その怪物、不死身だから」
──不死身。その話は、本当だったのか。だが、一体どういうことなのか。
「……彼は何者ですか」
「言詞生命だよ」
 言詞生命? と私が聞き返すと、蜜留は手を影絵で蝶を映すときの形にした。その手が言詞光に包まれる。彼の手の内側から、蝶が──本物と見紛う蝶が、飛び立った。
「言詞演算によってつくられた生命。僕らはそれを、言詞生命と呼ぶ」彼は説明を続ける。「まあ。普通は昆虫とか植物みたいな、単純な言詞配列の生物しか創り出せないけどね。でも喑李様が言うには──言詞汚染に侵された椿の種子が、人の形に変わったんだって。しかも、雑草みたいに切っても切っても復活する不死身の体ってわけ」
「……それで。花の怪物、というわけか」
 俄かには信じがたいが。実際に、一度炎に焼かれた彼が、花の中から復活するのを見たのだ。確かに彼は、不死身なのであろう。
 それにしても、と蜜留は小首を傾げた。
「どうして怪物くんは、喑李様と対立しているんだろう。ほんの少し前までは、みんなが嫉妬するくらいに仲良しだったのに」
「仲良し……ですか」
「うん。王台でふたり一緒に暮らしてたというか。怪物くんの世話を、喑李様がしていたというか……」
「黙せよ。人のことを勝手にペラペラ喋るな」
 ツバキが寝転んだまま、赤い瞳をこちらに向けていた。「うわ。起きてる」と蜜留が私の背の影に隠れる。
「俺が喑李と対立しているわけなら教えてあげる。それは俺が言詞炉を壊すつもりだからだよ」
 え? と蜜留が驚いた声をあげ、なぜか私の肩を強く叩く。じんと痛みが広がった。
「お前たちにしてみれば、俺は神の言葉を葬る背信の怪物だ。それでもお前は、俺に協力を仰ぐつもりか? それとも──」ツバキは上体を起こし、顎を上げて不適に笑む。「俺を止めてみせるか?」
「いや……でも、なんで?」蜜留が戸惑う。「そんなことをしたら、君だって……」
「言詞炉を壊したいなら、それもいいだろう」
 少し離れたところから、声がした。黒い着物の──倫理委員であり、蜜留の従者を務める女性。詞綺が、こちらに近づいてくる。彼女は話を続ける。
「あの言詞炉は汚染されている。いずれにせよ、もう壊す以外の道はないだろう」
 しかし、と私は話に割って入る。
「言詞炉を壊しては……東方蜂巣の信仰に関わるではありませんか」
「君が憂うことは──」詞綺が穏やかな笑みをこちらに向ける。「我々の信仰ではなく、言詞演算が扱えなくなり、軍が不利益を被ることだろう?」
 うん、とツバキが私の代わりに返事をする。彼は「湊に信仰など分かるものか。こいつは軍と兄のことしか考えていないぞ」などと、余計なことを言った。
「とにかく。心配はいらないよ」詞綺が蜜留に視線を送りながら言う。「すでに新しい言詞炉は芽生えはじめている。汚染された炉は廃棄して、新たな炉を使えばいい」
「新しい炉がある? そんな話は聞いていない」
 ツバキは、立てた膝の上で頬杖をついた。
「新たな言詞炉の存在は倫理委員と蜜留様しか知らない。喑李様にも伏せられている」
 なぜ? とツバキは詞綺に尋ねる。
「炉を変えれば汚染は治まるが、言詞転換が起こる。信心深い女王が、そんなことを認めるわけがないからな」
 言詞転換──言詞の根本が覆され、その在りようが変わること。信徒たちにとってそれは、神を喪うことに等しい……兄上の報告書で、そう読んだことがある。
 なるほど、とツバキが意地の悪い笑みを浮かべる。「仮にも倫理員が言詞転換を認めるとはね。この教会の信仰も地に落ちたものだ」
「でも……」蜜留が感情を押し殺した声で言う。「たとえ言詞転換が起こったとしても。このまま汚染された炉を使い続けて、無辜の信徒たちの命を何度も奪うよりも……ずっといい。僕は女王継承者として、そう思ってる」
 言詞炉の廃棄、言詞転換──きっと私は信徒たちの葛藤を、本当の意味で理解することはできない。
 だが、これは軍にとって都合のいい話だ。汚染された炉を壊し、新しい炉を稼働させれば、消失病は治まる。言詞演算の力も失わずに済む。すべては元通りだ。
「どうだ、ツバキ」詞綺がツバキに視線をやる。「君は今の炉を壊してもいい。その代わり私たちは、新しい炉を擁立する。異論はあるかい?」
「……別にいいよ」ツバキは答えた。「俺が壊したいのは、あの汚染された言詞炉だけだ。新しい炉まで壊すつもりはない」
 しばらく、沈黙の間。それから「よっしゃー」と蜜留が両腕をあげた。
「それじゃ。僕らは対立しないで済むね。円満な協力関係ってやつだよ!」
 うるさい、とツバキが溜息を吐いた。どうやらこのふたりは、馬が合わないらしい。怒った蜜留がツバキの髪を引っ張った。子供のじゃれ合いのような、ふたりの喧嘩を横目に──私は考える。
 ツバキや蜜留が目的を果たせば、自ずと消失病は解決するだろう。
 だが、私にはまだやることがある。王台に落ちた有楽を迎えに行く──そのために私は、彼らに付いて行かねばならなかった。

   ★

 天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ……

 夜になって、私たちは詞綺が用意した食卓を囲んだ。何か独特な肉の香りのする鍋を前に、彼女は祈りの言葉を捧げている。
 東方蜂巣が基督教を源流とする宗教結社であることは知っていたが、実際に基督教らしいことをしている信徒を見るのは、初めてであった。
「詞綺はね、古い人だからお祈りをするんだよ」と、蜜留が言う。
「いけませんね、蜜留様。神様に感謝を捧げるほど、食事は美味しくなるものです」 
 詞綺がそれぞれの椀に、鍋を取り分けていく。
「はいはい。面倒くさいこだわりだよね」
「こだわりがあれば楽しく生きられます。神に与えられた命は、精一杯使わなければ」
 私の前に、器が差し出される。中の肉は鹿にも見えるが──この匂いはなんだろうか。戸惑う私を見て、詞綺が「それはエタシペの肉だよ」と言った。
「呑野島近海を荒らす獣だ。招かれざる客だが、食べてしまえば美味いものだよ」
「ね、霧島くん。あーんしてよ、あーん」
 私の右隣に座る蜜留が、ずいと顔を寄せてくる。彼は己の口を指さしていた。
「やめてやれ。その男は利き腕がないのだ」私の左隣で、ツバキが言う。「あーん、なら俺がしてやる」彼は箸で摘まんだエタシペの肉を、わざと蜜留の頬にぶつけた。
 蜜留が怒って、ツバキへと身を乗り出す。どうやら私は、情け容赦ない言葉で罵り合うふたりに挟まれながら、落ち着かぬ食事をするしかないらしい。
「このような愚鈍が、真に女王の後を継げるのか?」ツバキが蜜留を指さす。彼の頬の、エタシペの肉が当たったところが、微かに赤く腫れていた。
「継げる継げないの問題ではないよ」詞綺が箸を置いて言う。「これ以上、喑李という獣に王台を任すわけにはいかない。一刻も早く、彼の圧政から信徒を解放しなければ」
「獣ねえ」ツバキが蔑むように目を細めた。「俺は倫理委員が正義だとも思えないよ」
「ツバキ……君は、喑李様のことを愛してる?」
 不意に。蜜留が静かな瞳で言った。
「……大嫌いだよ」
「僕は愛してるよ」
 ツバキは沈黙のまま、蜜留を見据えている。
「僕は喑李様を愛してる。それでも教会の未来の為に、喑李様の居場所を奪うんだ。本当は……喑李様を傷つけるようなことは、したくないよ」
 蜜留が俯く。膝の上で握られた、小さな手が震えていた。
「だから僕はお前が憎い。女王様に愛されていたのに、その愛を拒絶したお前が……」
 蜜留は唇を噛む。それ以上の言葉は続かなかった。ツバキは何も言わずに、蜜留の頬の火傷に手をかざした。傷は言詞光に包まれ、やがて消えていく。
 それから彼は不機嫌そうな顔で、鍋を食べはじめる。けれども、食べ物の好き嫌いには潔癖らしい。彼はエタシペの肉に、最後まで手をつけなかった。

