残業は熱砂の国で

芳一

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深夜2時半。
街灯の明かりだけが虚しく光る川沿いの歩道をふらふらとした足取りで帰宅する。
よれたスーツにボサボサの髪、うっすらと生えた顎の髭と、すれ違う人がいれば思わず怪訝な目を向けられてしまうだろう見た目の酷さを、今更気にする余裕もなかった。
(………疲れた)
黒く澱んだ川の前で足を止める。
別に飛び込んでしまおうかなどと自棄になっているわけではない。
ただ茫と欄干に手を置いて、底の見えない川を覗き込むように眺めているだけだ。

抱えきれないほどの仕事を死んだ目で熟すのも、もう何年になるんだろうか。
入社してすぐの頃、仕事を覚える事と慣れる事で精一杯の中それでも必死に喰らいついて何とか認めて貰えるようにひたすら働いた。
理不尽に怒鳴られても黙って会社のために尽くし続けた。
でも、それが却っていけなかったのだと思う。
碌に与えられない休憩時間も、寂れたコンビニの売れ残った弁当も、目を瞑って身体を横にしただけの短い睡眠時間も、気付けば当たり前のように受け入れていた。
飲みに行く友人もいなければ、支えになる恋人もいない。
眠りについて目を覚まして朝食のパンをひと齧りだけしてふらふらと会社に向かう。
そんな毎日の繰り返し。

はは、と乾いた笑いが溢れた。
改めて見つめ返した、三十過ぎの草臥れた男の人生の何と寂しい事だろう。
きっと今日も明日も明後日も、死んだように生きていくのだ。

このまま逃げてしまおうか、そんな叶いもしない願いを頭に浮かべたその瞬間──ドンっと強い衝撃を背中に感じる。

色々な神経が鈍るほどに疲れ果てていたんだろうか、ギャハハと大声で騒ぐ酔っ払いたちが真横を通り過ぎるのにも気付かなかった。
そしてそれはどうやら酔っ払いたちも同じだったらしい。
大柄な男の肩がぶつかった拍子に欄干の向こうへ身体が傾く。
押し出されるように踵が浮き、踏ん張る事も出来ずにそのまま落下してしまう。
酔っ払いたちからは「ヤバ」だの「ウケる」だの、人を川に突き落としておいて何の罪悪感も抱いていないような言葉ばかりが聞こえてきた。

(ああ、おじさんの人生…こんな感じで終わるのか)

呆気ないなぁと最期の最後まで他人事のように思う。
別に何か未練があるのではない。満足感があるわけでもない。
ただ。いざ死ぬ間際になっても懐かしい情景や人との絆が何一つ思い浮かんでこないというのは、やはり寂しいものがあるのだなと、そう実感してしまっただけ。
もしも次があったなら、せめて誰かの温もりを感じる事くらいは許されるだろうか。

そうして大した抵抗もせずただ落ちていく感覚に身を任せながら、静かに目を閉じて意識を手放した。





顎を伝ってぽたりと雫が落ちていく。
指先ひとつ動かせない気怠い身体は熱い何かに包まれていた。
自分は死んだのか、そう思うには冷たい雫も肌に触れる熱も妙にしっかりと感じ取る事ができる。
その違和感に自然と瞼が開いた。

飛び込んできたのは夜空に輝く満天の星と、見上げるほどに背の高い椰子の木。
そして──

「目が覚めたか」

視界いっぱいに広がるとんでもなく顔の造りの良い、全裸の男。


突然の視覚的暴力に、思わず男の言葉を無視して目を逸らしてしまった。
視線を少し遠くに向ければ僅かな明かりと石造りの建物がちらほらと見える。それ以外は辺り一面砂の山だ。
ここはどこかの遊泳場らしく、自分はいま全裸の男と共に星空の下で煌めく水に浸かっている。
一瞬誰かの敷地内かとも思ったが、辺りの雰囲気から察するに広大な砂漠の中に存在するオアシスのように思えた。
(え~~~っと…)
会社では毎日同じ事の繰り返しだったため、こういった突発的な事象には生憎と慣れていない。
何とも間抜けだが、ずぶ濡れ状態のままとりあえず男に視線を戻した。

水面から覗く褐色の肌は日に焼けたものなのだろうか。薄明にひたされた黄昏時の空を思わせる不思議な色合いの長い髪が、首筋に張り付いていて男だと言うのに何とも艶かしい。引き締まった身体には無駄な肉と言ったものはなく、何かの芸術品かと思うほどの美しさがあった。
水の透明度が高いが故に図らずも視界に映り込んでしまった彼のそれも、同じ性の生き物として尊敬してしまうほどにはご立派だった。

そこで、はたと気付く。
いい歳したおじさんが女子供かという風に、彼の両の腕によって横抱きにされていたのだ。女性であればうっとりと身を預けてしまうような状況だが、悲しいかな絵面が悪い。
加えて、見窄らしい身体をじっとりと見下ろしてくる男の視線も気になって仕方がなかった。
自分も観察していた手前、強く言い返す事などできないがどうにも居心地が悪い。
男は星の如く光を放つ金の瞳で頭の天辺から爪先まで、瞬きも惜しいと言わんばかりに全身を舐め回すように見つめていた。
「いや、見過ぎでしょ……」
働き始めてから恐らく一度もした事がないであろう口答えを思わずしてしまう。
こんなおじさんの身体見て何が楽しいの、と心で思っていた事が情けなさのあまりについ口から溢れてしまったらしい。
目の前の男は言われて気付いたのか、胸やら腹やらに注いでいた視線をパッと外すと何事もなかったかのように爽やかな笑顔を向けてくる。
「寝付けないので水を浴びていたらな、星と共にお前が降ってきたので驚いた」
「はあ……」
「名は?」
何を言っているんだろうと曖昧な返事をすれば男がグッと距離を縮めてきた。物理的に。
鼻先が触れそうな勢いに思わず身を仰反らせたが、抱き込まれているせいでうまく躱す事ができない。
本来なら今頃シャワーを浴び、昨日の昼食だか夕食だかわからない弁当を食べ、ほんの僅かな睡眠のため布団にのそのそと潜り込んでいる時間だろう。
仕事終わりの疲れもまだ取れていないせいで身体が怠く、頭もまともに動かなかった。
こんなわけもわからない状況で見知らぬ男に付き合う必要などないのに、染み付いた社畜根性からか男の質問に答えねばと無意識に反応してしまう。
うつらうつらと瞼が落ちるのを何とか堪えながら、律儀にも口を開いた。
御崎みさき東吾とうご
「トーゴ、トーゴか。うん」
男がどこか満足したように頷いたのを見て、間違えなくて良かったと安堵の息を吐く。
会社では小さなミスも許されない。ただでさえ終わらない仕事にさらなる皺寄せがやってきて、その日は家に帰れないなんて事も過去にはあったのだ。
「トーゴ、眠ってしまうのか?」
瞼を持ち上げる余力もなく、目を閉じたままこくりと頷く。
今日は残業なしでゆっくり眠らせて欲しい。
身体と同じようにすっかり痩せ細ってしまった心に湧いた、ほんの少しの願いを聞き入れてくれたのか。男の腕に抱かれたままどこかに連れて行かれる感覚だけは最後まで覚えていた。

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