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第二章 子育て奮闘中

54. 「2」という数字 ⑤

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「こしょこしょこしょこしょこしょ」

「う…ん…」

 身体中を擽られる。
 小さな小さな手が、俺の親指をぎゅっと掴むのに精いっぱいなが、俺の身体のあちこちを這う。
 力無い指先は俺の皮膚の一番上を掠るだけで、それがやけにくすぐったい。

「こしょこしょこしょこしょ」

 悪戯好きのする可愛い声で、身を捩る俺の反応を愉しんでいるようだ。

「俺はお前の所為で眠れていないんだ。せめて夢の中だけでも子育てを忘れさせてくれ」

 俺は夢を自覚している。
 首も据わっていないリアが自由に歩き回るなんて事はあり得ないし、あんな風に喋る事だって出来やしないのだ。
 泣くか眠るかミルクを飲むかの三択しかない赤ん坊は、毎日が暇すぎて堪らんだろうなと一人でぼんやり考えていると、ポカリと頭を叩かれた。

「いって!だから寝させてくれって」

 その辺にいるであろう、リアの小さな金髪頭を手探りで探したが、手は宙を掻くばかり。
 汗と涎臭くて、意外といい匂いのしないリアのふわふわ頭が急に恋しくなって床をバンバンと叩いて探していると、指先が何かに触った。

「……髪?」

 リアのとは全く違う。
 明らかにしっかりとした髪質、手にサラサラと滑るその感触に不審を覚えて、俺は頑なに瞑っていた寝ぼけ眼を開いた。

「やっと目を開けてくれたか、異世界の客人よ」

「……」

「なんじゃ、その顔は?阿呆面が更に阿呆になっておるぞ」

「……は?」


 ガバリ!!!


 そんな擬音語と共に、俺は跳び起きた。

「は?は?」

 目をくしゅくしゅっと擦る。何度も瞬きして、焦点が復活するのを待って、それから、えっと…どうしたんだっけ?ああ、目の前に立つ不審人物に、俺の安眠を邪魔しに来た奴に存在理由を問うんだった。
 だが、どうしてか瞬時に理解してしまった。それが誰であるのかを、俺は何も明かされていないのに、一人で納得したんだ。

 俺の眼前に、女が立っていた。
 数日前から俺の夢に現れていた、輪郭のぼんやりとしていたあの女だ。
 だけど今までと全く違うのは、その姿がはっきりと見えていることである。

 綺麗な女だった。

 腰まである長い癖っ毛は豪奢な金髪で、溢れんばかりの光沢が華々しく輝いている。
 肌は陶器のように白く、作り物かと思うほど真っ新だ。傷もホクロも毛も、その肌には似合わない。
 全体的に細い身体はボリューム不足が否めず、色気のイの字も無いが、その造りは大人の女である。

 特筆すべきは女の顔だろう。
 不自然なくらい整った顔は美人としか言いようがなく、フアナとはまた違った意味での美しさがあった。
 例えるなら、フアナは小動物的な可愛さなのだが、この女はまさに圧巻。美麗の限りを尽くした派手目の顔は自信気に笑っていて、それがまた迫力があって圧倒される。
 何よりその吸い込まれそうな深い蒼の瞳に心を奪われる。
 そして俺はその瞳を、その色を知っている。

 女は笑う。
 いや、これはだ。俺が今まで四六時中付き合ってきた赤ん坊のあいつ。
 雰囲気はだいぶ違うが、根本が同じだと頭が認識している。

「あんた…リア、だな」

「ご名答。2週間ばかりも傍にいて、気付かなんだは哀しいぞ。それにお主とは繋がっておるからな、一発で分かるじゃろ」

「やっぱりそうか」

「なんじゃ、驚かんのか。それはそれでつまらんのう…。本来の妾を見て、もっとうぎゃあ!とか、わああああ!!とか、腰を抜かすのを期待していたのに残念じゃ」

 女―――リアはちっとも残念そうな顔をせずにしゃがみ込み、上半身だけを起こした俺と目線の高さを合わせてまた笑った。
 美人が惜しげもなくくれる笑顔の破壊力は健全な男にとってはズキュンと心にくるものがあるが、残念ながらこいつの正体があのションベンもクソも垂れ流しの赤ん坊だと思えばそんな気になるはずもなく、家族の情愛に似たような気持ちで彼女を見ていると、リアは少しだけムッとした顔をして、また俺をコツリと叩くのだ。

「絶世の美女が語り掛けておるのに無反応とは…これまた悲しいのう」

「悪いが、夢の中は何でも有りな世界だ。アンタに無理やり召喚された世界よりずっと、俺に優しい世界だよ。だからアンタが誰だろうと驚きはしない。それより前に、アンタは俺の前にしつこく現れていただろうが」

「……ふむ。思ったよりも、お主は肝が据わっておるんだな。これはいい!」

「は?」

 リアは立ち上がる。
 彼女の着ていた旅装束のマントが、ふわりと俺の顔に引っかかる。
 それを鬱陶しそうにはたいて、女は髪をかき上げた。

「アンタ、一体何しに来た。夢の中くんだりまで、俺を困らせるつもりか?」

「まさか、妾はお主とこうして話す機会を待っていただけじゃ」

「え?」

 そして彼女は一度だけ恭しくマントの裾を持ってお辞儀をする。

「妾はクリスティアーネ・ティセリウス。この姿ではお初にお目にかかる。さて、この2週間の文句をぶちまけるがよい。妾はその為に、お主に逢いに来たのじゃよ」

 ニコリと笑う絶世の美女の、深淵の瞳の蒼はちっとも笑っていなくて、俺は夢の中だというのに一筋の汗が背中を伝っていくのを感じるのであった。

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