 夕食を終えて。ツバキは再び眠りについた。
 彼の快復を待って、夜明け前にはここを発つ。それまで、少し時間があった。
 女王指令の鐘が鳴る。蜜留は詞綺を連れて別室へと姿を消した。本来、女王継承者と倫理委員が女王指令に従う義務はない。しかし蜜留は自らの意思で、女王に忠誠を誓っているという。
 ひとり残された私は、なんとはなしに部屋の中を彷徨っていた。出発までに体力は残しておきたいが、無防備に眠る気分にもなれない。
 硝子窓に備え付けられた足場を上る。そのいちばん高い場所に立って、外を見下ろした。
 粉雪の中、月光に浮かび上がる巨大な花──王台。そこだけ雪が降り積もることなく、凛と佇んでいる。蜜留と詞綺は、女王を王台から引きずり下ろすため。ツバキは言詞炉を破壊するため。あの場所を目指すのだ。
──分かっている。言詞の力も扱えぬ、それどころか利き腕すら失った、私のような者が彼らに付いていっては足手まといだ。その上ツバキは、私が危機に晒されれば守ろうとする奇妙な人情を持ち合わせている。私は必ず、彼の邪魔になるだろう。
 だが私は彼らの足に縋りついてでも、付いていかねばならない……王台に落ちた有楽をこの目で見届けるまでは。
 女王・喑李は私と部下を皆殺しにするつもりだったのだ。その継承者である蜜留や倫理委員の詞綺が有楽を無事に帰してくれるとは限らない。彼女らの上面を、信頼してはならない。東方蜂巣に、人の常識は通用しないのだから。
 私は有楽を必ず連れて帰る。たとえどんな姿になっていようとも。黒溝台で遺骨ひとつ連れて帰れなかった戦友たち……彼に、あのような悲しみを背負わせたくない。
──気配。私は、背後より何者かが忍び寄るのを感じた。
 左手で鯉口を切る。そして、足音の主に背を向けたまま尋ねる。
「貴方も私を殺すつもりですか」
「僕は誰のことも殺さない」
 気配の正体──蜜留は、私の背に手をまわした。柔らかい頬の感覚を背骨に感じる。
「喑李は、初めから私と部下を生きて帰さぬつもりでした。直に女王になる貴方も、同じことを望んでいるのでは?」
「僕は違う……喑李様のようにはならない」
「ではなぜ、喑李は私どもの命を狙ったのですか」
 分からない、と蜜留は言う。彼の声は、悲しかった。
「喑李様は変わられてしまった。今のあの人は、気に入らないものをみんな殺してしまう」
 華奢な指先が、私の心臓のあたりを撫でる。軍服の釦の隙間に侵入して。
「人の言詞は、いつかみんな汚れていく」彼の息を耳元に感じる。「伽音だってそう。女王様が信頼を寄せていた内役部の隊長が、君のために教会を裏切ったんだから」
「しかし彼女は私の味方でもありません。彼女は私を憎悪し私の仲間を殺めました」
「うん……彼女はね、君のせいでおかしくなっちゃったみたい」
 私の胸で踊る指。誘惑の温度。私は彼の手に、自らの手を重ねる。
「……その後。彼女はどうなりましたか」
「今頃、粛清を受けているだろうね。喑李様は、裏切りを決して赦さない」
 彼の囁く声が。甘い指先が──私の喉を熱くする。自制を壊そうとする。
「ねえ、霧島くん。君はどうやって伽音のことをおかしくしたの。僕にも教えて……」
「君、歳はいくつ?」
 私は、彼の髪の先を弄びながら尋ねる。
「今年で、十三歳になるんだ」
 十三……十三? 私は弾かれたように、彼の髪から手を離した。密着してくる彼を徐に突き放して、非難の視線を送る。大人と子供が、こんなことをしてはいけないと。
「なに? 僕、もう子供じゃないんですけど」
 彼は頬を膨らませて言うが、どう考えても子供であった。稚児やら、少年やら。男児を好む男がしばしばいるのは知っているが、私はそうではない。
 私は──まだ何も知らぬ子どもを汚すようなことは、絶対にしたくない。
「僕、もう精通したんだよ? だから女王になれる。大人なんだよ」
「……気になっていたことがある」この空気をどうにかしようと、私は話題を変える。「君も喑李も男性だ。何故、女王を名乗る?」
 蜜留が首を傾げて、言葉に詰まる。彼は女王が男であることの異質ささえも、知らないのかもしれない。
「女の王と書いて女王。しかし貴方と喑李は男性だ。なぜ?」
「まあ、そうだけど」蜜留は唇に指を当て、考える仕草をする。「信徒は女の人しかいないでしょ? だったらその番になる王は男じゃないと」
「……信徒は女の人しかいない?」
「うん」
 そんなはずはない。丹哭には、倅がいたのだ。
「しかし、男性も生まれるだろう」
「知らないの? 東方蜂巣に生まれついた男は、女王様の手で神さまに捧げられるんだよ」
 私は、舌の奥が震えるのを必死に抑えながら問う。
「……殺される、ということか」
「いけないよ、霧島くん」蜜留が慌てたように、私の唇に人差し指を突き出す。「神様に命を捧げることをそんな風に言うのは、教会倫理に反する。詞綺に聞かれたら大変」
「しかし丹哭には──私の戦友の信徒は、倅がいると……」
「彼女の子も神様に捧げられたはず。この教会にいる男の人は、女王と後継者だけだもん」
──感情が追いつかない。だが……理解はできてしまう。
 この教会にいる男性は女王だけ。信徒たちの番になるのは彼ひとり。信徒たちの父になるのも彼ひとり。彼はその地位を絶対的なものにするため、己以外の男を教会から排除する。そうやって、教会の秩序を守るのだ。
──殺すというのか。まだ何も知らぬ赤子を。そんな身勝手な理由で。
 信徒たちは、こんな非道を受け入れているというのか。
 丹哭が私を倅に重ねたとき、彼女はどんな感情だったのであろう。きっと彼女は苦しかったはずだ。亡き子を忘れられなかったはずだ。我が子との未来が欲しかったはずだ。そうでなければ、私に倅の面影を見るはずもない。
「……大丈夫? 顔色、悪いよ」
 蜜留が困ったように、私の顔を覗き込んだ。彼は心配そうに私の頬を撫でる。その幼い手首に、血の滲んだ包帯が巻かれているのを見た。それは伽音にもあった傷だ。今なら分かる。それが女王指令によって、負った傷であると。
 そうだ──信徒たちはいつも。女王の為に、傷つくことを求められている。
 このような残酷な場所が。本当に、信徒たちの楽園であるというのか……
 私は衝動的に、蜜留のことを抱きしめていた。さっきまでの倒錯した気持ちは、どこにもない。ただ、心の底から彼を守りたかった。
──分かっている。彼にとってはこの狂気が信仰であり、私の想いなど偽善にすぎないと。
 それでも……受け入れがたいことはある。
 蜜留はこれから女王になる。そして彼よりも幼い子を──自らの血を引く子を何度も殺害することになるだろう。彼自身もまだ子供であるというのに。何も知らされずにその身を汚され、幼子の死を悼む心を殺され、正しささえも分からぬまま永い時を生きていく。
 本当に。このような信仰を守れば、神に愛されるというのか。
 その愛に、どれほどの意味があるというのか……
 ふと。私は遠い天井のあたりで、何かが光るのを見た。青い光──殺気。鋭い言詞光の束が、矢の如く駆けてくる。私は咄嗟に蜜留を押し倒し、彼を庇った。
 硝子の割れるような音。私たちの目の前に降り立った詞綺が言詞壁を展開していた。だが攻撃を弾くと同時に、壁は砕け散った。
「詞綺の言詞壁を……一撃で」蜜留が瞳を震わせた。
 床を叩く靴の音が迫る。規則正しく進む白い衣。私たちは親衛隊に囲まれていた。
「申し訳ございません」詞綺が背の槍を抜く。「部屋の周囲に張り巡らせていた言詞壁を突破されたようです」
「でも。そんなの、簡単にできることじゃ……」
「できちゃうんだぜ。だってあたし、天才だから」
 蜜留の言葉を遮る声があった。頭上を見上げる。釣り下げられた天球儀の間に、ひとりの少女が浮かんでいた。ひとつに束ねた金糸の髪。手に弓を携え、背に生えた言詞光の翅を羽ばたかせている。
「詠琉(よる)……」と蜜留が唇を噛んだ。彼は袖の中から赤い錠剤を──言詞安定剤を取り出して、私の手に握らせた。「飲んで。彼女は──純粋な演算能力だけでいえば、卯那よりも強い」
 彼女とは己が戦うだけでも手一杯。だから自分の命は自分で守れ。蜜留はそう言いたいのであろう。それは分かっている──だが。前に安定剤を飲んでから、まだ一日経っていない。今これを摂取すれば、逆に言詞配汚染に侵される可能性がある。
 思い出す。安定剤の過剰摂取で発狂し、雪嵐の中で笑い、哭いていた、心を壊し、やがて死んだ兵隊の姿を。逡巡する。今の己の言詞配列は、この薬に耐えうるか。
「死んでもらうぜ」金髪の少女が弓を引き絞る。「喑李様に仇なす蛮族どもよ──」
 刹那。鉄が肉を衝くような、鈍い音が鳴った。少女の心臓に、巨大な花が咲いている。掠れた喘ぎ声と共に、彼女の口から血が溢れた。その翅は光の粒子となって消えていく。
 浮力を失った彼女の体が地に叩きつけられる。飛散する赤黒い液体。潰れた石榴の果実が如く、少女は死んでいた。
 その胸に咲いた赤い花を──椿を見れば、彼女を殺した者の正体は明らかであった。
「静かにせよ。俺が寝ているというのに」
 新しく降ろされた白い着物に、血濡れになった私の外套を羽織った男。不機嫌なツバキが、宙に吊るされた天球儀の上で胡座をかいている。彼は飛び降りると、着地と同時に刀を抜いた。殺気を宿した赤い瞳に親衛隊の姿を映す。
「待って。みんなを殺さないで」蜜留が言った。
「黙せよ。俺の邪魔をする者は皆殺す」
 ツバキが信徒たちに間合いを詰めようとする。だが、蜜留はそれを認めない。彼はツバキの前に躍り出ると、彼女たちを庇うかのように、両腕を広げた。
「殺しちゃダメだ。殺戮の先に楽園はない」彼の瞳がツバキを射抜くように見据える。
「気に入らないものをみんな殺していたら……いつか、ひとりぼっちになる」
 ツバキが蜜留を睨み返す。蜜留は譲らない。彼は凛としたまま、微動だにしなかった。ふーっと息を吐いて、ツバキが刀を下ろす。
「まあ、許すよ。お前に協力してやる約束だからね」
 親衛隊はそれを好機と見て、臨戦態勢に入る。詞綺が言詞壁を展開して、私たちの周囲を覆った。
「黙っておればやられるぞ。何か策はあるのだろうね」ツバキが蜜留に視線を送る。
「ツバキはみんなの動きを止めて。あとは僕に任せてくれたらいい」
 ツバキが中空に手をかざす。信徒たちの足元を青い光の束が絡み合うように迸る。光は植物の蔓へと姿を変えた。蛇の如く駆ける蔓。楽器を奏でるように開く花。それらは信徒たちの攻撃をいなしながら空間を埋め尽くし、やがて彼女らの自由を奪う。
「九百一十二澗五千二十八溝九千一百二十穰六千八百八十九??四千九百五十八垓七千一百二十京二千五百六十兆二千二十三億九千九百五十六万八千七百九十。加して──」
 目を閉じ、蜜留が言詞演算式を唱える。
「八那由千他百九四千阿百僧十祇八一千一百恒河沙千三百四十一四極千五百七十二載」
 信徒たちの身体から力が抜けていく。
「千四百九十六一正千二百六十四九澗千四百八十溝千九百一十一五穰千七百二十二??千二百三十一垓千二百九十七六京千七百一十二五兆千一百八億五二三万三二一三」
 彼女たちは皆一様に跪く。そして、頭を垂れた。まるで蜜留に、忠誠を誓うが如く。
「ツバキ、もういい。みんなを自由にしてあげて」
「偉そうな奴め」ツバキは悪態を吐きながら、中空にかざした手を握りしめた。信徒たちを束縛していた植物が、光の粒子となって消える。
 蜜留が信徒たちの前に歩み出た。そして、透き通った声で宣言する。
「今、この刻を持って。汝らは、かの暴虐なる喑李の支配より解放された。今後は私が女王となり、汝の忠誠に報いよう」
 信徒たちは沈黙のまま。一斉に得物を地に突き立てる。何度も、何度も、突き立てる。鉄の音は新たな女王讃える歌のように。ただ蜜留の言葉に応えて、鳴り響く。
月光を受ける背。幼く、だが女王の覇気を持ったその姿──圧倒的な、支配者の風格。
「驚いたか」詞綺が私に言う。「今の言詞演算式は、他者の言詞配列を自らの支配下に置くもの。女王の資格を持つ者のみが熟す演算だよ」
──女王は信徒たちの言詞配列に忠誠心を埋め込むことで、教会に秩序をもたらす。
狂った舞台で数多の操り人形の糸を引く、孤独な演者。この幼い少年も、いつかは喑李のように壊れていくのだろう。
 だが、分かっている。それを憂うのは、私如きの仕事ではない。
 軍は。この国は。世界は。兄様は。この狂った舞台が齎す言詞の力を利用する。ならば私もまた。赦しを乞いながら、この幼い王の力に縋るのだ。
──それでいい。
 兄様がそれを望むなら、それでいい。

   ★

 女王が絶対的な力を有する理由。それは演算によって、信徒たちの言詞配列に忠誠心を植え付けられているからである。彼女らは、手足を女王に繋がれている──否、捧げていると言っても過言ではない。
 翻して考えれば。信徒たちの言詞配列を解放することで、女王は手足を失う。つまり、あの悪夢のような力を剥ぐことができるのだ。ゆえに継承者と女王が対立するとき、継承者は信徒たちを己の支配下へと奪うことからはじめるという。
 通常。東方蜂巣の継承戦争は、血生臭いものになると聞く。継承者を擁立する教会倫理委員軍と、女王及び女王親衛隊との間で殺戮を繰り広げるのだ。
 しかし蜜留は、この継承戦争での不殺を誓っている。ゆえに交戦を避けるため、倫理委員軍を率いることなく、詞綺のみを連れて行動しているらしい。
「注意して進行せよ、諸君」とツバキが言う。「はーい」と蜜留が返事をして、「はい」と詞綺が続いた。「応答せよ、ツバキ」ツバキが横目でこちらを睨む……私まで返事を求められているとは思わなかった。私は「分かった」と応える。
 傘下に入れた親衛隊を前後に配置し、私たちは教会の頂上──王台へと続く転移装置を目指して進んでいく。
 相変わらず、ここには幻想的な風景が広がっている。
 真夏の空の如く、青い大気。遠い天井の近くを漂う入道雲。宙を言詞生命の魚が回遊している。曲がりくねった汽車の線路が螺旋階段のように天井に向かって伸び、その周りで時おり花火が打ちあがった。
「ここも“美しい”のか」
 ツバキが言った。私がこの景色に感動していることを見抜いたらしい。
「そうだな、美しいよ」
 私がそう返すと、ツバキは目を細めてあたりを見渡した。美しいものとは何か、確かめるかのように。
「いけませんよ、蜜留様」
 詞綺の声が聞こえて、私とツバキは揃ってふたりのほうへ目をやった。
 蜜留が覚束ない手で、手提げ型の写真機を弄んでいる。それは私が陸軍測量部から託されたが、伽音に没収されたものであった。
「教会内部での記録装置の使用は、固く禁じられていますので」詞綺が淡々と窘める。
「分かってるって。ただ触ってるだけじゃん?」
 そして彼は私のほうを見た。目が合うや否や、彼は私の左腕に飛びついてくる。
「ねえ。これ霧島くんのでしょ? 使い方、教えてよ。ね、ね、ね?」
 さて、どうしたものか。私は詞綺の顔色を伺う。彼女は小さく溜息を吐いて、目を逸らした。どうやら今は見逃してくれるらしい。
 私は蜜留の小さな手の中にある写真機を指さしながら、使い方を説明した。硝子乾板式の古い写真機だ。おそらく、つくられてから十五年ほど経っている。測量部は教会に没収することを見越して、旧型のものを私に託したのだろう。
「これで中の硝子乾板を現像すれば、目の前の景色が写しとられているはず」
 げん、ぞう? と蜜留が首を捻った。
「米は炊かないと食べられないのと同じだよ」ツバキが蜜留の頭をポンと叩く。彼は蜜留と違って、写真機のことを知っているらしい。
「まあ。現像はさせてもらえそうにないがな」
 ツバキの言うことは、暗く座った目でこちらを監視する詞綺の様子を見れば、明らなことであった。
 一方の蜜留は写真機に視線を落としながら、まだ小首を傾げている。
「心象の共有。目で見たものの複製は、言詞演算でも難しいことなんだよ。いったいどういう仕組み?」
「ここに鏡玉(レンズ)があるでしょう」私は写真機の眼に当たる部分を指さす。「これで光を集めて、箱の中に入った硝子の板に世界を写しとるのです」
 光を集めると、世界が写し取れる……と、蜜留が私の言葉を繰り返す。
「全然分かってなさそうだな」
 ツバキが揶揄うと、蜜留は頬を膨らませた。
「怪物くん、君さ。僕の揚げ足とるときだけ嬉しそうなのやめたら?」
「科学者いわく──」詞綺が蜜留を宥めるように言った。「人の目に映るものは、すべて光でできているそうです。だから光を集めることは、世界を集めることと等しいのだとか」
「分かるような、分からないような……つまり、世界は光でできるってこと?」
 蜜留は人差し指で、額をとんとん叩いている。それが、なんとも不思議だ。言詞という超常的な力を使う信徒が、たかが科学技術を見て戸惑っているのだから。
「光」
 不意に。ツバキがそう呟いて、空を仰いだ。椿色の瞳の中で、花火が咲く。
「美しいものも、醜いものも。すべては、ただの光であるというのか」
「それって、なんだか希望に満ちた話だね。怪物くん、たまにはイイこと言うじゃん?」
 蜜留が顔を綻ばせ、ぐっと片腕を突き上げる。
「撮ろうか、君たち三人のこと」詞綺が言った。「この先にある倫理委員の屯室に着いたら、現像しよう」
「え、いいの?」
「本当はよくありません。ですから、一度現像したらすぐに破壊します。写真も硝子乾板も写真機も」詞綺は、ゆるやかに口角を持ち上げた。「一時の夢に過ぎぬかもしれませんが。これが私からの女王継承祝いです」
 蜜留が嬉しそうに、両手で私とツバキの腕を絡めとった。彼は詞綺の持つ鏡玉を指さしてはしゃぐ。
「ほらほら。せっかくの写真なんだから、みんなで笑わない?」
 笑う……写真機の前で?
 戸惑う私の頬に、蜜留のじっとりとした視線が刺さった。
「ね。笑ってよ霧島くん」
「たまには笑いなよ、湊」
「笑わないのかい、中尉」
 笑えと言われても、私に笑う資格があるとは思えない。私はここで──部下たちを守りきれず、また有楽の消息も確認できていないのだから。笑えるはずがない。
 私は気まずい思いで、蜜留とツバキの顔を見る。ふたりは「笑顔のお手本」とでも言うかのように、わざとらしい笑顔を私に向けていた。
……仕方がない。
 私は胸の内で許しを乞いながら、ぎこちなく口元を持ち上げる。
 そして。一枚羽のシャッターが、閉じられた。

   ★

 私は兄様の隣で、写真師がシャッターを下ろすのを見つめていた。
 陽光の染み込んだ写真館。木製の調度を暖める瓦斯の香り。私は撮影用の椅子に腰かけ兄上はその傍らに立っている。写真機の鏡玉が軍服姿の兄様と私を見つめていた。
 それは遠い思い出。まだ私が十四だった頃。陸軍幼年学校への入学記念にと、私は当時少尉であった兄様に連れられて、横濱の写真館を訪れていた。
「合格おめでとう、湊。お前は私の完璧な弟だ」
 兄様が僅かに腰を折り曲げ私の耳元で囁いた。その言葉に気が狂うほど心が震えた。
「これから共に、この国を守ろう。愛する人を、愛せる場所にしよう……」
 私は幼い性質であったから、国家の未来やら国防などには興味がなかった。ただ、兄上の立つ舞台に近づけることだけを嬉しく思っていた……
 撮影が終わって、椅子から立ち上がる。ふと、窓の外──階下の玄関の前に立つ少女が目に入る。浅葱色の着物に、臙脂の袴。真っ赤な髪帯(リボン)で、艶やかな緑髪をまとめている。
 彼女は凛。歳は私より四つ上、兄上より四つ下の十八歳。彼女は私たちの幼馴染でありそして兄上の婚約者でもあった。
 風の噂によれば、兄上には陸軍将校の令嬢との縁談も持ち上がっていたという。だがそれを断ってまで彼女を選んだのだ。兄上は権威よりも、故郷で幼少期を共にした彼女を愛していたのだろう。
 私たちが写真館の外に出ると、凛は兄上の元へと駆け寄った。私は足の速さを少し緩めて、寄り添って歩くふたりの数歩後を進んだ。視線を落とす。黄金の西陽に伸びるふたりの影が、重なりあっていた。
 ふと。凛がこちらを振り返る気配を感じて、私は面を上げた。眩しい陽に目が眩む。彼女が兄上の元を離れて、こちらへ駆け寄ってくる。
「合格おめでとう、湊さん」
 彼女はそう口元を綻ばせると、帯に差していた一輪の花を私に差し出した。赤い椿の花であった。
「きっともう、誰も湊さんのことを悪く言う人なんていないわ。あの村に生まれて、幼年学校に合格されるだなんて……海堂様さえ成し遂げなかったことですもの」
「……私は兄様に勉学を教わっておりましたから。恵まれていただけです」
 凛は静かな笑みを浮かべ、こちらに椿の花を近づける。私はそれを受け取る。彼女の指先が私の手のひらを掠めた。温かい。兄上の腕に触れていた温度だ。
 互いの手が離れる。けれど彼女はもう一度指先を伸ばして、私の手のひらの、椿の影が落ちた部分に触れた。
 それは遠い記憶。
 凛はもういない。
 兄上の愛した人は、もう。

  ★

 先遣隊として前を進む、蜜留が従える信徒から報告があった。
 次の階段を上った先に喑李の親衛隊と──伽音の言詞配列の反応があると。
 伽音。その名を聞いて、私は心臓が波打つのを感じた。思い出す。彼女の手によって無惨な姿に変えられた部下たちのことを。
「伽音はまだ生きていたのか」詞綺が怪訝そうに呟いた。「喑李に粛清されたとばかり思っていたが」
 そうだ──殺されたのは私の部下たちだけではない。どういうわけか私に執着する彼女は仲間である信徒たちのことさえ欺き、そして殺した。教会の裏切り者だ。
「霧島くんは後ろに退がったほうが──」
「いや。俺の隣にいるのがいちばん安全だよ」
「ツバキの言うことも、一理あるだろう」
 蜜留を遮って言ったツバキに、詞綺が頷く。
 私は己が三人の荷物になっているという羞恥心以上に、責任を感じていた。伽音に暴走とも呼ぶべき行為を齎したのは──彼女の気持ちを利用した私でもあるのだから。
 蜜留は先遣隊を止めた。そして私たち三人を連れて、隊の先頭へと進んでいく。犠牲は出したくない──それが蜜留の意思だ。だから彼はいつも敵の前に躍り出て、自ら交渉を試みようとする。
 階段を上がった先には、礼拝堂のような空間が広がっていた。
 極彩色に塗られた窓硝子から差し込む、鮮やかな光。中央の通路を挟んで、部屋の両脇に整然と並べられた長椅子には、数多の信徒たちが沈黙のまま座している。
 そして、私たちの正面──通路の最奥にある壇上には、巨大な天使の像。その赤子を抱くような格好の腕の中に、伽音が横たわっている。彼女の胸を濡らす血が、天使の指の隙間から滴り落ちていた。
「助けないと……」蜜留が、詰まらせた息を吐き出した。
「しかし。彼女は多くの信徒を殺しました」
 そう言って背の槍に手をかける詞綺を、蜜留が制する。
「まずは彼女を救う。殺してしまえば、裁くことも叶わない」
 詞綺は値踏みするように伽音を睨めつけると、静かに得物を下ろした。
「では。蜜留様のご意思を尊重しましょう」
「おーい。もっと必死に止めたらどうなんだ」
 ツバキが左手を腰にあて、呆れ声を出す。しかし詞綺は首を振った。
「私にとって、最早女王は喑李ではなく蜜留様。女王の決定に逆らうことはしないよ」
 蜜留が中央の通路に足を踏み出す。私たちは長椅子に腰かける沈黙の信徒たちを警戒しながら、彼の後を守って進んだ。
《人、人は去る》
 信徒たちが、死人のような声で唄った。
《永遠を誓った我が子さえ》
《遥かな翼となりて、還らずに》
 低く不気味な歌声が、私の臓物をかき混ぜるように響いた。どこか、深いところへ落ちていくような感覚に囚われる。嫌な歌だよな、とツバキが吐き捨てた。
《とこしえを統べたこの手に残るは昏い夜》
《私を導く光は潰えても》
《されどすべての夜に花は咲く》
《死を》
《裏切り者に死を》
《死を》
《死を》
《死を死》
《死死を死》
《死をを》
《死》
《死を》
 壇の近くまで来て、蜜留は立ち止まる。彼は像に抱かれた伽音のほうへ、徐に手を伸ばした。指先から言詞光の束が立ち上る。それは破れた布を縫い合わせる糸のように、彼女の傷を癒していく。
「蜜留……さま……?」
 像の腕の中で、伽音が上体を起こす。光のない瞳がこちらを見下ろした。
「お赦しくださるのですか。この私を……」
「断罪と殺戮は等しくない。ゆえに私は君の命を救う。罪の重さを量るのは、それからだ」
──刹那。
 彼女の傷を癒していた糸状の言詞光が、逆流する。事態に気が付いた蜜留は飛び退ろうとする──が、襲い。蜜留の身体はそれに絡めとられ、身動きを封じられた。
 そして中空に形成された言詞光の刃が三つ、彼の喉元に突きつけられる。くそ、と蜜留が歯ぎしりした。
「勘違いというものですわ、蜜留さま。私は命を救ってもらいたいなど、ひとつも望んでおりませんの」
 伽音は脚を組んで座り、青ざめた唇を歪めて嗤った。たおやかに立てられたその小指から、蜜留を拘束する言詞の糸が伸びている。
 この状況、どうするべきか──私が緊迫を肌に感じながら考えを巡らせていると。ツバキは平生と変わらぬ声音で言った。
「言わんこっちゃないではないか。お前のご主人様、このままだと殺されるよ」
 彼は詞綺にあきれ果てた視線を送る。彼女はまったく動じていない。
「本来。教会倫理委員が守るのは教会倫理であって、女王でも継承者でもない。ここで終わる命であれば、女王になる資格などなかっということだ」
「流石倫理委員だな。血も涙も人としての倫理観もない」ツバキが肩をすくめた。
 一方。伽音はこちらを見下ろして、状況を確認するよう、ゆっくりと視線を動かしている。その瞳は私を捕らえると、動きを止めた。
「……喑李さまもお人が悪いですわ。霧島さまがここを通ると分かっていて、私をこの場所に生かしておいたのね」
「貴方は、私が憎いのだろう」
「憎いだなんて……違いますわ。私は貴方を愛しておりますの」
 私は彼女の壊れたような笑みを見つめながら、己の内で自問自答を繰り返していた。
──ここで終わる命であれば、女王になる資格などなかった。
 詞綺はそう言ったが、彼の幼い命をそんな風に終わらせることなど、あってはならない。
 だが、私に何ができる? 言詞を扱うこともできず、利き腕さえも失くした私に。
 否──そのような逡巡は意味を持たない。
私はたとえ無力であっても、行動しなければならない。元を辿れば──彼女の罪は
私が招き入れてしまったものでもあるのだから。
「望みがあるなら私が叶えよう。その代わり──蜜留様の解放を」
「あら……霧島さまは、年下の男の子がお好み? 嫉妬してしまうわね」
 伽音は像の腕から飛び、靴先で優しく地面を鳴らして着地した。そして真っ赤に染まった手を、私のほうへと差し伸べて微笑む。
「私のものになってくださいな、湊さま。それが私の望みです」
「やめて、霧島くん。僕なら大丈夫だから……」
 蜜留が言う。だが私は聞こえないふりをした。舌の裏に隠していた言詞安定剤を飲みこんで、私は伽音の手招くほうへと歩いていく。
──私は彼女に、殺されるのだろうか。
 そんな考えが、頭の中で渦巻く。だが怖くはない。戦場で、この教会で、数多の同胞が命を落としたように。私も殉職者の名簿に名を刻むだけだ。
 そのはず。そのはずだ。それなのに。
──生きろ。
 心臓の奥から。また、あの声が聴こえてくる。私を死から引き離そうとする、病のような声が。生きろ、生きろ、生きろと誘惑する。
 感情が声に引きずられる。死など怖くないはずのに、この身体は怯えている。生に縋れ。死ぬな。命乞いにも似た欲望が湧き上がる。
「良い子ね、霧島さま」
 伽音の囁きで、私は欲望の海から意識を呼び戻される。
 礼拝堂の壇上。天使の形をした像の足元。彼女は私の腰を抱いて引き寄せた。震える血潮が伝わってくる。その血濡れの胸が私の軍服を汚した。
 私はツバキの視線の気配を感じる。彼女の思い通りになる惨めなところを、彼に見られたくないと思う。だが今は、彼女の愛撫を受け入れるしかない。
「……好きにしていい。だから蜜留様を離せ」
「ええ。約束は守りますわ。だって私、正直者ですもの──霧島さまと違って」
 伽音は私の胸に顔を埋めたまま、中空に手を翳した。蜜留を拘束していた言詞光の糸が解ける。突然自由になった彼の身体が、床に崩れ落ちると同時。
 壇上に幕が下りるように、言詞壁が展開された。私は伽音とふたりきり、天使の足元に取り残される。
 そして言詞壁の外側。長椅子に座っていた信徒たちが、一斉に得物を構えた。ツバキと詞綺が蜜留を守るように陣を組む。三人と信徒たちの交戦が開始された。
「どこを見ていらっしゃるの、霧島さま」
 殺気。刃が照り返した鮮やかな光が瞬く。
「この私が、目の前にいるというのに」
 伽音が私の胸の中で、短刀を逆手に振りかざした。私はとっさに、右手で刀を抜く。
 右手──そう、右手。あるはずのない右腕が確かにあり、そして動いている。自らの意思ではなく、勝手に。
 何が起きている? 分からない。右腕は私の身体を乱暴に引っ張るように刀を扱い伽音の一線を弾きあげた。
『感謝せよ、湊』ツバキの声が右腕を伝い、私の中に響く。『俺の右腕を貸してやろう』
「は……?」私は言詞壁の外側で、信徒たちを相手取るツバキに目をやった。彼は左手で刀を操っている。その血濡れの外套の下、着物の右袖は潰れているように見えた。今の彼には、右腕がない。まさか、本当に……
『見るな。右腕を貴様に貸しているせいで、いつものようにかっこよく戦えないから』
「待て、これは……」
『集中せよ、湊。喋ってる暇などないよ』
 は、と前を見る。目の前に切っ先が迫っていた。避けられない──その直感とは裏腹に。獣のように動く右腕が、伽音の猛攻をいなした。
「花の怪物……」伽音が低い声で呪う。「あなたも私から霧島さまを奪うと言うの?」
 剣戟が再開される。早回しの活動写真のように迫る刃を、右腕が勝手に迎え撃つ。
剣技ではこちらが圧倒しているが、私の身体能力はツバキの右腕についていけない。脚がもつれる。視界が傾いだ。だが、転ぶことはなかった。右腕の肌から突き出た植物の蔓が、伽音の腕に巻き付いて私の身体を支えていた。彼女の身体を支柱にして、私は体勢を立て直す。
 伽音が刃で蔓を切断した。そうして地を蹴り跳躍し、私から距離をとる。
 彼女の息は上がっていた。元より負っていた胸の傷口が開いている。彼女が肩を上下させるたび、爛れた果実のように血が溢れ出た。
「ああ……ああ……ずるいわ、霧島さま、ずるいわ」
 彼女が自らの頬を、指で掻きむしる。鮮血が青ざめた肌を塗り替える。柔らかな肌は崩壊し、血の塊へと変わっていく。
「ずるいわ……ずるいわ……私は髴ァ蟲カ縺輔∪だけを見ているのに、貴方はいつも違う人を見ているのね」
 彼女は高く声をあげて笑った。その棘のような音が私の内側をかき混ぜる。痛い……胸が、頬が……そして気が付く。私は今、彼女と同じ逞帙∩を感じている。熱い。気が狂いそうだ。蟾ア縺ョ閧峨rすべて剥ぎ落としたくなる。
 ツバキが私を呼ぶ声がする気がした。私は耳を塞いだ。これ以上、声が私の中に侵入したら縲∝」翫l縺ヲ縺励∪縺気がしたからだ。
 だが、それでも。彼女の声は鮮やかに閨エ縺薙∴繧九?
「あはは……アは……アハ繝上ワハハ蛻?°繧峨↑縺?o縲らァ√?闍ヲ縺励∩縺ッ縲りイエ譁ケ縺ョ繧医≧縺ェ縲∬ェー縺ォ縺ァ繧よ?縺輔l繧倶ココ縺ォ蛻?°繧九?縺壹′縺ェ縺?o縲りィア縺帙↑縺??ゅ★繧九>縲らァ√′雋エ譁ケ繧呈?縺吶k繧医≧縺ォ縲∬イエ譁ケ繧らァ√r諢帙@縺ヲ縺上l縺ェ縺代l縺ー縺壹k縺?o縲

 縺薙s縺ェ縺薙→縺ッ諤昴>蜃コ縺励◆縺上↑縺??縺ォ縲
 
 遠い。
 遠い昔のこと。
 私の記憶は、声と言葉から始まる。
 あの頃。私はまだ母の胎内にいて、何かを理解する知性を持ち合わせていなかった。
 だが。何が見えない存在が私に、気が付かせていた。
 母は望まずして私を身籠った。だから──父は、母は、大人たちは。私が未だ母の中にいるうちに、殺してしまおうと話している。
 声。私を殺そうとする、言葉。私の記憶は、そこから根付いている。
 私は死が怖かった。光を見ることもなく。何を知ることもなく。生まれることもなく。無へと還されることが、怖い。
──愛が欲しい。
 私は声にならぬ声で叫んだ。
 愛されたい、愛してほしい。誰でもいい。骨の髄だけでいいから、愛して。
 そのとき私は、声を聴いた。
 生きろ、という言葉を。
 生きろ。それが、愛されたいという叫びに対する応答。
 この世界ではじめて、誰かが私に語り掛けた言葉であった。
 生きろ。雑音の中で、ただひとつ。鮮明に咲く花のような声。
 だから私は縋った。生きろという、その言葉に。
 愛して。

 逕溷ュ倥○繧医?∵ケ翫?る悸蟲カ貉翫?
 
 頬に衝撃を感じて私は我に返る。右手が己の頬を引っ叩いていた。口の中に鉄の味が広がる。私は血を吐き出した。床を汚した鮮血の中に、奥歯の欠片が混ざっていた。
『ふむ、右腕の次は奥歯か。少しやりすぎたようだ。だが心配するな。必要であれば、奥歯も貸してあげる……おい、聞いているか?』
──どうかしている。なぜこんなときに、あんな記憶が鮮明に蘇る?
 それに、なぜか涙が出て止まらない。視界が赤く乱れている。莠梧コ昜コ泌鴻荳?逋セ荵晉ゥー蝗帛鴻莠檎卆蜈ォ蜊∽ク解・擲七千四百三十垓三千七百。なんだ、これは。指先で目をぬぐう。指先が血の涙で染まっていた。
『言詞配列が乱れているようだな、湊。あの女の言詞汚染にあてられているのか……あるいは、俺の右腕にまだ慣れぬか──おい、前を見ろ』
 視線を上げる。伽音が肉薄してくるのが見えた。常人であれば、このまま殺されていただろう。だが、この右腕は反撃の隙を一寸たりとも見逃さない。憎悪も殺意もなく、ただ自らを犯そうとするものを、完璧に排除する。刀から、彼女の肉を抉る感触が伝わった。
 伽音がまた笑う。雑音が……蜈ュ蜊?ク臥卆荵晰・擲莠泌鴻蜈ォ逋セ荳?蜊∽コ悟椏荵晏鴻蜈ュ逋セ九十四京八千六十七兆二千八百八十四億六千四百一万二千七十……
 なんだ……これは……視界が乱れている。赤い煉瓦が崩れるように、目の前の世界が欠けていく。二垓三千八百九十六京九千七十九兆蝗帛鴻蜈ォ逋セ蝗帛香荳牙т蜈ュ蜊?香莠御ク?ク?蜊七百一十二……吐きそうだ。右腕が度し難い不快感に包まれている。
 そして私は気が付いた。
 これがツバキの見ている世界なのだと。
 すべてが言詞配列の塊に見えるというのは、こういうことであると。
 視える。すべてが。こんなにも醜い形で。

 たとえば、伽音の邨カ譛の形。
 彼女が楽園を失った日のことさえ、鮮やかに。

 隕悶∴繧九?

 王台は昏い。果てしなく昏い。
 星のない夜空のような空間を、伽音は音もたてずに歩いていく。
 しばらく進むと、宙に浮かぶ言詞光で描かれた図形が見えた。それは教会の内部を簡易的に表示したもの。ここが楽園である為に、結界の内部を投影して監視しているのだ。
 そして。伽音が昏い道のとある一点を踏んだとき。光の波が押し寄せるように、次々と花々が咲き誇った。辺りは一瞬のうちに、明るい満ちた楽園へと姿を変える。
 前方に巨大な樹が見える。薄っすらと青白い光を放つ葉々に宿るのは、神の言葉。そう──あの美しい大樹こそが、言詞炉であった。
 樹の下には置かれているのは、透き通った天蓋に覆われた寝台。喑李はほとんどいつも天蓋の内側にいて、そこで女王の務めを果たしている。
 今宵は、伽音の番であった。彼女はこの日をずっと楽しみにしていた。信徒にとってのいちばんの僥倖は、新たな信徒を孕む為に女王と夜を共にすることだ。
 女王と交わり、子を成して、産み落とす。信徒の一生はその為にある。それが当たり前で、尚且つ幸福な生き方であると信じている。伽音も例外ではない。
 だが──その日。喑李は伽音と目合うことを拒んだ。
 彼は寝台の上いっぱいに並べた、飴色の宝石の中に溺れるようにして横たわっていた。琥珀。太古の樹脂が永い時をかけて化石になったもの。伽音は寝台の傍らに黙って立ち、喑李の硝子の肌を見下ろしていた。
「僕は気が付いたんだよ。永遠のつくり方にね」
 喑李が言う。彼は言詞演算で琥珀をつくりあげる方法を知ってから、それに夢中であった。憑りつかれたよう何もかも蜜の中に閉じ込めては、琥珀に変えて遊んでいる。
 伽音はなんとかして、彼の視線を己のものにしたかった。女王に求められないのであれば、生きている意味などないのだから。
 彼女は自らの着物をはだけさせ、喑李に寄り添って誘惑を試みた。ようやく、彼の視線が伽音に向けられる。だが、その憐れむような瞳が彼女を傷つけた。忘れられないくらいに、痛い。
 喑李は義務のように、伽音の唇に接吻をした。彼は舌の上に何か甘いものを乗せていてそれを伽音の口の中に移した。伽音は手のひらにそれを吐き出して、正体を確かめる。
 白い翅の閉じ込められた琥珀。
「遠い昔。まだ飛べた頃の蚕の翅」喑李は、伽音にそう教えた。
 蚕。人類に飼いならされて、今はもうひとりでは飛べなくなった虫。
 愛されたいわ、と伽音は思った。女王と交わることを拒絶されてはじめて、己が空っぽな人間であることを知ってしまった。言詞の追究、神の言葉に対する信仰……今まで縋っていたそんなものは、己が存在する理由にはなり得ないと気が付いて怖くなった。
──いっそのこと。死んで、琥珀になってしまえば。女王様は愛してくれるだろうか。
 そして伽音は、親衛隊の演習場へと赴いた。もうすぐ外役部の幾人かが、東方蜂巣部隊として帝国陸軍に従じ、異国の地で戦争をするという。だから彼女たちは毎日、天使の像が見守るこの場所で、言詞演算や得物の扱い方を訓練している。
 言詞の弾丸が飛び交う。伽音はその雨の中へと歩み出た。ここで流れ弾を心臓に受けて死んでしまおう。そう思っていた。
「どうしたの」
 ひとりの信徒が近寄って来て、伽音の頭を引き寄せて胸に抱いた。
 花の香り。伽音は彼女の顔を見上げる。その椿色の瞳を知っている。
──丹哭。
 伽音は彼女の胸の中で、愛されたいと泣いた。

『おーい、おいおい。しっかりせよ、湊』ツバキの声が遠く聴こえる。『ああ。貴様、俺の右腕の言詞配列に引っ張られて、余計なものを視ているのだな……』
 朦朧としていた意識が、少しずつ戻ってくる。
 右手に握った刀は、知らぬうちに伽音の横腹を貫いていた。引き抜く。返り血が弾けて咲いた。彼女の身体が傾ぐ。しかしまだ倒れない。彼女は震える脚で床を踏みしめると、ゆらりと踏みとどまった。
「嬉しいわ、霧島さま」鮮血に染まった彼女の顔が、うっとりと歪む。「私──誰かに殺されるだなんて、初めての体験ですのよ」
彼女は地を蹴った。その失血量からは考えられぬほどの殺意が迫る。私は刀を構え
それを迎え撃つ。

 そして、また視る。
 彼女の言詞配列の、いちばん深いところを汚す潰瘍を。

 あの日。演習場で死のうと思っていたのに。伽音は丹哭の優しさに縋って泣いた。
「私を愛して……」
 そう言った伽音の唇に、丹哭が唇を重ねた。
「私が愛してあげるから」丹哭の舌が、伽音の口の中で囁いた。「貴方は生きて」
 ふたりの頭上を、言詞の弾丸が掠める。人目も憚らずに接吻を交わす彼女たちのことなど目に入らぬかのように、信徒たちは人殺しの練習を繰り返していた。
 伽音は、まだ自ら歯の奥に琥珀の味が残っていることに気が付いた。その甘い匂いは、いつまでの己の中に留まって、そこだけ雨水を弾く花弁のように愛情が通ることのできない壁をつくっているのだと思った。
 けれども、この人が好きだ。丹哭が好きだ。私を慰めてくれる、椿色の瞳が。
 愛して。

 譛ャ豌励〒諢帙@縺ヲ縺上l繧九?縺ェ繧峨?縲らァ√?縲∵ュサ繧薙〒繧ゅ>縺??

 伽音の攻撃をいなす。目まぐるしく交差する刃。火花が散る。ツバキの右腕の動きにも慣れてきた。
 否──慣れたのではない。初めから同じだったのだ。この右腕が扱う剣術は、私が兄上から習った新陰流を取り入れた術理によく似ている。ただ、あまりの身体能力の高さに、気が付くことができなかっただけで。
『俺の右腕に付いてこられるとは。流石だな、湊。褒めて遣わす』
「ツバキ……その剣技、誰に師事したものだ」
『誰にも習ってないよ。俺は初めから完璧だからね』
「だが、その術理は──」
 彼の言葉に戸惑う隙を突かれた。腰を低くした伽音が、懐に飛び込んでくる。
「よそ見をしないでね、霧島さま」
 彼女の昏い瞳が迫る。私は太刀を捨てた。そして右手で彼女の手首を掴み、左手を短刀の棟に当てがい捻る。体勢を崩した彼女が刀の柄を手放す。私はその得物を奪い倒れこんだ彼女の首筋に突きつけた。
 このまま刃を横に引きさえすれば、彼女の命は吹き飛ぶ。だが私はそうすることができなかった。否、そうしたくなかった。だからこそ、この刃を左手に持っている。
『殺しておけ、湊。蜜留には悪いが──そいつは生きている限り、貴様の命を狙う』
 そんなことは分かっている。ここで彼女を殺さなければ、死んだ部下に顔向けができないということも。だが、それでも、できなかった。
「どうして」
 伽音が言う。枯れた花のような声だった。
「どうして……」
 どうして、どうしてどうして。彼女はそう繰り返して、血濡れの指で石畳を引掻く。
「どうして誰も、私のものにならないの。どうして私は、ひとりなの。どうして私を……愛してくれないの」
 伽音が慟哭する。その叫びが、涙が、私に視せるのだ。
 痛みを。私と同じ痛み。
 愛されないという、痛みを。

 日露戦争の間。教会には時折、戦死した信徒の遺品が送られてきた。それを女王に返却あるいは処分するのは、女王親衛隊内役部の務めであった。
 共に暮らした同胞の生きた証を燃やし、灰に還すのだ。こんなに悲しい儀式を部下には背負わせたくない。だから伽音は遺品整理を、すべてひとりで行っていた。
 だが、いつからだろう。
 この仕事に、どうしようもない悦びを覚えるようになったのは。
 だって、面白いのだもの。どいつもこいつも、教会倫理違反の品をたくさん持っているのよ? 女王様から賜ったもの以外は所持してはならないという定めを、数百年も守ってきた敬虔な信徒たちが。なぜ戦争行っただけで、背信行為に手を染めてしまうの……
 伽音は物品そのもの自体に興味はなかった。そそられるのは、彼女らが違反物を今わの際まで所有し続けた理由。教会倫理を侵してまで、そんなものに縋ったのは、なぜか。
 それはきっと、愛だ。
 戦場に行った彼女たちは、知ってしまったのだろう。
 この世界には、神や女王よりも愛しいものがあるということを。
 戦場は楽園だ。この教会という地獄よりも、ずっと。
 羨ましい、と伽音は思った。たとえ愛の代償が死であったとしても。誰にも愛されずに生きるより、愛を知って死ぬほうが遥かに幸福だろう。
 そして、或る日。大量の信徒の遺品が送られてきた。黒溝台という場所で、大きな負け戦があったらしい。彼女らは、その犠牲になったというのだ。喑李や信徒たちが軍の無能のために死んだ同胞を憐れんでいるとき。伽音だけはいつものように、遺品整理に胸を躍らせていた。
 しかし、その日。伽音は己の心が壊れる音を聴いた。
 それは、日記だった。丹哭が遺した、日記。
 信徒たちは文字を残すことを禁じられているのに、彼女は日記を書いていた。彼女には教会倫理を侵してまで残したい想いがあった。伽音の知らない愛があったのだ。
──私が愛してあげるから。
 伽音は、自分にそう言った丹哭のことを思い出す。
 信じていた。あの言葉を信じていたのに。
 彼女は私以外のものを愛した。そして死んだ。私はまたひとりになった。
 霧島湊──それが、丹哭の日記に書かれていた兵士の名前のひとつだ。
 赦せない、ずるい、赦せない、ずるい、赦せない、赦せない赦せない赦せない許せない。丹哭の愛を奪ったあいつらが憎い。赦せない。ぐちゃぐちゃに犯して、殺してやりたい。
 ああ……だけど。
 霧島湊。
 丹哭に愛を教えたこの男ならば、私にも愛を教えてくれるかしら。

『殺せ』
 もう一度、ツバキが言った。しかし、私は伽音にとどめを刺すことができない。
 赤子のように身体を丸めて耳を塞ぎ、愛されたいと哭く彼女が幼い己の姿に重なる。
「……殺せるものか」
 口にするべきではないと分かっている。だが、吐き出さずにはいられない。
「私は……彼女の痛みを視たのだ。だから──たとえ部下の仇だとしても殺すことはできない。そこまで冷酷にはなれない。私はそのように完璧な人間ではない」
「ねえ、霧島さま。あなたは私の痛みを分かってくれたのね」伽音が言った。「私たち──今からでも、愛し合うことができると思う?」
 できるかもしれない、と私は答えた。光を宿した彼女の瞳に私の顔が映っている。嘘を吐く、男の顔が。
「勘違いしないでくださいね、霧島さま」
 伽音は満たされたように、涙目で微笑んだ。
「あなたは私で遊んでいたつもりかもしれないけれど。遊んであげたのは、私のほうですのよ」
 そして彼女は私の手を引いた。その刃で、彼女は自らの首を掻っ切った。
 飛び散った血は見惚れるほどに美しく花開き、やがて粘土細工のように形を変えはじめる。それは、巨大な蚕だった。飛べない翅が大きく羽ばたき、風圧が天使の像を破壊した。崩れ落ちる瓦礫の中で、真っ赤な蚕が嗤うように翅を震わせている。
 私は後退った。だが逃げられない。伽音が張り巡らせた言詞壁がまだ残っている。頭上に影が迫る。私を踏みつけ蹂躙しようとする、蚕の脚が。
 世界の速度が緩やかになる。視界が明滅する。私は死を感じ、目を閉じた。
 そしてまた、あの声を聴く。

──生きろ、と。

 蘇る。遠い記憶……母の胎内で、死に怯えていたときのこと。声を聴いて、生きねばならないと思ったときのことを。
 覚えているのは感情だけだ。何かを考える力があったとは思えない。
 しかし。仮にあのときの感情を言語化するのであれば、きっと──私は、生きることは、殺すことだと感じていた。生き延びるためには、母を殺してでも生まれなければならないと。
 そして私は生まれ、母は産褥で死んだ。
 兄上の愛した母を殺してまで生まれてきたことは、間違っていただろうか。
 母を殺してまで生に縋った私は、罪人であろうか……
 
 瞼の裏に、光を感じる。私は目を開けた。
 横たわる私を守るようにして、ツバキが立っている。彼の心臓に蚕の巨大な脚が刺さっていた。白い着物が、可憐な椿のように赤く染まっている。蛾は力なく翅を震わせると、光の粒子となって消えた。
 目が合う。私と同じ色の瞳が、私を見つめて微笑んでいる。
「どうして……」私は掠れた声を絞り出す。「どうして貴方は、いつも私を助ける?」
「貴様が死ぬ理由はない。それだけだ」
「私はたくさんの人を犠牲にしてきた。死ぬ理由ならいくらでもある」
 母を、丹哭を、大勢の部下達を。私は私の過ちの為に、死へと追いやったのに。
「うるさいな。これ以上慰めるほど、俺は優しくないよ」
 彼がこちらに手を差し伸べる。私が躊躇っていると、彼は強引に私の手を掴んだ。この温度を知っている、と私は思った。これは、丹哭と同じ温もりだ……
「うん、血生臭い時間は終わりだ」
 ツバキが言った。私はあたりを見渡す。壇上を境に張り巡らされていた言詞壁は消え、長椅子に座っていた信徒たちは、通路の中央に立つ蜜留と詞綺に跪いていた。
 蜜留が飛び跳ねながら、こちらに手を振る。道を阻む者はもういない。
 そして私はまだ、生きていた。
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